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恋人をNTRれて絶望していたら、清楚可憐な幼馴染がやたらと俺を構ってくる。  作者: 九条蓮
第三部

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第90話 俺たちの夏休みは、まだ始まったばかりだ。

 最寄り駅のホームに降り立った瞬間、むっとした都会の湿気が肌にまとわりついた。

 ついさっきまで山の風と土の匂いの中にいたせいで、アスファルトの熱気と排気ガスの混ざったこの空気が、やけに「帰ってきた」感じを濃くしてくる。

 ガタン、と電車のドアが閉まる。

 かるびとは途中の駅で別れた。最後まで手を振って、あっちのホームの階段をぴょこぴょこ跳ねるように上がっていったのを思い出す。


「ふあ~……疲れた……」


 電車から降りると、信一が大きく伸びをしながら、大きな旅行バッグの持ち手を持ち直した。

 結局、あの中に入っていた遊び道具は半分くらいしか役目を果たさなかったけれど──遭難用の非常食は帰りのおやつになった──それでも俺たちを十分に楽しませてくれた。やっぱり、信一みたいな奴がいてくれると助かる。副作用として喧しくはあるが、それはそれだ。


「帰ろっか」

「おう」


 詩依が俺に向けて、にっこりと笑みを浮かべる。

 でも、その笑みにも少しだけ疲れが見えた。昨日も遅くまでトランプで遊んでいたので、仕方ない。帰りの電車でも寝そうになっているのを何とか堪えていたくらいだ。ちなみに、喧しい組のふたりは帰りも元気だった。

 信一が言った。


「気を抜くなよ。家に着くまでが遠足だぜ?」

「うん、そうだね」


 詩依も信一には少し慣れたようで、彼のくだらないジョークを軽く流すようになっていた。

 もともと詩依は男子が苦手で、俺以外の男子とは自分から話そうとはしなかったのだが、これも二泊三日の効果だろう。

 改札口を見て、ふと思う。見慣れた光景のはずなのに、今日は少しだけ違って見えたのだ。

 田舎の駅とは違って、こっちは人の流れが絶えない。スーツ姿の会社員、買い物帰りの親子、制服のままの高校生。誰かの「日常」の真ん中に、泥と海水の匂いを少し連れて帰ってきたような、そんな場違いさがあった。

 自動改札を抜けたところで、信一がくるっと振り返る。


「じゃあなー。また遊ぼうぜー」

「おう」


 いつもの調子で拳を軽く突き出すと、信一もコツンと合わせてきた。

 詩依も小さく手を振る。


「またね」

「おー。また連絡するわ。……あ、そうだ」


 改札脇の柱に寄りかかった信一が、急にニヤッとした。


「あんまイチャつき過ぎんなよ? 公然わいせつ罪にならないようにな!」


 わざとらしく声を張るもんだから、近くにいた小学生が「公然わいせつ罪?」とか言ってこっちを見てきた。やめろ。


「余計なお世話だ」


 顔が熱くなるのをごまかすようにして、俺はしっしと手を払った。

 信一は「へいへい」と笑いながら、片手をひらひらさせて改札の外へ歩き出す。その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで見送ってから、俺は隣に立つ詩依と顔を見合わせた。

 ふたりして、同時に肩を竦める。


「……なんか、帰ってきたーって感じするよな」

「うん。たった二日なのにね」


 詩依が困り眉で笑った。

 一昨日の朝、この駅から電車に乗ったときのことを思い返す。あれからまだ四十八時間くらいしか経ってないなんて、正直信じられない。

 海。バイト。星空。田舎の夜。女子大生の騒ぎに巻き込まれたこともあれば、星空の下で大人のキスなんてものもしてしまった。

 密度が濃すぎる二日間だ。


「どうする? どっか寄る」

「んー⋯⋯今日はいいかな。もう疲れちゃった」

「だよな。じゃあ、帰るか」


 俺の言葉に詩依がこくりと頷き、改札を背にして駅前のロータリーへと歩き出した。

 荷物は軽くないはずなのに、不思議と足取りは重くなかった。身体はぐったりしているのに、胸のあたりだけはふわふわ浮いているみたいだ。

 信号待ちの横断歩道で立ち止まり、青に変わるのを待つ。その時、どちらともなく手が伸びて、自然に指が絡んだ。

 駅前の人混みに紛れても、手のひらの温度だけははっきり伝わってくる。信一の言葉じゃないけれど、これくらいのイチャつきは、許してもらってもいいだろう。

 駅前の喧騒から少し離れると、街路樹が続く緩やかな坂道に出た。

 さっきまで田んぼの間を走っていたせいか、アスファルトの匂いがやけに濃く感じる。自動車の音やコンビニの看板の光も、全部「いつもの景色」のはずなのに、ほんの少しだけ色が鮮やかに見えた。


「何だか、夏休みっぽいことたくさんやったね」


 隣で詩依がぽつりと言った。


「確かに。海にバイト、それから花火だろ? 田舎の夜も満喫できたし……あとは、何がある?」


 指折り数えながら、俺は首をひねった。

 花火大会は夏休み前に行ってしまったし、あれはあれで一大イベントだった。じゃあ、他に「夏休みっぽいこと」と言われると、何があるだろう。


「う~ん……肝試し、とか?」


 詩依が、空いている方の手を顎に当てて考えるみたいにしながら言う。


「肝試しはお前が苦手だろ」

「……うん」


 素直に認めるところが、らしい。

 小さい頃から、怖い話とかホラー映画とか、そういうのは全部ダメだった。遊園地のお化け屋敷も、一度挑戦してみたものの、入り口で引き返してきたくらいだ。

 肝試しを企画したところで、俺が全部フォローする羽目になるのは目に見えている。それはそれで悪くないけど、夏のイベントとしては、もう少し平和なやつの方がいい気がした。


