【第二話】本入部
朝の日差しがカーテンの隙間から差し込む。
目を擦りつつ、身体を起こすと現在の時刻は6時半。最近はずっと、この時間帯に目が覚める。
「今日は……入部届を出して、軽音部に正式入部だな」
──と、1人ごちた。
入学してから数日、クラスにも学校の空気にもだいぶ慣れてきた。
この高校では、入学後すぐに配られた入部届を提出して、正式に部活へ入る流れになっている。もっとも、強制ではないので、無理に入らなくてもいい。活動日もわりと自由に決められるらしい。
お母さんからは「勉強と両立できるなら部活も思い出になるかもよ」と言われたので、俺は軽音部への入部を決めた。
昨日までの仮入部期間で、もう心は固まっている。音楽も悪くない、何より───あの出会いがあったから。
「さてと……いつものアレ、やりますかぁ」
朝のルーティーンの一つ、それは───
「おーい、美春ー。起きろ〜」
「んぅっ……なにぃ……まだ6時半じゃん……」
「まったく……『もう』6時半だ」
妹の起床チェックだ。
うん、なんで俺はこんなことをしてるんだろう? 介護士かな?
「え〜。わかったよ〜」
「おいこら……着替えるのが早いんだよ」
「別にいいもん、優希兄ちゃんに裸なんて見られ慣れたもん」
「見られ慣れたとか訳わかんねえ日本語を使うな……ったく」
こいつ、美春とかいう妹は、ほんとうに恥じらいの欠片がない。異常ではあるが───まぁ、正直、こう何年も付き合わされていれば、もはや俺も慣れてしまった。
「あ! 優希兄ちゃん、朝ごはん作ってー」
「はぁ……お前、妹の分際で調子乗るんじゃないぞ」
「はぁー!? なによ! 妹の分際って! 妹の特権だもーんだ!」
「こういう奴はきっと彼氏できてもすぐ別れるんだろうなって」
「……っ、お兄ちゃん……そんなこと言うとか私キレるよ?」
あ、まずい。プロレスが始まる。時間がもったいない。ここはさっさと火消しだ。
「はいはい冗談だよ。着替え終わったらさっさと降りてこい、飯は作ってやる」
「へへ〜やったぁ! にぃに大好き!」
情緒不安定にも程がある。
──妹の世話をなぜ高校生の俺がしなきゃいけないのか、常々疑問ではあるが。まぁ、これも日常の一部だし、許容範囲内だ。
台所に向かうと、お母さんもお父さんもすでに起きてきていた。
「おはよう、優希」
「おはようお母さん。朝ごはん作ってくれたのか。ありがとう」
「そりゃもちろん、料理においてはお母さんがナンバーワンでしょ?」
「まぁな。それは否定できない」
俺の母親───篠宮奈津子。
家事全般が得意で、特に料理の腕はプロ顔負けだ。料理本を出版したいとすら言っている。
とくに、手作りハンバーグは絶品で、あの肉汁溢れる食感は、下手な高級レストランにも勝るレベルだった。
幼い頃の俺は、キッチンに立つ母に興味津々で張りつき、自然と家事スキルを身につけることになった。今では俺も、ちょっとした料理ならこなせるくらいだ。
そんな話をしていると、美春も階段をドタドタと駆け下りてきた。
「あら、美春もおはよう。今日はハムエッグとコンソメスープよ。食べてきなさい」
「はーい、いただきまーす」
父さんはというと、すでに朝ごはんを食べ終え、新聞に没頭している。
俺が席についたのを見計らったように、新聞をたたんで話しかけてきた。
「優希、高校生活はどうだ? 友達はできたか?」
「お父さん……まぁ、何人かはできたよ」
「そうかそうか。それならいいな。せっかく首席合格したんだし、学業も頑張るんだぞ」
「もちろん」
俺の父親───篠宮亮介。
一見すると普通のサラリーマンだが、その実態はバケモンである。
国内トップの超難関大学を主席で卒業し、理系分野での研究に没頭している。
今も近くの大学の研究室に籍を置き、時には学生の指導にもあたっているらしい。
──つまり、筋金入りの勉強マニアだ。
そんな父のおかげで、俺も中学時代はだいぶ勉強を頑張れた。分からない問題があれば、すぐに家庭教師みたいに教えてくれる。それはもう、金を払ってでも教わりたいレベルで。
……さて、今日も頑張るか。
入部届を提出して、正式に軽音部の一員になるために───。
制服に着替え、通学路に出る。
近所の駅から在来線に乗り、少し揺られた後に下車。駅からは徒歩圏内に、蒼凌学園の広大なキャンパスが広がっている。
入学式があってから数週間が経った。満開だった桜は、定期的な雨と春風にさらされ、少しずつ花びらを落とし始めている。
教室に着くと、早速、黒川と合流した。
「お、来た来た!おはよー優希」
「黒川か。おはよう」
「今日はとうとう本入部だな。お前、やっぱ軽音行く感じ?」
「あぁ。雰囲気も悪くなさそうだったしな」
「おー、いいやん!俺は陸上部に決めたわ。中学ん時もガチってたし、やっぱ走りたくなるんだよな」
