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【第12話】エアコン故障は『必然』でした

 今日は特に予定がない。

 家事サポートもなければ、バンドの合わせもなし。

 こういう時こそ有意義に過ごさなきゃ、と自分に言い聞かせながら、目覚めてすぐに机へ向かう。無為な時間って、意外と心を削る。だったらいっそ、未来の自分のために少しでも進めておこう。

 夏休みとはいえ、受験生だしな───なんて殊勝なことを考えながら、参考書を開いた、その瞬間だった。

 ……やけに暑い。

 カーテンはしっかり閉めていたはずだ。けれど、部屋の中には既に熱気がこもっていて、まるで空気そのものが火照っているかのような不快さがあった。

 じんわりと肌にまとわりつく熱。背中に流れる汗。

 夏の太陽は、どうやら容赦という言葉を知らないらしい。


「……いや、暑すぎるだろ」

 寝ている間は節約と我慢で扇風機を使っていたが、朝からこの気温ではさすがに無理がある。何かを考える前に、身体が限界を訴えてくる。

 扇風機のスイッチを入れると、そこから出てきたのは───風、ではなく、温風だった。


「はは……まじかよ。熱風扇風機って新ジャンルか……?」

 乾いた笑いとともに、今度はエアコンのリモコンを手に取る。冷房25度、風量強。

 この設定で涼しくならない理由があるはずがない。

 だが、数分経っても部屋の空気は一向に冷えない。温度の壁も、涼しさの気配もない。

 何度か部屋を出入りして、廊下との気温差を確認してみたが、やっぱり変わらない。


「……嘘だろ?」

 嫌な予感がして、エアコンの前に立つ。

 吹き出し口に手をかざしてみる───

 ……しん、とした静寂。

 風は出ている、けれど、完全にただの空気。冷たくない。

 まるでドライヤーの冷風モードの、さらに劣化版。


「───いや、嘘だろ!? うそ、うそ、これほんとに……壊れた……!?」

 思わず一歩引き、エアコンを見上げる。

 この家にずっとあった歴史ある白い機械。そう簡単には壊れないだろうと、どこかで過信していた。

 だが現実は、無慈悲な熱波とともに襲ってくる。

 涼しくなるどころか、むしろ部屋が密閉サウナと化しているのが怖すぎる。


「……はぁー……まじかぁ」

 落ち着け、篠宮優希。

 こういう時は、まずは事実を受け止めるところからだ。

 目の前の機械に文句を言っても仕方ないし、俺に修理スキルなんてない。

 となれば、できることはひとつ。


「……とりあえず、母さんに報告だな」

 結局はこの家の管理権限を持つ人間に相談するのが一番早い。

 面倒ごとは即処理が鉄則───汗ばんだシャツの背中を気にしながら、俺はリビングへと向かった。

 

「おはよう、お母さん」

「あら、おはよう。朝ごはん作っておいたわよ───って、なにその汗!? 熱中症になるわよ、ちょっと!」


 キッチンに立つ母さんは、俺の姿を見るなり少し驚いたように眉を下げた。

 確かに、鏡で見たら俺も驚くレベルだと思う。髪は寝汗でぺたっとしてるし、Tシャツは背中と脇が色を変えてる。

 さすがにこの状況では、朝飯より先に伝えるべきことがある。


「はぁ……言いたくはないんだけど、多分俺の部屋のエアコン、仏になったわ」

「仏?」

「そう、仏。ご臨終ってこと」

「えっ!? ほんとに!?」

 母さんの目が丸くなる。

 そりゃそうだろう。まさか朝からそんな重たい報告をされるとは思ってなかったはずだ。

 その反応に苦笑しながら、部屋の状況をかいつまんで説明する。扇風機が熱風製造機に成り下がったこと、冷房がまったく効いていないこと、エアコンの吹き出し口から風らしきものすら感じなかったこと───


「これは本当にやばい。部屋で勉強しようとしたら、脳が茹だる未来しか見えなかった」

 苦し紛れのジョークを挟みつつも、部屋が今どういう状態かはきちんと伝える。

 母さんはタオルで手を拭きながら、真顔でうなずいた。


「わかったわ。ちょっと見に行く」

「頼む」

 一緒に部屋へ戻ると、エアコンの吹き出し口に手をかざし、母さんはしばらく沈黙した。

 数秒後、ふう、とため息。


「あら……これはほんとに変ね……」

「でしょ? 冷房入れてるのに、風が出ないし冷たくもない」

「完全に風が死んでるわね。ドライヤーの冷風モードのほうがまだ元気があるんじゃない?」

「それな。むしろ、こいつは風が『出てるつもり』の顔してるのが怖い」

 母さんが苦笑してから、つぶやく。

「これ、もう15年くらいは使ってるのよね……。買ったの、たしか美晴が生まれるちょっと前だった気がする」

「十五年……そりゃあ寿命か」

「定期的にフィルター掃除はしてたけど、中の冷却装置とかはもう限界かもね。下手したら室外機もいってる可能性あるし……」

 言われてみれば、たまに室外機の音が不穏だった記憶もある。

 あれはきっと、エアコンなりに悲鳴をあげていたのかもしれない。

 そして俺は、その声に気づかず夏の重みに甘えていたのだ───などと、少し詩的な言い訳を頭に浮かべてみる。


「修理に来てもらうか、買い替えるか……。とりあえず今日は、部屋で過ごすのは無理そうね。さすがに今日中にエアコンを復活はできないわ」

「だよなぁ……この暑さで勉強してたら、テキストじゃなくて俺の頭が蒸発する」

「大げさね。まぁでも熱中症だけはほんとに気をつけなさい。勉強したいなら、図書館にでも避難したら? 涼しいし、集中もできるでしょ」

「それ、俺もちょうど考えてたとこ」

 やっぱ母さんは鋭い。

 この状況で一番効率のいい選択肢は、公共施設の空調に甘えることだ。

 あそこなら静かで、涼しくて、長時間いても文句は言われない。まさに理想の避暑地。まぁ、長時間居ても文句言われないってのは、ある意味では違うが。とはいえ、冷房のある場所というのはでかい。

