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【第14話】私の彼氏を演じて

 私のことを……今、彼女って……?

 その言葉が、頭の中で何度もリピートする。

 鼓動の音がうるさい。頬が少し熱い。きっと、顔に出てしまっている。

 ……でも、目の前の優希くんは、それ以上に何かを堪えているように見えた。

 落ち着かない足取りで、私を静かな場所まで連れていってくれる。

 人通りの少ない日陰のベンチ。暑さが少しだけやわらぎ、空気がひんやりしていて、無言でも息ができる。

 けれど、悠真がいないのもあって、その静けさがやたらと気になった。

 さっきまでの騒がしさが嘘のように、今は妙に心臓の音だけが聞こえている。

 ───そして。


「……すいません。身の程知らずなことを言ってしまって」

 優希くんが、不意に頭を下げた。

「……えっ?」

 その仕草が意外すぎて、思わず声が出る。

 だって、謝るようなこと……あった?

「変な意味ではないです。ただ……あの状況を乗り切るために、それしかないと思って。守ろうとして、つい……」

 言葉を選ぶように、優希くんは視線を落とす。

 でも、そのまっすぐな姿勢が、どうしようもなく真面目で、誠実で──だからこそ、私は困ってしまう。

「……ううん。謝らなくて大丈夫だよ?」

 私は、できるだけ優しく言ったつもりだった。

 優希くんが、そんな“軽い気持ち”で彼女発言をする人じゃないのは、私が一番わかってる。

 だから、謝る必要なんてない。

 むしろ──あの時。

 優希くんの言葉があったから、私は安心できた。

 強く言えなかった私の代わりに、きちんと「嫌だ」と伝えてくれて、私のことを守ってくれた。

 だから……嬉しかったんだと思う。

「……でも、やっぱり軽々しく言うべきじゃなかったかなって。たとえ嘘でも、“彼女”だなんて……」

「き、気にしすぎだよ? 大丈夫。そんなふうに思ってないから」

 ──ほんとは、ちょっとだけドキッとしたけど。

 そのことは、今は言わない。

 私は胸の奥がざわつくのを、そっと押し殺した。

 だって、変に意識してしまったら、優希くんがますます気にしてしまうから。


「優奈さん……」

 優希くんが、申し訳なさそうに名前を呼ぶ。

 でも、その声はどこか安心しているようにも聞こえた。

 私はゆっくりと、彼の目を見ながら言葉を続ける。


「たぶんね。私の印象が、ああさせてしまっただけだと思うの。……私、ああいう相手に対して強気に出ようとしても、どこかで言葉に詰まっちゃうから」

 さっきのことを思い出す。

 あのチャラい男の視線。言葉。あのまま言いくるめられていたかもしれない。


「だから……助けてくれて、ありがとう」

 小さな声で、でも確かにそう言った。

 優希くんの目が少し見開かれ、それから少しだけ柔らかくなったのがわかった。


「……そうですか。気を害してないなら……本当に、よかったです」

「うん。……少なからず、あんな男たちと比べたら──優希くんの方が、ずっと信頼できるよ」

 ふっと、沈黙が流れた。

 でもそれは、居心地の悪いものじゃなかった。

 もしかしたら、少しだけ、あたたかい沈黙だったかもしれない。

 ……私は優希くんのことが好き。

 でも、その想いを伝えるには、まだちょっとだけ怖い。

 優希くんもきっとそう。

 真面目で、不器用で、ちゃんと私のことを大事に思ってくれてる。

 ───だから、まだもう少しだけ、この時間を大切にしたい。

 仮初めの「彼女」でも、私は嬉しかったから。


 けど──私は、その心に、ほんの少しだけ魔が差してしまった。

 ……ずるいかもしれない。

 でも、あのとき彼が言った「彼女」という言葉が、どうしても頭から離れなかった。

 心の中で、あの一瞬を何度も何度も反芻してしまう。

 もちろん、状況を収めるためにはあれが一番手っ取り早い手段だったのだろう。

 下手に強く出ても相手を刺激するだけで、余計にこじれることもあるし──優希くんのやり方は、最善だったと思う。優しくて、冷静で、ああ見えて男らしい。


 ……でも。

(でも、あの言葉は──ただの手段だったのかな)

 普通は言えない。

 たとえ演技でも、咄嗟に「彼女」なんて言葉、出てこない気がする。

 だって、相手をどうでもいいと思っていたら、そんな表現にはならないはずだから。

 胸の奥が、ほんの少しだけ、甘く痛い。

 なんとか自分をごまかそうとしても、もう無理だった。

 ──このまま“なかったこと”にされてしまうのが、嫌だ。

 それが、私の本音だった。

 自分からこんなことを言うのは、おかしいかもしれない。

 でも、彼が“その気”じゃなかったとしても、それでも私は──…。

 だから、勇気を出して口を開いた。

「ねぇ、優希くん……その、聞いてもいい?」

 私の声は、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。

 優希くんが、いつもの落ち着いた声で「はい」と返してくれる。

 その声が、なんだか救いに聞こえた。


「私ね……ああいう男たちに、実は日常的に声かけられたりしてて。最近、本当に困ってたの」

 少し誇張もあったかもしれない。でも、嘘ではない。

 高校生にもなると、駅や街中で声をかけてくる男は、思ってる以上に多い。

 女の子であるだけで、理不尽に絡まれることもある。そういう時、怖くて、悔しくて、言い返せなくて──帰ってからひよりに泣きながら電話することもたまにある。


「……私さ。優希くんがもし、許してくれるならでいいんだけど」

 私は彼の目を、まっすぐ見つめる。

 心臓がうるさくて、声がかき消されそうになったけど、それでも続けた。


「──私の彼氏を、演じてくれないかな?」

 その瞬間、風がゆっくり吹いた。

 木々の葉が揺れて、日陰の静けさに少しだけ動きが生まれる。

 私は息を詰めて、優希くんの反応を待った。

 ……もちろん、これは“演技”の話。建前の話。

 けれど、私は知っている。

 本当に何も想っていない相手に、こんなお願いはできないって。

 それに、この仮の関係をもし優希くんが許してくれるなら───彼への想いが本物なのか、確認できるきっかけになると思った。

 これは、心の奥にある想いが、ふと口に出てしまった瞬間だった。

 

