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【第一話】北欧系美少女の噂

「はぁ……入学式初日から公開処刑は勘弁してほしいよな」

 俺──篠宮優希(しのみや ゆうき)は、心の中でそんな風にぼやいた。

 春の陽ざしが差し込む、まだ不慣れな通学路を歩きながら、これから始まる高校生活がどうか平穏であってくれと、ただそれだけを願っていた。

 ──と言っても、特に何かトラブルを抱えているわけじゃない。

 むしろ逆で、スタート地点としては完璧すぎるくらいだ。

 ただ、それが俺にとっては“やりにくい”。

 というのも、俺はこの蒼凌学園に、一般入試で首席合格した。

 そのせいで入学式では、新入生代表としてスピーチを任される羽目に。

「この学園で出会った仲間たちと共に勉学に励み、協力し、確固たる絆を育めるよう努力して参ります──」

 ……あれはもう、台本を読んだだけ。別にあの場で言いたいことがあったわけでもないし、正直なところ、人前で喋るのはあまり得意じゃない。

 妹の美春からは「お兄めっちゃ棒読みじゃん」と笑われてしまった。


 そもそもこの学園を選んだのだって、担任の先生に「君ならここを狙える」って言われたから、なんとなく。

 当時はそれほど深く考えてなかったし、行けるならどこでも良かった。

 そんなテンションで受けた結果、なぜかトップ合格──って、我ながらちょっと運が良すぎたのかもしれない。

「全く……人前は無理ですって、あの時ちゃんと断ればよかったな」

 そんな後悔を胸に抱えつつ、正門をくぐる。


 ──ここ、蒼凌学園。

 俺が通うことになったのは、全国でも屈指の進学校であり、私立の名門校。

 都内有数の財団が運営していて、教育環境は超一流。講師陣は大学の元教授や専門家ばかりで、進学実績も全国トップクラス。

 その上、敷地内には噴水、温室、茶室まである。校内の風景だけでちょっとした観光名所だ。

 制服もその一環なのか、生地からして高級感があるし、仕立てもやけに丁寧だ。

 ネクタイの締め方ひとつにすら慣れが要るくらい、品を求められてる気がする。


 今日は入学式の翌日。

 提出物の確認や、クラス内オリエンテーションがあるだけで、まだ授業は始まらない。

 でも、俺が一番警戒していたのは──そう、『自己紹介』。

 ……第2の公開処刑が待ってるかもしれないと思うと、朝から気が重い。

「……とにかく、何もないことを祈ろう」

 そんな風にため息まじりでつぶやきながら、教室のドアを開け、指定された席に腰を下ろした。

 ──教室に入って、真っ先に思ったのは。

 

「……席、どこだったっけ?」

 昨日の入学式のあと、クラス発表と座席表は確認したはずなのに、何列目だったかすっかり忘れていた。

 俺は教室の後ろに貼られた座席表を見に向かおうとした、まさにその時──


「おーい、そこのイケメン。篠宮優希くんでしたっけ?」

 やけに軽い声が背後から飛んできた。振り返ると、黒髪をラフに流した男子が、椅子に腰かけながら片手をひらひらと振っていた。どことなく人懐っこい笑み。なんとなく話しかけ慣れてる雰囲気がある。


「……誰?」

「俺か?俺は黒川蓮(くろかわ れん)、よろしく。あー、隣の席なんだ、君」

「あ、マジで?そっか。よろしく」

 黒川はどこか気楽そうな雰囲気のやつで、俺の“人との距離感”みたいな壁も、あっさり飛び越えてきた。


「いや〜さ、俺、お前のスピーチエグくて話しかけたかったんよ!あのスピーチはやはり品格があったぜ」

「……あぁ…。あれは、勝手に決められただけ。こっちは人前苦手なんだって」

「でもさ、堂々としてたよ?いや〜、これはちょっと学年イチの優等生って感じ?」

「勘弁してくれ。まだ名前も覚えられてないのに、勝手にキャラつけられるのキツいって」

 黒川はお構いなしに笑っていた。どうやらこういう軽口がデフォルトらしい。

 ──でも不思議と、嫌な感じはしなかった。

 俺が人に対して警戒心を強く持つタイプじゃないけど、だからって初対面からガツガツ来られるのは苦手だ。

 けど、黒川蓮はそのラインをギリギリ越えない。妙にバランスのいいヤツだった。

 本人曰く勉強は得意ではないとのことらしく、困った時に教えてくれるかもと思って話しかけたと後から付け足してきた。

 まぁ、この全国でも屈指の名門校に入ってくるなら勉強ができないというのは間違いな気もるが。


「てかさ、蒼凌学園って、制服の質すげーよな。これ絶対、高いだろ」

「うん。あと、校舎が無駄に豪華。噴水あったし」

「マジで?やば、あれ観賞用だったの?水飲めるかと思って試しそうになったんだけど」

「やめとけ。警備員に怒られるやつ」

 他愛もない会話をしながら、なんとなく──でも確かに、俺の中に「高校生活、思ってたより悪くないかも」なんて考えが浮かび始めていた。

 

 数分経った。一息つくために、持ってきていた提出物を揃えておこうとリュックに手をかけようとする。周りにも生徒が増えてきて、中学時代の友人同士が集まったり、いくつか連絡先を交換したのか親しそうにしている女子たちもいる。