 というか、今すぐにでも行きたい。


「じゃあ朝飯だけ食べたら、図書館に避難するわ」

「了解。行く前に水分はちゃんと取りなさいね。あと、汗かいてるならシャワーも浴びてきなさい。公共の場に汗臭い男が行っちゃだめ」

「……了解。母さん、世話焼きすぎ」

「当然よ?」

 そう言いながらも、ありがたみはちゃんと感じてる。

 朝からトラブルではあったけど、まあ悪い一日でもない。

 そう思いながら、俺はシャワーへと向かった。


 シャワーを済ませ、朝飯を終わらせると、なるべく早めに家を出ることにした。

 朝から猛暑とはいえ、昼に比べればまだ幾分かはマシだ。外がサウナになる前に、少しでも気温の穏やかなうちに避難しておきたい。

 玄関で靴を履き替え、ペットボトルと文具の詰まったバッグを肩にかけ、早速家を出た。


 向かうのは、隣町の図書館。俺の家がある街の駅から電車で一駅の距離にあるその図書館は、空調も完備されていて、席も広く快適な環境が整っている。

 加えて、蔵書のラインナップも豊富で、学校では教えてもらえないような視点の問題集や参考書も揃っているのが魅力だ。


「課題テストはどうせ解けるだろうし……センター試験の長文対策でもしておくか」

 別に学校の進度に不満があるわけじゃない。でも俺は、空白の時間ってやつがどうにも苦手で、つい予定を埋めたくなってしまう。

 これはたぶん、中学時代にバスケ部でひたすら動き続けていた名残なのだろう。汗だくで走り回っていたあの頃の習慣が、今では机の上に形を変えて残っているだけだ。


 ただの自己満足だ。

 だけど、そうやって積み上げたものが、あとになって自分の支えになる───そんな感覚を、俺はもう知っている。

 そんなことを考えているうちに、目的地が視界に入った。


「よし、到着。トラブルもなし。……うん、今日は流れがいいな」

 静かな住宅街に溶け込むように建つ図書館。その中は、冷房がしっかりと効いていて、空気も静かで澄んでいる。

 持ってきたイヤホンを使うまでもなく、館内には適度な静寂が保たれていた。夏休みの早い時間帯ということもあってか、人の数も少ない。

 開いている席を見つけ、窓から遠い日陰のテーブルに腰を下ろすと、俺は早速バッグからテキストとノートを取り出して、勉強に取りかかった。

 ───まだ高校一年生だ。

 普通なら、大学受験のことを意識し始めるには少し早いかもしれない。でも俺は、自分の将来にぼんやりとしたイメージを持っていた。

 進みたい方向も、叶えたい目標も、まだ形にはなっていないけれど、いつその時が来てもいいように準備しておきたい。

 そう思って、こうして時々図書館にこもっている。


「……やっぱこの問題、問われ方が意地悪だな」

 シャーペンをくるくると回しながら、ページの隅に自分用のメモを書き加える。

 まだ見ぬ未来へ、一歩ずつ手を伸ばすように。

 その手はまだ届かなくても、努力を重ねた分だけ、自分に自信を持てる気がするのだ。


 ───数時間経った頃だった。

 集中してノートに書き込んでいた俺の肩に、ふいに誰かの手が触れる。

 急に声をかけられたわけではなかったけれど、この空間ではそれだけで十分驚かされる。


「……っ、あ……はい?」

 一瞬、館内ルールでも破ってしまったかと焦って振り返る。が、そこにいたのは───


「やっほ、優希くん。奇遇だね」

 ───まさかの、白雪優奈さんだった。

「えっ、奇遇ですね……」

 自然に笑みがこぼれるくらい、想定外の再会だった。

 そして彼女のすぐ傍らには、小さな手が俺の服を掴んでいた。

「あれ! お兄ちゃんだぁ!」

 悠真くんだ。俺の顔を見るなり、弾けるように声を上げてくれた。

 図書館の静けさをわきまえた優奈が、すかさず人差し指を口に当てて宥めてくれる。


「しーっ。悠真、ここでは静かにしないとダメだよ」

「うん……ごめんなさい……」

 しゅんとした悠真くんの様子に、自然と頬が緩む。

 それから俺は、視線を優奈へ戻して聞いた。

「それより、優奈さんは……図書館に? 勉強、ですか?」

「私? 私はね、悠真が“絵本読みたい”って言い出したから、その付き添いだよ」

「なるほど……悠真くんのお願いを、ちゃんと聞いてあげてたんですね」

「そ。たまにはね、お姉ちゃんしてるの」

 そんな何気ない会話を交わしているうちにも、優奈の表情はやわらかくて、以前に比べて、どこか親しみを帯びているように感じられた。

 ふと、俺の口から自然に言葉がこぼれる。


「……最近、雰囲気変わりましたよね。優奈さん」

「へぇ……どんなふうに?」

 さらっとした問い返しに、少しだけ照れながらも答える。

「なんか……その、前よりも……声色が、優しいというか……あ、いや、元々が冷たいってわけじゃなくて、ですね……」

 言いながら、自分で自分の発言に軽く混乱する。

 こういうところ、本当に自分は無意識に言いすぎるのかもしれない。

 でも、優奈は───そんな俺の様子に目を細めて、ふっと微笑んだ。


「ふーん……そうやって口説いてるの?」

「……えっ?」

 不意に言葉の意味を理解して、俺の思考が止まる。

 同時に、胸の奥が不意に跳ねた。

「意外と、からかいに弱いんだね。動じないタイプだと思ってた」

「……やられた……」

 思わずぼそっと漏らした俺の呟きに、優奈はクスクスと笑う。

 ───完全にペースを持っていかれている。

 けれど、その笑みの奥には、ただのお遊びではない、ほんのわずかな嬉しさが滲んでいた。


「ふふ、覚えとこ。いいこと聞いちゃったな。優希くんは、からかいによわいって。メモメモ♪」

 冗談めかした声の奥に、小さく得意げな響き。

 優希はというと、ただひとこと。

「……そのメモ悪用しないでくださいね…」

 そして今度は、俺の方が照れ隠しに視線を逸らす番だった。少し小悪魔的な笑みを浮かべた彼女の瞳がとても可愛く映る。

 あのプールでの件がきっかけで、優奈の何もかもが可愛く、愛おしく感じている。

 その事を強く実感させられていた。


「隣、座っていい?」

 ふとしたタイミングで、優奈が小声で尋ねてきた。

 突然の申し出に、一瞬だけ心拍数が跳ね上がる。

 本音を言えば───もちろんだ、むしろこちらからお願いしたいくらいだ、と言いたいところだけど。

「……いいですよ」

 実際に口から出たのは、ごく簡潔な返事だった。

 けれど、それ以上の言葉を足す余裕はなかった。

 完全にオフの時間で、しかも図書館なんて静かな空間で二人きりになるのは───どうにも緊張してしまう。

 優奈が俺のすぐ隣に腰を下ろす。

 その動きと同時に、ふわりと香る甘くて清潔感のある匂いが鼻先をかすめた。

 柔らかくて、どこか涼しげで、でもすぐ隣に確かに感じる“女の子”の香り。


(うわ……いい匂い……ってダメだ…!何を考えてるんだ…)

