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【第11話】可愛いが止まらない

「うっ……めっちゃ朝……眩し……」

 目が覚めた瞬間、差し込む陽射しに思わず顔をしかめる。まだ時間は早い。けど、今日も例の家事サポートバイトがある日だ。向かう先は、もちろん白雪邸。

 なんだかんだで、こうして通うのにも少しずつ慣れてきた。でも、あの家には予想外な出来事がやたらと起こるので、気は抜けない。

 今日は、プール掃除を頼まれていた。

 ──プール。そう、家にあるんだ。でっかい、ガチのやつが。

 財力ってほんとに次元が違うんだな、と改めて実感する。

 前もって優奈から聞いていたので、実家で掃除道具やら、それっぽいものを少し持ち出してきた。備えは万全。ついでに濡れる可能性も考えて、替えの服もリュックに詰める。

「うーん……これでいいかな。あ、水分と軽い食べ物も入れとこ」

 リュックの中身を確認して、ぱたんとジッパーを閉じる。

 準備を終えると、白雪邸へ向かって家を出た。


「よし」

 ──ピンポーン。

 慣れた足取りで門の前まで辿り着くと、インターホンを押す。すぐに応答があった。

『優希くんだよね、今あけるからちょっと待っててね』

『あ! お姉ちゃん! もしかしてまたお兄ちゃん来てくれた!?』

 インターホン越しに聞こえてきたのは、優奈と悠真の声。悠真くん、今日はいつにも増してテンションが高い。たぶん、来週の遊園地のことが頭にあるんだろう。

 少し待つと、優奈が門を開けて出迎えてくれた。


「今日もよろしくお願いします」

「ふふ、こっちのセリフなんだけどね。いらっしゃい、優希くん」

「いえいえ、お邪魔しますね」

「家の中涼しいから、早速入って」

「はい」

 優奈に促されてリビングへ入ると、テレワーク中らしい梨花さんがこちらに気づいた。

「まあ、いらっしゃい優希くん。今日はプールの掃除、お願いしてもいいかしら?」

「はい、大丈夫です。優奈さんから事前に聞いてたので、準備はしてきました」

「ほんと?助かるわ。私、もう少し仕事があるから、詳しいことは優奈に聞いてね」

「はい、分かりました」

 梨花さんは、今もノートパソコン越しに、聞き慣れない言語で誰かと会話している。──たぶん、英語じゃない。けど、語感的にヨーロッパっぽい…かもしれない。

 そういえば、白雪家のお父さん───雅貴(まさたか)さんは、有名なベンチャーの社長だとは聞いていたが、梨花さんの職業ってちゃんと聞いたことなかったな。

 俺が小さく首をかしげていると、それに気づいたらしい優奈が自然に補足してくれた。


「ママはね、フリーランスの通訳士なんだ。最近は家で仕事することが多いけど、急に海外出張行ったりもするよ」

「あ、そうなんですか?」

「うん。英語はもちろん、フランス語やノルウェー語とかもできるんだ。……あ、ちなみにママはノルウェー出身だよ」

 そうだった。優奈は自己紹介のとき、自分がハーフだって言ってた。その母親が通訳士ってことは、たしかに納得だ。


「じゃあ、プールの方、案内するね」

「お願いします」

 優奈に連れられて、リビング奥の廊下を進んでいく。これがまたやたらと長い。途中で何度も曲がるし、どこかの高級旅館かと思うくらいだ。

 それにしても、こんなに広い家でこの清潔感を保てるの、正直ちょっとおかしい。───いや、いい意味で。

 今まで一度も見たことはないけど、たぶん裏ではスタッフ的な人が動いてるんじゃないだろうか。白雪家の財力なら、使用人のひとりやふたりいてもおかしくない。


「ここ、更衣室みたいなところ?」

「うん、そんな感じ。掃除の時に濡れるかもしれないし、ここで着替えとかできるよ。これ、予備のタオル。乾燥機もあるから、使ってね」

「ありがとうございます。……てか、すご……」

 白とシルバーで統一された、ホテルみたいな空間。大理石の床に、つやつやのロッカー。清潔感があるというか、高級感がありすぎて落ち着かない。

 並んで置かれた日焼け止めやヘアオイルなんかも、ぱっと見で分かる有名ブランドの高級ライン。これ全部、リアルに使ってるんだよな……。

 そうして更衣室を抜けた先、いよいよプールとご対面。


「うぉ……すっご……」

「あはは……みんな最初はそう言うよね」

 現れたのは、まさに“邸宅の屋内プール”というべき代物だった。天井が高く、壁一面のガラス窓からは自然光がやわらかく差し込んでいる。

 広さとしては、小学校の25mプールよりは小さいけど──でも、個人宅にこれがあるのは明らかに規格外。


「優奈さん、小さい頃からここで泳いだりしてたんですか?」

「私?うん、けっこうね。泳ぎは得意だよ」

「なるほど……」

 そう言いながら、俺はプールサイドに歩み寄る。

 ──なるほど、掃除って言われるだけのことはある。

 一見キレイに見えるけど、水の表面にはごく小さなホコリや繊維のようなものが浮いているし、照明に照らされると、底の方にもわずかに薄い膜のような汚れが広がっているのが分かる。

 たぶん、長らく使ってなかったのかな。


「うん……これは確かに、掃除しがいがありそうだな」

 俺がプールの水面をじっと見つめて独り言をつぶやくと、優奈が静かに口を開いた。


「最近ね、ママは仕事忙しくなってきて毎日バタバタしてるし、パパも帰ってくるの遅くて……なかなかプールを使う機会がなかったんだ。悠真が“そろそろ泳ぎたい”って言い出すかなって思って、今のうちに綺麗にしておきたくて」

「それならベストタイミングですね。確かに、ホコリとか、ところどころに落ち葉も浮いてますし」

「使わない時は、こうやって換気してるんだけどね……」

 そう言いながら、優奈は壁際のパネルに手を伸ばして、上部の小窓のレバーを回す。すると、静かなモーター音とともに天井近くの窓が少しずつ開いていく。


「おお……これ、けっこうしっかり開きますね。なるほど、換気できるのか……」

「でしょ? でも、それでも時間が経つと細かい埃が積もっちゃって」

「なら、今日はしっかり綺麗にして、綺麗な状態をキープできる方法もまとめておきます。──任せてください、こういうの好きなんで」

「ほんと?ありがとう……!でも、ひとりで大丈夫?」

「はい。……むしろこういう黙々とした作業、得意分野ですから」

 そう言って、俺は持ってきたバッグの中から、軍手と濡れても大丈夫な服を取り出す。


「ちょっと、ここで着替えてきますね。作業用モードに切り替えないと」

「……うん」

 優奈はふわりと微笑んで、近くのロッカーを指さす。「使っていいよ」との意味らしい。俺は軽く会釈して、更衣室の方へ足を運ぶ。

 ───着替えを終え、ラフなTシャツにハーフパンツ、そしてスポーツサンダルといういかにも“作業します!”な格好に変身。

 戻ると、優奈がすでに倉庫のような場所からホースと長柄のブラシを準備してくれていた。


「これ、よく使う掃除用具だよ。ホースはここの蛇口に繋いで、出力はこのバルブで調整できるの。水は、こっちの排水弁で少しずつ抜けるから──」

「なるほど、排水しながら底をこすって浮かせて、残った水で洗い流す感じですね」

「優希くん、なんかこういうの慣れてるよね。おうちでもやってるの?」

「はい。実家、意外と古い家で手入れが必要な場所が多いんです。庭とかベランダとか、掃除してるうちに詳しくなっちゃって。母の入れ知恵みたいなものですかね」

「……ふふ、頼もしいなあ」

 優奈のその声は、どこか嬉しそうだった。少しだけ、照れくさそうな、でも安心したような──そんな柔らかい響きが含まれていた。


「じゃあ、作業始めますね。まずは排水しながら汚れをチェックしていきます。優奈さん、もし手が空いてたら、ホースのほう、見てもらってもいいですか?」

「うん、任せて。私も手伝うよ」

 静かな屋内プールに、足音と水の流れる音が響く。

 優奈と二人で息を合わせて進めていく。優奈はホースの水圧を調整し、優希はブラシで底の方をゆっくりとこする。なんだか作業というより、ひとつの共同作業のような時間が流れていく。