 しかし、その中。教室の一角に集まる男子のグループが妙に気に障った。

「……ん?」

 ふと顔を上げると、前の方の席の周りに男子が数人、集まってなにやら盛り上がっている。


「なんか、騒がしくないか?」

「あー。多分…あの事だよ」

「ん?なんだそれ」

 黒川はニヤつきながら、顎でその集団を指す。


「ほら、昨日の入学式でちょっとだけ噂になってたろ。『えぐいレベルの美少女がいた』ってやつ」

「……は?」

「見たやつによると、北欧系っぽい銀髪……いや白髪? まぁそんな髪色の女の子がいてさ。顔は日本人っぽかったらしいけど、雰囲気が明らかに浮いてたって」

「マジで?全然知らなかった」

「まぁな、あの場にいたやつ全員が見たわけじゃないっぽいし。なんか女子のまとまりに紛れてたらしくて、男子組の中でも確認できたのは数人だけだったとか」

「だから話が断片的なのか……」

 男子たちの話し声は篭っていて詳しく聞こえなかった。しかし、数人の男子がこえをあらげているようすだったさ。そしてこんな声が漏れてきた。


「なんで写真撮らなかったんだよ、お前!」

「いや無理だって!あの空気でスマホ出したら死ぬだろ」

「せめて顔ハッキリ見とけよ……マジでどこ行ったんだ、あの子」

 ──完全に噂先行。実体はまるで掴めていない。

 でもそれが逆に、話題としての火力を増しているようだった。


「まだ見てないのか?」

「うん、少なくとも今のところは。でも噂によれば、このクラスって話もある。だからみんなちょっとずつソワソワしてるわけ」

 黒川の言う通り、周囲の視線はチラチラと教室の入り口や空席のあたりを気にしていた。

 なんというか──異様な期待感が教室内を満たしている。


「……それにしても、そんな目立つ子が混じってたら、普通もっと話題になるんじゃないか?」

「入学式のあれ、覚えてる? 生徒の名前呼ばれて返事するイベントなかっただろ? 人数多すぎて省略されてたやん」

「……あー、なるほど」

「だからな、名前すら分かってない。見たやつの証言だけが頼りの都市伝説状態なわけだ」

 まるで都市伝説の美少女──それが、今この教室に噂として流れている存在の正体だった。

 ──にしても、北欧系ってなんだ。

 銀髪? 白髪? 顔は日本人……? いやそれ、もはや想像の産物じゃないか?

 とはいえ、気になってしまう自分がいる。

 どこかで「本当にいたらどうしよう」なんて、くだらないことを思っていた。


**


 生徒たちが、少しずつ自分の席へと戻り始めていた。

 今はちょうど、朝のショートホームルームが始まる5分前頃。

 とはいえ、数名──いや、半数近くはまだ落ち着かず、教室のあちこちで雑談が続いている。静かになりきらないその様子に、どこか“自由”と“幼さ”の混じった空気を感じた。


「まだ来ないよな……」

「やっぱりあんじゃね?ほら、あれまだリュックないぞ!あの席は…白雪優奈(しらゆき ゆうな)?かな?」

「ありそうじゃね!?ほら、白い雪とか結構北欧の名残だろ!」

 例の──噂の美少女の話題は、まだ冷めていなかった。

 誰かが座席表と未使用の席を見比べて、名前を推測している。

 そんな様子を見ながら、俺は心の中で「暇なヤツなんだろうな」と苦笑した。

 正直、噂は噂でしかないと思っていた。入学式当日は全体で名前を呼ばれるような場もなかったし、生徒の数も多く、見落としやすい。女子のまとまりに紛れていた可能性もあるなら、見間違いって線も十分ある。


 ──そう思っていた矢先だった。

 ガタッ。

 教室のドアが開いた。

 一瞬で空気が変わった。

 まるで目に見えないフィルターでも張られたかのように、雑談の声がすぅっと消えていく。

 全員の視線が、一斉にドアの方へと引き寄せられた。

 そこに立っていたのは──まさに“噂そのもの”だった。

 淡く白銀に染まった髪が、春の朝日にきらめく。肩口でゆるく揺れるその毛先は、ひと目で普通じゃないと分かるほどに繊細だった。

 瞳は深く澄んだ青。まるで氷を思わせるような、鋭くも透明な光を宿している。

 肌は陶器のように滑らかで白く、無駄のない輪郭と整った目鼻立ちは、どこを切り取っても“完璧”としか形容できなかった。

 服装は、特別飾っているわけじゃない。

 蒼凌学園の制服を規定通りに着こなしているだけ。けれど、その姿はまるで──舞台の中心に立つべくして選ばれたヒロインのようだった。


 ──白雪優奈。

 噂は、本当だった。

 いや、噂どころか、それ以上だ。

 教室中が息を呑む中、彼女は何の感情も見せないまま、静かに歩みを進めた。


 そして、次の瞬間──

「ちょ、今いけ!」と周りの男子に茶化されたのか、男子のひとりが立ち上がった。

 通称“勇者”。名前は知らない。けれど、今ここで彼女に話しかけるという勇気は、ある意味賞賛に値する。


「よう!白雪さんって言うんだよね?好きな映画とかある?今度、よかったら一緒に──」

「……ごめん、興味ない」

 ──即答だった。

 彼女はその青い瞳を一切揺らさず、まるでそこに“人”がいないかのように、完璧に切り捨てた。

 しかし“勇者”は折れない。

 しばし沈黙したあと、やや引きつった笑みを浮かべながら、もう一歩前に出る。


「そ、そっか。じゃあさ、カラオケとかは───」

 その瞬間だった。

「ごめん、私が言い方をややこしくしちゃったみたいね」

 白雪優奈の表情が、ほんの少しだけ変わった。微笑……ともとれる、けれどその実、氷のような冷たさを孕んでいる瞳だった。


「興味ないのは映画じゃなくて───貴方自身よ」

「えっ」

 ──教室が、凍りついた。

「……え、まじ……?」

「うわ……」

 “勇者”は、その場で完全に沈黙した。表情が固まったまま、目だけが虚空を彷徨っている。

 優奈はその様子に一瞥もくれず、淡々と自分の席へと向かっていった。

 椅子を引く音が、やけに教室に響いた気がする。

 彼女はただ、机に鞄を置き、椅子に座り、無言で前を向いた。

 その横顔は美しい──けれど、どこか“孤高”という言葉がよく似合っていた。

 ……あの目は、人を信じることをとうに諦めたような、そんな色をしていた。


(あちゃー……お気の毒に)

 横目でそのやり取りを眺めながら、内心そう呟いた。

 どうやら噂の美少女とやらは、この「白雪優奈」という子で間違いなさそうだ。

 席順も、リュックのない場所も一致しているし、何よりその存在感。人違いなんてあり得ない。


 しかし、あの男子については───。あの張りつめた空気の中で、ほぼ全員の注目を集める状況でアタックを仕掛けるなんて──勇気というより、もはや無謀に近い。

 俺には到底真似できない芸当だった。

 というか、やろうとも思わない。あの切り返しを喰らう自分の姿を想像するだけで、胃が痛くなりそうだ。


 けれど、興味深いのはそこじゃない。

 白雪優奈は、女子から話しかけられた時──たとえば席の近くにいた子が「よろしくね」と笑いかけた時には、ほんのわずかだけど、確かに表情が和らいでいた。声色も柔らかくなっていた。