 意識したら最後、ますますそっちに神経が引き寄せられてしまいそうで、俺は慌ててテキストに視線を戻す。

 シャーペンを持ち直し、無理やり手を動かそうとするけれど───案の定、頭に入ってこない。


「優希くん……これって、学校の課題じゃないよね?」

 優奈の視線が、俺のテキストに向けられている。

 机に開いていたのは、大学入試用の数学問題集。普通の高校一年生が触れるような内容ではない、難度の高い単元だった。


「はい。課題はもう終わってるので、これは予習ですね。一応、将来の投資ってやつです」

「予習……って、これ、数Ⅱじゃない? まだ習ってないよね、学校では」

「ええ、でも今やっておけば、実際に授業で出てきたときに楽ですし。こういうの、早く始めておけば習慣にもなりますし」

 さらっと言いながらページをめくる俺を見て、優奈は思わず目を丸くする。


「……すご。ほんとに、勉強できる人って感じする……」

「そんなことないですよ。ただ、暇が苦手なだけです。何かしてないと落ち着かなくて」

 そう言いつつ、またシャーペンをカリカリと走らせる。けれど、やっぱり集中は戻ってこない。

 横にいる優奈の存在が、匂いが、距離が、静かに確実に意識の大半を持っていく。

 彼女の髪が、少しだけ俺の腕にかかりそうになる。

 手の動きを止めるわけにはいかないから、意識的に肩を動かさないようにして、微妙なバランスを保つ。

(落ち着け、俺……こんなんで動揺してたらだめだ…)

 そう思うのに、やっぱり心臓は言うことを聞いてくれなかった。


**


(最近、優希くんとオフで会う機会、増えてきたな……。これも、運命だったりして)

 静かな図書館の一角。

 隣に座る彼のシャーペンが、小気味いい音を立てながらテキストの上を走っていく。

 分厚い参考書、見慣れない数式、深刻そうな顔───なのに、どこか楽しそうにも見えるから不思議だ。


(暇が嫌で、何かしてないと落ち着かないから……って、理由がさらっとしてる割にやってることエグいんだけど)

 なんとなく、私は彼の横顔を眺めながら、こっそり溜息をついた。

 頭の回転が早くて、集中力もあって、勉強も運動もできて、しかも優しい。

 そんなの、勝てるわけがないじゃん───って、思いながらも。


(……でも、ちょっとだけ、距離が近づいた気もするんだよね)

 それはきっと、あの一言があったから。

『そうやって口説いてるんだ?』

 からかい混じりで言った言葉。

 ほんの出来心だったのに、想像以上に彼は反応してくれた。目をそらして、耳までほんのり赤くして、シャーペンを持つ手がぎこちなくなって。

 まるでからかい耐性ゼロの初心男子、だった。


(正直……あれ、クリティカルヒットだった。ちょっと嬉しかったし、かわいかった……)

 完璧人間・篠宮優希に、弱点らしきものがあるとしたら───それは、冗談を素直に受け止めちゃうところ。

 冗談っていうか、からかいというか、ちょっとした“攻め”に、意外とあっさり動揺してくれる。


(……意外と、かわいいとこあるよね)

 思わず頬が緩むのを、手元のカバンで隠す。

 もちろん、あまり調子に乗りすぎたら逆効果なのはわかってる。けど、それでも───ちょっとずつ、少しずつ、揺さぶっていけたら。

 優希くんみたいな人に、自分の存在をちゃんと感じてもらいたい。

 ただのクラスメイトでも、バンド仲間でもなくて、ちゃんと“ひとりの女の子”として。


(……もうちょっとだけ、からかっても、いいよね?)

 ───なーんて、ちょっと小悪魔な悪戯心が、顔を覗かせる。

 だけど、冗談も過ぎれば毒になっちゃうし、優希くんを本気で傷つけるのは絶対に嫌だ。

 そう考えると、どこまでが冗談で、どこからが本音なのか、その境目がわからなくなる。

 私は手元の恋愛小説をそっと読み進めながら、ちらちらと優希くんの様子を伺っていた。

 この距離感のままでいいのかな。今のままなら、壊れることもない。でも、進展もしない───そんな悩みが胸を締めつける。

「優奈さん」

「ん? なに?」

 シャーペンの音が止まり、隣から名前を呼ばれる。

 “さん”付け。それだけでまだ、遠く感じる。

 でも───それでも、私の名前を、ちゃんと呼んでくれる。それだけで嬉しかった。

「その本、気になって……どんな内容なんですか?」

「えっ? あ、これ?」

「はい。何か面白そうだったので」

 優希くんが指差したのは、私の読んでいる小説。

 淡いピンクのカバーに、優しいタッチで描かれた男女のイラストが添えられている。よくあるラブコメ───でも、私にとってはちょっとだけ、特別な物語。


「恋愛小説、だよ。最近は読んでなかったけど……悠真が本読みたいって言うから、そのついでに」

「恋愛小説、いいですね」

 即答で、否定もせず肯定してくれる彼に、一瞬胸が鳴る。

「ラノベ系の作品って、情景や感情の描写が鮮やかで、想像力も鍛えられますし。何より、スマホを置いて物語に没頭するのって、すごく健康的ですよね」

「……ふふ、そんなに真面目に言わなくても」

 照れるように笑う。けど、嬉しい。嬉しいんだ、ほんとに。

 だからこそ───ちょっとだけ、意地悪なことを聞いてみたくなった。

「ねえ、優希くん」

「はい?」

「そうやって……他の女の子にも、そうやって褒めたりするの?」

 少しだけ視線をそらして、でもちゃんと聞く。心臓はバクバク。

 変な質問なのは自分でもわかってる。でも聞いてみたくて、聞かずにいられなかった。

 だけど優希くんは、まるで動じずに、静かに笑った。


「───優奈さんだけですよ」

「……えっ」

「たぶん、優奈さんがいちばん、話しかけやすいからです。自然に会話できる人って、そう多くないんで」

 その一言が、胸の奥に、ポンと火を灯す。


(……ずるい。そういうの、ずるすぎるってば)

 さっきまで優希くんの“からかいに弱い”って思ってたのに、今度は私がやられてる。口角が勝手に上がってしまって、顔が熱くなるのをごまかすために、そっぽを向いた。


「へぇ〜……意外と、からかいに弱いと思ってたのに、カウンター上手じゃん」

「いえ、そんな……ただ、素直に答えただけです」

「……ほんと、そういうとこ、ずるいよ」

 小さく呟いた言葉が、ページをめくる音にかき消される。けど、その一瞬のやりとりが、私の中で何かを確実に進めていた。


**

 