昨日までは仮入部期間ということで、好きな日に自由にいろんな部活を体験できた。
もちろん、バスケ部はじめ、運動部も見に行った。
バスケ部の体験の時には、軽い気持ちで参加したつもりが──なぜか試合に投入され、心のどこかに眠っていた戦闘狂の血が騒いだのか、無双してしまった。
バスケも好きだから迷ったが、やっぱり新しいことに挑戦してみたくて、軽音部を選んだわけだ。
「で、楽器何にするん?」
「まだ決めてない。色々触ってみてから考えるつもり」
「もし文化祭でボーカルとかやったらさ〜、優希ファンの女子たち卒倒するぞ?」
「そのいじりやめろ。俺、人前に立つの苦手なんだって」
「じょーだんじょーだん!ま、そっちはそっちで頑張れよな」
「あぁ。黒川もな。運動部は夏場マジでバテるから気をつけろよ」
そんな感じで他愛ない会話を交わしつつ、授業が始まるまでは雑談に耽っていた。
**
──授業は淡々と進み、やがて放課後になる。
今のところ、高校の授業はまだそこまで難しくなく、無事ついていけている。
まぁ、仮に何か分からなくなったとしても──俺には勉強マニアの父親がいる。最悪、何とかなるだろう。
そしてここからは、いよいよ部活の時間だ。
朝のショートホーム後に提出した入部届のおかげで、俺は正式な軽音部員になった。
期待とちょっとした緊張を抱きながら、部室へ向かう。
廊下の先に、軽音部の部室へ向かう二人の姿を見つけた。───優奈と、琴音。
初日の仮入部で顔を合わせたきりで、まともに話す機会はなかったけど、知った顔がいるだけで少しホッとする。
(知ってる生徒がいるだけ、安心だよな)
そんなことを思いながら、部室の扉を開けた。
「よ!いらっしゃい!」
元気な声で迎えてくれたのは、部長の神谷先輩だった。
「あ、神谷部長。これからよろしくお願いします」
「おぉー優希くんだよね!軽音部入ってくれるんか、いいねぇ!」
部長の他にも、今日は数名の先輩たちが顔を揃えていた。きっと、新入部員が来るということで全員集合してくれたんだろう。
「あれ、優希くん……来たんだね」
「おー!優希くんじゃーん!」
琴音と優奈が、俺に気づいて声をかけてくれる。
琴音は相変わらずのテンション高め、そして優奈も──少しだけ、柔らかく微笑んでくれていた。
「桐島さんと……白雪さんだよな。改めてよろしく」
「うん、よろしくね、優希くん」
「よろ〜!──ってか!前に名前呼び捨てにしてって言ったのに、戻ってんじゃーん!」
肩をポンポン叩かれ、軽く揺さぶられる。
この自然な距離感。陽キャすぎる。
「あはは……慣れるまではさん付けくらいさせてくれ」
「え〜!同じバンド組むかもしれないんだし!今のうちに慣れとけ慣れとけ〜!」
ぐいぐい来る琴音に軽く押されながら、ふと横を見ると──優奈が、まっすぐ俺を見つめてきていた。
「優希くん……私のことは、無理に呼び捨てにしなくても大丈夫だからね」
やめてくれ、その純粋な目で見つめるのは。
──いや、俺が悪いみたいな空気出してくるな。完全に悪いのは琴音だろ。
なのに神谷部長、何こっち見て微笑ましそうにしてんだよ!助けろよ!
「ねぇねぇ優希くん?女の子に近寄られるの慣れてない感じっすか?」
「まったく……それは……」
口ごもる俺を見て、琴音がゲラゲラと笑う。
「あはは!可愛いなぁ〜!ふふ、とにかく!気楽にいこうぜ!」
ちょっとこれは、後で部長には話をしておかないとな。
琴音が絡んできたら仲介してくれってお願いしておかないと、大変な目に───
「おー優希くんモテモテやんか〜。モテ期男子とか!俺が嫉妬するだろ!」
───えっ?ちょ、嘘だろ……?
誰も味方居ない感じっすかぁ!?
え、いや、え?味方居ないと俺激ローですけど?
「ち、違います」
「え〜ノリ悪いなぁ〜。私の彼ピより断然かっこいいから浮気してやろっかな〜」
「ちょ…琴音さん……っ!」
やばいやばい!何が起きてるんだ!?
ってか琴音ってそういえば彼氏いるじゃねぇか!じゃあ尚更なんのつもりだし!
「……優希くん…」
そんな中、優奈は俺の事を見るやいなや、スっと視線を逸らした。可愛いかよ───っていやいや!そうじゃなくてっ!そんな場合では無い!
「あはは、まぁまぁ、桐島さん。ちょっと落ち着こっか」
神谷部長……ようやく仲介役になってくれたか───!
「はーい……」
琴音は不満げに返事をしながら、しぶしぶ俺から一歩離れた。
これで少しは落ち着くかと思いきや──
「ふぅ……なんでそんなに不服そうなんだよ」
「なんでもないもん!」
めちゃくちゃある顔じゃん……!
「はいはい、ちょっと待った〜。そこの二人、イチャつくの禁止ね〜」
──えっ!?いやいや、どこが!?
というか今、俺が一番困ってる側なんですけど!