 **


「えっ……今、なんて──」

「……私の彼氏を、演じてほしいの」

 その言葉を、頭では理解できたつもりだった。

 でも、心がついていかなかった。

 冗談にしては真っ直ぐすぎて、頼みごとにしてはあまりに踏み込んでいて。

 それを俺に言うってことが、どれだけ意味を持つのかを、考えずにはいられなかった。


「……そんな……それは、できないですよ」

 咄嗟にそう返していた。拒絶というより、自制に近かった。

 軽々しく応えるべきことじゃない。俺が今、軽率に“いいよ”なんて答えたら──それは、彼女の気持ちを都合よく扱うことになるかもしれない。


「優希くんがそれなら、それでいいんだけど……」

 優奈の表情は、無理に笑って見せてるような、そんな風にも見えた。

 口調は柔らかい。でも、その目はまっすぐで、嘘をついていないと感じさせた。

 ……わからない。

 試してるわけじゃないと思う。でも、あまりに急で、心が追いつかない。

 俺は、何が正しいのか答えを探そうとするように、静かに問いかけた。


「でも……もしそれに、俺が承諾したら──どうするつもりなんですか?」

 目の前の彼女は、本当に綺麗だった。

 それは“見た目”だけじゃなくて──俺が最近になってようやく気づき始めた部分。

 弟の悠真くんのことを大事にする姉としての姿。

 学校で見せる、誰にも媚びない凛とした態度。

 バンド練で歌っているときの、心から音楽を楽しんでいる表情。

 その全部が重なって──少しずつ、俺の中に残るようになった。

 彼女のお願いに対して、軽く頷いてしまえば済む話だったのかもしれない。

 でも、それではいけない気がして。

 だからこそ、俺は“条件”を聞こうとしていた。

 優奈は、少しだけ口元に力を込めて、言葉を絞り出すように話し始めた。


「条件は……ナンパされたとき。困ってるとき。あと──私の家で、親がいないとき……かな」


 俺は、思わず息を飲んだ。

「そのとき、彼氏を“演じて”ほしいの。堂々と、誰から見ても“そう見えるように”。バレたら意味がないから。あたかも、本物の恋人みたいに見えるようにしてほしいの」

 “本物の恋人のように”。

 その言葉は妙に重たくて、でも、どこか甘くて。

 今の俺には、まるで告白みたいに聞こえてしまった。


「それって……かなり、踏み込んだ話だと思うんですけど……」

 優奈は頷いた。迷いのない顔だった。

「うん。でも……優希くんだったら、信じられるから。だから、お願いしたいの」

 ……この子は、いつもそうだ。

 誰かに甘えるのが下手で、けれど本当は、誰かに頼りたくて。

 今のこの頼みだって、きっと彼女にとって簡単なことじゃない。

 だからこそ、応えなきゃいけない気がした。

 俺の中にある、もうひとつの強い感情──言った言葉には、責任を持ちたい。…それは小さい頃から、俺自身に課してきたルールだった。


「……わかりました」

 俺は、ようやく言葉にした。

「その条件……分かりました。俺でよければ、その役──引き受けます」

 優奈の目が、ふわっと緩んだように見えた。

「でも」

 俺は静かに言葉を続けた。

「仮だとしても、演じる以上は、ちゃんとやります。気を抜いたら見破られるかもしれませんし──だから、演技の練習も必要ですよね」

「……うん、私も、そう思ってた」

「じゃあ……まずは、お互いに慣れるところから、ですかね」

 俺たちの間に流れる空気が、少し変わった気がした。

 どこかぎこちなくて、でも悪くない。

 形だけでも──少しずつ、本物に近づいていくような、そんな予感。

 優奈からの提案である以上、基本は優奈の提案を優先する、そのつもりだった。


 俺たちはベンチから立ち上がると、何故かさっきまでとは違って、ぎこちない空気が流れた。

 無理もない。仮とはいえ、「恋人」という言葉が口に出された以上、互いにどこか距離感を測っているような、探り探りな態度になってしまっていた。


「えっと……まずは、何をしましょうか……」

 俺がそう切り出すと、優奈は軽く腕を組み、自分の唇に人差し指を添えて考え込んだ。

 その仕草が妙に可愛く見えてしまうのは、気のせいだろうか。

 ───いや、気のせいじゃない。

 そう自覚してから慌てて視線を逸らすと、彼女がパッと明るい笑顔を見せた。


「まず最初のミッション───敬語、治すことかな。それと……できれば、名前で呼び捨てにしてほしいな」

「け、敬語ですか……?」

「うん。そもそも私たち、同い年でしょ?でも、軽音部のときもずっと敬語だったからさ。恋人役で敬語は、さすがにちょっと違和感あるっていうか……変じゃない?」

「そ、それは……難しいですね────いや、難しい……な」

 つい癖で敬語が出てしまい、慌てて言い直す。

 それでもやっぱり、ぎこちなさは残っていた。


「ふふっ、そんなにぎこちなかったっけ?優希くんって」

 優奈は口元に手を当てて、小さく笑う。

 あぁ、やっぱりこの人は、空気を明るくするのが上手だ。

 だけどそのあと、彼女はふと真剣な顔に戻る。


「……って、言ったけどね」

「?」

「優希くんだけに呼び捨てさせるつもりは、ないよ。私も呼び捨てにするから。お互いさまだもん」

「え……あ、そ、そっか……」

 不意を突かれたみたいに、言葉が詰まった。

 今まではずっと“さん”付けだった。

 そこにあったのは距離であり、礼儀であり、少しの遠慮だった。

 それを、今こうして崩そうとしている。

 演技だとわかっているのに──なんで、こんなに緊張するんだろう。


「……じゃあ……呼んでみてよ」

「え?」

「優奈、って」

 すっと名前を差し出されるように、彼女は言った。

 言われたままに声を出そうとするけれど、なんか喉の奥が詰まったように言葉が出てこない。

「……優、奈……」

 少し間の抜けた呼び方になってしまった。

 それでも優奈は、優しく笑ってこう返した。

「……なぁに?優希」

 ───心臓が、一瞬止まりかけた。

 今のは演技。そう、ただの演技だ。

 でもその声は、演技に聞こえないくらい自然で、優しくて。

 “なぁに?”なんて当たり前のやりとりに、まるで本物みたいなドキドキを感じてしまった。


(……仮なのに……えぐいくらい、ドキドキする…。心臓に悪い…)