 静かな沈黙の中、話す話題が見つからなくなってきて、私は少しだけ勇気を出した。

「優希くんって、小さい頃から真面目だったの?」

 そう、───過去の話。

 私が誰かに過去のことを話すには、まだ勇気がいる。優希くんなら信じてるけど、それでも簡単に踏み込めない場所だと、どこかで感じてしまっている。

 だからこそ───もし、優希くんが自分から話してくれるなら。

 それは、きっと「私を信じてもいい」って、優希くんなりの証明なんじゃないかって、そう思った。


「……過去ですか」

 ふと目を落とした優希くんの声が、ほんの少しだけ沈んでいた。

「あ、無理して話さなくてもいいよ……変なこと聞いちゃったね」

「……いえ、話しますよ。ただ、この話は、他言無用にしてくれると約束してくれますか?」

「……あ、うん。もちろんっ」

 その瞬間、空気が変わった気がした。

 目の前の優希くんが、どこか遠い昔に触れようとしてる。

 私が聞いていい話なのかはわからない。けど、それでも、息をのんで───その続きを待った。


「まず初めにですが……俺、昔は結構やんちゃだったんです。それも、かなりですね。親からはよく、世話が大変だったって言われてました」

「えっ?そうなんだ……意外かも」

「自分が今の性格になったのには、ある“きっかけ”があったんです」

 声のトーンが、すっと落ちる。

 優希くんは一度深呼吸をして、周囲を気にするように少し身を乗り出した。そして、ぽつりと口にした。


「……俺には、憧れだった姉がいたんです」

「姉が……いた……?それって───」

「……」

 彼の瞳が、小さく揺れた。

 言葉を選ぶように、優しく、けれどしっかりと───続けた。


「……国指定の難病で、中学生にして他界しました」

「………難病…?」

「『拡張型心筋症』っていう病気です。心臓の筋肉がどんどん弱くなっていって、血液をうまく全身に送れなくなる。最初はただ疲れやすいだけだったんですけど、気づいたときには……手遅れでした」

 その声は───かすかに震えていた。

 でも、優希くんの表情は、どこか穏やかで……どこか、懐かしさを抱えていた。


「姉は……本当に憧れの存在でした。病気があっても、いつも俺や妹のことばかり気にかけてくれて。入退院を繰り返しても、見舞いに行くと笑って『だいじょうぶ』って言ってくれて。辛い顔なんて、見せたことなかったんです」

 ───そんな姉の姿が、優希くんの中に今もずっと生きている。


「母から聞いたことがあります。姉は……自分の余命がもう長くないって、本人だけは知らされていたと」

「……」

「それでも、俺たちには一言も言わなかった。『心配させたくなかった』って。……それって、すごく優しいけど、すごく残酷ですよね」

 その言葉を、優希くんは苦笑のように吐いた。けれど───その目の奥は、悲しみで滲んでいた。

 私は、なにも言えなかった。ただ黙って、彼の声を聞き続けることしかできなかった。


「俺が小学4年生のとき……夜中に病院から、母あてに電話が来たんです。姉が危篤だって」

 優希くんの喉が、微かに震えた。

「……病室に着いたとき、姉はもう、弱々しい呼吸をしていて。けど、俺たちを見て、ちゃんと笑ったんです。美晴──妹が泣きながら『お姉ちゃん』って抱きついたとき、姉は頭を撫でて……最後に、俺の方を見てこう言いました『優希、美晴のこと、お願いね』って。それだけ言って……目を閉じました」

 その瞬間、優希くんの声が完全に震えた。

 無理に笑おうとしているけど、それが逆に苦しくて、聞いている私まで喉の奥がつまった。

 私は───その涙を見ていない。

 けれど、心のどこかで、彼が泣いていることが分かった。


(優希くんって……こんなにも、人を大切にする人なんだ)

 きっと、あの日の姉との約束が、今の彼を作ったんだ。

 誰かのことを想って、誰かのために真面目になれて、誰かを守るために、今日も笑っている。

 私なんかより、ずっと、ずっと───優しい。

 そして、それだけじゃなくて。

 私とは比べものにならないほどの、重い過去を抱えていたなんて───。


「……話してくれて、ありがとう。そんな辛いことがあったなんて、知らなかった」

 ぽつりと、私がそう言うと。

 優希くんは、小さく笑った。

「ふふ……本当は、優奈さんに言われるまでは、この話を墓まで持っていくつもりでしたよ。でも……優奈さんになら、話せるなって思って」

「……っ」

 ───私になら、話せる。

 その言葉が、胸の奥をじんわり温めていく。

 きっと彼にとって、この話をすることは、覚悟がいることだったはずだ。

 それでも、私に向かって話してくれた。それはつまり───信じてくれてる、ってことだよね?

 なら、私だって。

 いつか、きっと、過去の話を……優希くんに打ち明けられる気がした。

 まだ怖いけど、それでも───いつかは、きっと。

「……ねえ、優希くん。いつか、私の過去の話も、聞いてくれる?」

 そう問いかけると、優希くんは、すぐにうなずいた。

「はい。もちろんです。優奈さんが、俺を信じてくれる日が来るまで……俺はゆっくり待ちますから」

「……うん、ありがとう」

 きっとこの会話は、誰にも見せない心の鍵が、一つ外れた瞬間。

 この人となら、少しずつでも、前に進める気がした。


「気にしないでください。……すみません、重苦しい話になっちゃいましたね」

 少しだけ気まずそうに、優希くんが言ったけど───私は、かぶりを振った。


「ううん。……ぜんぜん。話してくれて、ほんとに、嬉しかったよ」

 静かな図書館の片隅で。

 ふたりだけの、やさしい沈黙が流れていた。

 

