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【第13話】守ろうとしただけだから

 夏休みも折り返しという時期、いよいよこの日が来た。

 優奈と悠真くんと一緒に行くと約束した───いや、優奈と“遊園地デート”に行く日だ。


「今日は猛暑日になりそうだな……。いくら遊園地とはいえ、熱中症には気をつけないと」

 現在時刻は朝の6時半。

 前々から決めていた通り、白雪邸には8時に迎えに行く予定だった。

 もちろん、それが面倒だとか億劫だとか、そんな気持ちは1ミリもない。

 むしろ、いつもより早く目が覚めてしまうくらいには、この日を楽しみにしていた自覚がある。

「タオルに、汗拭きシート……日焼け止めも入れておこう。あとは……財布、チケット、水……よし」

 準備は完璧だ。

 ただ、こういう日はどうしても、準備が終わってからの時間がやたらと長く感じる。

 子どもの頃、遠足の朝にワクワクして落ち着かなかった、あの感覚に似ている。

 ───出発の時間が来た。

 まだ朝だというのに、太陽は既に高く、空気はじわりと湿気を含んだ熱気を帯びていた。

 そんな町の中を歩きながら、俺は白雪邸へと向かっていく。


**


「えっと……こうして……こうで……うーん、ちょっと濃い……?」

 その頃──白雪邸の一室では、鏡の前で真剣な表情の優奈。

 待ちに待った遊園地デート当日の朝。

 優奈はいつもより1時間以上早く起きて、かれこれ一時間以上はメイクと格闘していた。


「このチークは可愛いけど……優希くん、こういうのって好みかな……?」

 手元に並べたコスメは、数えきれないほど。

 普段なら迷わず選ぶ色も、今日は全部しっくりこない。

「このアイシャドウにすると、ちょっと大人っぽくなりすぎるかな……でもナチュラルすぎても変かも……」

 優希くんがどんなメイクが好きなのかなんて、知らない。

 でも、なんとなく───あんまり派手なのは好きじゃなさそうな気がして。


「……薄めの方がいいよね、きっと。優希くんって、ナチュラルで清楚系が好みそうだし……うーんでも、それだけでいいのかな……」

 頭ではわかってる。どんなメイクでも、たぶん優希くんなら笑って「似合ってますよ」って言ってくれる。

 それでも、“一番可愛い私”で会いたいと思ってしまうのが、今日という日だった。


「もう……なんで私、こんなに迷ってるの……」

 自然体のままじゃダメなのか。背伸びしたら空回りしちゃうかもしれない。

 それでも、鏡の前に映る自分の表情は──確かに、少しだけ恋する女の子になっていた。


「……よし、決めた。迷ってても仕方ないもん……えっと、このリップで……」

 指先が、ようやくひとつの色を選ぶ。

 今日は、ありのままの自分と、ちょっとだけ背伸びした自分。

 その真ん中くらいでいこう──彼にとって、“可愛い”って思ってもらえる私でいられるように。

「お迎えに来てくれる8時まで後1時間くらいか…。今日くらい、思い切りかわいい服で行ってもいいかな?いや、やっぱり清楚系なやつで…」

 優希くんに、私のことを可愛いって言って欲しい、そんなわがままが私をここまで迷わせる。

 服だってそう。

 服装なんて、人間の7割くらいを決めるもん。

(この服いいなぁ…これにしよっと。涼しげな服装だし、白いヒラヒラの半袖はシンプル)