 まだ、スタート地点。

 でも一歩踏み出した瞬間、思ってたよりも深いところに、もう足を踏み入れてしまっていた気がした。

 

**


 私は──少し、欲張ってしまったのかもしれない。

 彼のことをからかっただけのつもりが、ほんの少し、本当に“彼女”でいるみたいな気分になってしまっていた。


 けど……ちょっと、罪悪感もある。

 だって彼は、真面目で、誠実で、優しくて。「彼氏役でも、ちゃんと責任は持つ」なんて、迷いながらも本気で言ってくれるような子だから。

 そんな優希くんを、仮初の恋人ごっこで揺さぶってる自分って、どうなんだろうって思う。


 ──でも。

 彼が照れたあの顔、今でも鮮明に思い出せる。

 私が「なぁに、優希」って言ったとき、まるで鼓動が跳ねたかのような顔をしてて。

 声も、目線も、ちょっとだけ泳いでて。

(……あれ、可愛かったな)

 気づけば、そんな感想がこぼれてた。

 女の子に慣れてると思ってたのに。しっかり者で、下の子の面倒も見れて、私よりちゃんとしてて。

 なのに、ああやってドギマギするんだ──。

 そんなギャップが、ちょっと、くすぐったかった。

 隣を歩く優希くんの横顔を、ちらりと見る。

 少し顔を赤くして、それでも歩調を合わせてくれる彼を見ながら、私はふと声をかけた。

「優希くん……手、さっきみたいに繋いでみる……?」

 ──一瞬、彼の歩みが止まりそうになった。

「あ、はい──じゃなくて……えっと……そうだね」

 その戸惑い方も、やっぱり可愛くて。

 私の指先が、彼の手に触れた瞬間、ほんの少し、胸があたたかくなる。

 仮の関係なのに。

 恋人の“ふり”をしてるだけなのに。

 でも今、確かに彼と私が繋がっている。


「なんか……恋人の役を演じるって、変な感じだね」

「元はといえば優奈さんが言い出したことじゃないですか……」

「あっ、また敬語」

「うっ……そうだった……」

 そのやり取りが、まるで芝居がかったコントのように繰り返されて、思わず笑みがこぼれる。

 けど──私の中では、さっきからずっと、ある思考がぐるぐると巡っていた。


(あの時、告白してたら……どうなってたのかな)

 ふたりきりのベンチで、彼が真剣に「俺でよければ演じます」って言ったとき。

 私は、ほんの少し“本当の自分”を出しそうになってた。


(彼、頷いてくれてたんじゃないかな……思い違い、かもしれないけど……)

 ほんの数秒、手を繋いでいるだけで、こんなに心が騒ぐのは、演技じゃないと思いたくて。

「観覧車……行ってみる?」

「う、うん……そうしよっ……か」

 優希くんの返事が、少しだけ上擦っている気がして、

 私は自分の胸の奥がじんわりと熱くなっているのを自覚する。


 ───私、欲張ったんだ。

 守ってもらえたあの瞬間、安心できたこの繋がり、今の関係、全部欲しくなってしまった。

 でも、ずっとこのままだといけないことも、分かってる。

 仮の恋人関係に逃げ込んだままだと、いつか……この手も、手放さなきゃいけなくなる。

 それでも。

 今この瞬間だけは、ちょっとくらい、幸せをかみしめてもいいよね?

