第53話 柏木莉音
校舎裏の壁にもたれかかって空を見上げながら、莉音を待っていた。
空は今年も雲一つない晴天だった。まだ梅雨は開けていないはずなのに、珍しく晴れ渡っている。
体育祭以降、莉音から接触はなかった。あれ以降は学校で俺とすれ違っても、気まずそうに目を逸らすだけだ。
だから、もう何もないと踏んでいた。それなのに……テスト明けに届いた、あの一通のメッセージ。
これから、ここで何が起こるのだろうか?
正直、全く想像ができなかった。莉音が何を言い出すのか、或いはどんな話があるのかさえ想像がつかない。
じゃり、と砂を踏む音が聞こえたので、視線を地上に戻すと、そこには柏木莉音がいた。背は一六〇cmに僅かに満たないくらいで、やや釣り目で整った顔立ちと大人っぽくて女性的なプロポーションが印象的な女子。肩より少し長いピンクブロンドの髪の髪が、蒸し暑い風に揺らされている。
「悪いね、いきなり呼び出して」
莉音は悪びれた様子もなく言った。
「いや、別にいいよ。それより、話って?」
俺が少し話を急かすと、莉音は呆れたように溜め息を吐いた。
「相変わらず女心わかってないなぁ、君。乙女が一世一代の勇気を振り絞って殿方を呼び出してるんだからさ、そんなに急かさないでよ。ただ世間話をするつもりで呼び出したわけじゃないことくらい、わかってるでしょ?」
少し咎めるようでありながらも柔らかな声音で言って、目を細めた。
前みたいに喧嘩腰で突っかかってくるような感じでもなければ、何かをまくしたてる感じでもない。どことなく、覚悟を持って話に来た、というのが伝わってきた。
「それもそうだな……悪かったよ」
俺は片手を上げて詫びを示すと、小さく溜め息を吐いた。
こっちも関係を清算するつもりで来ている。ここで変な方向に話を拗らせたくはなかった。
「……桃真、あたしと付き合ってた頃とはもう完全に別人だね」
莉音は首を横に振り、唐突にそう言った。
「別に、髪型も体型も変わってないと思うんだけど」
「そういうことじゃないよ」
彼女はくすっと笑って、俺の横に並ぶようにして立った。そして、俺を見上げてじーっと見ると、にっこりと笑う。
「うん、やっぱり別人」
「どこがだよ」
「何ていうか……大人っぽくなったかな。桃真、やっぱりかっこいいよ」
浮気され別れた元恋人からいきなりそんな風に言われると思っておらず、思わずその場を飛び退いてしまった。そして、ずりずりと後ずさる。
「そんなにびっくりしないでよ。あたしの本心なんだから。ううん、それだけじゃない。今からここで話す事は、全部あたしの本心」
「本心、ね……?」
「うん、そう。だから、あたしの話、聞いてほしい」
懇願するように上目遣いで言われ、思わずどきっとしてしまう自分が憎々しい。
何だかバレンタインデーの日を思い出してしまった。あの日も莉音はこんな風な眼差しで告白してきたのだ。
俺がごくりと唾を飲んでから頷くと、莉音は視線を地面に落とし、小さく深呼吸をした。それから、ぽつりぽつりと話し出す。
「あたしさ……本当は不安だったんだ」
「不安?」
「うん。桃真ってさ、付き合ってても自分から触れて来ようとしなかったし、スキンシップも全然だったじゃん? 手を繋ぐのもキスも毎回あたしからで、本当は好きじゃないのかな、とか。こう見えて、自分のスタイルにはそこそこ自信あったからさ。あたしって魅力ないのかな~って、一気に不安になっちゃったんだよね」
「……マジか」
全然気付いてなかった。
確かに、莉音と付き合っていた時は自分からスキンシップはしないようにしていた。
それは触れたくなかったとかではもちろんなくて、そうしていいのかどうかがわからなかった、というのが本音だ。
なんていうか……そもそも、俺と莉音はよく話すクラスメイト程度の間柄で、そこまで親しい仲ではなかった。付き合ってからもノリとか会話はそこまで変わらなかったし、どういう距離感で接していけばいいのか測り兼ねていたのだと思う。
詩依以外の女の子と親しくなったことがなくて、でも詩依との距離感だって一朝一夕でできたものではなくて、再現性がない。俺は、女子との距離の縮め方を知らなかったのだ。
縮め過ぎて相手に嫌な想いをさせてしまうのが怖くて、だから俺は、一歩距離を置いて接していた。莉音はそんな俺の態度に、不安を感じていたのだろう。
「それは……悪かった」
「ううん。あたしはもっと悪いことしたから。桃真を責める資格なんてないよ」
莉音は力なく笑って、続けた。
「不安だったなら、桃真に相談すればよかったのにね。楽な方に逃げて、保住先輩に相談して、それでなし崩しであんな関係になっていって……後ろめたくて隠して、でも、別れたくもなくて。ほんと、最低だと思う」
そこから、莉音がどうして保住とあんな関係になったのかについての流れも聞いた。
聞いていて気持ちのいい話ではなかったし、彼女も言いたくなかっただろうけど……多分、お互いがそれを越えないと前に進めない。それは何となくわかっていた。
莉音は俺のせいで失ってしまった自信を満たすため、保住の欲求に呑まれていった。それを選んだのは彼女の選択だけれど、その選択肢を与えてしまった要因は俺にもあるわけで。たぶん、俺のダメだったところがそこに詰まっているのだと思う。
「保住先輩のことに関しては、あたしが全部悪い。確かに不安だったけど……だからってしていいことじゃないし。だから、本当にごめん。謝っても許されることじゃないのはわかってるけど……せめて、謝るくらいはさせてほしい」
「……もういいよ。終わったことだしな」
俺は嘆息して、莉音から視線を逸らした。
謝られたところで彼女がしたことが消えるわけでもないし、俺の中で咀嚼できるわけでもない。恨んでも悲しんでも何かが変わるわけでもなかった。
それなら……もう、終わったことだと片付けるしかない。
「でもさ、あたしが不安になったのって、ただスキンシップがなかっただけじゃないんだよね」
「え?」
予想もしていなかった言葉に、俺は思わず顔を上げた。
不安にさせるようなことって、他に何があったのだろう?
全然心当たりがない。
「桃真……二年になってから、あの子のこと目で追ってたから」
莉音は俺をじっと見つめ、一瞬だけどこか咎めるような目つきになったかと思えば、すぐにはっとして視線を逸らした。
それから、彼女はこう続けた。
「……雪村詩依」