「はっ、はい!?どっからどう見ても違いますよね!?」
抗議はした。したけど、部長はニヤニヤしたまま、助け舟を出す気配はない。
俺の体力は、精神的にごっそり削られていった。
**
少しして、場が落ち着いた頃。
神谷部長が手をパン、と一度叩くと、自然とみんなの視線が集まる。
「さてさて、それじゃあ部活の説明していきまーす」
部長がホワイトボードを引っ張ってきた。
移動式のやつに、活動内容がざっくりと箇条書きされている。
「軽音部はね、言ってしまえばバンド組んで音出して楽しむ、そんな部活です。難しく考える必要はないよー」
ラフな口調で話しながらも、説明は意外とわかりやすい。
「メインのイベントは、文化祭ライブと、学期ごとにやってる中庭ライブかな。あとは希望があれば外部イベント出たりもするけど、基本は学内メインって感じ」
「はいはい!先輩、個人練習で部室使ってもいいんですか?」
琴音が真っ先に手を挙げて質問を投げる。
この人、切り替え早いな……。
「もちろんOK。個人練でもバンド練でも自由に使っていいよ。ただし、譲り合いは大事にね」
「了解でーす!」
自由度は高そうだ。
勉強も疎かにしたくない俺としては、融通が利くのはかなりありがたい。
「あと活動日だけど、一応、火・水・金・土の週4。だけど、全部来いってわけじゃないから安心してね。来れない日は、グループLINEに『今日は無理っす』って連絡してくれればそれでOK」
わかりやすいし、緩いけどちゃんとルールがあるのは好印象だ。
「あの、質問いいですか?」
続いて、優奈が静かに手を挙げる。
部長はすぐにうなずいた。
「お、優奈ちゃん。もちろん、どうぞ」
「楽器持ってない場合、備品は自由に使っても大丈夫ですか?」
「うん、全然OK。基本は使い放題って思ってもらって大丈夫。ただ、壊さないようにだけ気をつけてね」
「……わかりました。ありがとうございます」
優奈は小さく頷いてから、また視線をそらす。
それだけの動作なのに、なんでこんなに絵になるんだろうな。
「で、ここまでがざっくりした全体像なんだけど──」
神谷部長はボードを指差しながら、肩をすくめて笑った。
「ぶっちゃけ、軽音って“ゆるくて自由”がモットーみたいなとこあるからさ。ガチでプロ志望のやつもいれば、ただ音楽好きでゆるく続けてる子もいるし」
その言葉に、俺はちょっと驚く。
「バンドって、メンバー固定なんですか?」
俺がそう聞くと、部長はすぐに首を振った。
「いや、それも自由。学期ごとに組み直すグループもあるし、ずっと同じメンバーで活動する人たちもいる。もちろん、ソロでずっとやってる子もいるよ」
「へえ……」
思っていたより、かなり柔軟だ。
バンドってもっとこう、体育会系みたいに上下関係とか、ルールがガチガチなのかと思ってた。
「……って、もしかしてちょっと堅い感じの部活だと思ってた?」
「……まぁ、ちょっとだけ」
正直、音楽に対する情熱とか、テンション高めの人が多い印象だったから。
「うち、そういうのとは真逆だから安心して。たとえばだけど、バンドに入らずに“楽器だけやってたい”って理由で所属してるやつもいるくらいだし」
「へ、へぇ……それ、アリなんですね」
「うん、やる気がある人はもちろん歓迎だけど、ゆるく音楽と付き合いたいって人も、うちは否定しない。やるも自由、やらんのも自由。ただ、迷惑はかけないって、それだけ守ってくれたらOK」
その一言に、空気が少し柔らかくなる。
音楽って、人によって向き合い方が違うんだな。
「それから──」
神谷部長はふと思い出したように付け加える。
「文化祭ライブのバンドは、夏休み前までにはある程度決めといてくれると助かるかな。夏休みは練習強化期間になるから」
「文化祭って、いつ頃なんですか?」
「10月の頭あたり。だから、今からだと半年くらいかな。じっくり準備できる時間はあるよ」
「なるほど……」
半年って聞くと長いようだけど、何かを作り上げるには意外と短いのかもしれない。
「もちろん、まだ入部確定じゃないだろうし、迷ってる人もいると思う。だから今日はいろいろ試してみて、興味あればまた顔出してくれたら嬉しいなって感じです」
部長の言い方は終始柔らかくて、圧がない。
“楽しめるかどうか”を一番にしてるのが伝わってきた。
「じゃあ──そろそろ、体験パートいってみようか」
神谷部長が笑顔でそう言った瞬間、隣にいた琴音がまた目を輝かせた。
「うっひゃ〜楽器触れるんだ!何が空いてるかな〜」
「落ち着けって……」
そして、ふと横を見ると──優奈は黙ったまま、すでにギターケースに手を添えていた。
軽く指をすべらせるように、ケースの上をなぞっているその様子に、俺はまた、ちょっとだけ胸の鼓動が早くなった。
**
「そうそう、ドラムの場合は、両足と両手、それぞれ独立した動きをするからムズいよな」
「ビックリしました。こんな難しいことをやってたのか…」
俺は、まずはドラムから体験することになった。
各パーツの名称──スネア、ハイハット、クラッシュシンバル、ハイタム、ロータム、そしてバスドラム。
それぞれが役割を持ち、曲全体のリズムを支える、まさに縁の下の力持ち。
知識としてはわかっていても、いざ叩くとなると話は別だ。
座ってスティックを握った瞬間、緊張で手に汗が滲んでくる。思い切ってバスドラムを踏めば、予想以上の音の大きさにびくりと肩が跳ねた。スネアを叩こうとすれば、足が一緒に動いてしまい、リズムはガタガタ。なにひとつ、思い通りにいかない。
……これ、絶対苦戦必須のやつじゃないか?