 彼の指が、そっと私の手を握り返してくれた。

 それだけで、胸の奥に、ほんの少し──ほんの少しだけ、多幸感が広がった。


 観覧車の扉がゆっくりと閉まり、私たちを包むように静寂が落ちる。

 ゴンドラがゆっくりと軋む音を立てながら、空へと昇っていく。

 私は優希の隣に腰を下ろし、息をつく。

 向かい合う選択肢もあったのに、自然と“並んで”いた。

 目の前の景色よりも、隣にいるこの人の方が気になって仕方がない。

「えっ、優奈さん……あっ、じゃなくて……優奈……?」

 優希の声が少しだけ裏返っていた。

 けど、それが妙に嬉しい。


「その……恋人って、こういう感じで隣合って座るのかなって」

「……な、なるほど……」

 頷く声も、少しぎこちない。

 だけど、ちゃんと“呼び捨て”で返してくれてるのが分かって、胸の奥が少し温かくなる。

 仮の関係なのに、こんなふうにドキドキするのって、おかしいのかもしれない。

 でも、きっとこの距離は──ただの“演技”だけじゃない。

 観覧車の高さが少しずつ増すにつれて、町の喧騒が遠のいていく。

 まるで世界にふたりきりになったような錯覚。

 ──怖かったんだ。

 ふいに胸の奥から、押し込めていた気持ちが浮かび上がる。

 私があの時、「彼氏になって」じゃなくて「演じて」って言ったのは、断られるのが怖かったからだ。“仮”という逃げ道があるから、優希くんは笑って受け入れてくれた。

 でも、本気で気持ちを告げて、もし拒まれたら——今みたいに笑い合ってなんて、いられなかったかもしれない。

 だから私は、欲張っておいて、最後の一線だけを守った。

 傷つかないために、本音を隠した。

 自分の中のずるさを、今、思い知らされている。


「……優希くん」

「うん?」

「こうしてると……なんだか、本物みたいだね」

 その言葉に、優希が小さく息をのんだのがわかった。

 でも、何も言わず、ただ前を見つめたまま頷いてくれた。

 本当は告白してしまいたかった。

 「仮」じゃなくて、「本当の彼氏になって」って言いたかった。

 けど、私は怖くて、また逃げてしまう。

 観覧車のてっぺんが近づく。

 優希の手と自分の手の距離が、思ったよりも近いことに気づいて、

 私は一瞬だけ、目を伏せた。

 でも、その距離を詰めようとはしなかった。

 ──今はまだ、怖いから。

 あぁ、もう。感情が嵐のごとくぐちゃぐちゃになって疲れちゃうかも。

 嫌われたくない。本物の関係に踏み出すのが怖い。なら、仮の関係でこのままでいるのが1番の幸せ…?そんな考えしか浮かばなかった。


**


 観覧車のゴンドラは、ゆっくりと地上を離れ、空へと滑るように昇っていく。

 カタン、と少し揺れた音に、優奈がわずかに身体を傾け、すぐに隣にいる俺の方へ寄る。

 無意識の距離感。だけど、それがやけに心地よかった。

 彼女の横顔が、窓の外の風景に溶けるように淡くて、美しい。

 そこに、少しの不安や迷いが混じっていることも、今の俺には不思議と感じ取れてしまう。

 ───俺は、優奈のことをただのクラスメイトとは思えなくなっている。

 否、もはや「ただの」なんて言葉で片づけられる存在じゃない。

 俺が、誰にも話さず、墓まで持っていくつもりだった過去。

 あの痛みを、優奈だけには打ち明けてしまった。

 そう思えば思うほど、あのときの俺は、すでに───心を預けていたのかもしれない。

 けど、優奈はまだ、自分の過去を俺に話してはいない。

 それを責めるつもりは、全くなかった。

 むしろ、それでいいと思えた。

 話してくれなくても、信じられる。

 でも、もし、いつか彼女が「自分の過去」を語ろうとしてくれる時が来たら───

 そのときは、俺は絶対に笑ったりなんてしない。

 たとえどんな過去でも、どんな理由があったとしても、彼女の弱さごと全部、受け止めたいと思った。

 その感情は、もはや“好意”とか、そんな曖昧な言葉で括るには収まりきらなかった。


(……俺は───優奈のことが、好きなんだ)

 今はまだ、言葉にはできない。

 でも、心の奥底で、確かに形になった。

 それは、仮の恋人なんかじゃなくて、本当の「恋人」になりたいという、初めて芽生えた俺の本音だった。

 優奈は変わらず静かに外を見つめている。

 その横顔に、俺は少しだけ視線を逸らしながら、誓う。


(俺は───君の過去を、否定しない。笑わない。逃げない。いつか話してくれる日まで、待つよ。どれだけ時間がかかっても)

 その決意は、まだ胸の奥に秘められたままだった。けれど、それは確かに“仮”ではない気持ちの始まりで。口に出せなかったその心の声こそが、俺の中で確かに形を取り始めていた。


「優希……。そろそろ、一周するみたいだよ」

 優奈の小さな声で現実に引き戻される。

「うん…そうだね」

 無意識のうちに敬語が外れていた。自覚した瞬間、少し恥ずかしくなる。

 だが、優奈はふっと笑って俺の方を見る。

「優希、今の返事───すごく恋人っぽかった」

「そうかな…」

 その何気ない一言が、胸の奥をじんわり温める。


 ───呼び捨てで呼ばれる自分の名前。

 その響きが耳に届くたび、心臓の鼓動は加速していく。

 仮の関係とはいえ、優奈がすぐ隣にいて、当たり前のように手を繋いでくれること。その距離の近さに、どうしようもなく心が浮き立ってしまう。

 彼女の笑顔も、声も、仕草も……演技だなんて思えなかった。

 いや、もしかしたら───彼女も俺と同じように、少しだけこの時間を大切に思ってくれているんじゃないか。そんな甘い錯覚すらしてしまう。


 けれど、分かっている。

 これは“仮”の関係だ。

 この繋いだ手にも、名前を呼ぶ声にも、いつか終わりが来る。そう決めてしまったのは、他でもない俺自身だった。

 終わりが来ると分かっていながら、どうして俺はこんなにも、このぬくもりを離したくないと思ってしまうんだろう。


 観覧車が、ゆっくりと地上に近づいていく。

「はーいおかえりなさい! 足元に気をつけておりてくださいねー!」

 スタッフの明るい声とともに、ドアが開かれる。

 俺は自然と立ち上がり、優奈を気遣いながら外に出た。


 ───そして、ゴンドラを降りた瞬間。

 隣にいた優奈が、そっと繋いだ手を握り直す。

 柔らかな力で、けれど確かに「離したくない」とでも言うように。

 その小さな手のぬくもりに、胸がまた強く鳴る。

 演技だとしても、彼女がそうしてくれることが───どうしようもなく嬉しかった。


**


「──あー!いたいたー!」

 今となれば聞き慣れた、元気な声が響いてくる。

 あれから悠真くんを引き渡して、しばらく二人だけの時間が続いた。だが、それもここで打ち切りのようだ。


 お互い目を合わせる。

 優奈がふと笑う。その瞳の奥に、ほんの少しだけ名残惜しさのような光を感じた気がした。


 観覧車を降りたあと、近くのカフェスペースで休憩していた。何気ない話題を口にしていたはずなのに──気づけば言葉よりも見つめ合う時間のほうが多かった。優奈が提案した「仮初の恋人」という関係が頭をよぎる。タメ口を意識しながら話すのも、まだぎこちない。


 出会ったばかりの頃はただの「同級生」で、「同じ部活の仲間」だった。言葉に深く気を使うこともなかったのに。今は違う。隣にいる彼女を、もうその枠に収めておけなくなっている。


「悠真、楽しめた?」

「うん!お姉ちゃんは楽しめた?」

「私…?…うん、とても」


 そう答えてから、優奈はまた俺のほうへと顔を向ける。そして柔らかに微笑む。その笑顔があまりにも眩しくて、胸がぎゅっと苦しくなる。


 仮の関係だと分かっているのに、優奈をどう見ればいいのか分からなくなる。恋人らしく接するだけ──そのはずなのに。


「優奈が楽しめたなら、それは良かったよ」

「ありがと、優希」

「あ、あぁ」


 そんなやり取りに、もちろん悠真もすぐさま乗っかってくる。

「優奈お姉ちゃんとお兄ちゃん、本当に仲良しだね!」


 子供らしい無邪気な茶化し。けれどその純粋な羨望の眼差しを向けられると、思わずこちらまで照れてしまう。


「同級生なんだから。仲良くて当然でしょ?」

「いいなぁ〜。優希にいちゃん、ずっとうちに来てくれるの?」

「悠真くん、俺はあくまでも夏休みが終わるまでの契約でね。夏休み終わってからは、来れるかは……」

「え〜そうなの?」

「うん、一応ね」


 夏休みが終われば、学校も始まる。バイトに割ける時間は減るし、あくまでも今は“期間限定の専属契約”だ。そう言い聞かせるように答える俺だったが──隣の優奈は即座に反論した。