 

 プール内の水も、かなり抜けてきた頃。

 ふと、廊下の方からパタパタと小さな足音が近づいてきた。

「お姉ちゃーん! お兄ちゃーん!」

 元気いっぱいの声とともに、悠真くんが駆け込んできて、その後ろからは少し遅れて梨花さんが姿を見せる。


「お疲れ様、優希くん。今さっきちょうど案件が片付いたから、様子見に来たのよ」

「あ、梨花さん。お疲れ様です」

 梨花さんは優雅な笑みを浮かべて軽く頷く。その横では、悠真くんが目をキラキラさせている。


「ねえねえ!プール掃除、ぼくも手伝いたいっ!」

「悠真が“お兄ちゃんと一緒に掃除したい!”って言い出してね。……邪魔にならない?」

「いえ、大丈夫ですよ。怪我しなければ、むしろ助かります」

 俺が微笑むと、悠真くんは「やったー!」と元気よく返事をしながら、ずかずかとプールの方へ入ってくる。

 けれど、そこは白雪家の息子らしく、濡れて滑りやすい床に気づくと、足元に注意しながら慎重な足取りに切り替えていた。転ばないようにそろりそろりと歩く様子に、つい口元が緩む。


「悠真くん、このブラシで白くなってるところを優しくこすってね。力を入れすぎると、逆に傷ついちゃうから」

「うん、わかったっ!」

 俺の説明に真剣に頷いた悠真くんは、少しだけ背伸びしてブラシを構える。小さな手で一生懸命にこすり始めた姿は、まるで小さな職人のようだった。

 一方、見守っていた梨花さんが、ふと優奈に目を向ける。


「優奈も、そろそろ参加したらどう?」

「……えっ? 私?」

「ホース担当は引き継ぐわ。力がいるって言うけど、あなたが思ってるほど、ママは非力じゃないのよ」

「そ、それは分かってるけど……でも」

「若いんだから、もっと体を動かしなさい。運動不足になるわよ」

「運動じゃないってば……もう、分かったよ」

 優奈は呆れたように言いつつも、どこか嬉しそうだった。


「じゃあ……ちょっと、着替えてくる」

「はいはい、行ってらっしゃい。可愛くしてくるのよー」

「しないから!」

 そう言いながら、優奈はロッカーの奥へと消えていった。その背中を見送りながら、俺はふと、少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。

 ──そして数分後。

 戻ってきた優奈の姿を見て、その理由が分かった。


「お待たせ──」

 そう言って現れた優奈は、さっきよりもぐっとラフな格好になっていた。

 白いスポーツ用のTシャツに、ボトムは膝上までのショートパンツ。濡れても平気なように髪は軽く束ねられていて、普段のきっちりした雰囲気とは少し違う、どこかリラックスした印象。

 視線を逸らすべきか、いや自然に見ていいのか──そんな一瞬の迷いが生まれてしまうほど、いつもよりちょっとだけ無防備な彼女に、言葉を失っていた。


「……どう?」

「あ、はい。すごく……いい、と思います。うん、作業しやすそうです」

 なんとか言葉を繋げたけど、我ながらちょっと反応がぎこちない。優奈は「ふふっ」と小さく笑ってから、足元のタオルを拾いながら俺の隣に腰を下ろした。


「じゃあ、私もここやってくね。悠真、あっち側お願いしてもいい?」

「うんっ!」

 そんなやり取りを横目に、俺は軽く咳払いして、ブラシを構え直した。

(……落ち着け。今は掃除だ)

 けれど、視界の端に映る彼女の横顔が、なんとなくいつもより近く感じられて──つまらない作業のはずなのに、胸の奥がほんの少しだけ、騒がしかった。


「プール掃除……中学生の頃を思い出すなぁ」

 優奈がブラシを動かしながらぽつりと漏らす。


「俺もです。俺たちが通ってる高校、水泳の授業ないらしいですし──もう二度と触ることないと思ってました」

「なんか、ちょっと懐かしいよね。ホースの水、先生が容赦なくぶっかけてきて、地味に嫌だったな」

「分かります。掃除なのに、どうしてわざわざ濡らす必要があるのかと……」

 そんな他愛もない会話を交わしながら、二人はプールの底に溜まった汚れを丁寧に落としていく。

 とはいえ、ここは白雪邸の屋内プール。冗談抜きで高級感が漂っているし、うっかり傷でもつけようものなら、謝って済むかも分からないレベルだ。

 注意深く、丁寧に──けれど、優奈と話しながらの作業は思ったよりも楽しくて、時間が過ぎるのが早く感じる。


(しかし、こんなプールが家にあるなんて……本当に、世界が違うな)

 真っ白な壁に反射する光。天井の大きな窓からは柔らかい日差しが入り、優奈の髪のハイライトを綺麗に照らしていた。

 裕福な家庭で育った彼女と、自分と──その差を、改めて思い知らされる。

 そんな中、不意に優奈が口を開いた。

「ここのプール、綺麗になったら……いつか、一緒に泳げたらいいなって……」

「……はい?」

 思わず手を止めて顔を向けると、優奈は目を逸らして、バツが悪そうに視線を泳がせていた。


「う、ううん! なんでもない、独り言!」

「……そうですか? なら……大丈夫ですけど」

 無理やりごまかしているのが丸わかりで、逆にこっちが気まずくなる。

(泳げたらって……それ、招待する気満々じゃないか?)