 ───けど、優希くんにもし「可愛い」とか「すごく似合ってる」とか言われたら…私、口角上がるの抑えられないかも。

 そんなことを考えながら、私は彼の到着を大人しく待つことにした。


**


 現在時刻、7時50分。

 俺は約束よりも10分ほど早く、白雪邸の前に到着していた。

 「約束の10分前行動」──悪くない、と自分に言い聞かせながら、軽く呼吸を整える。

 そして、勇気を出してインターホンを鳴らす。

 すると、数秒も経たないうちに、インターホンのスピーカー越しにパッと明るい声が聞こえた。


『来てくれたんだね!悠真連れてくからちょっと待っててっ!』

「はい、ゆっくりで大丈夫ですよ」

 いつもと変わらない声に、自然と胸の奥がほっとした。

 俺はそのまま門の前で少しの間待つことにする。

 ちなみに、今日は一応“デート”という扱いになるかもしれないため、私服にも少し気を使ってはいる。

 水族館に行ったときと同様、Tシャツに羽織る薄手のシャツ、そして落ち着いた色合いのパンツ。ラフすぎず、かといってキメすぎない、ちょうどいい雰囲気を目指してみた。

 そして──

「お待たせ〜!」

 元気な声とともに、玄関から現れたのは優奈だった。

 その後ろからは悠真くんも元気に飛び出してくる。


「お兄ちゃん!おはよー!」

「2人とも……おはようございます」

 その瞬間──思わず、視線が優奈に釘付けになった。

 白のワンピースに、淡いブルーのリボンがさりげなく揺れている。

 肩には日除けの薄手カーディガン、足元は歩きやすい白のスニーカー。

 大ぶりすぎないアクセサリーが、髪色と瞳の透明感を引き立てていた。

 服装だけでなく、髪もふんわりと巻かれていて、いつものさらさらストレートとはまた違った印象になっている。

 ──明らかに、今日は特別な装いだった。


「……すごく似合ってますよ。今日の服装」

「……っ!?」

 その言葉を聞いた瞬間、優奈の動きが一瞬止まる。

 思わず息を呑んだような表情──そして、

「……な、なにそれ……急に……」

 わかりやすく顔が真っ赤になっていくのが、逆に珍しくて少し面白かった。

 いや、笑うのは失礼かもしれないけど、いつも冷静な優奈のその反応が、なんだか新鮮で。

「え?……いや、別におかしい意味じゃなくて、本当に似合ってるって思っただけで」

「っ……暑いだけだから……」

 明らかに視線をそらしながら、優奈は頬に手を添える。

 そして──少し間を置いて、ぼそっと呟いた。

「……そんなに褒められたら……勘違い、しちゃうでしょ……」

 声はか細く、それでもどこか素直になりきれない、ツンとした響き。

 ツンデレとか、そういう言葉をふと思い出してしまった自分を、内心で軽く叱る。

「……いや、褒めたのは事実ですし。勘違いとかじゃなくて、ちゃんとした評価です」

「っ……っ〜〜……!」

 優奈は肩まで赤くなりながら、手で顔を隠す。

 その仕草がまた、らしくなくて……思わず、俺も少し照れてしまった。

 ───こうして、まだ出発もしていないのに、夏の空気よりもずっと熱い、気まずいような、でも心地のいい空気が2人の間に流れていた。


「お姉ちゃん、顔まっかだね!」

 玄関を出た直後、悠真くんが無邪気にそう言ってきた。

「ち、違うわよ!暑いだけっ!」

 優奈は即座に否定──というより、むしろ即死レベルの速さで否定した。

 その頬は依然としてほんのり赤くて、日差しよりも心の熱の方が原因に見えるのは言うまでもない。

「ふふ……優奈さんの意外な一面が見れて、俺的には少し新鮮ですよ」

「……ちょっと。そういうの、女たらしの典型パターンだからね?」

 ピシャリと返すその表情も、言葉とは裏腹にどこか気恥ずかしそうだった。

「そ、それは……褒めてるのか、指摘されてるのか、どちらでしょうか……」

「えっ?い、いや、それは……べ、別にねっ!優希くんが、その……に、肉食系男子?って思ってるわけじゃないからね!?」

 急に出てきた、聞き慣れない単語。

 肉食……系男子……?

 動物の話では……ない、よな……?


「……に、肉食……ですか?それはどういう──」

「いやっ!知らなくていいっ!優希くんは純粋なままでいて!深掘り禁止なんだからっ!」

 目を見開きながら制止してきたその勢いに、思わず言葉を飲み込む。

 たぶん……いや、絶対、何かヤバい意味なんだろう。

 そういう直感だけは働く自分を褒めたい。

 どうせネットで検索すれば出るだろうけど──やめておこう。本当に知らなくていい気がする。

 そのまま空気が収拾不能になる前に、俺は「じゃあ、行きましょうか」と言って歩き出した。

 優奈もそれに続き、悠真くんが元気よくついてくる。


「……にくしょくけいだんしってなに?」

 ぽてぽて歩きながら、悠真くんが素直に質問してくる。

「悠真、あんたは尚更そんな言葉、調べちゃダメ」

 優奈がすぐさまにぴしゃり。

 その表情は、いつもの落ち着いた優等生というよりも──どこか焦ったような、ぎこちない笑顔だった。

 ……にしても。

 あの様子は、普段のあの落ち着きぶりとは裏腹に、内面ではわりと妄想とかもしてるタイプなのかもしれない──なんて、ふと思ってしまった。

 もしかして、図書室で勉強してた時に遭遇した時恋愛小説を読んでいたけど、それが絡むのか?