**


 図書館を出たのは、あれから少したって、昼の陽射しが真上から降り注ぎ始めた頃だった。

 ───俺は、自分でも忘れかけていたような記憶を、優奈に話した。

 理由はなかった。ただ、あのとき、優奈がそう問いかけてくれなければ、たぶんこの先も誰にも語るつもりはなかった過去だ。


「お姉ちゃん!遊園地、待ちきれないっ!」

「ふふ、悠真……私の服の裾、引っ張らないでってば」

 隣を歩く優奈は、少し困ったように笑いながら、悠真くんの手を引いていた。

 その笑顔は、俺が最初に彼女を見た頃よりも、ずっと柔らかくなっている気がする。

 最初は遠かった距離が、今はこうして隣を歩いている。

 ───その事実だけで、なんだか少し胸が温かくなる。

「……羨ましいです。可愛い弟さんがいて」

「えっ?そうかな?」

「妹の美晴は、中学生にもなってなお、四六時中くっついてくるんですよ。人前でもお構いなしで。鬱陶しさで言ったら、なかなかのもんです」

 冗談めかして言うと、優奈はくすっと笑った。

「でも……それって、優希くんがちゃんと“お兄ちゃん”をしてるからじゃない?」

「どうですかね。……まぁ、できる限りのことはしてるつもりですけど。姉がいなくなってからは特に」

 あの時から、俺は変わった。

 大切な人がいなくなるという辛さ、痛みを、身をもって知ってしまったからだ。

 だから、誰に対しても雑に扱えなくなった。

 人と関わる時には、その場での冗談も、本音も、すべて慎重に。相手が絶対に不幸にならないように気をつけている。相手を傷つけないように、離れていかないように。

 自分の中に「これ以上、大事な人を失いたくない」という感情が染みついてしまった。


「……優希くんはさ、あんな辛い経験を……どうやって乗り越えたの?」

「……どうやって、ですか」

 問いかけに、少し間が空いた。

 俺自身、答えを見つけたことなんてなかった。

 気づいたときには、走り続けるしかなかったから。


「たぶん……乗り越えた、っていうより、乗り越えた“ふり”をしてきただけなのかもしれません。止まるのが怖かったから───前を向いてるって見せてるだけで、実際はずっと、同じ場所に立ち止まってるような感覚です」

「……そう、なんだ」

 優奈の声が、どこか沈んでいた。

 でも、それは同情とかじゃなくて───共鳴のような、そんな響き方だった。


「私もさ……昔、いろいろあったから。……その気持ち、少しだけ、分かる気がする」

 ───一瞬、空気が変わった。

 何気ない口調だったけど、その言葉の奥にある何かに、心が静かに反応する。

 彼女の目が、どこか遠くを見ていた。

 それが、過去なのか、痛みなのか、それとも───。


「……無理に話さないで大丈夫ですよ」

 俺は、そっとそう返す。

 これ以上、踏み込まない方がいいと、そう思った。信頼は、急かして得るものじゃない。

 優奈が、いつか話してくれるときまで。俺は、ただ待つだけだ。


「……うん。ありがと」

 優奈は微笑んでくれた。その笑みは、少しだけ強がって見えた。でも、俺は何も言わない。それでいい。今は、ただそれで。


「……ねぇ、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、何話してるの?」

 突然、悠真くんがポカンとした顔で首を傾げた。

 俺と優奈は目を合わせて、思わず小さく笑ってしまう。

「ごめんね、悠真。難しい話だったから、また今度ね」

「むーっ。ずるいー!」

 そうやって抗議する声も、どこか可愛らしくて。

 その空気に、少しだけ救われた気がした。

 ───こうして俺たちは、まだ知らない感情を胸に抱えたまま、次の一歩を踏み出していく。


「優希くんは、強いね」

 ふと、優奈が歩きながら呟いた。

 顔はまっすぐ前を向いたまま、声だけが俺の隣に届く。

「……そんなことないですよ。俺だって、優奈さんと同じ、一人の人間ですし。強く見せてるだけ、です」

 それが、本当のことだった。

 誰かの前では、いつだって平気な顔をしていた。

 けど、本当の意味で平気だったことなんて、一度もない。

 そうしないと、心が壊れそうで。

 誰かと離れるのが怖くて、ひとつひとつを丁寧に、慎重に、笑って生きてきただけだ。


「でも、私に話してくれたことが、その答えだよ」

 優奈は、そう言って笑った。

 その笑顔には、押し付けがましさも、気負いもなかった。ただ、まっすぐに俺を見つめてくれていた。

「本当に話してくれてありがとう」

「……いえ。お礼を言われる筋合いはないですよ」

「ううん。私が優希くんの心の中にある(わだか)りに、ほんの少しでも終止符を打つきっかけになれたなら……私は、それがすごく嬉しいの」

 優しい。

 この人は、たぶん、本当に人の痛みに気づける人だ。

 自分の過去だってきっと簡単じゃないのに、それでも、誰かの痛みを優しさで包もうとする。

 俺の中で、何かがじんわりとほどけていく感覚があった。

「……ありがとうございます、優奈さん」

「どういたしまして」

「……正直、自分でも驚いてます。誰かにあんな話をしたのなんて、初めてで」

「うん」

「……多分、優奈さんだったから、話せたんだと思います。優奈さんなら、分かってくれる気がして───」

 言いかけて、ふと言葉が詰まった。

 その先を言葉にするには、まだ早すぎる気がして。

 けれど、優奈はすぐにその空白を優しく包んでくれた。


「ふふ……やだなぁ。そうやって真面目に言われると、照れちゃうよ」

 口元に手を添えながら、ちょっとだけ肩をすくめるように笑う。その姿がやけに可愛くて、俺は視線をそらした。

「……すみません。つい」

「ううん、嬉しかった。だから、ありがと」

 風が少し吹いて、優奈の髪が揺れた。

 そこに微かに香る優しい匂いが、また俺の心を揺らしてくる。

 ───きっと、これはもう、ただの“偶然の出会い”じゃなくて。確かに少しずつ、何かが始まっているんだと思えた。


「ねぇー!遊園地は?遊園地の話したい!」

「あぁ……悠真、ごめんね。じゃあ、その話しよっか」

優奈が微笑んで、弟の頭を優しく撫でる。

「優希くんも、この雰囲気、そろそろ終わりにする?」

「……!はい、そうですね」


 幸いなことに、こういう時、幼い子供の無邪気さってすごい。

 まるで空に差し込む光みたいに、空気が柔らかくなっていく。


 ───そうして、俺たち三人は、来週末に予定している遊園地のお出かけについて話し始めた。


「僕ね!新しくできたジェットコースター乗りたい!」

「ジェットコースターですか……」

「ふふ、優希くん、絶叫マシーン苦手って前に言ってたよね」

「……ああ、はい。高所恐怖症ではないんですけど……重力が無くなるみたいに、体がふわっと浮く感じが、どうもダメで……」

「そっか。じゃあ、悠真が叫んでる横で、優希くんは顔真っ青かもね」

「いやいや……叫ばないですけど、たぶん目は閉じてます」

 笑いながら、優奈が持っていたスマホで、公式サイトを開いて見せてくれた。

 画面には、今度行く予定の遊園地───《アステリオ・ドームシティ》のロゴと、特設ページが映っていた。

「これこれ、新しくできた《スカイ・レヴォリューション》ってやつ。なんか、真上まで登って、急降下しながら1回転するんだって」

「えぇ……明らかに人間の重力感覚をおちょくってますね、それ」

「お兄ちゃん!だいじょうぶだよっ、ぼくが手握ってあげるから!」

「……あ、ありがとう。頼もしいです」

 たぶん、これが“癒し”ってやつなんだろうな。

 気を張る必要もなく、素直に笑える。

 優奈がそばにいて、悠真くんがはしゃいでて───この空間が、たまらなく心地よく感じた。

 