 もちろん、本気かどうかは分からない。けれど、その気があったとしても──それを信じて良いものか、未だに迷ってしまう。

 裕福な家に生まれた優奈と、庶民派どころか弟や妹の面倒を見て生きてきた俺。あまりに住む世界が違うのに、彼女はいつも自然に接してくる。

(……信じていいんだろうか)

 その“信頼”という言葉の重さが、少しだけ胸に残った。


「ねえねえお兄ちゃーん!」

 ふいに、悠真くんがこっちを振り向いて叫んだ。

「このプール綺麗になったら、お姉ちゃんとお兄ちゃんで、夜にふたりで泳ぐんでしょ!?」

「──っ!」

「──っっっ!!?」

 優奈と俺の動きが同時に止まる。

 空気が、一瞬で凍りついた。

「え、だってお姉ちゃん、昨日ママに言ってたよ? “夜に雰囲気のあるプールって、ロマンチックだよね”って」

「ゆ、悠真あああああっ!?!?」

 顔を真っ赤にして慌てて悠真の方へ詰め寄る優奈。

 けれど悠真くんは、何がまずかったのか分かっておらず、にこにこしている。

「だってそう言ってたもん。あと、“一緒に泳ぐって仲良しっぽくてドキドキする”って──」

「あああっ!もう!これ以上喋るなばかぁぁっ!!」

「……わぁっ!逃げろー!」

 バシャバシャと水音を立てて追いかける優奈と、あくまで無邪気な悠真くん。

 その光景があまりに平和で、つい肩の力が抜けた。

 ──けれど。

(……優奈さん、そんなこと考えてたんだ)

 まるで冗談のようで、冗談で済ませていいのか分からない言葉。それを真面目に受け取るには、まだ少し自信が足りない。けれど、その一言が確かに心に残ってしまったのも事実だった。


「よし、だいぶ綺麗になってきましたね」

 俺はスクイージーを滑らせながら、少し満足げに言った。

「そうだね。この後は?」

「この残ってる水を全部流します。ホースの水で汚れをまとめながら、排水溝へ持っていきますね」

「なるほど……分かった」

 プールの底には、まだ足首の少し下くらいまで水が残っている。

 完全に透明とは言えないが、掃除前とは見違えるほど綺麗になっていた。

 俺は手元のスクイージーを改めて握り直し、滑らせる角度を微調整する。

 ごしっ、ごしっ……と一定のリズムで水を押し流しながら、何とも言えない達成感が込み上げてくる。

 ふと隣を見れば、優奈も同じように動きながら、時折こちらに目をやっていた。

 珍しくラフな格好をしていて、白のTシャツに膝上丈のスウェットショーツ。動きやすさを重視した服装なんだろうが──それがかえって、彼女の身体のラインを自然に強調していた。

(……やば、目のやり場に困る…集中しろ)

 あくまで掃除。だけど、普段とのギャップが強すぎて、心の中がちょっとザワついているのは否定できなかった。

 ──そして、それは唐突に起こった。


「──あっ」

 わずかな水溜りの上で優奈の足が滑った。

 バランスを崩し、体がふわりと浮く。

 それを見た俺の体は、反射的に動いていた。


「危ないっ──!」

 肩を支えるよりも先に、自分の身体を差し出すようにして飛び込んでいた。

 ──ドンッ。

 音が反響し、空気が震える。

 硬い床と俺の背中がぶつかり、その上に軽い衝撃と、柔らかい重みがのしかかる。

 優奈が足を滑らせて前のめりになったその先───俺は優奈の下敷きになる形になった。


「うぅ……いたたた……」

 打ちつけた背中に、じんわりとした鈍い痛みが走る。けれど、その感覚は思った以上に早く、俺の意識の奥へと引っ込んでいった。

 代わりに、全神経を一瞬で占拠したのは───胸元に、柔らかく押し当たる感触だった。

「……っっ!?」

 いや、これ……マジか!?

 俺の上に、優奈が覆いかぶさるように倒れてきている。その体勢──それがどういうことを意味しているのかなんて、考えるまでもなかった。

 Tシャツ越しに伝わってくる、明らかに“それ”と分かるやわらかさ。

 濡れた布地が肌に張りついて、いつもよりずっと近い距離感。

 しかも、頬をうっすらと染めた彼女の顔が、すぐ目の前にあって──その目が、驚きと困惑の入り混じった色で揺れていた。

 やばいやばいやばい。

 これは────マジでやばい。

 脳が警鐘を鳴らしているのに、身体の方はまるで動いてくれない。

 ただでさえ無防備な姿の優奈が、今、完全に俺の上に乗っかってる。

 そんな状況で、俺の心拍数は限界突破していた。


(ちょ、待って……俺、何見て…………!?)

 理性が止めにかかる一方で、隠れていた思春期男子としての本能が暴走を始める。

 普段の俺なら、彼女を気遣ってすぐさま起き上がろうとするはずだった。

 けれど、今は──なぜか動けない。

 いや、動きたくない、なんて思ってしまった自分に、気づいてしまったのかもしれない。

 胸の鼓動が、いやでも耳に響く。

 それは優奈のものか、それとも俺のものか。もしかしたら、どっちもなのかもしれなかった。

 ……そして、その瞬間。

 ふと、彼女の顔が、ほんの少しだけこちらに傾いた。

 水滴のついた前髪が頬にかかり、濡れた睫毛が揺れた。

 その視線と、俺の視線が重なって──心臓が跳ね上がった。


(やばい、なんで────)

 思った。思ってしまった。

 信じられないくらい、可愛い。

 恥じらう姿が…あまりにも可愛くて…魅力的に見えてしまう。それは、クラスメイトとしてではなく、ただ1人の女の子のように見えて。

 冷たくて、誰にも心を許さないはずだった彼女が、今はこんなにも近くて、こんなにも無防備で──その全てが、ひたすらに眩しかった。

 俺の頭は真っ白だった。

 思考が追いつかない。呼吸も浅くなる。

 なのに、彼女の柔らかさや温度は、痛いほどリアルに伝わってくる。


(落ち着け……落ち着けって、俺……!)

 内心で何度も言い聞かせようとするけれど、現実はそれをあざ笑うかのように理性を吹き飛ばしていく。

 情けないけれど、今の俺はきっと──かなり動揺してる。

 誠実に振る舞いたいのに、目が逸らせない。触れてしまっていることを意識しすぎて、逆にどこも動かせない。

 そしてようやく、彼女も自分たちの体勢に気づいたらしい。

 ぱち、と瞬いた彼女の瞳に、焦りと羞恥の色が広がっていく。


「優希くん…!? ごめんっ!! 下敷きになってくれたなんて…!」

「えっ? ……い、いやその……怪我は……な、ないですか?」

 だめだ、落ち着け……! 落ち着け俺!

 何だこの、動きも喋りもガタガタのボロボロロボットみたいな受け答えは。完全に挙動不審だ。

「だ、大丈夫……。う、うぅっ……」

 優奈は目をそらして、顔を真っ赤に染めたまま小さく唸る。

 その表情がまた、余計にこっちの理性を削ってくる。

 視界の端では、梨花さんが微笑ましそうにこちらを見守り、悠真はというと……ぽかんとしたまま、謎の空気を吸い込んでいた。


「ご、ごめんなさい……俺としたことが……」

「……服、びしょ濡れになっちゃったんだけど?」

「そ、それは……弁解の余地ないです……」

 ──やらかした。

 完全に、やらかした。

 優奈に失礼なことをしてしまった、そう思って俯いた俺の前で……なぜか、彼女の口元がふっと緩む。

 笑ってる? いや──どこか、いたずらっぽく。

「ねぇ……庇ってくれた割には……私の服、濡れちゃったよ?」

「うっ……」

「ふふっ」

 軽く咳払いしたかと思うと、優奈はしゃがみこんで、俺の顔と視線を合わせる。


「女の子庇ってくれるなら、服濡らさないくらいしっかり守って欲しかったなぁ?」

「す、すみませ……ん?」

 苦笑いで返しながら、俺は内心軽くパニックだった。

 なんだこの空気は。じゃれ合いなのか、それとも小さな怒りなのか──それすらよく分からない。ただ一つだけ確実なのは、彼女の言葉の端々に、ほんの少しのイタズラ心のようなものが混ざっていた。


「───えいっ、くらえっ!」

 パシャッ!