 ──それはさておき。

 会話はどこまでも続いていくし、ツッコミどころも尽きないけれど、不思議と気疲れはしない。

 むしろ、こうして他愛ないやりとりをしながら歩いているだけで、心が自然と軽くなる。

 まだ遊園地にすら着いていないというのに。

 まるで、今日という日がずっと続いてくれたら──そんな風にすら思えてしまう。


 駅に着くと、遊園地がある広い町へ向かうべく、一本の在来線に乗り込む。

 朝の時間帯だったが、思ったより混んではおらず、優奈と俺は並んで座ることができた。

 ただ、悠真くんはと言うと──

「わぁ……見て見て、お姉ちゃん!あれ、運転手さんのハンドル!」

 先頭車両の運転席にぴったりと張りつき、目を輝かせながら窓の外を覗き込んでいた。

 その小さな背中が微笑ましくて、思わず頬が緩む。


「混んでなくて、よかったですね」

「うん。あ、悠真は電車が好きでね。こうやって先頭にかぶりつくの、昔から変わらないの」

「そうなんですね。……気持ち、分かります。俺も小さい頃はバスの運転手になりたいとか言ってましたし」

「ふふ、男の子って一度は憧れるよね」

 車内には穏やかな冷房が効いていて、会話を交わす声も自然と柔らかくなる。

 座席に揺られながら、窓の外に流れていく景色を眺めていると、目的地までの時間もほんのひとときの旅のように感じられた。

 今回行く「アステリオ・ドームシティ」という遊園地は、駅からバスで少し移動した場所にある。

 アクセスが良く、家族連れや学生に人気の大型レジャー施設だ。


**


 数十分後、目的の駅に到着した。

 改札を抜け、案内表示に従って歩くと、遊園地直通のバス停がすぐ見つかる。

 運良くタイミングも合い、待ち時間も短くそのままバスへ乗車した。

 そして──

 バスが目的地に到着し、ドアが開いた瞬間、悠真くんが勢いよく立ち上がる。

「やったー!着いたーっ!!」

「こらこら、悠真!ひとりで走ってっちゃダメ!」

 優奈が慌てて後を追う。

 俺もその背中に続いてバスを降りると、そこには──

 大きな門構えに「アステリオ・ドームシティ」と書かれた煌びやかな看板が出迎えてくれた。


「無事到着ですね」

 振り返ると、優奈が軽く汗を拭いながら微笑んでいた。

 白雪邸を出発してから約30分。道路も空いていて、順調な滑り出しだ。

 門の奥を覗けば、信じられない角度の巨大なジェットコースターが空に伸び、遠くには色鮮やかな観覧車のシルエットも見える。

 既に駐車場には多くの車が並び、家族連れやカップルの姿もちらほら。夏のレジャーシーズンらしい活気があった。

 ここから、どんな一日になるのか──自然と胸が高鳴る。


「───はい、こちらをお付けしますね。これを担当の人に見せればアトラクションを楽しめますよ」

「ありがとうございます」

 ゲート前の案内係に軽く会釈をして、俺たちはチケットを提示した。

 代金はすでにネットで支払い済みだったため、受付はスムーズに済む。

 手首に巻かれた紙のリストバンドは、今日一日、この遊園地での“通行証”になるらしい。

 ──パチン、と軽い音を立ててリストバンドが締まる。

「よし、行きましょうか」

「うんっ!たのしみ〜っ!」

「わー!見て見てお兄ちゃん、あれあれっ!」

 悠真がはしゃぎながら指差した先───俺たちの頭上を、ゴウッと風を巻き上げて通り抜けていく、まさに稼働中のジェットコースターだった。

「うぉ……こんなジェットコースターがあるんですか……」

 振動と音と、そして何より乗客たちの悲鳴が凄まじい。

 そのレールはまるで空に向かって直角に伸びたかと思えば、反転しながらねじれていた。

 ……本気で言ってる? こんなの乗り物っていうより、もはや拷問器具に近いんだが。


「はっやーいっ! え、やばっ! すごっ!」

「絶対乗る〜っ!! お姉ちゃん、乗ろ!乗ろー!」

「ふふ、もちろんっ!」

 白雪姉弟は完全に目を輝かせている。

 こっちは既に胃がひっくり返りそうなのに、この2人には一ミリも恐怖心が無いらしい。


「2人は、これ……乗りたいんですか?」

「えっ?あたりまえじゃん! むしろこれ乗らないで何乗るの!?ってレベル!」

 悠真は小さな体でピョンピョン飛び跳ねながらアピール。

 やれやれ、元気が有り余ってるな……。

「ふふ、優希くんも乗らない? 絶対楽しいし──」

 優奈は、にこっと微笑んで、少しだけ頬を染めながら、こう続ける。

「私……優希くんと一緒に乗りたいからっ」

 ズルい。

 それはあまりに、ズルい。

「優奈さん……その言い方は……断れなくなるので……」

「ふふっ、知ってるよ?」

 自覚してやってるのか、それとも無自覚なのか。

 けれど、こうやって人の意志を簡単にくすぐってくるあたり、小悪魔というより純粋な押しの強さなんだろう。

 どちらにせよ、断る術など俺には無かった。

「とにかく、大丈夫……だよ? 怖くなったら──」

「優奈さん……?」

「私が、悲鳴でかき消してあげるから!」

「それ、何にも解決してませんけど!!」

 心強いような、心細いような。

 とにかく、俺は今───逃げ道を完全に塞がれた。

「それじゃ、最初はあのジェットコースターに決定ねっ! 悠真、行こっ!」

「おーっ!」

 走り出した2人の背中を見ながら、俺は内心で深くため息をつく。

 遊園地に着いてわずか数分で、最大の難所にぶち当たるとは──今日は一日、平穏とは程遠いかもしれない。

 だけど、なぜだろう。

 彼女の無邪気な笑顔を見ていると、そんな“スリル”も悪くないって思えてしまった。


「待ち時間は10分ですか。朝早く来たとはいえ、もう並んでるなんて……」

「たしかに。それだけ、やっぱり人気なんだね……」

「お姉ちゃーん、暑いよぉ……」

「ふふ。ジェットコースターに乗るまでは我慢よ。ほら、水筒。熱中症には注意、ね」

「ありがと!」

 目的のジェットコースター前に到着した。

 まだ開園して間もない時間帯なのに、すでに列ができているという事実が、ここの人気ぶりを物語っている。

 朝一で来てこれなら、午後は一体どうなるんだろう。

 ピーク時には1時間待ちも普通なんだとか──そう思うと、今のうちに乗っておけるのは正解だったのかもしれない。

 しかし、列に並んでいるうちに、別の意味で心拍数が上がっていく。

 そう──この手のアトラクションには、浮遊感だの急降下だの、数々の“敵”が待ち構えている。

 10分ほど経って、ようやく俺たちの番が来た。

 係員さんにリストバンドを提示し、足早に乗り場へ向かう。


「こちらへどうぞ〜。前の席が空いてます」

 そんな声に流されるように、俺たちは1番前の席へ案内された。

 いや、違う。“案内された”じゃなく──“勢いに飲まれた”が正しい。

(ま、前って……)

 心の中でだけ呟いたが、時すでに遅し。

 優奈と悠真もすんなり隣に座ってしまったし、今さら後ろへ移る勇気もなかった。

「はい、失礼しまーす。安全バー、しっかり下げてくださーい」

 係員さんがテキパキと確認していく中、俺も慌てて安全バーを下ろす。

 ずしりと重いそれが、上半身をがっちりと固定してくれる安心感はあるものの──。


(……怖いな……よりによって前かよ)

