第72話 恋人の水着姿
十四時を過ぎたあたりで、ようやく店内の喧騒が落ち着いてきた。
客足が引き始め、フロアの席もだいぶ空席が目立つようになってきた頃。俺が空いたテーブルを拭いていると、厨房の奥から妙子さんの声が響いた。
「みんなー。ピーク過ぎたし、そろそろ上がっていいわよ! 十七時に店を閉めるから、その時くらいにまた戻ってきてねー」
その声に、店内にいた信一とかるびが思わず顔を見合わせ、ぱっと声を上げた。
「やったー!」
「遊ぶぞー!」
テンションの高いふたりの声が跳ねる。
まるで放課後のチャイムを聞いた小学生のようで、思わず笑ってしまった。
ほんとに、こいつらは元気というか、体力の底がないというか。俺なんかは慣れない接客で結構ぐったりとしてきているのに、全くこいつらは朝から変わらない。
「叔父さん、ほんとにいいの?」
そんなふたりを見つめながら、詩依が隆さんに小さく尋ねた。
厨房の奥で手を拭いていた隆さんは、やや驚いたように目を細めたが、すぐに柔らかく笑って頷いた。
「ああ、もう大丈夫だ。来て早々手伝ってくれて、本当に助かったよ。あとは俺と妙子に任せて、皆で遊んでおいで」
その言葉に、詩依は少しきょとんとした顔をしたかと思うと、小さく微笑んで頷いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、遊びに行こっか」
振り返った詩依の言葉に、かるびが子供みたいにぴょんと跳ねた。
「そうね。じゃあ早速水着に着替えよー!」
「よっしゃー! 海だ海だー!!」
信一もノリノリだ。全く、どこの小学生だよ。
でも、こういう時のテンションは意外と伝染するもので、俺も自然と口元が緩んでいた。
しかし、そんな中、ひとりだけ、どこか違和感を滲ませる仕草をしたのが、詩依だった。
胸元でそっと両手を組んでいる。表情も浮かばず、その指先には少しだけ力が入っていた。
「……どうした?」
俺が小声で訊ねると、詩依は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「え!? な、なんでもないよ……?」
慌てた様子で首を振る。けれど、その顔はどこか不安げにも見えた。
まあ、無理もないか。男子と一緒に海なんて、小学校以来だろうし。
それに、俺の前で水着になるってことも……いや、さすがにそれはちょっと自意識過剰過ぎか。
でも、詩依はどんな水着を選んだのだろうか?
この前、かるびとふたりで水着を新調しに行ったという話は聞いたけれど……まさか、めちゃくちゃ露出度が高い水着を選んだ、とか!?
待て待て。もしそんなものを着られたら俺も理性が保てなくなるし、何だったらここのビーチにいる男どもが野獣と化す可能性もある。どうすればいいんだ、俺は。
……いやいや、詩依に限ってそれはないだろ。
一瞬だけ暴走しそうになった思春期の妄想力を御し、小さく息を吐いた。
ただでさえ恥ずかしがり屋なのだ。詩依がそんな大胆な水着を選ぶとは思えない。
「じゃ、俺らは共用の更衣室の方行くか」
「だな」
俺たちはバッグを肩にかけると、ふたりでビーチ共用の仮設の簡易更衣室へと向かった。
海の家の事務所にも更衣室はあるのだが、そちらは詩依とかるびに使ってもらった方がいいだろう。
「ん~! 海、いいなぁ」
海の家から出て、大きく伸びをした。
労働からの解放感が半端ない。気温は高いが、海風があるおかげで不快感も全くなかった。何だか、この解放感を味わえただけでも海に来た甲斐があったと思える。
信一が言った。
「バイトも疲れたけど、こう、爽やかな疲れって感じだよな」
「え、お前疲れんの?」
「疲れるだろ、そりゃ! あんた俺のことなんだと思ってんの!?」
そんなバカなやり取りをしつつ、俺たちは共用の更衣室に入るなり、早速バッグから水着へと着替えていく。
上にはラッシュガードパーカーを羽織って、日焼け対策もばっちりだ。
「よっしゃ、準備完了!」
信一がやたら派手なトロピカル柄の海パンを穿いて仁王立ちしていた。