「へっ? うおわっ!?」

 思考が追いつく前に、冷たい水が顔面に直撃した。

「な、何するんですかっ!」

「ふふっ、服濡らされたから、優希くんに仕返しっ!」

「はいっ!?俺は一応助けたつもりなんですけどっ!」

「ふーんだ!助けるつもりだったらもっと守って欲しかったもん!」

 理不尽すぎる。

 ……けど。

 目の前の優奈は、声を弾ませて笑っていた。

 あんなに恥じらった表情をしていた彼女が、今はこんなに無邪気に、笑っている。水しぶきをあげて、きらきらした目で俺を見てる。

 ──なんだこれ。可愛すぎるだろ。


「じゃあ……俺も仕返しですよ!!」

 負けじと手ですくった水をぶっかける。正義の逆襲、開戦である。


「──きゃっ!冷たいってばぁ!」

 優奈は小さく跳ねて、笑いながら後退った。その声には、驚きと楽しさと、あとほんの少しだけ甘ったるさが混じっていた。

「ちょっと!それはずるいっ!」

「これが正義の逆襲ってやつですよ」

「もぉっ、なによそれ〜!女の子には手加減しないとでしょ!」

「いやいや、手加減してくれなかったのはそっちです!」

 ふざけ合いながらも、心の奥があったかくなる。

 この距離、この温度、優奈の声。

 ……全部が、心地いい。

 濡れた服が肌に貼りついて、少し寒いはずなのに、不思議と胸の中はぽかぽかしていた。


「えーい!」

 もう一発、水しぶき。

 優奈の笑い声が響く。俺も、つられるように笑った。

 ──このままずっと、こうしていられたら。

 そんな風に、思ってしまう自分がいた。

 ──そして、そこに爆弾が、放り込まれた。

「お姉ちゃん!やっぱりお兄ちゃんのこと好きなんだよね!結婚すればいいじゃんっ!!」

「…………」

「…………」

 時が止まった。

 あまりに自然すぎるセリフに、俺も優奈も声を失う。結婚て────お互い顔を見合わせ、何も言えずにただ目で会話する。

 ──どうする?

 ──いや、やるしかないでしょ。

「……これ、やります?」

「……悠真、覚悟なさい」

 目の前の無邪気な弟に向けて、俺と優奈は静かに歩き出す。そして、見開く悠真の目を確認してから──

「悠真アタック、スタート!」

「ちょっと!空気読まない弟にはお仕置きよっ!」


 バシャッ! バシャバシャッ!!

「うわあっ!!ごめんなさーい!おわっ!!」

 容赦ない水の制裁。浅瀬に追い詰められた悠真は、必死に逃げようとバタついているが──姉である優奈は、俺に水をかけてきた時よりもさらに容赦なく水をかけまくっていて思わず笑ってしまった。


「ちょっ、優奈さん……! 悠真くん沈んでる!?」

「いいや、しばらく冷やした方がいいかなって思って」

「お姉ちゃんっ! 喰らええー!!」

「きゃあっ!もう!弟のくせに姉に仕返しだなんて!」

 無邪気な戦争のような水の飛び交う音に、笑い声が重なる。

 俺も笑ってた。優奈も笑ってた。悠真も、梨花さんも、みんな笑ってた。

 なんでもない夏の日。だけど──心に焼きつく、そんな時間だった。

 ──白雪優奈という女の子が、俺の世界でこんなにも特別な存在になっていることに、気づいてしまいそうだった。


「……優希くん、さっきは助けてくれてありがとう。その……変に考えなくて大丈夫…。その、あぁなっちゃったのは不可抗力だって、さすがに私も分かってるし……怒ってないから」

 水しぶき戦争がひとまず終戦すると、優奈は小さく息をついて、俺の方へ歩み寄ってきた。

 びしょ濡れの前髪をかき上げながら、少し照れたように、でもまっすぐにこちらを見る。

 その笑顔には、からかいも強がりもなかった。

 ただ、心からの優しさが滲んでいた。

 ──こんなにも、優奈の笑顔って可愛かったんだな。

 胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。

 さっきまでのふざけ合いとは違う、しんとした空気。でも、それが嫌じゃない。

「あの、そ、それなら良かったです……。でも、失礼なことしてしまいました……」

 自然と、言葉がこぼれる。どうしても気になっていた。あの時、無意識だったとはいえ、距離が、あまりにも近すぎたから。

「いやいや!気にしすぎだよ」

 優奈はふわっと笑って、言葉を重ねてくれる。

「むしろ、助けてくれなかったら、私きっと大怪我してたかもだし……わざわざ下敷きになってくれるなんて……嬉しかったよ」

 その声が、心に優しく染み渡っていく。

「……ほんとですか?」

「うん……。守ってくれて、本当にありがとう」

 その言葉に、息が止まりそうになる。

 優奈の瞳が、真っ直ぐで。あんなに距離を取っていた彼女が、今、こんなにも近くにいて。

「……は、はいっ」

 噛み締めるように返事をしたら、優奈はくすっと笑った。

「ふふっ、照れてる?」

「い、いえ!そんなつもりは……!」

 慌てて否定したけれど、顔が熱いのはどうしようもなかった。

「ふふっ、ごめん、ごめん。意地悪しちゃったかな?」

 そんなことを言いながら、いたずらっぽく微笑む優奈が、ほんの少しだけ前よりも柔らかく見えた。


「……優奈さん、全く」

 俺はそう呟くしかなかった。

 それ以上何か言葉にしたら、きっと気持ちが溢れてしまいそうで。


**


 ───可愛い。可愛すぎる。

 私の頭の中は、その感情でいっぱいだった。もう、なにあの照れ顔。破壊力えぐい。

 ただ「ありがとう」って言っただけなのに、耳まで真っ赤になって……反応、全部可愛すぎない?


(待って、好きすぎるんだけど……!!)

 こっちはお礼を言いたかっただけなのに、逆に撃ち抜かれてどうするの。

 なのに、胸の奥がじんわりあったかくなって、もうどうしようもない。


(……ほんと、ずるい)

 プールで転びかけたあの時。反射的に抱きとめられた瞬間はびっくりしたけど──それ以上に、ドキドキした。

 だって、咄嗟にあんな行動できるなんて、優希くん、かっこよすぎじゃない?それに、私が優希くんに覆いかぶさっちゃって…あんなの、少女漫画だったら最高のシチュだったもん。

 しかも、あんなに慌ててたくせに、ちゃんと庇ってくれて……そのあとめちゃくちゃテンパってるのも、可愛くて、もう……


(だめ、思い出しただけで顔熱い……)

 完璧に見えてた彼が、ちょっと不器用で、ちょっと焦ってて、でもすごく真剣で。

 私の身体が触れた時、思ってた以上にびっくりしてた。なんだかそういう“男の子”っぽいところ、今日初めて見たかもしれない。

 いたずらで水をかけたとき、冗談で返してくれたのも嬉しかった。

 あの瞬間──私たち、ちゃんと笑い合えてた。

 彼の隣で、素直に楽しいって思えた。私の気持ちが、またひとつ膨らんだ音がした。


(……もうほんと、好き)