「悠真、安心して。契約が終わっても、私が呼ぶから」

「本当に!?」


「え……?」

 思わず声が漏れた。


「ん〜?なんで“え?”なの?」

「あ……いや、違う。嫌なわけじゃなくて……」

 言葉を探す俺を見て、優奈はふっと笑みを浮かべる。

「だって、優希は契約があるから来てくれてるんじゃないんでしょ? 悠真のこともあるけど……私がお願いしたら、来てくれるでしょ?」

 その真っ直ぐな眼差しに、心臓が跳ねる。

「……そ、それは……」

「ほら、やっぱり」

 優奈はどこか勝ち誇ったように微笑む。その笑顔があまりにも近くて、照れくさくて、けれど心の奥が熱くなる。

「ねぇ優希。契約がどうとか関係なく──私が“来て欲しい”って言ったら、来てくれる?」

「……あぁ、もちろん」

 答えるしかなかった。いや、答えたかった。俺自身もまた、彼女の隣にいたいと思ってしまっているのだから。


「わぁ!やっぱり優希にいちゃん、ずっと来てくれるんだ!」

 悠真が嬉しそうに飛び跳ねる。無邪気な声が響く中で、優奈は静かに俺を見つめる。その視線に込められた熱を、俺は痛いほど感じていた。


**


 遊園地を後にする頃、気がつけば夕日が差し込んでいた。

 あっという間だった。こんなにも「好きな人」と一緒にいる時間がすぐ過ぎ去ってしまうなんて。まだ帰りたくない、このまま時を止めて、彼と一緒の空間に閉じ込められたい。そんな子供じみた願いすら、心の奥から溢れそうになる。

 私は優希くんの手を握っている。今もなお。

 悠真にはバレていないみたいだけど、心臓の音までは誤魔化せない。耳まで熱くなるのを自覚している。


「綺麗……」

「わぁ……!夕焼けだよ!」

「すごいなこれは……久しぶりにこんなにもオレンジ色の空を見た気がする……」

 目の前に広がる景色は、海と空が溶け合うような光景だった。

 遊園地の奥にはリゾート地が見え、その手前に広がる砂浜では、数人の子供たちが無邪気に走り回っている。その姿に、ほんの少し未来の自分を重ねる。……いや、違う。未来の「私たち」だ。彼と並んで歩く、ありもしない幻を。


 もっと見てほしい。

 もっともっと、私だけを見つめてほしい。

 彼の視界を私で埋め尽くして、誰にも渡したくない――そんな独占欲が、夕焼けに照らされて赤裸々に浮かび上がる。

 ……でも。

 私が「仮の恋人」と言い出したせいで、肝心な一歩を遠ざけてしまった。もし、あのとき素直に「本当に好き」って口にしていたら。もし、こんな曖昧な契約なんて持ち出さなかったら。今ごろ、優希くんは私の「本物の彼氏」になっていたんじゃないか――そう思わずにはいられない。


 悔しい。

 自分で自分の首を絞めているみたいだ。こんなにも彼に惹かれているのに、私の一言が壁を作ってしまった。

 だけど、今日一日を共に過ごして、私は薄々思う。

 優希くんも、私に惹かれてるはずだって。目を逸らすたび、名前を呼ばれるたび、わざとらしく敬語を崩すたび────その全部が答えだ。

 だったらもう、行けるんじゃない?

 このまま、勇気を出してしまえば――。

 ……けど。

 その言葉が喉まで出かかっては消えていく。夕日のオレンジがあまりにも綺麗すぎて、景色に逃げ込むみたいに誤魔化してしまう。

 夕焼けの赤は、恋心を隠すには眩しすぎる。

 それでも、私はまた願ってしまう。

 「本物の恋人」になるその日が、この夕日の続きに待っていることを。

 

「本当に、あっという間でしたね」

「分かる……一瞬みたいだった……」

 言葉にした途端、胸の奥に小さな棘のように残るのは、「振られるかもしれない」という恐怖だった。

 でも、誰かに優希くんの気持ちをそれとなく探って、それから告白するなんて……そんなのズルい。好きかどうかを確認してから告白するなんて、自分勝手だと思う。

 だから私は、怖さに抗うために「仮の恋人」という逃げ道を作った。けど、それはいつか必ず終わらせなきゃいけない。

 このことをひよりに話したら、どんな顔で茶化されるんだろう。いや、絶対「優奈らしくない」って笑われるに決まってる。


「こんなに綺麗な景色見たのは久しぶりだなぁ」

「優奈……。……」

「……ん?なに?」

「……いや、なんでもない」

 やっぱり、優希くんも躊躇ってる。

 今、何を言おうとしたんだろう。ほんの少しでも踏み出そうとしたのに、結局飲み込んでしまう。そんな姿に、逆に嬉しくなる。……私と同じ気持ちで怖がってるんだ、って思えてしまうから。


「そろそろ駅へ向かいますかね」

「そうだね。……悠真、今日はもう帰る時間よ」

 少し離れたところで走り回っていた悠真に声をかける。彼は不満そうに頬を膨らませながら駆け寄ってきた。

「えー、帰るのー?」

「そうよ。優希くんは私たちの家より遠いんだから。遅くなっちゃったら困らせちゃうでしょ?」

「……はーい」


 その名残惜しそうな表情は、まるで私の気持ちを代弁してるみたいだった。

 私だって寂しい。最後の最後まで優希くんのそばで、その温度を感じていたい。もっと言えば、時間が止まってしまえばいいのにってさえ思う。


「ほら、暗くなる前に駅まで行こう。優奈」

「……っ!優希……。ん、わかった」

 優希くんがそう言って軽くまとめてくれる。その声に従って、私たちは並んで歩き出した。

 差し伸べてくれた優希くんの手を握る。繋いだ手の温もりが、夕焼けよりも胸の奥を赤く染めていくようで……気恥しいけど、その温もりが心地よかった。

 

**


 帰り道の在来線は、帰宅ラッシュと重なり、車内はぎゅうぎゅうに混んでいた。座席は当然空いておらず、立ちっぱなしの俺の背中に、疲れ果てた悠真がぐっすりと眠り込んでいる。正直、腰にずしりときてきつかったが、それ以上に───今日一日を共に過ごせた幸福感の方が勝っていた。