「あとねあとね!お化け屋敷も行きたい!」

「お、お化け屋敷……!?」


 悠真くんがワクワク顔でそう言った瞬間、優奈の表情が引きつったのが分かった。

 肩がわずかに揺れて、口元が強張る。わかりやすいにもほどがあるリアクションだ。


「優奈さん、もしかして……怖いの、苦手ですか?」

「優希くん……。私ほんとに、お化け屋敷ダメで……。あれはホラーじゃない、もはや拷問だから……」

 情けないほどの真剣な訴えに、思わず笑いをこらえた。

「優希くんは平気なの?」

「俺は、むしろ得意な方です。中学の修学旅行で遊園地に行った時も、友達とお化け屋敷に入りましたけど……出てきた後、『お前、感情ないんか』って言われました」

「えぇっ!?一回も叫ばなかったの!?」

「さすがに突然出てきた時にはびっくりはしましたけど、怖いというよりは、ああ来たかって反応ですね」

 優奈は驚きの声を上げたあと、どこか納得したように頷いた。


「なんか、分かる気がする。優希くんって、ピンチの時ほど冷静そうだし……お化け屋敷で動じないって、優希くんらしいというか、解釈一致すぎる」

「ありがとうございます?多分褒められてますよね、それ」

「でも……じゃあさ、万が一、私が本当に限界で無理ってなったら───助けてくれる?」

 優奈がそう言って、少しだけ俺の顔を覗き込んでくる。目は冗談交じりだけど、本気で苦手なのは間違いなさそうだった。


「……そのときは、目をつぶって俺の手を握ってください。俺がそのまま、出口まで案内しますよ」

 優奈は一瞬で固まった。目をぱちくりさせたあと、耳までほんのり赤く染まっていく。

「ちょ、ちょっと……。それ、優しすぎて逆に困るんだけど……。いやでもお化け屋敷の醍醐味、全部吹き飛ぶじゃん……」

「それはすみません。俺、怖がらせる役にはなれないみたいで」

「ふふ……でも、優希くんらしいよね。なんか、いざというとき頼れる感じ」

 優奈の声が少し和らいでいた。

 まるで、さっきのシリアスな空気から切り替えるように、照れ隠しに笑っているようだった。

 ───でもそれは、俺にとっても同じだった。

 怖がる優奈が少し可愛くて、頼ってくれるのがちょっと嬉しくて。

 その感情に名前をつけるのは、まだ早い気もしたけど。

 遊園地デート。

 それはただの“お出かけ”じゃなくて、きっと今の俺たちを変える何かになる。そんな予感が心のどこかでうごめいている感覚がした。


 優奈と悠真くんを家まで送り届けた。

 特に深い理由があったわけじゃない。家事サポートの一環でもなければ、義務でもない。

 ただ───優奈と一緒にいる時間が、思ったよりも心地よかった。それが、俺が自然と足を運んだ本当の理由だった。


「わざわざ家まで一緒に来てくれるなんて……ほんとに嬉しいよ」

「優奈さんは、いろんな意味で魅力的ですからね。ひとりで歩いてて、変な男に絡まれたりしたら危険かなって」

 ───もちろん、どこか取ってつけたような理由だと自分でも思う。

 でも、“魅力的”というのは本心だ。言葉を選んだつもりだったけど、口に出した瞬間、少し恥ずかしくなった。


「ふふ……なにそれ。優希くんって、モテる?」

「えっ、急ですね……その切り口」

 顔を横に向けた優奈が、楽しそうに笑っていた。その微笑みには、からかいの色と、それ以上の何かが混じっていた気がする。


「だってさ……こういうセリフ、無意識に言ってるでしょ? 世間ではそれを『女たらし』って言うんだよ?」

「お、女たらしって……俺は別に、そんなイケメンでもないですし。平凡な高校生ですよ」

「ほんと謙虚だね。……ふふ、まぁいいや」

 優奈は軽く首を振って、今度は少し小さな声で言った。

「とにかく、帰り道、近くまで歩いてくれてありがと」

「いえいえ、そんなの。俺の方こそ、ありがとうございました」

「ふふ……なにそれ、変なやり取り」

 ───気づけば、ふたりして小さく笑い合っていた。

「次会うのは遊園地の時だね」

「ですね。……その日は、全力で楽しみましょう」

「……うんっ!」

 パッと弾けるような笑顔。

 それがさっきまでのちょっとシリアスな雰囲気とあまりにも違っていて、思わず見とれてしまいそうになった。

 ───やっぱり、彼女はどこか無防備で、でもその無防備さが誰かを惹きつけてしまうんだと思う。

 当の悠真くんは、家に着いた瞬間、テンションマックスで玄関をくぐっていった。姉弟らしい空気のギャップに、少しだけ笑ってしまった。


「良ければ、当日もこの家の前まで迎えに行きましょうか?」

「えっ……いやいや、それは申し訳ないよ」

「いえ……そういう日くらいは、本格的にやってみてもいいんじゃないかなって思っただけです」

 その時、優奈の目が一瞬だけ揺れた気がした。

 冗談じゃない───そう思ってくれたんだろうか。

「……優希くん、そういうとこ、ずるいんだよ」

「……さっきから、ずるいって何がですか?」

 また、聞き返してしまった。たぶん、これも何度目かになる。

「……もう、ほんと天然すぎ。自覚してほしい」

「えっ?俺、何かしました……?」

「ふふ、自分で考えてっ」

「ちょ…どういうことです……」

 優奈は答えず、少しだけ俯いて、笑った。

「とにかく今日はほんとにありがとっ。じゃあね、優希くん。気をつけて帰ってね」

「はい。……また、遊園地で」

 そう言って俺は、くるりと背を向けた。

 でも───何かが背中に残るような、不思議な余韻を感じていた。

 歩き出した帰り道。

 風は涼しくて、頭の中は妙に熱いままだった。

 真夏の昼間だと言うのに、とても爽やかな気分だ。

(……やっぱり、少しずつ惹かれてるんだろうな、俺)