 それは──人が変わった、という表現が誇張じゃないくらいに。

 なるほど、女子には普通に接する。でも男子には容赦なく牙を剥く。

 まるで、線引きがはっきりしているような印象を受けた。


「美しい薔薇には刺がある、ってか……」

 小さく呟いてみる。

 けれど、今目の前にいる彼女は、それよりももっと冷たい何かを纏っていた。

 単なる「刺」じゃない。

 “拒絶”に近い、明確な意思。

 それが、ただの美少女としての印象を越えて、異質なものとして胸に引っかかった。


「──どうした、見惚れてたか?」

「いや、見惚れるっていうか……冷たいっていうより、切り離してるように見えたんだよな」

 隣から声をかけてきたのは、もちろん蓮だった。

 俺の表情から何かを察したのか、ニヤニヤしながら肘でつついてくる。


「切り離してる、ね。確かに言い得て妙かもな。人を見てすぐ線を引くタイプ……っつーか、そもそも誰にも興味ねぇのかも」

「でも女子には普通に話してたぞ?」

「うん、まぁそれも……多分“マシ”ってだけじゃね?」

 蓮は、ぼそりとそう呟いて視線を前に戻す。

 俺もつられて教壇の方を見ると、ちょうど担任が教室に入ってくるところだった。

「──はい、じゃあ席つけー。ホームルーム始めるぞー」

 担任の到着と同時に、生徒たちはようやく静かに座り始めた。

 “勇者”だった男子は未だにどこか上の空で、席に戻る足取りがぎこちない。

 教室は一気に日常モードへと戻っていく。

 けれど、ついさっきまでのざわめきと緊張感の残滓は、教室の隅々にまで静かに染み込んでいた。

 ──そして、その中心にいるのが、白雪優奈だった。

 教科連絡が伝えられ、連絡事項が読み上げられていく中でも、彼女の存在は異様なほど目を引く。

 前を向いたまま、まったく動かない。ペンも持たず、ただ静かに話を聞いている姿が、なぜか妙に目に焼きついた。

 この数分で、彼女はクラスの“特別”になった。

 それは良くも悪くも──孤独という名の冠だった。

 そんなことを考えていた時、担任が「じゃあホームルームは以上」と締めくくりの言葉を口にした。

 机の間を走る空気が、ふっと緩む。

 それと同時に、再び教室が日常へと引き戻されていく音が聞こえ始めていた。


**


 朝のショートホームルームが終わり、数分の休み時間が終わると、そのままクラスオリエンテーションという授業へと移行していく。

 担任の先生が教卓に立ち、教室を一望すると、さっそく口を開いた。


「はい、ここからはクラスオリエンテーションってことで、まずは自己紹介をして顔合わせから。その後に提出物の回収や学校施設の紹介をしていきます」

 その言葉を聞いた瞬間、俺は一気に気分がダウンした。


(はぁ……自己紹介イベントはやはり避けられないか)

 たかが自己紹介。そう思える人間が、少しだけ羨ましい。

 俺みたいに人前で何かを話すのが苦手なタイプからすると、それはもはや拷問に等しい。

 実際、教室のあちこちで「自己紹介やだ……」「そんなイベント要らんだろ」なんて声が小さく漏れているが、担任の先生はまるで聞こえていないかのように、にこやかに進行していく。


「それじゃあ1番からお願いね」

 淡々と番号順に自己紹介が始まる。

 大半の生徒が、名前・出身中学・趣味や目標などを添えて簡潔に話していた。

 中には「趣味はゲーム実況!」と堂々と言い放ってざわつかせる男子や、「将来は声優になりたいです!」と本気の美声で言い切る女子もいて、個性が出ていてなかなか面白い。

 だが、さ行の苗字──篠宮──は、思ったよりも早く順番が来てしまう。


「篠宮優希くんかな? はい、立って」

「はぁ……。はい」

 思わず小さくため息をついて、椅子を引く音を立てないように立ち上がる。

 黒板の前まで歩き、クラス全員の視線をうっすらと感じながら、俺はできるだけ自然に口を開いた。


「えっと、篠宮優希と言います。出身中学校は市立の第二中学校です。……うーん、新しいことに挑戦する三年間にしたいなと思ってます。よろしくお願いします」

 ぎこちなさはあったかもしれないが、無難な仕上がりだと思った。

 だが、席に戻る途中、妙にざわついた空気に気づく。


「あれが首席なんだ…めっちゃイケメンじゃん!」

「名前もかっこいいし、頭もいいとか反則じゃん…」

「マジで漫画の主人公みたい…」

 聞こえてくるのは、ほとんど女子の声だった。

 ああ、なるほど。入学式で名前を読み上げられた“首席”というワードが妙に印象に残ってたってわけか。


(なんだコレ……)

 まるで芸能人でも見るかのような反応に、俺はひとり困惑していた。


「いいなぁお前、無自覚イケメンかよ」

「なんだよそれ」

「俺も頭良くて顔整ってたら、人生イージーモードだったのにな」

 前の席の黒川が冗談混じりに話しかけてくるが、俺にはどうにもピンと来なかった。

 顔立ちはいたって普通だと思ってるし、セットに時間をかけるのも面倒で、今朝も寝癖を直す程度だった。


「よく分からんキャラ付けされるの、しんどいよ」

「それはもう仕方ないって。入学式で唯一名前呼ばれた奴、なんて目立つに決まってるし」

「おいおい黒川、静かにしなさい。ほら、そっちの女子も、はい静かにー」

「はーい」


 担任の声が響き、教室の熱が少しだけ落ち着く。

 タイミングよく、次の名前が読み上げられた。

「気を取り直して……次は、白雪優奈さん。はい、立って」

「あっ……はい」

 その瞬間、教室が再びざわめく。

 篠宮優希に続いて白雪優奈。名前の雰囲気が似ていて、何とも言えないシンメトリー感。

 彼女はゆっくり立ち上がると、教卓の前まで静かに歩き、背筋を伸ばして深呼吸をひとつ。


「コホン……白雪優奈って言います。中学校は、インターナショナルスクールに通ってました。母がノルウェー人で、父が純日本人なので、私はハーフです。……えっと、日本語は普通に分かるので、話しかけるときは気軽に日本語で大丈夫です。よろしくお願いします」