 最高に楽しくて、そして胸が高鳴るばかりだった1日が、ゆっくりと幕を閉じようとしている。


 白雪家の門の前で悠真を背から降ろすと、彼は眠気眼のまま駆け足で家に帰っていった。途端に、俺と優奈だけの静かな時間が訪れる。


「……俺の役はここまでかな」

「ありがとね、悠真のことおんぶしてくれて。本当に助かったよ」

「いや、全然。気にしないで」

「でも……本当にありがとう。今日1日、すっごく楽しかった」

「そう言ってもらえたなら、頑張った甲斐があるよ。疲れてると思うし、ゆっくり休んで」

「ふふ、気を遣ってくれてありがとう。優希も帰り道、気をつけてね」

「あぁ」

「もし……もし暇だったらでいいんだけど。家に着いてから少し、LINEで話さない?」

 その言葉に、思わず胸が高鳴った。咄嗟に口角が上がってしまい、慌てて表情を整える。


「……うん、いいよ」

「えへへ……じゃあ、次会うのはバイトの日かな?」

「多分そうだね。またよろしく」

「うん。敬語も、だいぶ崩れてきたんじゃない?」

「かなり慣れてきたよ。じゃあ……また逢う日まで」

「……うん。おやすみ」

「おやすみ、優奈」

 そう別れを告げ、俺は夜風に吹かれながら白雪家の豪奢な門を後にした。

 彼女には「ゆっくり休め」と促したばかりだけど……正直なところ、俺自身が一番落ち着かない。心のどこかで、早く帰ってLINEを開きたい自分がいる。


 ───仮とはいえ、恋人。

 そんな関係だからこそ、日常の延長にすら特別な意味が宿る。

 勉強の合間に、優奈と交わす言葉を思い浮かべる。

 それだけで、また次に会う日まで頑張れる気がした。


 家に到着すると、真っ先に玄関のドアを開ける。

 そして開口一番、襲いかかってきたのは例の如く、面倒で世話のやける人間ランキングナンバーワンの妹・美晴だ。

「よいしょ……ただい───」

「おかえりぃー!!」

「ぐぶぅっ!?」

 最高の一日の締めはコイツか……と思った瞬間、体を軽く薙ぎ倒され、俺は床に転がる。いいスパイスだと思って我慢してみるが、流石にこれは酷い。パワーがもはや人を薙ぎ倒すレベルだ。


「お前なぁ……っ……帰って早々タックルは初見殺しすぎるだろ……」

「え〜喜んでよー!可愛い可愛い妹のお迎えだよ〜!幸せでしょ?」

「俺からしたら1ミリも可愛くねぇよ……ヤンキーのそれだもん」

「はいー逆鱗に触れたので、今日の遊園地デートのこと全部吐いてもらうよ〜」

「やだよ、なんで言わんといけないんだ……」

 美晴は俺のことを押さえつけつつ、無邪気に無限ループの質問責めをしてくる。

 俺は「まだ疲れてるのに」と思いつつ、どこか楽しんでいる自分もいた。だが、脳裏にちらつくのは優奈との一日の記憶だ。


 悠真を送り届け、観覧車での時間、海辺での夕景、手を握った感触……そのすべてが鮮明に残っている。

 美晴に話しかけられても、つい返事の合間に「優奈にいつLINE送ろうかな……」という気持ちが漏れそうになり、慌てて呼吸を整える。


「にぃー!聞いてる!?今日のデートのこと、全部話せー!」

「あ、あぁ……聞いてる聞いてる」

 美晴は楽しそうに笑っているが、その笑顔に俺の心は柔らかく解けつつも、同時に優奈への連絡欲が湧き上がる。

 こうして甘々な妹の攻撃に晒されている間も、心の片隅では優奈のことを思わずにはいられない。


「で、優奈ちゃんはどうだったの?デート楽しかった?」

 美晴は無邪気に優奈のことを話題に出す。

 「……いや、その話は秘密かな」と答える自分の声に、ほんの少しだけ意識が優奈へ飛んでしまう。

 そして、美晴に続く質問攻めの合間に、スマホをチラリと覗く。連絡を向こうが待ってくれてるのではないかと変に考えてしまう。

 美晴に押し倒されながらも、俺の心は完全に優奈に向いていた。

 彼女との今日の思い出を反芻し、余韻に浸ると同時に、LINEでちょっとしたやり取りをしたい衝動が溢れてくる。

 ───仮とはいえ、恋人に近い距離感。

 その事実を意識するたび、俺は微笑まずにはいられなかった。


「んー、ふむふむ。やってんねぇ」

「はぁ?どういうリアクションだし……」

「優奈ちゃんがお化け屋敷で怖がってるのをノーリアクションで支えたんだ?それに2人きりで観覧車?ハーレムすぎでしょ」

「待て待て、意味がわからん」

「てか、無理してジェットコースター乗って気絶したのおもろしろいw」

「黙れよ……それは仕方がないだろうが」

 黙っているわけにもいかず、遊園地での出来事を簡単に美晴に話した。

 当然、“仮の恋人”なんて爆弾発言をする気はない。万が一バレたら最後、何ヶ月もいじられる未来しか見えないからだ。幸い、美晴はそこまでしつこく掘り下げてこず、ただ面白がっているだけだったのは救いだ。


「いいなぁ〜、モテ男の妹の私も男子にモテたいなぁ」

「別にモテてるかっていうと……普通というか……」

「えー?そんな事なくない?絶対他の女の子の事も魅了してるじゃん」

「その断定はよく分からんけどな」

 夕飯を食べながら、美晴と軽口を叩く。

 美晴は俺のことを“モテ男”扱いしているが、自覚なんてこれっぽっちもない。飛び抜けたイケメンってわけでもないし、ファッションにだって最低限しか気を使っていない。

 ただ───優奈と一緒にいる時の周囲の視線の多さは、正直、気づかないふりをするしかなかった。


「優希兄ちゃんがラブコメみたいな恋愛しててほんと羨ましいもん。遊園地デートとか確定演出だよ?告っても良かったんじゃない?」

「告白か……。それは気が早いだろ?」

「えーまだヘタレてんの?ほぼ脈アリだってば」

「そうかもだけど、気軽に言えるようなもんじゃないよ」

「ふーん?まぁ、にぃになりの考えがあるなら止めないけどさ〜」

 告白を急ぐ必要はない。

 人と付き合うには「信頼」が必要だ───俺がそう思うのは、優奈の表情や言葉の端々に、どこか脆さを感じるからだ。過去に何かがあったのかもしれない。だからこそ、焦って距離を詰めるのは違うと思っている。