見ているだけで眩しくなるような柄だ。正直、これを履く勇気はあまりない。
「そんなの、どこで買ったんだよ……」
「ドンキに決まってんだろ? 結構安かったんだぜ」
想像通りの答えに苦笑しながら、俺もタオルを肩に掛けた。
「先にビーチの方出てようぜ。場所取りもしとかねーと」
信一がバッグの中からでかいピクニックシートを引っ張り出して言った。
こいつの荷物の多さをバカにしてはいたものの、こうした用意には助かる。ピクニックシートなんて荷物になるし、ビーチの売店で買うつもりだったのだけれど、手間が省けた。
「確かにな」
時刻は十四時を回っていて、ビーチには人も多い。
女子は着替えに時間が掛かりそうだし、俺たちで先に場所取りをしておいた方が良さそうだ。
歩き慣れない砂の上をゆっくりと歩いていく。砂浜にはすでにたくさんの人がシートを広げていて、場所取りは熾烈な戦いになりそうだった。
それでも、海の家から少し離れた木陰に、僅かなスペースがあった。
「お、ここ良さそうじゃね?」
「ナイス。よし、ここに決定」
俺たちは早速シートを広げた。
パラソルはないけど、背後にちょっとした木陰があるだけでも助かる。木の影が少しだけ砂に差し込んでいて、直射日光を避けるには十分だった。
「ふう。あとは女子組が来るのを待つだけだな」
そう言って腰を下ろした瞬間、後ろから元気な声が掛かった。
「お待たせ~!」
振り返ると、そこには浮き輪を片手に持ったかるびの姿があった。
「おっ……?」
その姿に、思わず目を見張る。
かるびは結構大胆なビキニスタイルだった。下はスカートっぽくなっていて、動きやすそうなデザイン。けれど、上は肩と背中ががっつり開いていて、普段の制服姿とのギャップが激しい。
何より、着やせするタイプだったのか、想像以上に胸が大きかった。
「……っ!?」
隣の信一も、大きく目を見開いて固まってしまっていた。
そんな信一に気付いて、かるびが得意げな笑みを浮かべてみせた。
「お? あたしの水着姿に見惚れてるな~? お触りは禁止よ?」
「す、するかよ! 十年早えぜ!」
顔を真っ赤にして強がる信一。
その様子に、俺とかるびは思わず顔を見合わせて、ぷっと噴き出した。
「三浦くんは、あたしに見惚れてちゃダメよ? あんたが見惚れなきゃいけないのは、あたしじゃないし」
念を押すようにして、かるびが言った。
「わかってるって。そんで、詩依は?」
俺が尋ねると、かるびはちょっと肩をすくめて答えた。
「まあ、そのうち来るんじゃない? 何だか緊張するって言って、なかなか出てこなかったのよね~」
その言葉に「詩依らしいな」と小さく笑いそうになった時だった。
「えっと……お待たせ」
おずおずとした声が背後から聞こえた。
振り返った俺の視界に飛び込んできたのは……まるで天使かと思うような、詩依の水着姿だった。
上下白のフリルビキニ。きゅっと引き締まったウエストと、白く透き通るような肌が、夏の光を柔らかく弾いている。
髪はさっきまでのサイドアップから、すっきりとしたポニーテールに変わっていた。控えめなリップに彩られた唇、そして恥じらいに伏せられた視線──
ヤバい。これは反則だろ。
可愛すぎて、声どころか、呼吸すら忘れそうになる。
信一とかるびが、俺たちを見てニヤニヤしているのが視界の隅でわかった。
「ほーら、感想は?」
「カノジョの水着姿だぞ? 何か言えよ」
信一に背中を押されて、自然と詩依の前に立たされる。
詩依は赤くなった頬を押さえるようにしながら、視線をうろうろと彷徨わせていた。
この状況で言わされるのは、割としんどいものがあるんだけど……でも、ちゃんと言わないとな。
「……可愛いよ。めっちゃ、可愛い」
言い終えたあと、自分でもどうしようもないくらい顔が熱くなっていた。
「あ、ありがとう……ござい、ます」
詩依もまた、頬を真っ赤にしながら俯いた。
そんな俺たちの様子を見ながら、信一とかるびが言った。
「なぁ、かるび。いつから日本は赤道直下の熱帯地域になったんだ?」
「てぇてぇわ……これこそてぇてぇなのよ……」
こいつら、一回しばいたろか。