「楽器は、初めからできる人なんてそうそういないよ。だから、今のが普通」
突然、落ち着いた声が聞こえた。振り返ると、白雪優奈がほんの少し距離を詰めて、俺の様子をじっと見ていた。
「白雪さん……」
「優希くんが苦戦してるのを見て、少し気になって」
いつの間にか、名前を呼び捨てにされていたけれど──それどころじゃない。
「そ、そうか…。白雪さんは、仮入部のときにドラム叩いてたの、正直びっくりしたよ」
目の前の美少女は、照れた様子もなくさらりと頷くと、俺の手元に視線を落とした。
「じゃあ、ちょっとだけ教えるね」
「え……?」
「ドラムの基礎に“エイトビート”っていうリズムがあるの。まずは、それをゆっくりでいいからやってみよ?」
優奈は、軽くスティックを構えて、空中でリズムの動作を見せてくれる。一定のテンポで、足と手が交互に動き、右手のハイハットはその倍の速さで刻まれている。
「まず、バスドラムとスネアを交互に。“ドン、タン、ドン、タン”って感じで」
「えっと……ドン、タン、ドン、タン……こう?」
ぎこちなく足を動かし、スネアを叩く。たどたどしいが、優奈は微笑みながら頷いた。
「うん、それでOK。じゃあ次は、右手でハイハットを加えてみよう」
「ハイハット……これか。ペダルは、踏みっぱなし?」
「うん。閉じたまま叩くから、踏みっぱなしで大丈夫。私がリズムやるから、真似してみて」
そう言うと、優奈は実際にドラムセットに座り、軽やかな手足の動きでエイトビートを叩いてみせた。ハイハットは八分音符で刻み、バスドラムとスネアは交互にアクセントをつける。そのフォームは無駄がなく、音も自然で、見とれてしまうほどだった。
「……すごいな。先生みたい」
「ふふ、よく言われる」
冗談めかして言いつつも、優奈の目は真剣だった。俺のフォームをちらりと見て、スティックの持ち方にふわりと手を添えてくれる。
「もう少し、手首を柔らかく使って。振り下ろすんじゃなくて、“乗せる”ように」
「あ、ああ……こう?」
「そう。それで、もう一回いってみて?」
今度は、なんとなくリズムの形がわかった気がした。まだぎこちないけれど、足と手が少しだけ独立して動いてくれた。
「……おお、ちょっとできたかも」
「うん、今の良かったよ」
優奈が柔らかく笑う。部長の神谷先輩が、いつの間にか隣で頷いていた。
「やっぱ優奈、教えんの上手いなぁ〜。俺より向いてるかも」
「……そうですか?……ま、まぁ、教えるのは結構好きですから」
その一言が、どこか優奈の芯を感じさせて──俺は思わず、じっと彼女の横顔を見つめてしまった。
(……え、同級生だよな?)
どうしてだろう。距離がすごく近くて、けれどそれ以上に、大人びて見えた。
ドラムの基礎をひと通り教わったあと、俺はスティックを置き、深く息をついた。
「……これだけでも、すでに運動部より疲れるな」
「慣れたら楽しいよ。でも、他の楽器も触ってみたら?」
そう促してくれたのは、神谷部長だった。
「せっかくだし、ギターとベースも試してみなよ。持ち方とか、音の出し方とか、触らないとわからないこと多いからさ」
「ですよね……ギターとか全然知らないけど、大丈夫かな」
「琴音、教えてあげれる?」
「はいはーい、ギターなら任せなさーい」
軽いノリで手を挙げたのは、仮入部で賑やかに茶化していた桐島琴音だった。ショートカットに明るい表情が映えて、第一印象よりずっと気さくな雰囲気を持っている。
「じゃ、こっち来て。立って構えると重いから、最初は座ってやるといいよー」
彼女に言われるがまま、アコースティックの椅子に座り、エレキギターを受け取る。見た目よりも軽く、けれどボディはしっかりしている。指板をなぞると、金属のフレットが冷たくて緊張した。
「ギターって、どうやって音出すの?」
「ふふ、それすら知らんのね? じゃあまず、右手で弦をピックで弾くのが“ピッキング”。左手は押さえる指で音程が変わるの。はい、これピック」
「あ、ありがと……。じゃあ、このまま適当に弾いてみても?」
「おーけーおーけー。ただ、強く引っ掻きすぎると弦切れるから、やさしーくね」
恐る恐る弦にピックを当ててみると、アンプを通じて小さな音が鳴った。……それだけで、ちょっと嬉しい。
「今のが、“開放弦”ってやつ。どのフレットも押さえずに出る音ね。で、左手の指でこことか押さえてみよっか」
言われた通りに指を当てて弦を押さえる。が、押さえる力が弱いのか、音が詰まってしまった。
「ビビリ音出てるねー。指の腹じゃなくて、なるべく指先で“立てて”押さえるんだよ」
「た、立てる……? 指、つりそう……」
「まあ最初はみんなそうなる。けど、こればっかりは慣れ! はい、Cコードいってみようか〜」
「えっ、いきなりコード……!?」
琴音のテンションにやや押されつつ、なんとかフォームを真似てCコードを押さえてみる。うまくいったのかよく分からないが、とりあえずそれっぽい音は出た。
「……指が、つる」
「わかる〜、でも、思ったよりちゃんと音出てるよ?」
「ほんと?」
自然と笑みがこぼれた。ギター、予想より面白いかもしれない。
「じゃ、次はベースだね」
と、隣でひときわ低い音が響く。ベースを手にしていたのは、再び神谷部長だった。
「ベースはギターと見た目が似てるけど、弦が四本しかないし、役割も違う。こいつはバンドの“背骨”だ」
「背骨……?」
「簡単に言うと、ドラムと一緒にリズムを作るのが仕事。でも、ギターと同じくらいメロディにも絡める。地味だけど、外すとバンド全体が崩れるんだよ」
部長は軽く弦をはじく。ぶぅん、と低く、太く、重みのある音が空気を震わせた。
「弾き方は、指で弾く“フィンガリング”が主流。こんな感じで」