 この気持ちが、どこに向かうのかはまだ分からない。

 けど───少なくとも今、彼女の存在が俺の中で確かに大きくなっている。それはまさに「好き」という気持ちだと、認めざるを得ないほどだった。


**


 あれからというもの、外はすっかり暗くなり、1日も終わりを迎える頃だった。

 俺はベッドの端に腰を下ろし、ベースの指運を確かめるように軽く練習しながら、スマホを片手に優奈とメッセージのやりとりを続けていた。

 内容は、遊園地へ行く時の時間帯や持ち物、そのほかもろもろ。

 画面越しの文字だけの会話は、対面とはまた違った優奈の雰囲気を感じさせた。

 少しだけ柔らかくて、ほんの少しだけ、距離が近い。

『遊園地、楽しみすぎて寝れないよ、私』

「寝不足はよくないですよ。特に夏場は熱中症や夏バテもありますから」

『そういう優希くんは、何時に寝てるの?』

「遅くても12時には寝るようにしてます」

『すご!私2時とか普通なんだけど』

 何気ないやりとりなのに、不思議と心がふわりと軽くなる。

 そのせいか、スマホを見つめながら自然と口元がゆるんでしまった。

『遊園地、何時に向かう?』

「朝早めの方が楽しめる時間も多いと思いますし、8時には優奈さんの家に着くようにします」

『分かった、じゃあ悠真にも伝えておくね』

 ───数秒後、LINEに可愛らしい女の子がグッドマークをしているスタンプが表示された。

 大きな文字で「任せてっ!」と書かれていて、なんだかそのスタンプすらも優奈らしく思えた。

 少し間をおいて、また新しいメッセージが届く。

『今の時間、優希くんは何してる?勉強?』

「いえ、今はベースを練習してます」

『ベース!ほんと、健気でいいね。ちゃんと防音対策してるの?』

「はい。というか、指だけの確認だけですし。さすがに夜にアンプ繋ぐほど無神経ではないですよ」

『冗談だよっ。……でもさ、今度うち来たとき、防音スタジオ使いたかったら言ってね。喜んで貸すから!』

 文末には、照れたように舌を出したスタンプ。

 そんなちょっとした一言が、変に心に残った。

 ───”今度うちに来たとき”。

 自然と、そういうふうに言ってくれるのが、なんだか嬉しかった。


 ───ガチャッ!

 ドアが勢いよく開く音とともに、俺は思わずスマホを持つ手をびくりと震わせた。


「お兄ちゃん!お風呂空いた───って、何してんの?」

「うぉっ!?……お前かよ……! だから言ってるだろ、部屋入るときはノックって!」

 唐突すぎて心臓に悪い。スマホを落とさなかったのは奇跡としか言いようがない。が───それ以上に焦ったのは、画面に表示された優奈からのメッセージ。

『当日ほんとに楽しみ。エスコートよろしくねっ♡』

 あの……どーして何も変哲のない一文の最後にハートマークをつけるんですかね……?めっちゃ心臓に悪いんですが。

「ん?にぃに、誰とやり取りしてんのー?」

 悪戯な笑みを浮かべながら、美晴が俺のスマホを覗こうとしてくる。あわてて画面を伏せるように隠す。

「こら、美晴。覗きはプライバシー侵害だぞ」

「え〜家族間にプライバシーなんてある〜?あ!さては彼女〜?私の知らないうちにイチャイチャ始めてたの〜?」

「ちげぇよ。ただのクラスメイトだって」

「ふーん?……あ、そういえばさー、優希の手帳見たんだけど、来週“遊園地”って書いてあったよね?」

「……は?」

 ……え?今なんて言った?

 流れるように言った発言に思わず思考が停止する。

「なーんで可愛い可愛い妹を置いて行くのかなーって〜。ねぇ、連れてってよ?」

「……おまっ、お前俺の手帳勝手に見たのか!?」

 信じられない。いや、信じたくない。

 俺の予定をこっそり書いてある手帳を、なんの躊躇もなく見てるってどういうことだ……!?

 

「だって〜リビングに置きっぱなしだったし。見ろって言ってるようなもんでしょ」

「いやいやいや、完全に犯罪スレスレなんだけど!?」

「でさ、ねぇ〜ほんとのところ、誰と行くの〜?まさか……好きな子連れてくの〜?」

「おい、一旦黙れ……!」

「うっわー、これは決まりだわー!優希が女の子と遊園地……あっ、隙ありっ!えいっ!」

「おいっ!?スマホ奪うなって!」

 美晴が隙をついて俺のスマホをひったくる。そして、予想通り、いや予想以上に迅速にLINEのやり取りを開いた。抵抗してやろうと思ったが、不覚にもベースを膝に置いたままだったのが裏に出た。

 しかし、数秒後、美晴目が、見開かれた。


「え……うっわ、なにこれ……っ」

 スマホ画面に表示されたのは、俺と優奈が並んで撮った一枚の写真。家事サポートバイトの時、家の前で彼女の弟・悠真くんが「撮って〜」とせがんだときに、仕方なく一緒に写ったアレだ。