「ご馳走様」

「ごちそうさま〜。優希兄ちゃん、私先風呂行っていい?」

「いいよ、好きにしてくれ」

「はーい、この優しい優しい妹の私が、優奈ちゃんと優希兄ちゃんの2人きりでやり取りできる時間を作ってあげる!」

「めっちゃ上から目線だな……せめて彼氏のひとりでも作ってからにしてくれ」

 美晴は「むー!」と頬を膨らませながら風呂へと去っていった。

 ようやく訪れた、ほんの束の間の静寂。

 食器を片付けつつ、俺は自然とスマホに手を伸ばす。

 ───優奈に、連絡しよう。

 頭のどこかでは「さっき別れたばかりだし」と言い訳を探す自分もいる。

 でも、今日の景色や笑顔を一緒に共有した相手と、もう一度だけ繋がっていたい。

 その衝動に、抗えるわけがなかった。


**


「さてと……」

 部屋のベッドに横たわり、スマホを手に取る。

 彼女と別れる時、「家に着いたら連絡して」と言われていた。美晴との雑談に付き合っていたせいで少し遅くなったが、まずは約束を果たす。


「今なら話せるよ。今日はありがとう」

 ───そう文面を送ると、数秒もしないうちに既読がつき、胸がふっと温かくなる。


『こちらこそ!本当に楽しかった!』

 短い返事に詰まっているのは、優奈の弾む気持ちと余韻。文字だけでも十分伝わってきた。


『観覧車乗った時とか、すっごくドキドキしちゃった』

「あれは正直……仮の関係とはいえ心臓に悪かったかも」

『距離、近かったもんね』

「確かに」


 思い出を語るように交わすメッセージ。画面の文字からでも、彼女が今日一日をどれほど大事に思っているのかが伝わってくる。悠真くんの笑顔も、優奈の笑顔も、全部がかけがえのない記憶になった──そう胸の内で反芻する。


 何度もメッセージを書いては消し、送っては読み返し……そんなやり取りを続けているうちに、気づけば1時間が経っていた。

 そろそろ切り上げようかと思った矢先、ふと届いた一文に目が止まる。


『ねぇ、文字打つの時間かかるから、電話しない?』


 ───一瞬で心臓が跳ねた。

 夜遅くに異性と電話をするなんて、俺の人生にはなかったこと。中学まで勉強漬けだった身にとって、これは完全に未知の領域だ。

 でも、考えるより早く指は動いていた。


「いいよ」


 送信してしまった自分に驚きつつも、胸の奥ではどこか高揚感が勝っていた。


『ほんと?じゃあ、私の方からかけるね』

 数秒後、スマホが震え、画面に「ゆうな」と子猫のアイコンが映る。

 深呼吸をひとつ。俺は応答ボタンを押した。


**


「あっ、も、もしもし……?優希くん?」

 ───まさか、本当に承諾してくれるなんて。

 思わず勢い任せに「電話したい」なんて言ってしまったけど、優希くんは受け入れてくれた。

 それだけで胸の奥がじんわり温かくなる。

 あぁ……また優希くんの声が聞けるんだ……。幸せに頬が緩みそうになる。


「ご、ごめんね……その、長々と電話するつもりはないから」

『いや、気にしないで。優奈が望むのなら、変に気を遣わなくても俺は答えるよ』

「……っ……う、うん!ありがと……!」

 優希くんの言葉ひとつで、胸の鼓動がさらに速くなる。ああ、本当にずるい。

 声を聞いただけで、ここまで心が揺れてしまうなんて。


「えっと、その……。何話す?」

『なんか、電話で話したのって初めてだから緊張するよね』

「そ、そうだね……私やばい、心臓バクバク……」

『緊張し過ぎだよ、深呼吸した方が』

「う、うん……。でも、これも恋人らしいかな?」

『恋人って、深夜にこんな感じの電話をするものなの?』

「えっ?そ、そうじゃないの……?」

 いわゆる、「寝落ち通話」ってやつ…よくラブコメで見たけどあるあるかなって思って……。


『まぁ…一旦話を整えよう。今日の遊園地の話にしてさ』

「うん……そうだね」

 あのとき、敬語をやめて欲しいって言ったこともあり、優希くんはすぐ私に対して柔らかく接してくれた。そのことが、ずっと気になっていた距離感を強く縮めてくれて、より魅力的に見える。


『今日の優奈……色々と可愛かったな』

「……っ!そ、そんなことないよぉっ!」

 いやいや待って!?遊園地の話って言ったばかりなのにいきなりそれ!?声まで変になっちゃったじゃん……。


『ううん、お世辞じゃなくてさ。今日一日で、より……優奈のことを知れたっていうか…』

「うっ…お世辞じゃないなら、からかってるんじゃなくて……?」


『あはは、お化け屋敷の件は……あれは正直ね、頼られてる感凄かったよ』

「た、頼るよ!お化け屋敷とかいちばん無理だったもん……優希がいなかったら絶対入ってなかった!」

『元はと言えば悠真くんが言い出しっぺだった気が……』

「あ、確かに……」


 そっか、よくよく考えたら悠真じゃん。お化け屋敷行きたいって言い出したの!後でお説教案件!いや……優希くんにジェットコースター誘った私も同罪……?

 でも、それはそれ。話は別……だよね?


「でも……ほんとに楽しかった。正直、いい夢見れそうだもん」

『楽しめたなら良かった。俺も、まさかあんな形で仮の関係を作るとはね…』

「まぁ、仮なんだし……ね?」

『そうだね。でも、周りの視線がすっごく気になるレベルだったのは否定しないよ……ほんとに、優奈が綺麗だから……』

「……こら、そういう褒め言葉を軽く言わない」

『えっ?なんで……』

「だって────ううん、やっぱりいいや。今回の遊園地での思い出に免じて、今回は許す……」

 なんでって……!恥ずかしいし、惚れちゃうに決まってるじゃん!