 自分の心臓の音が、周囲の喧騒よりも大きく聞こえた。

 そんな中、隣からそっと声がした。

「優希くん、緊張してる?」

 優奈が、楽しげに笑いながら小声で訊いてきた。

 その顔がほんの数十センチ先にある──それだけで、違う意味で鼓動が跳ねる。

「……緊張は、しますよ。むしろ……」

 口にしてから、自分でも何を言ってるのかよく分からなくなる。

 “だって、隣にあなたがいるから”なんて、口が裂けても言えるはずもなく。

「……いや、やっぱり。なんでもないです」

 そうごまかすと、優奈は「そっか」と短く返して、前を見た。

 その頬が、ほんのり赤く見えたのは、たぶん──日差しのせいじゃない。

 カタカタとコースターの駆動音が鳴りはじめた。

 座席がゆっくりと、レールの先へと進んでいく。

 俺たちの遊園地デートは、ようやく始まった。


「うわぁー高いね!」

 悠真くんの無邪気な声が、カタカタと鳴るレールの音に混ざって耳に届く。

「何メートルくらいでしょうか……景色は綺麗ですけど」

 登っていく間は景色を眺める余裕もある。ただ、頭のどこかでは“これが終わりの景色”だと理解していた。

「優希くんは高さは平気なんだよね?」

「あ、はい。よくある、高所にあるタイプのハーネス付きアスレチックとかも好きで、昔よく遊びに行ったりもしましたよ」

「じゃあ、ほんとに落下する時がダメなんだ?」

「はい……気絶するかもしれませんね」

 ──なんとも言えない話だが、高さ自体には慣れている。ただ、あの“落ちる感覚”。内臓が浮いて、重力を一瞬失うあの一撃が、どうにも駄目だ。


「大丈夫だよお兄ちゃん!すーっごく楽しいよ!」

「悠真くんは怖くないんだな……すごいな」

「えっへん!すごいでしょ〜!」

 カタカタ、カタカタ──。

 耳障りな音を背景にして、機体はどんどん坂を登っていく。

 この「登り」の時間こそが、恐怖を煽る静寂だと誰かが言っていたが──正しい。無駄に長く感じる。

「あっ!頂上だ!」

「ま、マジっすか……」

「くるよ!かそく!」

「やばい……!来るっ!」

 ───そして、次の瞬間。

 機体はほぼ垂直に近い角度で、風を裂く音と共に急降下を始めた。

「───う、うわあああああっ!!!!!」

 叫ぶしかなかった。全身に風圧が叩きつけられ、視界がブレる。

 胃が浮き、何かが口から出そうになり、ただひたすら耐える。

 しかしふたりは────

「きゃーーっ!!はやーいっ!!」

「楽しいー!!」

 2人には申し訳ないが、同じ人とは思えないほどのリアクションだ。

 1回目の落下、なんとか持ち堪えた。

 2回目、また別方向へ捻りながら落下、身体が座席ごと持ち上がるような感覚に冷や汗が走る。


「う、っ……あ、あれ……?」

 3回目の落下で、目の前の景色が急に遠くなった。

 視界が霞む。呼吸の感覚がわからない。声すら出なくなった。

 意識が……飛びかける。

 ──そのときだった。

 ふと右手に、柔らかい感触があった。

 誰かの手が、ぎゅっと握ってくれている。温かくて、確かで、優しい手だった。

 かすむ視界の中、横を見れば──

 優奈が、少し青ざめた顔でこちらを見つめていた。


「優希くんっ……!」

 その声すら、どこか遠くに聞こえる。

 でも、不思議と怖さが少しだけ和らいだ気がした──

 ……気づけば、機体は終点へ向かって緩やかに減速を始めていた。


**


 ──私、やっちゃったかもしれない。

 降りた瞬間、顔面蒼白で立ち尽くす優希くんを見たとき、心臓が跳ね上がった。

 本当に、冗談じゃなく──心の底から焦った。

「ゆ、優希くん!? だ、大丈夫っ!?」

 咄嗟に肩を支えると、彼はゆっくりとこちらを見て、力のない笑みを浮かべた。


「……あ、ああ……ぎり……生きてます……」

 かすれた声。

 ──その一言が、逆に怖かった。

 ドキドキしながら手を握ったのは、怖がる彼を少しでも支えたくて。……いや、正直、私自身もちょっと怖かったけど。

 でも、そんなことよりも──今、ようやく気づいてしまった。

 彼、苦手って言ってたのに。

 なのに私──無理矢理、乗せてたんだ。

 ──こんなになるまで我慢させて、私……最低。

 そんなつもりじゃなかった。

 ただ、ジェットコースターに乗りたかっただけ。悠真も楽しみにしてたし……何より、優希くんなら平気だって、どこかで勝手に決めつけてた。


「……ごめんね。無理させちゃって……」

 ぽつりと、思わず口にしていた。

 でも彼は、すぐに小さく首を振った。


「謝らなくて大丈夫ですよ。僕が気を抜いてただけなんで……」

 ──そんなこと、言わせたくない。

 さっき、あんなに苦しそうだったくせに。

 本当、意地っ張りなんだから。

 私はポケットの中で、そっとこぶしを握った。

「……こういうの、たまにあるんですよ。体が勝手にシャットダウンする、迷走神経反射ってやつで。一時的なもので……」

「め、めいそうしんけい……はんしゃ……?」

 急に難しい言葉を出されて、つい聞き返してしまう。

「高いGがかかると、脳の血流が一気に落ちて、意識が飛ぶんです。パイロットが訓練でよくなるやつで……『Gロック』って言います。僕、完全にそれでした」

「……へ、へぇ……?」

「要するに、無理して乗った僕が悪いだけなんで。優奈さんは、ぜんぜん悪くないですよ。ほら、もう元気出てきたし」

 優しく笑うその顔に、少しだけ安堵する。

 ──でもやっぱり、反省は、しないとね。

 ……いやいや、それでも……ちょっとツッコませて?

「あのさ……優希くん」

「はい?」

「その……私を慰めるつもりなのかもだけど……めっちゃ難しい言葉で…何も分からなかった…」

 私が眉を寄せて言うと、優希くんは「あっ」と小さく声を漏らして、ほんのり頬を赤らめた。

「いや…無事なら良かったよ? その…そんなに難しい単語、なんで知ってるのかなって───」

 別に詮索したいわけじゃない。ただ、気になっただけ。

 だって、あんな専門的な言葉、普通の高校生が使う?

 ──やっぱりこの人、ただの天才なんじゃないかな。

 もしかして……医学部とか目指してたりする?

 医療とか人体の仕組みに、元から興味があるタイプとか……?