 その口調は淡々としているけれど、どこか品のある響きだった。

 先ほど男子に対して冷ややかな拒絶を突きつけた同一人物とは思えないほど、穏やかで丁寧な言葉選びだった。


「やっぱり可愛いよな……」

「でもあの目……ガチで刺されそうな圧あるぞ」

「いやでも笑ったら天使だった」

「こえぇけど天使かよ」

 そんな囁きが漏れ聞こえてくる中、優奈の表情がふと陰った気がした。

 少しだけ微笑んでいたその顔が、ざわめきと共に硬くなる。


(……やっぱ、あの手の噂は本人にとってもキツいんだろうな)

 それでも彼女は、淡々と席に戻っていった。

 余計な反応をせず、誰の視線にも動じないその所作が、かえって周囲の注目をさらに集めていく。

 その後も自己紹介は続き、ひととおりクラスのメンバーが顔合わせを終える頃には、教室の空気も少しだけ和らいでいた。


「はい、みんなお疲れさまー。じゃあこの後は、提出物の回収してから、施設の案内に移るからね。教科書出してない人は準備して」

 そう言う先生の声に、ようやく張り詰めた空気がふっと抜けた。

 とりあえず、自己紹介という地獄のイベントを終えた安堵感が全身に広がっていく。

 とはいえ――。


(なんだかんだで、このクラス、いろいろありそうだな)

 自己紹介ひとつで、もうすでに印象強めな奴らが何人か出来上がってしまった。

 けれどその中で、今なおひときわ目を引く存在が、教室の隅で静かに座っている。

 白雪優奈。

 あの静謐な美しさと、どこか人を寄せ付けない距離感は、きっと今後も俺の中で何かを残し続ける気がした。


**


 クラスオリエンテーションが終わると、案外大変な授業などはなく気づいた頃には昼休みになっていた。

 自分で作ってきていた弁当を机の上に出して蓋を開ける。

「小さいハンバーグに、ひじきの煮物、マカロニサラダと…卵焼きにハム、ミニトマト…今日は色合い綺麗に決まったな」


 そうこう考えていると、購買で買ってきたのであろう食べ物を手に持ちながら黒川が俺の机にやってきた。


「よう!一緒に飯食おうぜ!」

「黒川……?まぁいいけど」

「お!これは!手作り弁当!いいなぁ親から作ってもらえるなんて」

「え?いや、これ自分で作ったんだけど…」

「はっ!?マジで!?」

 そんなに驚くことだろうか……?

 親が割と料理好きだから、その料理をしているところを近くで見て育った俺がこうなっただけだ。


「へぇ〜、こりゃお前絶対モテるぜ。多分息をするようにモテるってやつ!」

「なんだよそれ…そんな漫画のキャラみたいなやつにすんなし」

「はぁー?」

「さっきからそのリアクションは何が納得がいかないんだよ。まぁいいや、話変えるぞ」

 こいつとこの話題で持ちこたえるのは無理だと悟った。それならば、別の話題にそらそう。

「おう、いいけど何の話だ?」

「部活だよ。さっき入部届貰っただろ?何に入ろっかなぁって」


 蓮は俺の言葉に「確かに」と頷きながら、口を動かすのを止めた。

「俺は……中学生の頃、陸上やってたからさ。高校でもそのまま陸上にしようかなぁって」

「なるほどね」

「お前は? 中学のとき何部だったんだ?」

「俺? バスケ部だったよ。あと、習い事で空手もやってた」

「へぇ、めっちゃ運動系男子じゃん。じゃあ、高校でも運動部でいいんじゃね?」

「いや、なんかさ。高校になったし、新しいことに挑戦するのも悪くないかなって。たとえば、今までやったことのない文化部とか」

「ふーん? もしかしてさ、中学でバスケあんま楽しくなかったとか?」

「いや、そういうわけじゃないよ」

 見てのとおり、俺は中学ではバスケ部に所属していた。

 小さい頃から運動は得意だったし、親に頼んでいろんなスポーツに触れてきた。

 バスケ部でもそこそこ活躍して、県大会を勝ち上がってインターハイに出場したこともある。

 ただ――最後の試合で、決勝点を狙ったラストシュートを相手ディフェンスに止められて、ギリギリで負けたあの悔しさは今も心に残ってる。


「はぇ〜……運動もできる、勉強もできる、イケメン、料理男子……眩しすぎるわ!」

「さっきからなんなんだよ、それ。そんなにすごいことか?」

「いや、すごいって。あれだろ、まさかお前ん家、金持ちとか言わねぇよな?」

「はぁ?」

「頼むから教えてくれって!」

「いやいや、めっちゃ普通。ていうか、わりと貧乏かもしれない」

「お〜〜〜良かったぁ〜! これで金持ちだったら、俺、友達やめてたわ!」

「それ、完全に金目当てのやつのセリフなんだよな……」


 笑いながら蓮がカバンの中をガサゴソ漁って、一枚のチラシを取り出した。


「で、結局行きたい部活ってあるの?」

 差し出されたのは、蒼凌学園のクラブ・サークル一覧が載っている紙だった。


「あー、軽音部とか、ちょっと気になる」

「軽音? あー、そういえば学校案内のとき、部室覗いたよな。あれ、機材とか本格的だった」

「だろ? 俺、音楽はほんと未知の分野なんだよ。だからこそ、やってみたいって思うのかも」

「すげぇな、運動ガチ勢だったやつが、心機一転で軽音部って!」

「まあ、入るって決めたわけじゃないし。今日仮入部あるって書いてあったから、ちょっと覗いてみようかなって」

「おー、いいじゃん。あ、でも俺今日は陸上部の仮入部もあるわ」

「そうか、じゃあ俺一人で行くとするか」

 蓮はニヤリと笑いながら、残っていたパンを一気に口に放り込んだ。


**


 放課後、蓮と別れたあと、俺はひとりで軽音部の見学へと向かっていた。

 部室は校舎の外れ、特別教室棟の音楽室の隣。近づくにつれ、ドラムのリズムやベースの低音が微かに耳に届く。


「ここか。よし──開けよう」

 ドアを開けると、思った以上に人がいた。見学に来ている同級生の姿もちらほら見える中、先輩たちは誰彼構わず暖かく迎え入れてくれる。


「お、また新規さん!いらっしゃーい!」

「あ……どうも。見学に来ました」

「いいねいいね、気になる楽器あったら遠慮なく触ってって!あ、俺は部長の神谷俊(かみや しゅん)。三年な。よろしく!」

 そう名乗った高身長の男子生徒――神谷先輩は、終始ニコニコとした雰囲気で、気さくに対応してくれた。部室の中ではあちこちで音が鳴り響いていて、誰かがすでに練習しているらしい。