人差し指と中指を交互に使って弦を弾く。リズムも揃っていて、見た目以上に滑らかだった。
「触ってみる?」
「あ、はい……」
ベースを受け取ると、ギターよりもボディが大きく、重みがずっしりと腕にかかる。ネックも太くて、手が届くか不安になる。
「最初は4弦だけでいいよ。例えば“開放弦でリズム刻むだけ”とかでも、十分楽しいから」
言われるままに、右手で弦を弾いてみた。……ドゥン、と、ドラムとはまた違った体に響く音が鳴る。
「……おお、なんか……すごいなこれ」
「だろ? ギターが歌うなら、ベースは地を支える。目立たないけど、なくなると困るってタイプなんだ」
「なんか、部長っぽいですね」
「お、それ褒めてる?」
「もちろんです」
自然と笑いがこぼれた。ドラムも、ギターも、ベースも、それぞれ全然違う役割がある。触ってみて初めてわかることばかりだった。
**
少しだけ体験を済ませたあとは、部員たちで自然と輪ができ、気づけば雑談が始まっていた。どうやら軽音部では、練習の合間や終わった後のこうしたおしゃべりが、半ば日課のようなものらしい。顧問の先生も基本的に顔を出さないそうで、その自由さが妙に心地よい。
「ところで───一年生諸君!軽音部を選んでくれた理由は?」
場を仕切るように声を上げたのは部長。やや芝居がかったその口調に、すぐさま琴音が反応する。
「え〜、それ聞いちゃう〜?」
「おーい琴音さん、先輩には敬語を使いなさい!」
ツッコミを入れる部長に、琴音はどこ吹く風だ。
「なんで〜?砕けた感じの方が私、好きだし〜」
自由奔放にもほどがあるその振る舞いに、思わず笑いがこぼれた。まるで同級生同士のようなテンションだが、それももう見慣れてきた気がする。
「ちなみにー私はギターやりたかったのと、今彼が全然構ってくれないからストレス発散したくてー」
「えっ、そんな理由?」
「うるさーい、立派な動機ですー」
軽く笑いが起きる中、次に話したのは優奈だった。
「わ、私は……昔から音楽が好きだったからです」
少し恥ずかしそうに、でも真っ直ぐな目でそう言った優奈に、部長は優しい頷きを返す。続いて、流れ的に自分の番かなと思い、俺も口を開いた。
「俺は……元は運動部だったけど、高校からは路線を変えて、新しいことに挑戦してみたかったんです。だから、未経験だけど軽音部を選びました」
「おお〜、チャレンジ精神あるじゃん!いいね〜最高だね〜」
部長が目を輝かせるようにして、嬉しそうにうなずく。
「えぇっ!?優希くん運動部だったの!?」
琴音が目を丸くして驚いた声を上げる。そんなに意外だっただろうか。
「まぁね。中学ではバスケ部だったよ。今も空手は続けてるし」
「すっご〜!ってことは、首席なのに文武両道ってこと!?」
大げさに言われると、なんだかこそばゆい。
だがそれでも、首席というのは頑張った証ではある。それを認めてくれるのはとてもありがたかった。
誰一人として、対立して煽ったり、場を嫌な雰囲気にさせるいじめをしない、そんなあたたかい部活は初めてかもしれない。
中学の時のバスケ部では、いじめは日常茶飯事だったから、よりこの環境が気に入った。
**
(首席……文武両道……ね)
最初に彼の名前を聞いたとき、私には関係のない人だと思っていた。
学年首席で入学。元運動部。女子の間では噂になっていて──そういう人って、近づけば近づくほど、どこか嘘っぽさが透けて見えるものだと勝手に思ってた。
でも、そんなふうに決めつけたのは、たぶん私の方だった。
軽音部でドラムに向かう彼は、不器用で、真剣で、必死だった。
初めて触る楽器に戸惑いながら、それでも一つ一つ動作を確かめるように、何度もチャレンジしていた。
──放っておけばよかったのに。
私は、自然と彼のもとへ足を向けていた。
距離を置こうと思っていたのに、気がつけば声をかけていた。
「楽器は初めからできる人なんていないよ」なんて。ありきたりな慰めを口にして。
……ほんと、私らしくない。
でも、彼はそれにちゃんと応えてくれた。
驚いた顔をして、少し照れたように笑って、「ありがとう」って。
その笑顔が、ずるいって思ってしまった。
あの優しさが、演技じゃないとしたら──少し、怖い。
私は、軽音部の空気が好きだ。
部長の神谷先輩も明るくていい人だし、仮入部の時から声をかけてくれた桐島さんも、何かと気遣ってくれる。
女子の部員が多いのも、私にとってはありがたかった。だから入るときも迷いはなかった。
でも──やっぱり、男子はまだ苦手。
顔が怖いわけでも、乱暴なことをされたわけでもない。むしろ、優しくされる方が怖い。
言葉の裏を探してしまう。少しでも踏み込まれると、無意識に距離をとってしまう。
……だから、本来なら優希くんにも、警戒すべきだった。
(なのに……なんでだろう)
不思議と、彼には最初から“構えすぎずに”話せていた。
ドラムで苦戦していたときも、私の言葉にちゃんと耳を傾けてくれた。変に馴れ馴れしくもなく、無理に距離を詰めることもない。
それでいて、どこか柔らかい雰囲気を持っている。緊張を強制的にほぐしてしまうような──そんな、不思議な空気。
私の中にはまだ“線”がある。
男子と女子の間に引いた、越えてほしくないライン。
それを越えてくる人がいると、拒絶反応が出る。でも優希くんは、そのラインぎりぎりのところで、ずっと立ち止まっているように見える。
(……気づかないうちに、何度か話しかけてたな)
自分でも意外だった。
話すつもりじゃなかったのに、彼が苦戦している姿を見ると、なぜか放っておけなかった。
教えたとき、嬉しそうに「ありがとう」って言われて──胸の奥が、少しだけ、温かくなった気がした。
(……気のせい、だよね)
私は、あくまで部活の一員として、教えただけ。