「あぁいや、迷走神経反射は、ネットでたまたま見たんですよ」

「へぇ……ネットでそんな単語が出てくるって……普段どんなの調べてるの?」

「どんなこと───意外と普通ですよ?」

 即答されたけど、ぜんぜん普通じゃない。

 絶対、検索履歴に“シナプス”とか“交感神経”とかあるタイプでしょ……。

「ねぇ〜、二人とも、何話してるの? なんも分からないよ?」

 悠真がぽかんとした顔で割り込んでくる。

 ……いや、正直私だって、半分くらいしか分かってなかったけど。

「うぅっ……やっぱりこの話題、なし! 遊園地来たんだから、楽しまないとだよ!」

 私は両手をぱんっと叩いて、無理矢理話題を切り替えた。

 せっかくの遊園地デート。医学用語でトークバトルするより、もっと楽しいことに集中しなきゃ!

 そんな私の言葉に、優希くんは苦笑しながらも、ちゃんと頷いてくれる。

 ──本当に、この人って、否定から入らないんだよね。

 それが嬉しい反面、断りにくいだけって可能性もあるから……そこは、ちょっと気をつけないと。

 そして。

「じゃあさ、次! お化け屋敷行きたい!」

 ──え?

 悠真が、キラッキラした目で指差したのは、少し離れた場所にある“絶叫・怪奇ホラーハウス”と銘打たれた建物。

 黒と赤を基調にした禍々しい雰囲気が、入口から漂っている。


「……お化け屋敷、かぁ」

 優希くんがそちらを見て、何でもなさそうに呟く。

 ……そして、あっさり頷いた。

「うん。いいよ。行こっか」

「……うそ、でしょ……」

 思わず、口の中で呟いてしまった。

 私、お化け屋敷、ほんっっっとうに、無理なんだけど……!?

 お化けとか幽霊とか、ああいうの、心の準備がないと無理なタイプなんだけど!?

 さっきまで倒れてた優希くんがあっさりOKしてるのに、私だけが顔を引きつらせていた。

「あっ……そういえば優奈さん、苦手って言ってましたよね」

「い、いや……そんなことは……ない……と……思う……けど……」

「その顔は……」

 優希くんの目が、じっと私を見つめてくる。

 うぐっ、逃げられない……!

「だ、だってさ、せっかく遊園地に来たんだし、もっとこう……明るい雰囲気の……メリーゴーランドとか、ティーカップとかさ? そっちの方がほら、写真映えもするし──」

「えー、でも僕、お化け屋敷って一回も入ったことないんだよね。ね? お願い!」

 悠真が私の手をぎゅっと握ってくる。

 うぅっ……ダブルで来る!?

 弟属性と無自覚イケメン、ダブルパンチってやつ!?

「……ぅ……わかった……けど、責任取ってよね……?」

 私が小さくそう呟くと、優希くんは少し驚いた顔をした後、にこっと笑った。

「もちろん。今度は、僕が支える番ですから」

 その言葉に、心臓が跳ねる。

 さっきまで、私が支えてたはずなのに──今は逆。

 支えられるって、こんなに……安心するものなんだ。

 私は唇を噛んで、なんとか顔が赤くなるのを堪えながら、ゆっくりと、お化け屋敷の入り口へと足を向けた。


 お化け屋敷の入り口から中へ入ると、案内係のお姉さんに連れられて、それぞれ“個室”に通された。

 いやいや、もうこの時点でおかしいって。

 お化け屋敷って、もっとこう──薄暗い通路を歩いて進んで、びっくり箱的な演出で「キャー!」ってなるやつじゃないの?

 なんで個室……? なにされるの……? ……なんかもう、泣きそうなんだけど……。


 部屋の正面には小さなモニター。そこに流れているのは、この施設の「攻略説明映像」らしい。

 “脱出には三つの鍵を探し出せ”とか、“途中でリタイアする場合は青い扉を開けてください”とか、“パニック時の応急処置について”とか──

 全部、やたら不穏なBGMと“にじんだ血文字風フォント”で語られてる。

 ──あのさ、遊園地って本来もっと明るくて楽しい場所じゃなかったっけ?

 私はひざを抱えたくなる気持ちを必死で抑えながら、ちらっと隣を見た。

 悠真は……めっちゃ楽しそうに映像を見ている。

 むしろ目を輝かせてるんだけど?この子、メンタル強すぎない……?

 私はと言えば、ただひたすらに胃が痛い。

 口の中も乾くし、手もじっとりしてくるし──本気で、もう出たい。

 その瞬間だった。

 隣の優希くんと、指先がふっと触れた。

 ──あ……。

「……優奈さん…?」

「えっ? あっ! いや……ちょっと怖くて……」

 気まずくなって反射的に手を引こうとしたけど──

 その手を、優希くんが、そっと握ってくれた。

 えっ? えっ!?

 指と指を絡めるわけでもなく、ただ優しく包むように。

 それでも、私の心臓は一気に跳ね上がる。

 ……今まで、優希くんの方から手を握ってくれたことなんて、なかったのに──。

「えっ……優希……くんっ……」

「怖いのなら、こうしてた方が落ち着けるかなと。さっき……ジェットコースターで、優奈さんがしてくれたように」

「えっ……? 手、握ったの……バレてた……?」

「気絶寸前でしたけど……気づいてましたよ」

「……っっっ……!!」

 顔が一気に熱を持った。

 こんなの……反則だよ。

 怖いの、どこ行ったの? 私、心臓止まりそうなんだけど。

 そのとき、案内の音声が響く。

『──それでは各チーム、順路に従って探索を開始してください。制限時間は40分です』

 自動ドアがぎぃ……と、重たく開く音。

 そこには、真っ暗な通路がぽっかりと口を開けていた。


「よし! 行こうっ!」

 悠真が勢いよく駆け出す。

 ──あの子、どんなメンタルしてるの!?

 さっきまで道中かき氷食べてた小学生だよね!?

 なにこの切り替え……!