 こんなに好きになっちゃって、どうしよう。

 今の私、きっと顔にも出てる。ばれないようにしなきゃ。ばれたら……ちょっとだけ、恥ずかしいかも。

 そんなことを考えていたら、優希くんがちらりとこっちを見てきた。慌てて、いつもの顔を作る。


「……その、優希くんも濡れちゃったよね。タオル、使って。……ほら、ここにあるから」

「あ、ありがとうございます……」

 彼は少し照れたように頭をかいて、私の差し出したタオルを受け取った。

 その仕草ひとつも、また可愛くて。

 もう好きが止まらない。


「……風邪、引かないでね」

「優奈さんこそ、ですよ。さっきめちゃくちゃ水かけられてましたし」

「ふふ、優希くんが先にやったのが悪いんだからね」

「いや、最初に水かけたのは優奈さんでは……」

「気のせい。うん、気のせいってことにしておこう?」

 ふたりのやりとりに、また自然と笑いがこぼれる。

 こんなふうに、笑い合える時間が、ずっと続けばいいのに。

(優希くんの隣、やっぱり心地いいな)

 そんな風に思ってしまうくらいには──私はもう、彼のことが、大好きになっていた。それは変わらない。

 タオル越しに濡れた髪を拭きながら、私は横目で優希くんを見つめていた。

 ほら、また困ったように笑ってる。その笑顔、ずるいってば……。


 ──好き。

 さっきから、頭の中ではその言葉しか浮かばない。

 胸の奥がきゅってなる。ドキドキが止まらない。息まで浅くなる。

(言いたい……)

 喉元まで出かかってるのに。言葉にしてしまいたくて、口が勝手に動きそうになる。

 だって、もう好きなんだよ。こんなに一緒にいて、心が温かくなるのに。笑ってくれるだけで嬉しくなるのに。これで好きじゃないなんて、嘘になっちゃう。

 でも──


「お姉ちゃーん、こっち来てよ!」

「悠真、着替えたのに水遊びしないの、洗濯物増えるでしょ?」

 プールの縁で水をぱしゃぱしゃさせてる悠真の声が、現実に引き戻す。

(……ダメだよ、今は。悠真がいる)

 子ども扱いされたくないのは分かってるけど、それでもやっぱり、目の前で告白とか、そういうのはさすがに気が引ける。

(それに……ひよりにも言われた。焦らないでって)

『今の関係、壊したくないなら、ゆっくりでいいんだよ』

 そう優しく諭された声が蘇る。あの子の言葉は、時々鋭すぎるくらい私の心を見透かしてくる。


(分かってるよ、ひより……分かってるけど、でも……)

 苦しい。言いたいのに、言えない。感情はもうとっくにあふれてるのに、それを蓋してる自分がいる。

 手のひらをぎゅっと握って、感情をなんとか抑え込む。そうしないと、本当に口に出してしまいそうで──

 けど、横を歩く彼の横顔が、あまりにも優しくて、真っ直ぐで。

 ──触れたくなる。声をかけたくなる。

 このまま、何も言わずに一日を終えるなんて……そんなの、耐えられない。

(……伝えたい。優希くん……私、あなたのこと、大好きなんだよ…………気づいてよ、お願いだから)

 心の中で叫ぶ声は、静かに沈んでいった。

 それは誰にも届かない、小さな波紋──だけど私の中では、世界を揺るがすほどの衝動だった。

 ───ここまで人を好きになるなんて、思ってなかった。

 幸せって、こんな感じだったんだ……懐かしい。胸があったかくなる感覚。

 もう、私──優希くんのこと、信じ始めてる。

 あんなに誰のことも信じられなかったのに。あの過去のことも……話してもいいかもって思えるくらいに。

 ──でも、まだだよ。

 ちゃんと段階を踏まなきゃ。

 もっと、優希くんに私を“意識”させなくちゃ。

 そうだよ、焦らないで、ちゃんと……恋人になる準備をしなきゃ。

 ……でもさ、やっぱり思う。

 優希くんって、すごい。

 私、人間不信だったはずなのに。なのに、優希くんなら、無理しないでも話せる。自然に、笑える。

 この気持ち、いつかちゃんと伝えたいな……。いつになるんだろう。

 嫌われるのが怖くて、怖くて……でも、どうしても彼のそばにいたい。それだけはごまかせない。

 ───どんどん、気持ちが暴走していく。


「明日の家事サポートの希望があれば是非お聞きしたいのですが」

「あ、明日もあるんだったよね。どうしよっかなぁ」

 やだもう、自分で分かるくらいニヤけてる……。

 明日も優希くんに会えるってだけでこんなに嬉しいなんて。

 ……私、ちょっと気持ち悪いかも。ふふ。


「まぁ、これは任意ですから。特になければ、次回までに教えてもらえれば大丈夫です」

「うん、分かった。ありがとね」

「いえ。……プール清掃、楽しかったです」

「……私も。結構、楽しかった」

 本当はね、“すっごく”楽しかったって言いたかった。

 でも、照れくさくて言えないの。

 この恥ずかしさも、きっと全部──恋のせい。

 明日も会える。それだけで、今日はずっと幸せ。

 

「じゃあ、また明日ね」

「……はい。───って、なんだか俺が帰る雰囲気になってますけど、まだ帰りませんよ?」

「……えっ?」


 その言葉に、頭の中が少し混乱する。

 だって、いつもならここでお別れの時間だったのに。

 仕事もひと段落したと思って、ああ、もう今日も終わっちゃうんだ……ってちょっと寂しくなってたのに。


(……え、帰らないの?)


 胸の奥がふわっと熱くなって、思わず心の中でガッツポーズを決めたくなる。

 嬉しい。素直に、それだけだった。


 振り返って柔らかく笑う優希くんの顔が、また反則みたいにかっこよくて、もう視線が外せない。

(……ほんと、かっこいい。完璧すぎるんだよ、あなた)


「だって、夕飯作ってませんから」

「夕飯───あっ、そういえば……」

「ご希望のメニューがあればお聞きしますよ。買い出しも一緒に行きましょうか?」

「なにそれ……その紛らわしいトリック」

 思わず呆れたように言いながらも、心の中はもうニッコニコ。

 まさかの続行に、気が緩んで、つい変な笑いが漏れた。


「……ふふっ」

「な、なんですか?」

「いや、だって……“明日の希望を~”とか言ってきたら、帰るって思うでしょ!どう考えても!」

「えっ?あ、あれは……あー……まぁ、確かに……」

 耳がほんのり赤くなる優希くん。

 その反応がまた、私のツボに刺さってくる。

「……もしかしてさ、わざと?」

「わ、わざとじゃないです!絶対に!」

「ふーん……ほんとに?」

「だからっ……!信じてくださいっ……!」

 慌てて否定してくる彼を見てると、なんだか心がすごくくすぐったい。

 優希くんって、ほんとに「完璧」だと思ってた。人付き合いも上手そうだし、勉強もできて、継続することが出来て、家事もできる。抜け目ない人だと思ってた。

 でも──こうしてちょっと焦ったり、照れたり、うろたえたりする顔を見せてくれると……なんか、すっごく嬉しくなる。


(……優希くんの「隙」を独占できてるみたいで、嬉しいのかも)