 ──と思った、その時だった。


「……ん? あれって……」

 視線の先で目を引いたのは、一人の少女。

 透き通るような青の瞳に、陽光を帯びた銀の髪。スラリとした長身に制服を纏い、まるでそこだけ別の空気が流れているかのような存在感。教室で見かけたことがある──いや、自己紹介の時に話していた、白雪優奈だ。

 彼女は今、ドラムセットの前に座っていた。


「ふぅ……このドラムスティック、ちょっと重たいなぁ……」

 軽く笑いながら、スティックを握り直す。そして───

次の瞬間、スネアが鋭く鳴った。

 そこからの演奏は、まるでプロのドラマーが叩いているかのようなリズムだった。タムからフロアタムへ、シンバルのカットイン、そしてキックのアクセント。一音一音に迷いがなく、それでいて感情がこもっている。テクニックだけじゃない。音に「熱」がある。


「きゃー!白雪さんめっちゃかっこいい〜!」

 見学に来ていた女子の一人が思わず叫ぶ。

 ドラムを終えると、優奈は無造作に立ち上がった。


「はぁ……大したことじゃないよ」

 と、静かに呟いてから、振り向いて神谷先輩に声をかける。


「あ、神谷先輩。ベース触ってもいいですか?」

「えっ!? あ、ああ……もちろんもちろんっ!じゃんじゃん触って!」

「ありがとうございます」

 ギターラックからベースを取り出す動作も、慣れている。構えた瞬間、音を鳴らす前から分かる。彼女は、楽器を「知っている」。いや、それ以上に、彼女自身が音楽そのものに愛されているような雰囲気だった。


「あの…神谷先輩。あれは……」

「あぁ、あの子ね。いまさっき仮入部に来た子で、めっちゃ音楽経験があるって言っててね。やばいよな?」

「えっ?そうなんですか?」

「そうそう…」

 神谷先輩は白雪優奈の事を見て少し動揺を覚えたほどだという。

 実はこの部室にたどり着くまで、俺は少し道筋に迷ってしまっていた。なので、仮入部に多少遅れて入ってきた。

 彼女はその中でも、群を抜いて早く部室に入ってきて、楽器を触りたいと言ってきたのだとか。


 ───しかし、油断して演奏に聞き入ってしまっていた矢先、彼女と目が合ってしまった。


「…あなたは確か、私と同じクラス…だよね?」

「えっ?あ、あぁ。同じクラスの篠宮優希って言うよ。俺も興味があって軽音を見に来たんだ」

 突然の出来事に動揺してしまう。


「ふーん。ま、音楽って癒されるからね。せっかくだし、私勝手に演奏してるから聞くなら好きにして」

「お、おう」

 彼女は大人しくありつつも、少し微笑んでいた。

 第一印象は、正しく棘だらけの白薔薇のような人かと思ったが、意外と普通に話しかけてくれるようで少し胸をなで下ろした。


「白雪さーん、俺が部長ですよー、俺が霞むんでー」

「えっ?あ、すいません。つい楽しくなっちゃいました」

「あはは、いやいや。やめろってあれじゃないんよ。けど、白雪さんは出来すぎやな。もう俺部長やめて白雪さんに部長譲ろうかな」

「そ、それはさすがに……。そういうの苦手です」

 そんな中、見学に来ているもう1人の女子生徒が話しかけていた。


「ふふ、先輩困りすぎ!私はギター好きで軽音選んだのに、優奈ちゃんができすぎて私もかすみそうでウケる」

「おいおい〜。桐島(きりしま)さんよぉ、、、助けてくれって!」

「いやでーす笑」

 桐島……?確か、入学式でそんな名前を聞いた気がした。桐島……琴音(ことね)。───そう、桐島琴音(きりしま ことね)だろう。

 いわゆるギャル系のキャラという感じだろうか。かなり元気ハツラツなタイプのようだ。


「あ!待って、君って篠宮くん!?確か主席なんだよね!」

「えっ?あ、あぁ。まぁそうだけど……」

「軽音見学に来たんだね?私は桐島琴音って言うよ!よろしくね!」

「あぁうん、よろしく。桐島さん」

「お〜なんか同級生なのに堅いなー。名前で呼んでよ!」

「えぇ…?」

 まずい、かなりの陽キャだ。俺が苦手なタイプかもしれない…いや、名前で呼ぶくらいどうってことは無いか。


「えっと…琴音さん」

「ちがーう!」

「はぁ?何が違って───」

「おや?分かってないようだね!ずばり!同級生というのは、呼び捨てで呼ぶものであ〜る!」

「よ、呼び捨てだって?」

 すまん、これ俺の予想の遥か上を行く陽キャだった。こりゃたまげたな。

 ってか、それはまさしく価値観の違いだろう?

 ネットミームでよくある「それってあなたの感想ですよね?」とかいう反論をしてやろうかと思ったけど、イタいやつだと思われるのは嫌だから限界でこらえた。


「わ、わかったよ。よろしくな。琴音さ…コホン!琴音」

「ふむふむ、それでよろしい!」

 ……こりゃ恐ろしい。さすがは全国から優秀な生徒が集まる名門校というべきか。規模がでかいと、こんなハイパー陽キャ女子まで紛れ込むんだな。


「はぁ…。えっと、優希くん、この琴音って子、めっちゃデリカシーない子だから気をつけた方がいいよ」

「白雪さん?そ、それは───」

「おいこらー!優奈ちゃん!私はデリカシーがないんじゃなくて、フレンドリーなだけだからっ!」

 ふと、ベースをスタンドに置いた優奈が横から口を挟んできた。やっぱり、あの陽キャオーラに若干押されてる感じ…か。


「まぁいいや!ところで、優希くんって彼女いるの?」

「おい……やっぱりデリカシーないじゃんか」

「ええっ!?いやいや!人に彼氏彼女いるか聞くのってノンデリなの!?」

「聞くにしても、この人数の中でやることじゃないだろ」

「え〜、なにそれ〜。で、結局どうなの?」

 嘘だろ…!?話が通じてない!?陽キャ怖すぎる…!!