「うわっ、ちょ、悠真っ! 待って! 1人で行かないでよっ!」

 慌てて追いかけようとしたそのとき、優希くんが手を引いてくれた。

「大丈夫。俺たちも行きましょう。怖がらなくていいですよ。僕がいますから」

 ──もう、やだ……この人……かっこよすぎる……。

 暗闇の向こうへ進むその背中は、さっきまでジェットコースターでぐったりしていた人とは思えないくらい、頼もしくて。

 手を引かれて歩くこの状況、少女漫画の中に入ったみたいで──思わず、頬を押さえたくなる。

 ただし。

 次の瞬間、通路の奥から「ギャアアアアアッ!」という絶叫と共に、床がガタンと沈み込むような音がして、私は全力で優希くんの腕にしがみつくことになる。

 ……こ、こんなの、聞いてないっ!!


「幸い、前に別の人たちがいるみたいなんで、基本何とかなりますよ」

 優希くんは、静かに前方を見ながら言った。

「なんでそんなに冷静なの……!」

 声を荒げたいのに、喉が詰まるような感覚で、どうしても震えてしまう。

 でもその声すら、優希くんの腕に吸い込まれていく気がした。

 あぁ……でも、安心感すごい……。

 こうして抱きつく形で歩いてると、自然と彼の腕や胸板に触れる。

 ──ごつごつしてて、しっかりしてて、温かくて。

 思い出すのは、夏休み前の体力測定。

 優希くん、あのとき短距離の記録すごかったし、懸垂も腹筋もめっちゃしてたし──そりゃ、こんな体にもなるよね。

 ……って、こんな密着してたら、普通に誤解されそうじゃない?

 でも、これってお化け屋敷のせいってことで片付けられる……いやいやいやいや! ダメダメ!

 私、今“本気で”怖いんだから!

 ───目の前に現れたのは、薄暗い病室風の通路。

 白くてひび割れたタイル、割れた窓、無人の車椅子。

 天井の照明は不安定にチカチカしていて、時折スピーカーからノイズ交じりの呻き声が流れる。

「ここは驚かしポイントはないです、階段なんで」

 優希くんが、落ち着いた声で説明してくれた。

「あ、そういう事? 階段でおどかしたら危ないから?」

「はい。お化け屋敷で唯一、安心できる場所とも言えますね」

 階段が“安心”って……それってもう感覚バグってない……?

 でも、優希くんのその声だけが、頼りになる。

 私は彼の手を、まだしっかりと握ったままだ。

 というか、離す選択肢がない。

 階段を下りた先には、また薄暗い廊下と、ガラス越しの病室。

 その中では、白衣を着た人影が、じわりとゆっくり動いている。

 けれど、ドアは施錠されているし、出てくることはない──わかってる。

 わかってる、けど。

 それでも、怖い。

 足が止まる。呼吸が浅くなる。

 ──どこかで、絶対に来る。

 “追いかけてくる”あれが。

 心臓がどくん、と大きく跳ねたそのとき。

「ねぇ、優奈お姉ちゃん、先に行ってていい?」

 悠真がくるりと振り返り、ニコニコしながら言った。

「えっ? 1人で? 危なくない……?」

「先にいる人たちのとこまで追いつくから平気! どうせ驚かしポイント、僕には甘いし!」

 え……何それ。

 この子、怖がるって概念どこいったの……?

「う、うん……気をつけてね? 絶対無理そうならリタイア扉から出るんだよ?」

「うん、ありがとー! じゃ、また出口でね!」

 そして、彼は本当にダッシュで駆け抜け、瞬く間に曲がり角の先へと消えていった。

 ──まるで、“恐怖”という言葉を知らない生き物のように。


 ……それで、残ったのは。

 私と、優希くんだけ。

「ふふ、すごいですね。悠真くん、ホラー耐性ありすぎて逆に怖い」

「いやほんと、あれは子供の皮を被った何かかも……」

「とりあえず、脱出条件の鍵を探すフェーズがここからみたいですね。3方向に別れてて、全部解除して戻るのでしょうね」

「何その怖い演出……」

 ちょっとだけ肩の力が抜ける。

 でも、そんな緩みを狙ったかのように──

 次の通路の奥から、突然ガタガタと物音が鳴り響いた。


「──っ!? や、やっぱり来るの!? 追いかけてくる系のやつ!!?」

「大丈夫です、今のは音だけの演出。ですが……」

「いやいや!無理無理!」

「ん?あ……来ましたね」

 そう言った瞬間、後ろには鈍器のようなものを持った血まみれの人が私たちに向かって追いかけてくる。

 それを見た瞬間、もうダメだと思った。

「ええっ!?やだやだっ!!いやぁぁっ!!」

「大丈夫ですよ、こういうのはだいたい……この辺まで走れば定位置に戻るはず」

 でも、優希くんは私を連れて素早く走ってくれる。そして、安全ゾーンまでだいたい把握していて、すぐ私の恐怖心から救ってくれた。

「はぁ……はぁ……!!ノーリアクションすぎでしょ……」

「いえいえ、ちゃんとびっくりはしますからね。ですが……」

「ですが……?」

「……次のゾーンが、一組ずつ入る“区切りブース”みたいですね。……この先、驚かされる可能性が高いです」

 その言葉に、私の足が止まる。

 一組ずつ──って、ことは。

「わ、私たち、2人で……その、入るの?」

「ほら、よくある、前のお客さんのリアクションとかのせいで驚かしポイントをネタバレされないようにする仕組みです」

「……うぅっ……やだよぉ……」

「僕が先に入って、中で安全を確認してもいいですよ」

「えっ!?」

 なんかもう、ボディーガードみたいなこと言ってる……!

「……ぅ、いや……わ、私も一緒に行くっ! 一人で待ってるのも怖いし……!」

「分かりました。じゃあ、僕の腕に……掴まってください」

「う……うん……!」

 私は無言で、ぎゅっと優希くんの腕にしがみついた。

 もうこうなったら、誤解上等。

 だって、だって、怖いんだから……!!

