第54話 柏木莉音②
雪村詩依──その名前を出した莉音の声は、どこか張り詰めていて。
まるで、自分の中でずっと言えずにいた本音が、堰を切ったかのように溢れ出た瞬間だった。
「詩依?」
「そう。あたしが桃真のクラスに遊びに行ったら、桃真、あの子のこと見てた」
俺が詩依を見ていた?
正直、全然記憶になかった。でも、全く見ていなかったかといえば、それも否定できない。
俺は二年になって詩依と同じクラスになったことで、多少なりとも困惑を覚えていた。
どうすればいいのかわからなくて、妙な居心地の悪さを覚えていて。意識しないようにしているのに、どうしても意識してしまっていた。
同じクラスになるの久しぶりだね、くらいの言葉を交わせばよかったのに、それもできないくらいに気まずくて。
それは俺の中での初恋を未だ消化し切れていなかったからだ。そして、それはきっと……詩依も同じだったのではないだろうか。
「ただ見てるだけならよかったんだよ? あの子、可愛いしさ。あたしだってそう思うし、男子ならつい見ちゃうこともあるのかなって。一応、そう納得はしようとしてみたんだけど、やっぱりなんか、凄く嫌だった。多分それは、桃真があの子をただ可愛いから見てるっていうのと違う気がしたから……だと思う」
莉音はそこまで言うと、悲しそうに顔を伏せた。
俺は訊いた。
「お前からは、どう見えてた?」
「凄く……凄く、桃真は寂しそうだった」
「……そうか」
俺にはその場面の記憶がないし、明確にいつのことを言っているのかもわからない。でも、莉音がそう見えたのなら、そうだったのだろう。
きっと、心の奥底にあるモヤモヤを抱えたまま、無意識に詩依のことを見てしまっていて。そんな一部始終を、莉音は見ていたのだ。
「もともとスキンシップが少ないことにちょっと悩んでた時だったからさ。それ見て、一気に不安になっちゃって……ちょうど保住先輩と仲良くなったタイミングもその時で。そこからは、なんか全部良くない方向に話が進んじゃった。あたしが全部、悪いんだけど」
「いや……その話聞いたら、俺にも悪いところはあるだろ」
付き合っている恋人がいるのに、昔の初恋に引きずられて、そちらに意識を持っていかれてしまっていた。
たとえ無意識のことだったとはいえ、その一部始終を見ていれば、恋人なら嫌な思いをして当然だ。もし仮に俺が莉音の立場だったら、同じように不安になっていたと思う。
「ありがと。桃真ならそう言うと思ってたよ。でも……だからって、あたしのしたことが許されるわけじゃないから。お相子だって言うつもりも、もうないし」
この前はあったけどね、と莉音は微苦笑を浮かべた。
そこで、なるほどな、と合点がいく。
体育祭の時、彼女にどことなく俺を咎める雰囲気があったのは、もっと前から詩依のことが引っ掛かっていたからだ。何となく俺が詩依に惹かれていると思っていて、自分と別れてすぐ、その詩依と俺が一緒にいる。そんな場面を見れば、莉音が腹を立てる理由もわかる気がした。彼女がお相子だと言いたくなったのも、わからなくもない。
「ねえ、訊いていい?」
「ん?」
「あの子……雪村詩依は、桃真の何なの? 何でそんなに仲良いの? あたし、付き合ってる時はちゃんと桃真のこと見てたつもりだけど、あの子との関係だけは本当にわかんない」
キッと睨みつけるようにして、莉音が訊いた。
悔しそうで、泣きそうで。でも、諦めたくもないという気持ちもそこにはあって。いや、その答えを聞くことで、彼女は諦めようとしているのかもしれない。
もう、隠す必要もないだろう。俺はその視線に応えるようにじっと莉音を見据えて、答えた。
「……幼馴染なんだ」
「へっ? 幼馴染?」
その答えは予想していなかったのだろう。
莉音は目を大きく見開いて、そう吃驚の言葉を漏らしていた。
「そう。同じマンションに住んでてさ。物心つく前からずっと一緒で、親同士も仲良くて。それで……俺の初恋の人、でもあって」
初恋という単語に、莉音が息を呑んだのがわかった。
俺はそれに気付かない見ふりをして、続けていく。
「でも、詩依は中学上がってからあんな感じで一気に有名になっちゃったからさ。何となく引け目感じて、俺から避けるようになって……そっからずっと話してなかった。同じクラスになって変に意識してたのは、それが理由」
「そうなんだ……じゃあ、いつ話すようになったの? 別れた次の日には、一緒に登校してたよね」
莉音は瞳を震わせ、何かに怯えるようにして訊いてきた。
そっか……莉音はあの時の俺たちを見ていたのか。なら、尚更色々な疑念を持ってしまっただろう。
俺も詩依も、たぶん久しぶりに話せたことが嬉しくて、そんなところにまで気が回っていなかった。かるびや信一がいなかったら、もっと面倒なことになっていたかもしれない。
ただ、莉音の瞳からは、さっきのように俺を咎めるような、恨むような感情は消えていた。
「お前に振られたあの日だよ。それまでは、目が合うことはあっても挨拶すらしてなかった」
俺は正直に答えることにした。
今の莉音なら、ちゃんと話が通じる。その確信が持てたというのもあった。
「え、あの日に……!? どうして?」
「お前に振られてから、正直どうやって家まで帰ったのかは覚えてないんだけどさ……でも、そんな状況だと親とも顔合わせたくないだろ? そんで、マンションの近くの公園でぼーっと雨に打たれてたら、それに気付いたあいつが傘を差し出してくれた。話すようになったのは、それからだよ」
ことの真相に、莉音は言葉を失っていた。
嘘みたいな、本当の話。莉音の立場からすれば信じられないかもしれないけれど、それ以上でもそれ以下でもない。
俺たちの再会は……莉音との別れから始まった。それは間違いないのだから。
「……なーんだ。じゃあ、やっぱ全部あたしのせいだったんじゃんか」
暫く黙っていたかと思うと、莉音は何かに納得した様子で、ふっと小さな笑みを浮かべた。
「そっか。あたしが自分から捨てちゃって……あの子に付け入る隙を与えたんだ。それなら……文句のつけようもないなぁ」
そう独り言ちる彼女はどこか清々しそうで。これまでずっと彼女に纏わりついていた瘴気みたいなものが、すっと消えていくのを感じた気がした。
何故だろう?
今、久々に莉音と会っている、という感覚になった。
別れてから何度か顔を合わせているはずだけど、心のどこかで俺と付き合っていた莉音とは似て非なるもの、という印象が先立っていた。それは莉音と保住の関係を知った俺の嫌悪感から来ているものだと思っていたが、それだけでもなかったようだ。
魔が差して、何かに囚われていた。そういうことだったのかもしれない。
でも、今話している莉音は……間違いなく、俺と付き合っていた頃の彼女だった。