「あ、盆踊り大会とか夏祭りは?」


 ぱっと顔を輝かせて詩依が言う。

 街の掲示板にも、そろそろそういうポスターが貼り出される時期だ。


「あー、確かに。それありだな」


 以前、花火大会のときに縁日に寄ったことを思い出す。

 あのときは、お互いまだ変に緊張していて、焼きそばの湯気や金魚すくいの赤い桶を目に入れながらも、祭りを楽しむ余裕なんてほとんどなかった。

 今なら、もう少し肩の力を抜いて歩けるかもしれない。


「皆も誘って一緒にいこ?」

「ああ。あいつら誘うとうるさそうだけど」

「そういうこと言わないの」


 詩依が、少し呆れたように笑う。

 騒がしいのは目に見えているけど、その騒がしさも含めて「夏祭り」なんだろう。

 そんな他愛ない話をしているうちに、見慣れたマンションの外観が視界に入ってきた。

 コンクリート打ちっぱなしの、何の変哲もないマンションだ。

 マンションの手前の、小さな公園がちらりと目に入った。ブランコと滑り台と、申し訳程度の砂場だけの、名前も知らないような児童公園。公園の横を通り過ぎる時、思わずそっちにちらっと視線を向けた。

 あの雨の日、ここでずぶ濡れになって座り込んでいた自分の姿を、ふと思い出す。

 失恋直後でメンタルが完全に終わっていた俺の前に、傘を差し出してくれた詩依。あれがなかったら、今こうして隣に彼女がいることもなかったんだろう。


「海、楽しかったな」


 口から漏れたのは、その一言だった。

 言いながら、自分の声が妙にふわふわしているのがわかる。

 あの雨の日の絶望から、まだ三か月も経っていない。それなのに、俺は今こうして楽しいと笑えていて、幸せを感じられている。人生、本当にわからないものだ。


「うん。また行きたい」


 詩依も、少し遠くを見るような目で言う。

 どれもこれも、思い出した瞬間に胸の奥がくすぐったくなる。

 もちろん、バイトはちゃんとやっていた。皿洗いもフロアも、海の家の仕事は楽じゃない。

 それでも、友達とあんなふうに「遊ぶこと」に集中したのなんて、本当に小学生以来ではないだろうか。

 ほんとは、ふたりで旅行も行きたいけどな……。

 頭の中に、そんな言葉が浮かびかけて、舌の先まで出かかったところで慌てて飲み込む。

 今それを口にしたら、たぶん、俺の下心まで全部丸見えになるだろう。

 そう思って黙りこんだ、その時だった。


「いつか、ふたりでも……行けたらいいね」

「え!?」


 あまりにタイミングがぴったりすぎて、変な声が出た。

 詩依の顔が一瞬で真っ赤になる。


「な、なんでもない!」


 肩にかけた鞄の取っ手を、ぎゅっと握り締める。

 誤魔化すみたいに足早に歩こうとするけど、俺と手を繋いでいるせいで、スピードを上げたところでそんなに変わらなかった。

 そこで、俺は足を止めた。その反動で、繋いだ手に引かれるようにして、詩依も立ち止まる。


「桃真くん?」


 不安そうに名前を呼ぶ声。

 街灯の下で見上げてくる瞳が、少し揺れていた。


「それってさ。俺とふたりで旅行、って意味?」


 逃げ道をあえて塞ぐみたいに、俺は真正面から訊いた。

 視線を逸らさせないように、じっと目を見る。

 詩依は顔を赤くしたまま目を丸くして、それから慌てたように視線をあちこちに飛ばした。アスファルトのひび、街路樹の根元、マンションの表札。どこにも答えは書いてない。それでも、やがて諦めたみたいに、そっと上目遣いで俺を見上げてくる。

 そして──こくり、と小さく頷いた。


「詩依!」

「きゃっ」


 気付けば、俺は彼女をがばっと抱き締めていた。

 予想外だったのか、詩依が小さな悲鳴を上げる。


「俺も同じこと考えてた」


 耳元で、できるだけ静かな声で言う。

 マンションの前の道路にはほとんど人通りがないとはいえ、さすがに大声を出す勇気はなかった。


「……そうなんだ」


 詩依の声が、俺の胸元あたりでくぐもって聞こえた。

 背中越しに、彼女の鼓動がほんの少しだけ早いのが伝わってくる気がする。


「絶対、一緒に行こうな」

「うん」


 詩依も、おずおずといった感じで、俺の背中に腕を回してきた。

 お互いの体温が、薄いTシャツ越しにじんわりと伝わる。

 さっきまで田舎の夜風の中にいたとは思えないくらい、ここだけが夏の空気でぎゅっと満たされていた。

 少しだけぎゅっと抱き締め合ってから、俺たちはそっと腕を離した。

 顔を見合わせて、同時にはにかむ。


「桃真くんと旅行……私も行きたい」


 少し恥ずかしそうにしつつも、詩依もしっかりと言葉にしてくれた。

 その願いを受け入れるように、俺はしっかりと頷いてみせる。

 もちろん、旅行に行くなら、宿代や交通費も必要だ。海の家のバイトだけじゃ全然足りないだろう。他にバイトもしないといけない。

 でも、恋人や友達との時間も大事にしたかった。課題だって片付けなきゃいけない。時間はたくさんあるはずなのに、全然足りなかった。

 そう思わされるのは、今、自分の周りに「やりたいこと」と「守りたいもの」が増えてきたからだろう。

 でも、不思議と不安はなかった。

 心配することはない。

 俺たちの夏休みは、まだ始まったばかりなのだから。

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