 ──そして、いざ、ネタバレ防止扉が開く。

 少し歩くと……背後に気配がする。振り返れば、血まみれのナースがナイフを振りかざしてくる“サイレント”系の演出。

「いやぁぁぁぁぁっ!!!!やだやだぁっ!!」

 私は思わず悲鳴を上げながら、優希くんの胸に飛び込んだ。

 手じゃ足りない。もう両腕で抱きつく勢い。

 どこが怖くて、何があったのかもよく分からない。

 ただ、彼の腕がしっかりと私の背中を支えてくれていた。

 静かに、優しく。

「……すごいですね。ちゃんと感情揺さぶってきます、ここ」

「感想言ってる場合じゃないっ……!!」

 私は顔を伏せながら、小さく叫んだ。


**


 あれから、どれくらい経ったんだろう。

 体感だと一時間以上は彷徨ってた気がするけど、実際は三〜四十分くらいだったらしい。

 けど、それでも──私にとっては、地獄みたいに長かった。

 凝りすぎな内装とギミックの数々。病室風の演出や、追いかけ系のゾーン、そして極めつけの一組ずつブース。

 終始、叫びっぱなしだったのは……まぁ、否定できない。

 出口の扉をくぐった瞬間、どっと全身から力が抜けて、思わず膝に手をつく。

 日差しがまぶしくて、空気があたたかくて──やっと現実に戻ってきた気がする。


「あー! お兄ちゃんも、優奈ねぇちゃんも出てきた!」

 振り返ると、柵の向こうで手を振っている悠真の姿。

 どこか涼しい顔で、アイスを片手に立っていた。

「……えっ、アイス食べてる!? この短時間で外出て、買って、戻ってきてたの!?」

「うん、なんか出口のとこに売店あったから、先に出た人用っぽいって思って!」

「それは凄いな……。いや、それより……優奈さん、よく頑張りましたね」

 そう言って、横から優希くんが微笑んでくれる。

 その表情があまりに優しくて、私の胸がじんわり温かくなる。

「うぅ……優希くんがいなかったら、私、絶対リタイアしてた……」

 涙目だったのはもう自覚してるし、どうあがいても取り繕えない。

 でも、それ以上に──安心して甘えられた、あの腕のぬくもりの方が忘れられない。

「演出、すごかったですね……。特に最後、近くにいたはずの人形が突然動いたの、あれはさすがにビクってなりました」

「えっ……優希くんでもビクってなるの……?」

「さすがにゼロ距離は警戒できなかったです。でも、それ以外の演出は……まぁ、俺は平気でしたね」

 俺はって……あーもう、悔しいけど本当に頼りになる。

 そもそも入る前から終始冷静だったし、絶叫してる私の代わりに進行ルート把握してたし……どうしてそんなに落ち着いてるの。

「本当に……ありがと。ごめんね、私……うるさかったよね」

「そんなことないですよ。叫ぶくらい、怖かったってことですし。むしろ、叫ばなかったら逆に心配してましたよ」

「あはは……」

 はぁ……優希くん、相変わらず反則なくらい優しい。

「……でもね、優奈ねぇちゃんの声、最後の方、ちょっと面白かった」

 唐突に悠真が言ってくる。

「えっ、面白かったって何!?」

「うん、なんか『いやあああああああ!!!』って本気の叫び方してたし、途中で『むりむりむりむり!!』って早口で言ってた」

「やめてえええええっ!!恥ずかしいから!!忘れて!!」

 顔を真っ赤にしながら振り返ると、悠真はにっこり笑ってアイスを一口かじった。

 ……この子、ホラーも強いし、記憶力も強いし、敵に回したくないタイプの天才かも。

「優希くんも笑ってないで助けてよおぉ……!」

「すみません、ちょっとだけ想像してしまって……ふふっ」

「うぅぅぅ……」

 思わず顔を覆った私に、優希くんがそっとタオルハンカチを差し出す。

「汗もかいてますし。よかったら、どうぞ」

「……ありがと」

 それだけの何気ない仕草に、また胸の奥がきゅっとなる。


 ──さっきまでの恐怖は、もうほとんど残ってない。

 その代わりに、心の中に残ってるのは、

 優希くんの優しさと、あたたかさと、頼もしさだけ。

 それがどれだけ強くて、安心できるものだったのか──

 私は今日、身をもって思い知った。


**


 遊園地の中を散策して、そろそろ数時間が経った頃だった。

 突然、悠真くんが「あっ!」と声を上げると、俺たちの手を振り切るようにして駆け出していった。


「悠真くん、自由ですねぇ……」

 ぽつりと呟くと、隣で優奈が小さく笑う。

「ほんとに。楽しむ時は、一直線だよね」

「うちの妹にも見習ってほしいところです。中学生にもなって、兄の後ろにくっついてばかりで」

「え、それって……悠真と大差ないんじゃ……」

「いえいえ。悠真くんは“べったり”というより、“奔放”ですよ。自由意思に従って動くというか……まさにワイルドカードです」

 軽く笑いながら話していると、走っていった悠真くんが、誰かと話し込んでいるのが見えた。

 どうやら、小学校の友達らしい男の子と再会したらしく、テンション高めで盛り上がっている。


「お兄ちゃん!お姉ちゃん! この子、しゅうまくん! 一緒に遊びたい!」

 名前と同じくらい元気な声が響く。

 俺と優奈は顔を見合わせた。どうやら優奈も“しゅうまくん”に聞き覚えはなさそうで、少し困惑気味に眉をひそめていた。

 その子の隣には、親らしき女性が立っていて、俺たちににこやかに近づいてくる。


「あら、あなたが悠真くんのお姉さん?」

 突然の問いかけに、優奈は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑みを作って答える。


「えっ? あ、はい。その……悠真の姉です」

 俺は黙って、そっと横に立つ。

「うちのしゅうまが、悠真くんと仲良くしてもらってて。本当にありがとう。……それにしても、お姉さん、可愛いわね」

「そ、そんなこと……っ」