 完璧人間の完璧じゃない部分を、私だけが見てる──

 そんな特別感に、胸がきゅんと鳴る。


「……やっぱり私のこと弄んでるんじゃない?」

「ちがいますっ……それはさすがに失礼です……!」

「ふふっ、冗談だよ」

 からかい半分で笑うと、優希くんは肩の力を抜いて、ちょっとだけ困ったように笑った。

 ……その顔が、またすっごく好き。


「あはは……優奈さんには何もかないませんよ……」

「ふふっ、冗談だって言ってるじゃん」

「それはそうですが……その…」

「……ん?」

「どこ見ても可愛いからこそ……リアクションに困ると言いますか……」

「……っ…えっ……」

 無自覚な仕返しきた!?可愛い……それだけでこんなに動揺させてくる優希くん……。やっぱり手強い……

「あ!お姉ちゃん顔赤くなってる!」

「だ、だから悠真っ!これは気のせいだからっ!!」

 あぅ……また私が優希くんに立場逆転されちゃった。

 まぁでも、本当は嬉しいんだけど。

 だって、今は伝えられなくても、私にとって優希くんは片想いの相手。

 好きな人から「可愛い」って言われて、嬉しくなって恥ずかしくなるとか、幸せなのには変わりないんだから。


**


 夕飯の手配を俺は進めていく。

 先ほどの出来事が尾を引いているせいか、優奈のとる一つ一つの言動に、いちいち見とれてしまっている。

 ……いけない。今は“家事サポートの社員”として、ちゃんと職務を全うすべきなのに。

 それなのに、どうしても───あのプールでの火照った顔や、ふとした笑顔が脳裏を離れてくれない。

 視線が交わるたび、何かがざわついて、呼吸のリズムすら狂いそうになる。


「今日は、結局何作ることにした?」

 とことこと台所までやってきた優奈が、俺の手元を覗き込む。

 声は軽くても、その距離が近くなるたびに、どうしても意識してしまう。


「今日の夕飯は、梨花さんからのご要望で冷やし中華をメインにしてみようかと。薬味も全部揃っていたので、買い出しなしで済みそうです」

「冷やし中華……。えっ?もしかして麺も手打ちなの?」

「はい。市販の麺を使って冷やし中華を出すだけでは、せっかく家事サポートをご契約いただいた意味が薄れる気がして」

「いやいや……それは大袈裟というか……。てか、中華麺って手打ちできるんだ……」

「これも、俺の母からの入れ知恵ですね」

 戸棚から強力粉を取り出し、大きめのボウルにざらざらと流し込む。

 塩、水、重曹、それに卵──順に加えて、手際よく混ぜていく。

 作業しながらも、ふと優奈が尋ねてくる。

「優希くんのお母さんって、料理人さんなの?」

「職業的には料理人じゃないですけど、腕前は俺なんか全然敵わないレベルですね。実際、料理本を出してみたいって話してました」

「え、すご……。そのお母さんから色々教わったってことなんだね」

「はい。母は料理に対しては、ちょっとしたこだわりが強いので」

 その“ちょっとした”が、一般的な水準をだいぶ超えているのは間違いないけど──。

 俺は慣れた手つきで生地をこね始める。

 もう分量の計量はしていない。感覚でちょうどよくまとまる分量を覚えてしまっているからだ。

 母からも、「計量は洗い物増えるし、時間の無駄よ」と言われて育ってきた。


「それ、計量してる……?」

 隣で見ていた優奈が、ぽつりと問いかける。

「してないですよ。料理人の勘ってやつですね」

「勘なんだ……。大体わかるってこと?」

「料理をし続けてると、調味料の組み合わせとか、味の方向性とか、自然と頭に入ってくるんです。冷やし中華の生地も、もう何度も作ってますし」

「……すっご……」

 感心したようにぽつりと呟いたその声に、少しだけ照れくささがこみ上げる。

 完璧人間だって思われてるのは薄々気づいていたけれど、こんなささいな作業でそう言ってもらえるのは……不思議と嬉しい。


「優希くんって、なんか……ほんとに何でもできちゃうんだね」

 そう言った優奈は、冗談めかすでもなく、ただ真っ直ぐにそう言った。

 だからこそ、ドキッとした。

 ───俺は別に、何でもできるわけじゃない。

 むしろ、優奈の前では、たくさん戸惑ってばかりなのに。でも、そう言われると、きっと彼女に「頼られたい」と思ってしまう自分もいる。


「優希くんって、なんか……ほんとに何でもできちゃうんだね」


 その言葉は冗談めかしたものじゃなかった。ただ、まっすぐに見つめて、真面目にそう言ってくれた。

 だからこそ──ドキッとする。


 ……俺は、別に何でもできるわけじゃない。

 むしろ、優奈の前では、たくさん戸惑ってばかりなのに。

 けれど、そう言われると、彼女に「頼られたい」と思ってしまう自分も確かにいる。


「何でも、は大袈裟ですよ。世の中に完璧な人間なんて存在し得ませんから」

 照れ隠しにそう返すと、優奈は少しむくれたように眉を寄せた。

「そうかな?私から見れば、優希くんに弱点なんてなさそうに見えるけど」

「そんなことないですよ。家事サポートのバイトしてるのも、単に家事が得意だからってだけですし」

「それがすでにすごいって話なんだけどなぁ」

「───謙遜した方が、俺はいいと思ってるんです。自分はまだまだだって思ってた方が、もっと上を目指そうって思えるので」

 そう言った俺の言葉に、優奈は少しだけ間を置いて、小さく笑った。

「……その辺、私とは違うところだね」

「え?」

「私は、今の自分を守るので精一杯。失敗したくないし、笑われたくないし、だから完璧に見せようとして、空回りするタイプだから」

「……でも、それって真面目ってことじゃないですか。俺は、そういうの、ちゃんと見てるつもりです」

 不意に、優奈の瞳が揺れた気がした。

 言った自分も少しだけ恥ずかしくて、生地をこねる手に集中しようと視線を落とす。


「───あらあら。ちゃんと優奈のこと、見てくれてるのね」

 不意に聞こえてきたその声に、俺と優奈は同時にビクッと反応する。振り向けば、白雪梨花さんが、いつの間にかリビングの入り口に立っていた。


「り、梨花さん!?」

「ママっ!?いつからそこに……っ!」

 優奈があからさまに動揺している。さっきまでの落ち着いた空気が、一気に掻き乱された。


「いえいえ、どうぞ続けて? 初々しいやり取りをもっと聞きたかっただけだから」

「ちょっ、ちょっとママ!変なふうに言わないでよっ……!!」

 優奈の耳まで真っ赤になっていて、言葉の端々に余裕が消えていく。

 俺も俺で、顔から火が出そうなのをなんとか押し殺しながら、生地をこねる手を止めることができない。


「ふふっ。あら、ごめんなさいね、ごゆるりと〜。優希くんも、優奈のことをよろしくね?」

「い、いえ……俺の方こそ……っ」

 茶化す梨花さんと、それに翻弄される優奈。

 でもそのやり取りが、どこかあたたかくて──

 この家の空気に、少しずつ自分が馴染んでいっているような気がして、心の奥がふっと軽くなった。


 あれから少しして、俺はふとした違和感に気づいた。

 ───あれ?製麺機がない。

 いつも家で中華麺を作るときは、母が使っている電動製麺機に頼っていた。それを当然のように使うつもりで生地をこね始めてしまっていた。


 ……まずい、これは完全に想定外だった。

 このままじゃ包丁で切ることになる。もちろん、それでも不可能じゃないけど──あの作業、地味に大変なんだよな。均一に切るの難しいし。