「……えっと、いないけど」

 もちろん、俺に恋愛経験なんてない。

 この高校に主席で受かったのも、青春を全部犠牲にして勉強に捧げた結果だったわけで。


「え〜〜意外〜〜!絶対モテるのに!」

「いや、そんなことは──」

「マジで?私さ、今彼氏とガチ冷戦中なんよ。なんかさ、価値観ズレててしんどいの」

「彼氏いるんだ……」

「一応ね?でも、いてもいないも同然って感じ。だからストレス発散したくて軽音部に転がり込んできたの。ウチ防音設備ないから、こっちの方が騒げるし!」

「そうなんだ。でも、そんなふうには見えないな。彼氏とうまくいってないって」

「へぇ、そう見える?じゃあさ、私が彼ピと一緒にいる時の顔してあげるよ」


 そう言うと琴音は部室のパイプ椅子にどさっと座り、机に肘をついて、あからさまに気だるげな顔を作ってみせた。

「……ね?死んだ目してるでしょ?」

「た、確かに……」

「はぁ、それならさっさと別れればいいのに」

 すかさず優奈がズバッとツッコミを入れる。琴音には悪いが、まさにド正論だった。

「はぁ……私はその話聞いたけど、優希くんはドン引きみたいよ。それに、部長は黙りだし」

「えっ?いや!いやいやいや!君たちが楽しそうにしてるから、つい見入っちゃってただけで!」


 突然話を振られた神谷先輩は、慌てふためきながら手をぶんぶん振って否定する。……あれ、誰が部長だったっけ?

「結局さ、面倒くさいならもう別れちゃえばいいじゃん」

「ん〜〜でもね〜。私、ダメ男の世話するのも割と好きなんだよね〜」


「「「…………」」」

 その場にいた俺と、優奈と、神谷先輩は、完全に同じ感想を抱いた。

(ダメだこいつ……)

 本気で“無敵の人”ってこういうタイプなんじゃないかとすら思える。いや、こういう性格だからこそ、彼氏がいるのかもしれないな──なんて、ちょっと思ってしまった。


**


 俺が部室を出た時には、外はオレンジ色の夕焼けが校内をてらしていた。

 あれからというもの───優奈は部長と協力して一発ライブみたいなことをして盛り上がったり、雑談に花を咲かせたり……ここでは伏せるが、あのハイパー陽キャの琴音による激ヤバな恋バナが炸裂したりと、かなり波瀾万丈だった。

 疲れてはいるが───悪くはないかもしれない。

 話しかけるのが苦手な自分からしたら、あのような自然と明るく活気の溢れた雰囲気なら、自然と溶け込める。

 よく良く考えれば、誰も口を挟まずシーンとした部活と比べたらよっぽどマシだった。


「やっと着いた〜」

 実家に到着すると、玄関のドアを開けた瞬間、甲高い声と共に一人の少女が俺に飛びかかってきた。

「あー!おかえりー!優希兄ちゃん!!」

「ぐふっ…!?ただいま……だけどブレーキくらいしろよ……高齢者ドライバーか」

「はぁ!?何それ!」

「こっちは初めての高校の登校日の帰りだったんだぞ。家に着いたと思ったら、いきなり腹打ちされる俺の気持ちにもなれ……」


 ───ということで、彼女は俺の妹・篠宮美春(みはる)

 現在中学2年生、絶賛思春期真っ只中。だがこの妹、なぜか俺にやたら絡んでくる。圧倒的ブラコンってやつだ。

「何それ〜、兄ちゃんの気持ちなんて私知らないもん。あ、可愛い子とかいた?どうだった!?」

「初手の質問でそれかよ。なんでお前は俺の恋愛事情にそんなに食いつく……」

「だって〜。って待って!?恋愛“事情”って言った!?ってことは彼女できたのー!?」


 心の中で思った。だる、コイツ。

「勘違いも大概にしろって……」

 妹持ちって言うと、羨ましいって返されることがある。だが現実はこうだ。

 ただひたすらに、面倒なだけである。

 しかも家族内では「お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい」っていう意味不明な理屈で、妹がほぼ無敵になる。