 いきなり褒められて、優奈が目を泳がせる。

 ……正直、俺もそう思ってるけど、こうして他人から言われると、なぜか照れ臭い。


「お隣の彼は……もしかして、彼氏さん?」

「──っ!?」「──っ!?!?」

 まさかの一言に、俺も優奈も、同時に声を上げてしまった。

 まるで完璧なハモりだったことが、かえって誤解を深めそうで怖い。

「い、いえっ、それは……違います! あのっ、たまたま一緒に来ただけでっ」

「そうそう!違います! たまたまなんです、たまたま!」

 俺がどんな言い訳をしたところで、彼女の表情はにこにこしたままだった。

 ──あれは絶対、信じてないやつだ。

「まあ、いいじゃない。仲良しに見えるし、少しくらい2人きりになりたいでしょ?」

「い、いや……」

「……う……」

 俺たちの反応を見て、女性はくすくすと笑ったあと、小さく首を傾けた。


「よかったら、悠真くん、うちで預かるわよ。若そうだし、小さい子のお世話も大変だと思うわ。それに、こういうのは慣れてるから」

「えっ……ほんとにいいんですか?」

 優奈が戸惑いがちに尋ねると、女性は大きく頷いた。

「ええ、どうせうちも今から軽く回ろうと思ってたし、しゅうまも喜ぶから。ご飯の時間までに集合ってことでどう?」

「……じゃあ、お願いしようかな」

 優奈が俺の方をちらりと見てくる。

 目が「大丈夫?」と語っていたので、俺は静かに頷いた。

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」

「うんっ!じゃあ僕、しゅうまと行くね!」

 悠真くんは元気に手を振って、友達と親御さんにぴったりと寄り添うようにして、軽やかにその場を去っていった。

 ──そして残されたのは、俺と優奈のふたりきり。

 先ほどまでのにぎやかさが嘘みたいに、空気が静かに落ち着く。

 ───しかしながら、事件はすぐ起こるのであった。


「おー?君、可愛いじゃん? ちょっと俺らと遊ばん?」

 軽薄な声が、背後からかけられた。

 振り向かなくても分かる。

 この感じ──面倒な相手だ。

 俺と優奈がふたりきりになって、わずか数分後の出来事だった。

 目の前には、いかにもチャラついた雰囲気の男が一人。その横に、やや常識人寄りに見えるツッコミ担当の男が立っていた。


「お前、バカ言うな。絶対隣のヤツ、彼氏だろ」

 ──いや、普通そう思ってくれるならそれで解決なんだけどな。

 問題は、こいつがまるで気にしていないことだった。

 隣を歩いていた優奈が、すっと表情を引き締める。

 まるで冷気が走ったような鋭い視線。……あれは完全に“臨戦態勢”の顔だ。


「……はい?あなたたちは……?」

 優奈の声は冷たく澄んでいて、まるで刺すような強さがあった。

 けど、相手の男はそれすら楽しむような顔でニヤついている。


「怖い顔すんなって。俺ら今から昼飯なんだけどさ、よかったら奢ってやるよ。いいとこ知ってるんだわ」

「……いえ、結構です」

「えー?遠慮すんなって!数万でも払うぜ、可愛い子には惜しくねぇし?」

 ──悪趣味すぎる。

「やめとけって、お前……こいつが彼氏じゃねぇの?ほんとに彼氏だったらどうすんだよ、通報案件だろ…」

 まともな方の男が苦い顔をするが、チャラ男は全く聞く耳を持っていない。


「友達だろ?だったら俺と来た方が絶対楽しいって。な?」

 ──優奈は、何も言わない。

 ただその目で、相手の軽薄さを真っ直ぐ睨んでいた。

「……嫌です。失礼です」

 その言葉は、優奈にしては珍しくはっきりした拒絶だった。

 だけど男は、からかうように笑っているだけだった。

 ……これは、放っておけない。

「……やめてくれませんか」

 俺は一歩、前に出る。

 けれど、内心、少しだけ足が竦むのがわかった。

 ──もし相手が、本気で絡んできたら。

 言い返したところで、暴力に出られたら──。

 頭のどこかで、そんな“最悪”が浮かぶ。

 でも、優奈が困っている。

 あの子が、こういう形で見られていいはずがない。

「怒んな怒んな〜、別に寝取る気はねぇって。ただちょっと、あまりに可愛かったからさぁ〜?」

 その一言で、優奈の目が明らかに冷たくなった。

 ──その瞬間だった。

 あぁもう……いい加減、堪忍袋の緒が切れた。

 心の奥で何かがぷつんと音を立てて、張り詰めていた理性がほどけた。

 ……なら、言えばいい。

 どうせ、“勘違い”だと思われても、優奈に変な絡まれ方されるくらいなら──

 俺は一歩、前に出て、優奈の手を取った。

「……ごめんなさい」

 小さく息を吸って──吐いた。


「──俺の彼女を、そういう扱いしないでください」

 その言葉に、男たちが一瞬、固まる。

 ざわついていた空気が、ふっと静かになった。


「……っ……ちょ、優希く──」

「げっ!?ほんとに彼氏なん!?ご、ごめんな!こいつまじで失礼だよなっ!?」

「はー?ガチかよ、いいだろ、俺の方が楽しく───」

 驚いたように見上げる優奈の声を遮って、俺はそっと彼女の手を引く。

「行こう」

 静かに、それだけを言って。

 俺は優奈を連れて、その場を後にした。

 歩きながら、彼女の手が少しだけ震えていることに気づく。

 たぶん、驚いているのは彼女の方だろう。俺もそうなんだから。

 でも、あの時……言わなきゃダメだった。

 優奈を守るために。優奈が傷つけられないように。

 たとえ、本当の“彼女”じゃなくても──今この瞬間だけは。

「おーい、つまんねぇな」

 そんな声に対して、俺は振り向き様に一言呟いた。


 ───俺の彼女なんで、絶対にやめてください。

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