 ここは、一か八か。


「優奈さん、この家って……製麺機って置いてあったりしますか?」

「せいめんき?」

 小首をかしげる優奈に、俺は言葉を補った。


「製造の“製”に、麺の“麺”で“製麺機”です。こねた生地を簡単に細く切ってくれる機械のことなんですけど」

「あー……聞いたことあるかも。でもちょっとわかんないから、ママに聞いてきていい?」

「はい、お願いします」


 そう言って優奈は、ひらりと台所を抜けて行った。

 小走り気味に階段の方へ向かうその背中は、なぜかさっきより軽やかに見えた。

 その間に、俺は冷蔵庫から薬味類──きゅうり、ハム、錦糸卵、ミニトマトなどを取り出し、包丁を動かしていく。冷やし中華の“顔”になる部分だから、ここは丁寧に。


 数分後、戻ってきた優奈は、ぱっと見てわかるくらい嬉しそうな顔をしていた。

 ──これは勝ったな。


「製麺機、あったって! 一番左の棚の奥に入ってるって、ママが言ってた」

「本当ですか、ありがとうございます。助かりました」


 教えられた通りの棚を開けてみると、奥から出てきたのは見覚えのある手動式の製麺機。

 ……まさに俺が実家で初めて麺作りをしたときに使っていた型と、ほとんど同じだ。


「このタイプ、懐かしいな……。最初、母にこれでパスタ作らされたんですよ」

「へぇ、そんな頃からやってたんだ」

「まぁ……そのときは完全に戦力外でしたけどね」

「ふふっ、今はもう立派な戦力だよ」


 優奈の素直な言葉に、ちょっとだけ照れる。

 でも、そんな空気も、ここではなんとなく心地いい。


 生地を分割し、薄くのばしたあと、製麺機にかけていく。ハンドルを回すたび、細く美しい中華麺がにゅるにゅると出てくる。


「わぁ……本当に麺になってる」

 目を輝かせながら見つめる優奈が、ちょっとだけ子供みたいで可愛かった。


 すべての麺を仕上げ、茹で上げ、冷水で締める頃には薬味の準備も完了していた。

 器に盛りつけ、タレをかければ──


「よし、完成です」

「うわ、彩りすごい……カフェのごはんみたい」

「今日はちょっと気合入れましたから」


 そこへ、ダダダッと小さな足音が近づいてくる。

 顔を出したのは──白雪悠真くん。優奈の弟だ。


「わぁーっ、冷やし中華だっ!わーい、今日はごちそうだ〜!」

 元気いっぱいの声で走り寄ってきた悠真は、俺の隣にぴたりとついて目を丸くしていた。


「ねぇねぇ、これ、優希兄ちゃんが作ったの?」

「うん、そうだよ。手作りの手打ち麺なんだって」

「へぇー!ねえねえ、お姉ちゃんはいつ優希兄ちゃんと結婚するの?」

「…………は?」

 一瞬、時が止まった。

 優奈が固まり、俺も手に持っていたトングをうっかり落としそうになる。


「えっ、だって!この前ママが『優希くんみたいな子と結婚できたら安心ね〜』って言ってたじゃん!」

「ちょ、ちょっと悠真!なんでそれ覚えてるの!?忘れてていいやつでしょ!?」

「えー?だって本当のことじゃん?ねぇお兄ちゃん、お姉ちゃんと結婚しないの?」

「ゆ、悠真くん……。それは、その……」

 完全にペースを崩された俺は、なんとか冷静を装いつつ返答に困っていた。

 その隣で優奈は、耳まで真っ赤になりながら視線を泳がせている。

「もう……悠真、ほんと、そういうのやめてってばぁ……っ」

 顔を隠すようにしてうつむく優奈。

 でもその後ろ姿は、なんとなくいつもより柔らかくて──。

 俺の心に、小さな温度が灯る。

 ……こんな風に誰かと食卓を囲んで、笑って、照れて、心があったかくなる。

 そんな時間が、すごく幸せに感じられた。

「悠真くん、結婚はね、ただ“好き”なだけじゃできないんだよ」

「優希くん!?」

「えっ?そうなのー?」

「そう。結婚って、すぐにポンってできるものじゃないんだ。難しいし、ちゃんと考えてしなきゃいけない」

 ──しまった。

 今の言い方、優奈に対して気持ちがあるように聞こえたかもしれない。

 横目で見ると、彼女は驚いたように瞬きをして、でも何も言わず耳だけ少し赤いままだった。

 けど、誤魔化すよりは、ちゃんと伝えるべきだろう。

 悠真が“結婚”を軽くとらえてるわけじゃないのはわかる。だからこそ、正直に答えたかった。


「じゃあ、どうなったら結婚できるの?」

「うん……結婚するには、“好き”って気持ちだけじゃなくて、“愛”が必要なんだよ」

「“愛”? 好きとは違うの?」

「違うよ。じゃあ悠真くん、好きってどんな気持ちだと思う?」

「えーっと……楽しい!とか、一緒にいるとわくわくするとか!」

「うん、合ってる。じゃあ、“愛してる”って言葉はどう違うか、わかるかな」

「うーん……ぜんぜんわかんないや」

 優奈も黙って俺の方を見ている。

 俺は一度、言葉を整理してから話し始めた。


「“好き”っていう気持ちはね、今日好きでも、明日はわからないくらい、変わりやすいものなんだ。気分とか、状況で、揺れたり冷めたりすることもある」

「ふーん……」

「でも、“愛してる”っていう気持ちは、変わらない。“好き”よりずっと深くて、相手のことを大事に思って、傷つけたくないって心から思えるものなんだ」

「じゃあ、家族は一緒にいるけど違うの?」

「うん、それもある意味では愛だね。でもちょっと種類が違う」

「ちがうの?」

 俺は少し笑って、例えを出した。


「たとえば、悠真くんがお姉さんのことを好きだって言うのは簡単でしょ?」

「うん!優奈姉ちゃん大好き!」

「うん、そういうのが家族の愛なんだよ。優奈さんは悠真くんに優しいし、悠真くんもそれを分かってて甘えてる。それが家族の“愛”なんだよ」

 悠真はふんふんと頷きながら聞いている。

 優奈は、少し驚いたような顔をしていた。


「でも、“恋愛の愛”は違う。相手をただ好きって思うだけじゃなくて、自分のことより相手の幸せを考えて、何年経ってもそばにいたいと思えること。それが“愛してる”って気持ちなんだ」

「そっか……じゃあ、恋の好きって、簡単に言っちゃダメなんだ?」

「うん。言われた方は嬉しくなるし、真剣に受け止めるから。その分、責任もある。だから……ちゃんと、大切に思える人にだけ言うものなんだよ」

「なるほど……じゃあ、ぼくは優奈姉ちゃんには“家族の好き”、優希にいにはお兄ちゃんの好きだね!」

「ありがとう、悠真くん」

 まぁ、その言い回しだと俺の事が家族かのように見ている聞こえになるが、そこは気にしないでおこう。

 とことこキッチンに戻っていく悠真の後ろ姿を見送りながら、ふと隣を振り返ると、優奈がぽかんとした顔で俺を見ていた。


「……なんか、すごい講義だったね」

「ごめんなさい、ちょっと熱く語りすぎました」

「ううん……なんか、ちゃんと、まっすぐで、すごく優希くんらしかった」

 そう言って笑った優奈の表情は、どこか誇らしげで、ちょっとだけ照れていた。

 ……こんなふうに、ちゃんと向き合って言葉にすれば、伝わるものもあるんだな。そう思えたひとときだった。


**


 そっか、軽はずみに言ってはいけないって──その通り。

 私は、食卓に並べられた冷やし中華を頬張りながら、ぼんやりと考えていた。

 キュウリ、ハム、錦糸卵、トマトに手打ち中華麺。盛りつけまできちんと綺麗で、まるでお店みたい。優希くんが作った冷やし中華は、ひんやり冷たくて、夏の暑さを忘れさせてくれる。