「ま、まぁ……名門校だしな。いたにはいたけど」

「やっぱり!で?告った?ねぇ、告った?」

「馬鹿野郎……お前、初対面でいきなり告白するやつがどれだけいると思ってんだ。マンガの読みすぎだ」

「え〜〜、夢がないな〜〜〜」

 そんな妹を軽くいなして、俺はリビングへと向かう。


「にぃにはモテるのに、ヘタレだから告白もできないんだね〜?」

「その言葉、そっくりそのまま返してやる」

 生意気なやつだ。

 とはいえ、そんなことを言ってる美春だって、まだ彼氏の一人もいない。

 けどこいつのやっかいなところは、“表向き”は真面目そうに見えるってことだ。

 俺の前でだけ、化け物みたいに豹変する。


「優希兄ちゃんが告るって流れになったら、私にも見せてね?その子が“本当に付き合うに値するか”チェックしてあげるから!」

「……それはただの迷惑なんだけど。なんで俺の恋愛にお前が査定入れてくんの」

「だって〜」

 美春はそう言いながら、スッと距離を詰めてきた。声も小さくなって、空気が妙に変わる。───嫌な予感しかしない。


「世の中、えっちぃことしたい女の子ばっかりだよ?ヤリモク女にお兄ちゃんは渡せないから」


 ───はあ、出たよ。やっぱりこの展開。

「ったく……そんな目的で付き合おうとする子なんて、むしろ少数派だろうが」

「まさか〜!私はそれでも“外見だけで選ぶな”って警告してあげてるんだよ?感謝してほしいくらい!」

「余計なお世話だ!」


 もはや美春とのこの言葉のプロレスには慣れたものだ。

 美春は昔から恋愛にやたら関心を持っていた。理由は知らないが、部屋には恋愛漫画が棚から溢れるほどコレクションされている。

 中二にもなってそんな発言を平然とする美春は、どう考えても“純粋”なんて言葉とは程遠い存在だった。


「優希兄ちゃん、今日って夕飯何?」

「夕飯?知らんよ別に。お母さんか帰ってきたら作ってくれるんじゃない?」

「え〜まだ食べられないのかぁ」

「まぁまぁ、それくらい少し我慢できるだろ?」

「えー無理!にぃにが夕飯作って!」

「お前…さっき俺が疲れてるって言っただろうが。美春はさっさと宿題やってこーい」

「にぃにのケチー」

 そんな妹を華麗に回避していく。

 しかし美春も、さっき言った通り「表向き」には真面目だ。困ったら宿題やれと返しておけば大抵解決する。

 ようやく部屋に入ると、リュックを投げ捨ててそのままベットに倒れ込んだ。

 今日だけで一気に疲れた気がする。

 今後の高校生活が波乱万丈になる気がするなど、心の中で少し面倒に感じる反面、わずかに期待の気持ちが芽生え始めていた。


**


「はぁ……何、この感情」

 ふと、私はひとり呟いた。

 初めての高校生活。頑張って勉強して、名門・蒼凌学園に一般合格を果たした。

 けれど──正直、失敗したかなと思ってる。

 周りの男子は変に噂を立てたがるし、勝手に怖がって、気づけば人が少しずつ離れていく。


「……もしもし、ひより? 今、話せる?」

 スマホを手に、電話をかける。

 相手は昔からの幼なじみ、(たちばな)ひより。


『もしもし? 全然平気だよ〜。どしたの?』

 明るくて元気な声がスピーカー越しに広がる。

 小学校、中学校とずっと一緒だった。高校も同じだけど、クラスは別。

 私はハーフで、インターナショナルスクールに通っていた。ひよりは英語好きで、日本人なのに同じ学校にいた。あの頃は珍しかったけど、今では割とよくある話みたい。


「……なんかもう、ね。しんどいかなって」

『ちょ、なに? 変な男に絡まれてんの?』

「違うよ。そういうんじゃなくて……でも、怖いっていうか……」

『ああ、あれか。まだトラウマ残ってる感じね』

 ひよりは察しがいい。私は、あの過去の出来事から、ずっと人を信じるのが怖くなった。


 ──昔の私は、どこにでもいる普通の女の子だった。

 恋に憧れて、ドキドキして、誰かに好かれたいと思ってた。中学生らしくて、少し背伸びしたがりで。

 そんな頃、ある男子に恋をした。運動部で、明るくて、周りからも人気者。

 真面目で、勉強もできて、でもちょっと抜けてるところもあって──そういうギャップが好きだった。

 私は、近づきたくて頑張った。話しかけて、目を合わせて、ほんの少しスキンシップも試したりして。

 そしてある日、彼から告白された。

 嬉しかった。本当に、心の底から。

 彼は「ずっと大切にする」って言ってくれて、私は迷わず頷いた。


「……でも、あの時のトラウマだけは、今でも忘れられない」

『うん……あれはマジで、優奈可哀想だったよね』

 ──付き合って3ヶ月くらい経った頃だった。

 私と彼はどんどん仲良くなって、「好き」の気持ちも強くなって、自然と距離も縮まっていった。

 そんなある日、彼が突然言った。

 「別れたい」って。

 全部、話してくれた。嘘も隠し事もなく。

 彼は、いじめられていた。

 私に告白したのは、罰ゲームだった。

 でも、付き合っていくうちに私を本気で好きになった、と。

 ……けれど、いじめっ子たちはそれを面白く思わなかった。

 「玉砕するのがオチ」と高をくくっていたのに、私と彼が上手くいっていることが許せなかったらしい。

 彼は脅された。「別れなければ、タダじゃおかない」と。

 ───馬鹿みたい。

 罰ゲームなんかで告白してしまう彼も、正直どうかしてた。

 でも、私は──本気だった。

 本気で彼のことを想ってた。

 それなのに、私の気持ちは、他人の遊びに利用されたんだ。


『優奈の気持ちを慰めることしかできなくて、本当にごめんね……』

「ううん、大丈夫。ひよりがいてくれるだけで、すごく助かってるよ」

『そっか……でも、怖いって言ってたし、もしかして、また誰かにいじめられたりしてない?』

「今のところは大丈夫。少なくとも、そういう空気は感じてないし。やりたかった軽音部の雰囲気も、みんな優しそうだったしね」


 人と関わるのが得意じゃない私は、気軽に告白してくる人には、はっきりと拒絶する。

 ──それも、相手が完全に諦めるような、鋭い言葉で。

『ふふ、やっぱり優奈は軽音だよね〜』

「まあね。音楽、大好きだから」

『優奈が分身して沢山いたら、人気バンド作れちゃいそうじゃん』

「それは言いすぎだってば」


 私の心を癒してくれるもの──それが音楽だった。

 小さい頃にピアノを習い始めて、他の楽器にも興味を持った私に、ママもパパもいろいろ挑戦させてくれた。

 ギター、ベース、キーボード。何にでも触らせてもらえた。

 中学では少し勉強に余裕があったから、軽音部と吹奏楽部を掛け持ちしてたくらい。

 ママも音楽が大好きで、パパも私のやりたいことには何でも応援してくれた。

 中学生の頃には、家に防音室まで作ってくれて──。