深入りするつもりなんて、ない。してはいけない。
それでも……
彼がまた誰かと話して笑っていると、つい目で追ってしまうのは──たぶん、私の方が油断してるんだろう。
そんなふうに思っていた矢先、すぐ隣から声をかけられた。
「優奈ちゃーん、なににやにやしてるの〜?」
琴音さん。いつも明るくて、人との距離が近い。私とは正反対のタイプだ。
いつの間にか隣に来ていたみたいで、いたずらっぽい目でこちらを覗き込んでくる。
「え? に、にやにやなんてしてないよ」
「うそー、してたよ? 優希くん見ながら、めっちゃ穏やかな顔してたもん」
「……なっ」
一瞬、言葉が詰まった。
琴音さんの言葉は、冗談半分なのは分かってる。
でも、図星を突かれたようで、心がざわつく。
そう見えてたんだ。私は──あんな表情を、彼に向けていたんだ。
「そ、そんなことないよ。ただの……部活のこと、考えてただけ」
「ふぅーん? ま、そういうことにしといてあげよっか」
軽くウインクして、琴音さんはくすっと笑ったあと、また別の子に声をかけて去っていった。
その背中を見送りながら、私は胸の奥をぎゅっと押さえるような感覚に襲われる。
(……本当に、なんでもないはずなんだけど)
自分にそう言い聞かせるけど、その「なんでもなさ」が、こんなに気になるのはどうしてなんだろう。
部活が終わる頃には、空が茜色に染まり始めていた。
今日の練習も、なんとか無難にこなせたと思う。
神谷先輩はいつも通りテンション高くて、琴音さんは自由で、他の子たちも気さくで、優しい。
この部に入ってから、「気を張らなくていい」って感覚が、少しずつ分かるようになってきた気がする。
けれど……
帰り道、ひとりになった途端──胸のあたりが、ざわついて仕方なかった。
手に下げた通学バッグが、いつもより重たく感じる。
足取りも、妙にまとまらなくて。
まるで身体の一部が、勝手に何かを探しているみたいだった。
……意味が、分からない。
今日、優希くんと話したのは、ほんの少し。
ドラムのアドバイスをして、彼がそれに一生懸命応えてくれて──それだけ。
別に、何も特別なことなんてしてない。
なのに、帰り道でこんなふうに思い出してる自分がいることが、不思議だった。
(何が気になってるんだろう)
考えれば考えるほど、答えが見つからなくなる。
優希くんは、別に他の男子と違うわけじゃない。
言ってしまえば、ただ真面目で、素直で、少し天然っぽいところがあるだけ。
それが──どうして、こうも引っかかってしまうのか。
「……変なの、私」
誰もいない道で、小さく呟いた。
聞こえるのは、風の音と、自分の足音だけ。
胸の奥に引っかかっているものは、棘のような痛みではない。
どちらかと言えば、違和感。ぬるま湯のように、じんわりと広がるもの。
嫌な感じではないけれど、心地良いとも言い切れない。
それが余計に、自分を混乱させる。
もし、あのとき優希くんに話しかけなかったら──
もし、琴音さんに指摘されなかったら──
(私は、何も気づかないままでいられたのかな)
そんなことを思ってしまう時点で、もうすでに「何か」を感じてしまっている自分がいる。
その「何か」が、今はまだ分からない。
知ろうとするのも、ちょっと怖い。
だけど、気づけばまた、彼の名前を心の中で反芻していた。
──篠宮優希くん。
その名前に、どんな意味を見出そうとしてるのか。
まだ分からない。
分かりたくも、ない。
だから今は、とりあえず、目を逸らすことにした。
この揺れる気持ちが、ただの一時的なものだと信じて。
家までの道のりは、いつもより長く感じた。
**
家に帰るなり、私は防音室へと直行した。
制服のまま、バッグすら置かず、椅子に腰を下ろしてスティックを握る。
思いきりスネアを叩いた。ハイハットを鳴らし、バスドラムを踏み込む。
身体のどこかで「ちゃんと準備してからにしなきゃ」って声が響いていたけど、今はそれどころじゃなかった。
この胸の中でぐちゃぐちゃに渦巻いている、正体不明の感情を、音で吹き飛ばしたかった。
何小節も、ただひたすらエイトビートを叩いた。
雑な音だと自分でも分かってる。でも止まれなかった。
疲れた……のに、止めた途端に考えてしまう。
「はぁ……何これ、ほんと……」
ドラムの音が消えると同時に、今度は思考の音が響き始めた。
優希くん──篠宮優希。
彼がなぜ、軽音部に入ったのか。
(運動部に行くと思ったのに)
実際、身体能力もあるって噂は聞いたし、本人も中学では運動部だったって言ってた。
それなのに、わざわざ楽器未経験のまま軽音部に……。
──もしかして、誰か目当てだった?
──例えば……私?
「……ない、よね。そんなの」
でも、そうじゃなかったら?
もし、本当にただ「新しいことに挑戦したかった」ってだけなら──
だったらどうして、私はこんなに混乱してるの?
どこかで、疑う自分と、信じたがってる自分がぶつかってる。
過去の経験が、警戒しろって警鐘を鳴らす。
油断したらまた裏切られる。信じたら、また壊される。
でも、今日のあの優希くんの目……あれは。
私を試してるような、見透かしてくるような、そんな気配は──なかった。
「違う……のかな」
彼は、私が教えたことを素直に受け取って、すぐに実践してくれた。
変に距離を詰めてくることもなくて、でも、なんか自然に話しかけてくる。
“男子は怖い”って決めつけてた私の境界を、あの人は踏み越えないまま、すぐ隣に立ってるような──
「……分かんない……もう……」
スティックを床に落とした。
視線が下がる。胸の奥に溜まったものは、怒りでも悲しみでもなくて、もっと曖昧な、言葉にならない何か。
どうしてこんなにぐるぐる考えてるの?