 でも、それでも私の頭の中は、冷めるどころかじわじわと熱を帯びていた。

 ──さっきの優希くんの言葉。


『“恋愛の愛”は違う。相手をただ好きって思うだけじゃなくて、自分のことより相手の幸せを考えて、何年経ってもそばにいたいと思えること』

 ────それが、「愛してる」という気持ち。

 単に好きとは違う。変わらず、ずっと、そばにいたいと思えること。それを聞いた瞬間、胸の奥が、きゅうってなった。

 

『焦らなくていい。優奈は、ちゃんと時間をかけたほうがいい』

 ひよりが言ってくれたあの言葉を思い出す。私が少し早とちりで優希くんへ距離を近寄せまいと思った時に止められた言葉でもある。

 あのとき、私はよくわからなかった。

 早く伝えたかったし、伝えれば何かが変わるって信じてた。

 でも、今はわかる。

 ひよりは、私が“言葉”だけでどうにかしようとしてたこと、ちゃんと見抜いてたんだ。

 私は浮かれてた。優しくしてもらえて、一緒に過ごせて、だからそれだけで『好き』って言えば全部が繋がるって、そう思い込んでた。

 ───でも、違う。

 『好き』って、言ったら戻れない。

 『好き』って、受け取った相手がどう思うかまで、ちゃんと考えなきゃいけない。

 それは、たぶん──私が想像している倍は怖いくらいに、本気で向き合うってことだから。

 ちらりと、向かい側を見る。

 優希くんは、いつものように穏やかで、悠真の話を聞きながら笑ってる。

 けど──あんなにしっかり“好き”と“愛”の違いを分かってる人が、私の気持ちに気づいてないわけがない。そんな気がしている。

 きっと優希くんも、何かを感じてる。

 でも、それでも好きって言葉を絶対に口にしない。

 ──きっと、言わないんじゃなくて、言えないんだ。

 その言葉に、意味と責任を感じてるから。

 それなのに私は、何も考えずに言おうとしてた。

 それって、自分の気持ちをぶつけたいだけで、相手のことをちゃんと見てなかったんだって思う。


 ──ごめんね、優希くん。私、失礼なことをしようとした。

 ───けど、その事に気づかせてくれてありがとう。

 私も、ちゃんと、大事にしたいと思った。

 この気持ちがもし、本物なら。

 好きよりも、もっと強くて、揺るがないものなら。

 言葉にするそのときまで、ちゃんと育てたい。

 焦らずに、ちゃんと、自分の心で選べるように。

 私も、優希くんみたいに──誰かの幸せを、本気で願えるようになりたいから。

 

「優奈さん、味の方はいかがですか?」

「すっごく美味しいよ、お店の味みたい」

「本当ですか?それならすごく嬉しいです」

 さり気ない会話だけどとても安心できる。こんな時間、もっと大切にしたい。

 そう、心の中で呟いた。


  あれから少しすると、優希くんは仕事を終えて帰っていった。

 見送りはもちろんした。

 けど、寂しさとは違う、不思議な感情が胸の奥に残っていた。

 何かが自分の中で変わった気がして、それを確かめたくて、私はひよりに電話をかけた。


「もしもし」

『もしもーし。優奈から電話ってことは、優希くんとの関係に何か進展あった?』

「進展……。まぁ、そうかな」

『おー、聞かせて聞かせて!』

「えっとね───」

 私は今日の出来事をなるべく丁寧に、隠すことのないように話した。

 家のプール掃除を頼んだこと。私と悠真も参加したこと。でも、途中で私が足を滑らせて、優希くんに倒れ込んでしまったこと。

 そして、あの体勢──完全に私が彼に覆いかぶさる形になってしまって、もう顔なんて、真っ赤だった。

 さらにその後、優希くんが悠真にしていた“愛の授業”の話まで。どれもこれも、胸に残って離れなかった出来事だ。


「……今日の出来事はこんな感じ」

『へぇ〜。その“愛の説明”って、優希くん自身の言葉でってことだよね?』

「うん、自分の考えとして話してた」

『優希くんって、多分恋愛経験ないよね?』

「ないと思う。琴音ちゃんが聞いてたけど、経験はないって言ってた」

『マジかぁ……』

 ひよりの声色が少し変わる。驚きと、少しの感嘆が混じったような。

『恋愛経験ないのに、そんなに整理して“好き”とか“愛”の意味を話せるってすごいなぁ。私、初めて付き合ったときなんて、そんな深く考えたことなかったし。しかも、言い回しとか伝え方もうまいし……正直びっくり』

「そうだよね。私も聞いてて納得しちゃったもん……。悠真に対して、“好き”の種類を分けて説明してたんだ」

『どんなふうに?』

「悠真が“お姉ちゃんのこと好きだよ”って言うのは、家族としてだから簡単。でも、恋愛の“好き”っていうのは簡単に言っちゃいけない。本当に大切にしていきたいって覚悟があって、はじめて言うべき──って」

『……あー、それ、めっちゃわかる。ていうか、それ言われたら私泣いちゃうかもしれない』


 思わず二人で笑ってしまう。けど、心の奥ではちゃんと響いている。

「それでね、ひよりが言ってた意味、今日ちょっとわかった気がした」

『え? 私が何か言ったっけ?』

「“焦って告白しなくていい。ゆっくりでいい”って言葉。あれって、ただのペースの話じゃなくて、“軽々しく好きって言うな”ってことだったんだなって」

『……ちょ、優奈、真面目に受け取りすぎじゃん。そんな深い意味で言ったかは怪しいけど……でも……』

 一拍、間を置いて。

『……えらい。ちゃんと気づけてるの、ほんとすごいと思う』

「ありがとう」

『でもね、それがわかったなら、もう優奈は大丈夫だよ。きっと、今自分がどうするべきか、自分で選べると思う。無理に急ぐ必要はない。焦らず、大事にしていけばいいんだよ』

「……うん」

『それでも、もし行き詰まったら。遠慮せずに言って。私はずっと、優奈の味方だから』


 その言葉に、胸がふっとあたたかくなった。

「……ありがとう。ひよりがいてくれて、よかった」

『もー、なにそれ。泣かせるなー!』

 ふざけたような言葉の奥に、ちゃんと真心が詰まっているのがわかる。

 この気持ちを、ちゃんと抱えて。私は、ゆっくりでも前に進んでいきたい。

 電話を切ってから、私は今日の思い出を反芻する。

 あの時の顔、照れた顔、隙を見せた瞬間。

 すべてが愛おしく感じた。

 優希くんも、私の事意識してくれたのかな……なんて、妄想にふけっちゃう。

 まぁ、今回は事故だったけど。

 けど、あんなことが今後もあったらいいなって思っちゃった。

 あの時の状況が脳裏にフラッシュバックすると、私は恥ずかしくて枕で顔を覆って1人で悶えていた。

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