 白雪家は、誰が見ても裕福な家庭だと言われる。

 それはもう、近所でもちょっと有名なくらいに。私自身も、否定はしない。だって、事実なんだもの。

 パパ──白雪雅貴(しらゆき まさたか)は、大手のベンチャー企業で代表取締役を務めていて、年商はおよそ十億円。

 小さい頃は、その“年商”なんて言葉の意味も知らなかったし、仕事のことも「いつも忙しそう」くらいにしか思ってなかった。

 でも今では、社会の仕組みも少しずつ分かるようになってきて……改めて思う。パパって、本当にすごい人なんだなって。


 そんなパパは、仕事では冷静で鋭い判断を下すカリスマ経営者らしいけれど、家ではちょっと呆れるくらいの“娘バカ”。

 私がバイトを始めた時だって、「優奈はバイトなんてしなくていい。何か欲しいものがあるなら、お父さんが買ってあげるよ?」なんて真顔で言ってくるくらい。

 もちろん、そう言われて嬉しくないわけじゃない。だけど……甘やかされすぎてると、なんだか自分が“ダメ女”になってしまいそうで。

 だから私は、自分のことはできるだけ自分でやりたい。そう思ってる。


 一方で、ママ──白雪梨花(りか)はフリーランスの翻訳・通訳者。

 在宅での仕事が多いけど、いざというときは突然海外まで飛ぶようなアクティブな人。

 英語、フランス語、ノルウェー語まで話せる多言語のプロフェッショナルで、いつも柔らかくて上品な雰囲気をまとっている。

 美人でスタイルも良くて、何より気品があるから、パパがぞっこんなのもよく分かる。


 そんな両親の元で育った私は、確かに恵まれてると思う。

 でも、裕福なことが全てを解決する訳でもない、ら

 それを癒せるのは、お金でも豪邸でもなくて、自分の“本当の気持ち”に向き合ってくれる音楽と、大切な幼なじみの存在。

 そんな存在こそ───橘ひよりちゃん、この子なのだ。


「ひよりはどう?初めての高校での1日は上手く行きそう?」

『今のところはね〜。でもさ、私も優奈と同じだよ、まだ慣れないかも』

「1日目だからまだお互い慣れてないのは同じなんだね…」

『そりゃそうじゃん!逆にそれでガツガツ来るとかだったら陽キャ過ぎんだから!』

 そのひよりの言葉を反芻して思い出したのは、軽音部の仮入部で出会った同級生の琴音ちゃん。

 あの子、すごく元気だったし、軽音部の先輩とも一瞬で打ち解けていた。上手くいってる感じではないみたいだけど、それでも彼氏持ちで少し羨ましく感じた。


『そういえば、優奈はクラスの席どこ?』

「私?……窓から二番目の列の、一番前だよ」

『へぇ〜一番前なんだ!優奈はさ、人間不信気味なのはしょうがないにしてさ、見た目だけでこの子いいなってなった子とか居ないの?』

「え〜、どうだろうね」

 ひよりは、恋愛経験がある。

 私とは違って、裏切りのない、ちゃんとした恋だった。

 高校進学で道が別れた時も、お互いに笑顔で抱き合って、「ありがとう」って言い合えたんだって。

 恋愛の“別れ”って、普通はとても悲しいものだと思ってた。なのに、ひよりはそれを、最高の思い出に変えた。……本当に、天才だと思う。

 別れた今でも、元カレとはたまに連絡を取り合ってるらしい。

 そんな彼女も、やっぱり新しい恋をしたい気持ちはあるみたいで。


 ──ふと、頭に浮かんだのは、あの男の子だった。


「うーん……同じクラスで、仮入部の時に会った男子、かな。少し話したけど、私の感覚的には、落ち着いてる感じだったな。……名前は、篠宮優希くん、って言ってた」

『あっ!その子知ってる!首席合格で、入学式の生徒代表挨拶してた人でしょ!』

「そうそう」

『で、どうだった?話してみて』

「んー……落ち着いてるというか、冷静っていうか。なんか、人と関わるのは、あんまり得意じゃなさそうだった」

『へぇ〜』

「……でも、たぶん本人は自覚してないと思うけど、割と一部の女子からは人気集めてた、かも」

 軽く言いながらも、心のどこかで、もう一度ちゃんと話してみたい──そんな風に思っている自分に、気づいてしまう。

 

『ふ〜ん……なるほどねぇ』

「な、なに?」

 ちょっと間を置いてから、ひよりの楽しそうな声が返ってきた。


『いやぁ、優奈にもとうとう、恋の芽が……?』

「ち、違うってば!」

 言葉を被せるように否定したけど、ひよりは全然気にしてないみたいに、くすくす笑っていた。

 私はと言えば、耳が熱くなるのを止められずに、思わずベッドの上でごろんと転がる。


『でもさ、無自覚イケメン男子って、意外と当たり多いんだよ?天然で優しいし、変に下心持ってないし。付き合っちゃえば、あっという間にデレデレになったりするかもよ〜?』

「な、なんでそんな話になるのよ……」

 口を尖らせて返す。でも、本当は少しだけ、そんな未来を想像してしまった自分がいた。

 もし誰かに、大切に想われるとしたら。

 もし誰かを、心から信じられるとしたら。

 ──そんな夢みたいな話、私にはきっと縁がないって思ってたのに。


 胸の奥が、ちくりと痛む。

 好きになるのは、簡単なんだ。

 でも、信じるのは、怖い。

 誰かを本気で好きになって、裏切られるあの痛みを、もう二度と味わいたくない。

 ひよりみたいに、綺麗に終われる自信なんて、私にはどこにもなかった。


『ま、優奈は優奈のペースでいいんだよ。焦らない焦らない』

「……うん、ありがとう」

 その何気ないひよりの言葉に、少しだけ心が温かくなる。


 私は本当に、恵まれていると思う。

 家族に、友達に、音楽に。

 それでも、満たされないものは確かにあって──それを埋めてくれるのは、誰か一人だけなのだと、どこかで気づいていた。

 そっとスマホを見つめながら、私はぽつりと尋ねる。


「ひよりは、もう寝る?」

『うん、そろそろかな〜。優奈もちゃんと寝なよ?寝不足はお肌の敵だよ〜』

「……うん、おやすみ」

『おやすみ〜!また明日ね!』

 通話が切れると、世界は急に静かになった。

 夜の暗さが、ふわりと降りてくる。

 窓の外では、柔らかな夜風がカーテンを揺らしていた。

 私はベッドに潜り込み、枕をぎゅっと抱きしめる。

 明日もまた、学校がある。

 クラスに馴染めるかも分からない。

 軽音部で上手くやれる保証なんて、どこにもない。

 それでも、ほんの少しだけ、今日よりも楽しい何かが待っているかもしれない──そんな小さな期待が、胸の奥に芽生えていた。


 ……それと同じくらい、怖さも、まだ消えてはいなかったけれど。


 それでもいい。

 今日は、少しだけ、前に進めた気がする。

 そう思いながら、私はそっと目を閉じた。

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