ただのクラスメイト。部活の仲間。
それだけなら、こんなふうに頭を支配されるはず、ないのに。
けれど、考えるのを止めたくても、止まらない。
怖いのかもしれない。
もう一度、誰かと向き合うことが。
でも、向き合わずに済むなら──
何で、私はまた、優希くんのことを思い出してるの……?
まるで、あの音が頭の中に残ってるみたいに──
**
「ぷはぁー! ポカリうめぇー!」
「……本入部当日から、陸上部ってガチなんだな」
下校の時間、夕陽の沈みかけた空の下で、俺は黒川蓮と並んで歩いていた。
たまたま部活が終わったタイミングが被って、昇降口で鉢合わせたのがきっかけだ。
隣では、汗を拭いながら、黒川がごくごくと巨大な水筒に口をつけている。
どこで買ったんだってくらいのサイズ。たぶん中学時代から愛用してるっぽいやつ。中身は安定のポカリ。
「陸上部いいぜ〜。初日から走り込みして、筋トレして、絶賛体痛めつけてやってるぜ。たぶん明日、俺、歩けない」
「それ、部活として正しいのかはともかく……運動部っぽいな。精神力も鍛えられるし、まあ健康的でいいと思う」
「だろ? で、優希は? 軽音部どうだった?」
「んー……正直、楽器は思ってた以上に難しかった」
ギターも、ベースも、ドラムも。どれも一筋縄じゃいかなかった。
ドラムはリズム感が崩壊してて、ギターとベースは指がつるかと思った。
でも、それでも投げ出そうと思わなかったのは、あの部の空気が柔らかかったからだ。
「けどまあ、雰囲気はいいよ。みんな和やかで、ミスしても誰も笑ったりしないし」
「へぇ〜……ってことは、やっぱり女子が多い?」
突然、話の流れをぶった切ってくる。
「……お前さ、そっち方向にしか興味ないの?」
「だってさあ、放課後に教えてもらうって、それ……もうラブコメじゃん? 青春じゃん? ドラマのワンシーンだって!」
「夢見すぎ。俺、別にそういうの求めてたわけじゃないから」
俺は肩をすくめながら答えた。けど黒川は引かない。
「でもさ、軽音部って女子多いって噂あるし? お前、もしかして、無意識に恋愛に憧れてたんじゃ──」
「憧れてたら、もっと分かりやすい行動してるって」
「つまんねーやつだなあ」
「つまんなくて結構だよ」
黒川蓮──この男とは、高校に入ってから知り合った。
中学は別だったけど、教室で席が近かったこともあって、ここ最近はよく話すようになった。
お調子者っぽく見えて、根はいいやつだと思う。ただ──恋愛にはかなり積極的らしい。
でも俺は、正直その感覚がよく分からない。
「高校って、別に恋愛しに来るところじゃないだろ……?」
「まあ、そうだけどさー。彼女作って青春したいってのも、立派な目的のひとつじゃん? お前はどうなん? 全然興味ねーの?」
「興味がないわけじゃない。でも……よく分からないんだよな」
歩きながら、自分でもその言葉の意味を反芻する。
そう。俺はたぶん、「恋愛」が分かってない。
好きってどういう感情なのかも、誰かに特別な想いを抱くってことも、いまいち想像がつかない。
人付き合いは、苦手では無い。実際、男女問わず、普通に話そうと思えば話せるし、困ってる人がいたら手は貸す。
けど──それ以上の感情をどう抱くのか、その「境界線」が分からない。
「俺さ、そういうの、焦ってまで欲しいと思えないんだよ」
「お前さ、意外とマジメよな。そういうとこ、嫌いじゃねーけど」
黒川は水筒を振りながら、苦笑していた。
たぶん、俺とは正反対のタイプなんだろう。彼は恋をする準備ができてる。
でも俺は──今まで、恋をしたことがない。する理由も、今は見つからない。
ただ、今日の部活で交わした、たった数回の会話。
その中で、ほんの少しだけ、胸に残ったものがあったことも──否定できなかった。
**
ベットに寝転がったままスマホの画面を見つめる。
そのまま私は、少し躊躇いつつも、親友のひよりに電話をかけた。
「ひより〜どうすればいいの〜」
『なになに?どうしたの珍しい…私からかけようと思ったのに』
「違うの……なんか、変な感じがする」
言葉で表すのは難しい。
それも、こんな感覚になったことが初めてで。
『変な感じ?』
「うん……。ねぇひより、私ってさ、大抵の男子には拒絶してるでしょ」
『うんうん』
「なんだけど…今日の部活でね、無意識に話しかけちゃった男子がいて」
『それ、優希くんのこと?』
「えっ?う、うん。よく分かったね……」
『あ、当たり?適当に言ったのに当たっちゃった〜』
優しいようで、意外と元気な彼女の声が聞こえるだけで安心する。昔からの付き合いだけど、ひよりには色々と助けられてる。
「うん……その優希くんのことでね───」
私は今の感情に至った理由を、なるべく整理しながら話した。
今までどんな男子にも心の扉を閉ざしていたこと。誰に話しかけられても、無意識に距離をとっていたこと。
それなのに、今日は自分から、自然に──気づいたら声をかけていた。
しかも、それに嫌悪感を抱かなかった。むしろ、少しだけ安心していた。
それが、自分でも怖かった。
私が心に引いた「超えてほしくないライン」。その境界に、あの子はまるで気づいたように、触れそうで、触れないでいた。
私の素性を知っているのは、ママとパパ、そしてひよりだけ。
過去に人を信じて裏切られたこと、それをきっかけに人間関係すべてに壁を作るようになったことは、他の誰にも話していない。
話し終えると、電話の向こうでひよりが少しだけ息をついた。
深く考えるような間のあと、優しく、それでいて少し呆れたような声が返ってくる。
『なるほどね〜……これは、優奈の“あの悲惨な過去”が圧倒的に邪魔してるやつじゃん』
「……あ、そうなの?」
『うん。私が聞く限り、これ、普通なら“ちょっと気になる子ができた”って話に聞こえるもん。だけど、優奈の中で“信じたらまた裏切られるかも”っていう怖さが、感情を途中で止めてる感じ』
「それって……つまり、優希くんのことが、私……?」
───好きなの?