 無自覚イケメンって怖い……油断したら「好き」って口走っちゃいそう。これで優希くんがドン引きしたら大変なんだって……あー、危ない危ない……。

 いや、天然じゃなくてほんとうに私を落とそうと向こうが意識的にやってたら……それはそれで策士的だけど……

 話し出してみれば、止まることを知らない。

 かっこよくて気遣い上手なこんな人に、もっとためらいなく触れ合いたい。もう、私の独占欲は強まるばかり。恋人を演じてって言ったあの日の言葉が、逆に心の奥の欲に火をつけているようにすら思える。

 でも……。今の私にとって、この時間はあまりにも幸せすぎた。


「優希と話してると、落ち着くな」

『そうかな?』

「うん、とってもね。なんか……安心するっていうか」

『……それは嬉しい。正直、ここまで親しくしてくれて、俺も嬉しいよ。優奈って、もっとドライで、普段から威厳がある感じだと思ってたから』

「そ、そう?べ、別に……あれは違うから……。もしかして、優希はツンツンしてる子が好きなの?」

『えっ……それは……。いや、あまりそういうことは考えたことは……』

「か、仮の彼氏なんだし、好みくらい教えてくれてもいいんじゃない?」

『うっ……そうだね……。けど、これ恥ずかしいな……』

 優希くんは、私のどんな一面を見たいんだろう?

 探るような質問になっちゃったけど……どうしても、好みが知りたくて。お姉さん系が好きかもしれないし、ギャルっぽい子に惹かれる可能性だってある。

 でも、どんな好みであれ──私はもう彼に夢中なんだから、彼の好きなタイプに少しでも近づきたい。そう思うだけで、美容にかける時間や努力が惜しいなんて思わない。


「じゃあ……私から質問していい?二択にしてさ」

『それなら答えられるかな』

「うん……じゃあ、清楚系かギャル系だったら、どっち?」

『えぇ……清楚系……かな?』

「ふむふむ……なるほどね。ふふ、それだけわかれば十分!」

『あはは……好み聞き出して、何に使うんだ?』

「えへ、話さないに決まってるでしょ?──想像してみて?」

 あぁ、どうしよう……楽しい。

 声が自然と上ずっちゃう。好きな人が、こんなに優しく、気遣って、私のことを見てくれている。

 それだけで胸の奥がじんわり満たされていく。清楚系……今の私って、一応そう見えてるのかな。肌のケアもしてるし、髪型も整えてる。香水や化粧の仕方も、変にやりすぎないように気をつけてるけど……。

 でも、自信は持てない。今度ひよりに見てもらおうかな。ひよりのお母さん、美容師だし、そういうの絶対詳しいし。


「なんだか……これ、終わり時わからないよね」

『確かに……。話してると、つい楽しくなっちゃうね』

「うん……。ねぇ、恋人の練習した方がいいかな?私たち」

『練習?……まぁ、それはどっちでもいいとは思うけど』

「でも……仮なんだし。周りから疑われたら困るでしょ?えっと……恋人らしいことって、なんだろう……」

『うーん……難しいな』

 ──今だ。ここで引いたら何も変わらない。

 ひよりが言ってた、「女の子として意識させなきゃダメ」ってアドバイスを思い出す。少しくらいなら……攻めてもいいよね?


「ねぇ、今度のバイトのとき、本来の時間より早く来れる?」

『えっ?ま、まぁ……行けないことはないけど』

「1時間くらい……恋人らしいこと、してみる時間にしよっ?」

『……恋人らしいこと?』

「ふふっ、何やるかは私が考えておくから!」

 言ってから、心臓が跳ね上がる。これって私、だいぶ大胆なんじゃ……!?でももう引けない。だってこれは、優希くんを少しでも私に近づけるための賭けだから。


『まぁ……それくらいなら大丈夫だよ。次来る時、1時間だけ早く来ればいい?』

「うん、それでいい」

『分かった……』

 ──よし。約束、成立。

 期待と不安とがぐちゃぐちゃに混じって、胸の鼓動が落ち着いてくれない。

 とにかく──本当はただ、優希くんと二人きりの時間を作りたかっただけ。けど、そんな本音は悟られていない……はず。なら、まぁ……いいよね。


「そろそろ遅くなっちゃうし、もう寝ないとじゃない?」

『確かに。時間的にも、そろそろ日が変わる頃だし』

「電話、この辺にしよっか」

『ちょうどいいタイミングかもね』

「うん……おやすみ、優希」

『おやすみ、優奈』

 二人でそう言い合って通話を切った頃には、時刻はすでに0時を回っていた。

 幸せな時間って、どうしてこんなにも早く過ぎてしまうんだろう。体感では10分程度のつもりだったのに、実際には何時間も話してしまっていた。


「はぁ……疲れた……でも、こんな幸せな疲れ方って、初めてかも」

 スマホをベッドに放り投げ、そのまま大の字に倒れ込む。遊園地デートの余韻はまだ色濃く残っていて、目を閉じればすぐに優希くんの手の温もりを思い出せてしまう。

 最後には──初めて、夜遅くまで優希くんと通話までしてしまった。


「仮の恋人……かぁ……」

 小さく呟く。

 言い出してしまった以上、この先どうするべきなんだろう。仮のままでもいいのか、それとも……。自分ひとりでは答えを出すのが怖い。やっぱり、こういう時はひよりに相談だ。

 私一人で欲に忠実に動いたら、もし彼に冷められてしまったら──考えるだけで怖い。


「……恋人らしいこと、って何すればいいんだろ。ハグ……は、早すぎるよね?えっと、膝枕?いやいや、それも違う……。恋人って、スキンシップ多いから……やっぱり、そっち系……?」

 声に出すたびに恥ずかしさが込み上げ、布団の中で思わず足をばたつかせる。

 でも、考えなきゃいけない。優希くんを“意識させる”方法を。


「……次のバイトの時までに、ちゃんと決めておかないと」

 そう自分に言い聞かせながら、布団に潜り込む。胸の奥で波打つ鼓動と甘酸っぱい妄想を抱えたまま、私はゆっくりとまぶたを閉じた。

 今夜は熟睡できた。

 久しぶりに、ここまで心地よい疲れに纏われながら寝ることが出来て、本当に幸せな一日の締めになった。

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