 その時は優奈のスマホで撮っていたため、LINEを通じて俺のスマホに送ってくれたことがあった。

 その時のやり取りだろう。


「…………美少女すぎない……?」

「……は?」

「負けた……完敗だ……!!っていうか、え!?なにこの子、サラサラの白髪……で、瞳、え、宝石みたいな青なんだけど……?本物のサファイアじゃん」

 美晴が、今まで見たことないくらい神妙な表情になっている。

「この子、白雪ちゃんっていうの?可愛い……ってか、にぃにと白雪ちゃんの距離近っ!?絶対付き合ってるじゃん!?違うの!?」

「……だから、言ってるだろ。ただのクラスメイトだってば」

「うわ〜!この天然女たらし兄貴ぃ〜っ!!」

「ちげぇよ、なんだそれ」

 ───いや、優奈にも「女たらし」と言われてしまったが。俺はそんなつもりは…。

「ふーん?可愛い可愛い妹よりも、絶世の美女の方が好きなんだ〜?優希に甘々に甘えまくってる妹より?同級生の方が好きかー?」

「お前!その言い回しやめろ!」

「ふーんだ!てか!この子スタイルめっちゃいいし!どーせ外見可愛いから狙ってるんでしょ!?お兄のすけべっ!」

「意味がわからんぞ!」

「もういいもん!こうなったら……お仕置きしてやる!妹の許可なしに美少女ひとりを沼に落としてるなんて有罪だからぁっ!」

「うおっ!?ちょっ、やめ、くすぐりは反則っ───あっ、あははは!おいっ……!ほんとにやめろって、脇は……!脇はダメだからっ!」

「やーめーまーせーん!!こちょこちょこちょこちょ〜!」

「あはははっ!やめ!ほんとにダメだからっ!」

 ベッドの上で転げ回りながら、俺は抵抗しようとするが、くすぐりに関しては徹底的に弱い。くっそ、なんでよりによってそんなポイントを妹に握られてんだ俺は……。

 ───こうして、LINEのラストメッセージに返信することも許されない。

 その魔の手の攻撃に俺の体力はごっそり削られてしまった。

「ぜぇ……ぜぇ……お前……いい加減にしろ……」

「いい加減はこっちのセリフだし!」

「いやいや……そもそも個人の手帳を勝手に見られるのも変だし、色々と間違ってるだろうが……」

「いいや!間違ってない!これは妹として正義の行いです!」

「いや、正義の定義歪んでんだろ……」

 俺がスマホを取り返そうと手を伸ばすと、美晴はそれをひょいっとかわして、再び画面に目を落とす。

 ───あ、これ絶対見てるやつだ。既読ついたし。やばいやばいやばい。


「ふーん?『当日がほんと楽しみ、エスコートよろしくねっ♡』……ねぇ、これ、どう見ても脈ありじゃない?」

「断定すんなし……」

「だって語尾にハートマークだよ?恋してますの証拠じゃん。そういうの、ラノベとか少女漫画で死ぬほど見たことあるし」

「お前、そういうの真に受けすぎなんだって……」

「はいはい。にぃには人生損してると思うよ?せっかくこんな可愛い子から好意寄せられてんのに」

「軽く言うな……告白ってのは、もっと慎重にやるべきことだろ。こっちが勝手に盛り上がって押し付けるのも違うし」

 それが俺の本音だ。

 優奈のことは、たしかに特別に思っている。あの真っ直ぐな笑顔や、傷ついた過去の影を知ったうえで、それでも前に進もうとする姿が、脳裏から離れない。

 けれど───だからこそ、俺の気持ちをぶつけるには、それ相応の“覚悟”がいると思ってる。軽い気持ちで伝えられるわけがない。


「ふーん……ヘタレじゃん」

「……うっせぇよ」

「いやいや事実だし。ま、私はにぃにの恋愛事情に口出す気はないけど。ただし!からかうのは止めませ〜ん!」

「いやそこが一番タチ悪いからな?」

「別にいいでしょ〜私は白雪さんのこと知ってる訳でもないし。…うーん、でもさー。……この白雪さん?どんな子なの?」

「……え?」

 美晴が、唐突に真面目な顔になった。

「性格とか、どんな感じ?話してて楽しいとか、落ち着くとか、そういうの。あるでしょ?」

「……そりゃ、ある。優奈さんは、ちゃんと人を見てるし、言葉も丁寧で……自分の芯を持ってる感じっていうか……思いやりも強いし、たまに抜けてるところもあるけど……なんていうか───放っておけない、みたいな」

「………………」

 不意に、美晴が小さく笑った。

「にぃにさ……『どんな人?』って聞かれて、それだけスラスラ出てくる時点で、もう答え出てる気がする」

「えっ……?」

「そんなにちゃんと人のこと見てるなら、もう好きじゃん。それ、間違いなく特別でしょ。自分で気づいてないだけでさ」

「……」

 思いつきのような口ぶりなのに、その言葉が、なぜか胸の奥に突き刺さった。

「それにさ、恋愛って、時間勝負だと思うよ?白雪さんみたいな美少女、にぃにがもたもたしてたら……誰かに取られちゃうかもよ?」

 そう言い残して、美晴はスマホを返しながら部屋のドアに向かっていく。

「……お前、意外とまともなこと言うじゃん」

「へへっ。私は経験ゼロだけどね!説得力皆無だけど!信じるか信じないかはあなた次第ってね!」

「はぁ……相変わらずだな」

 そう言って、美晴はあっけらかんと笑ってドアを開けた。


「じゃ、おやすみ〜。……ちゃんと返信しなよ、10分以上放置すると好感度下がるらしいし!」

「……恋愛ゲームじゃないんだから……」

 扉が閉まる音と同時に、部屋に再び静寂が戻る。

 けれど、胸のどこかはさっきまでの騒がしさが嘘みたいに、妙に落ち着いていた。

 ふと、手元のスマホに目をやる。

 画面には、さっきからずっと開いたままのメッセージ。

『───エスコートよろしくねっ♡』

 どうしてだろう。

 ただそれだけの言葉なのに、まるで心の奥にやさしく火を灯されたような感覚になる。

「……ったく。ズルいな……」

 誰に向けた言葉か、自分でもよくわからない。

 けど、思わず口角が上がった。

 俺は静かに、画面をタップし、指先でひとことだけメッセージを返す。

『お任せ下さい』

 それは、どこか照れを隠すための、でも確かな想いのこもった返信だった。


 ───そして、その頃。

「うあぁぁぁああああああああ……!」

 白雪家の自室。

 優奈は、自分のベッドの上で布団に顔を埋め、悶絶していた。

「なんでつけた!?ハートマークとか!ねぇ私なんで!?前にも使ったけどさ!今回は違うでしょ!?あれはあの、勢いってやつで……!」

 LINEにメッセージを送った直後から、優奈はずっと落ち着かなかった。

 テンションの高ぶりのまま、つい送ってしまった“♡”の一文字。

 それがあまりに破壊力を持っていると、送信してから気づいてしまったのだ。

「うわぁ……引かれたらどうしよう……。このタイミングで既読すぐついてないってことは……もしかして、どうしようってなってる?距離置かれたりしたら……ど、どどどうしようっ……」

 顔を真っ赤にして、枕に顔をこすりつけながらの大混乱。

 ───そのメッセージを送って5分ほどして、ようやくスマホが、軽く震えた。


「っ……!!」

 息をのむ。怖くて、けど見ずにはいられなくて、そっと画面を覗く。

『お任せ下さい』

 その一言だけ。けれど───

「……え……っ」

 まるで深呼吸をするように、優奈の肩の力がふっと抜けた。

 その言葉が、どれだけの不安を和らげてくれたか。本人はきっと、想像すらしていない。

「……よかったぁぁあああああ……っ……!」

 布団に突っ伏して、枕を抱きしめる。

 もはやその姿は、完全に“恋する乙女”そのものだった。

「もう……優希くん……ずるいよぉ……ほんとに……意図的に返信遅くして私の羞恥心を弄んでるんだ…絶対っ!」

 その声は、どこまでも小さくて、どこまでも優しかった。

 ───こうして、

 まだ“本当の気持ち”を口に出すことはできないまま。

 けれど、確かにふたりの距離は、少しずつ───確実に、近づいていた。

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