その言葉を、胸の奥でこだまする前に否定した。
違う。だって彼とは、ほんの数回言葉を交わした程度。名前を呼んだことすらないし、彼も私を特別扱いしている様子はなかった。
どちらかといえば、必要以上に距離を詰めてこない。だからこそ気楽でいられたのに。
『あー、待って待って。別にさ、今すぐ“優希くんが好きです!”って認めろーって言ってるわけじゃないよ?』
「……じゃあ、どういう意味?」
『たださ、優奈が“変な感じ”って言ってるその感覚。たぶんそれは、初めて“人として興味を持てた男子”だったから起きたんじゃない? だから変なの。だから怖いの』
ひよりの声は、からかうようで優しくて、でも核心に近づいてくる。
私は言葉が出なくなった。
分かる。確かにそうかもしれない。
でも、分かりたくない。
この感情に名前をつけたら、きっと、また傷つく。
『無理に答えを出す必要なんてないよ。たださ、今日感じたことだけは、無理に忘れようとしないであげて? 優奈の心が、やっとちょっと動いた証拠なんだから』
「……ひより、ほんとにありがとう。なんか、ちょっと楽になった」
『いいよ。私は優奈の味方だから』
優しい言葉が、耳から心へと染み込んでくる。
画面越しの温もりは、少しだけ、夜の静けさを柔らかくしてくれた。
『まだ断定しなくてもさ、私が思うに──その優希くんって、きっとすごく優しい人なんだと思うな〜』
「そう……かな?」
『うん、まぁ直感だけどね。優奈の話聞いてると、なんとなくそんな気がするんだよね。ほら、同じ部活なんだし、これから様子見てみるといいかも。今はよく分からない感情でも、いつかちゃんと答えが見えてくるかもしれないよ』
「うん……そうだといいな」
その言葉に、不思議と心がほぐれる。
焦らず、無理に結論を出さなくてもいい──そう思えたことで、少しだけ前向きになれた気がした。
今日のあの感覚を、無理に否定せずに受け止めること。
それが、今の私にできる、ほんの小さな一歩かもしれない。
まだ数回しか会話していない相手だけれど──彼がどうして軽音部に入ったのか、その理由が分かれば、もっと人として知れる気がする。
それは、ただの好奇心なんかじゃない。
きっと、自分でも気づかないうちに、人と関わりたいと思い始めている──そんな感情の表れなのかもしれない。
『困ったことがあったら、いつでも私に聞いてね。恋愛相談に限らず!人間関係のお悩みは、この橘ひよりにおまかせあれ〜!』
「ふふっ、なにそれ。なんだかカウンセラーみたいじゃん」
『でしょ〜? 私、優奈専属のカウンセラーになりたいな〜。……てか、もし私が優奈の彼氏だったら、めっちゃ大事にしてたのにな〜!』
「ちょっ、なに言ってんのよ……!」
『いやほんとに。過去のトラウマとか全部抱きしめて、毎日ギュってして、甘やかして、安心させて──』
「それ、もはや過保護通り越して監禁レベルなんだけど……」
『愛が重いのはダメ?優奈ー?』
「ふふっ、もう……ほんとに変な子」
でも、そんなふうに冗談めかして笑わせてくれる彼女の存在が、どれだけ私を支えてくれているか──言葉では表せないほどだ。
暗い気持ちに引き込まれそうになっても、ひよりはいつも引っ張り戻してくれる。
『……というわけで、私のカウンセリング料はいくらかな?時給5000円くらいもらっちゃおうかな?』
「それ、パパに言えば払ってくれるかも。でも……私はお金目当てな子は嫌いだよ?」
『うわぁ〜ん、このセレブお嬢め〜!』
「やだなぁ、それ。そんなふうに思われるの……」
『冗談だってば〜。優奈がどんな子か、私はちゃんと知ってるよ』
その声に、心の奥の深いところが、やさしく温まる。
こうして、何も隠さずに話せる存在がいることのありがたさを、改めて感じる。
「ひより、ありがとね。……ほんとに助かった」
『どいたま〜。ゆっくりおやすみ。明日は今日より、ちょっとだけ楽になってるといいね』
「……うん。おやすみ」
通話を切る。
画面が暗くなって、部屋の静けさが戻ってきた。
けれど、不思議と寂しさはなかった。
私はスマホを枕元に置いて、ベッドに横になる。
天井をぼんやり見つめながら、今日一日を思い返して──目を閉じた。
まだ答えの出ない感情が、胸の奥で静かに灯り続けている。
それが、どこに向かうのかは、まだ分からない。
でも、もう少しだけ、ちゃんと向き合ってみよう。