第43話 野球部エースと女子マネの噂
それから瞬く間に時間は過ぎていった。
これまでみたいな穏やかな放課後は消え去り、リレーや二人三脚、ムカデ競争など何かしらの練習に付き合わされる羽目になって、帰りも詩依と別々になることが多かった。
本当に忌々しい。何で運動部でもないのにこんなに出しゃばらないといけないんだろう?
体育祭なんてのは、運動部の連中がどや顔するために設けられたイベントだ。俺みたいな小市民は最低出場種目プラスアルファくらいで十分なのに……まあ、でも仕方ないか。
クラスの連中からすれば、俺は皆の憧れにして鉄壁な美少女・雪村詩依と何故か最近いきなり仲が良くなっている男子。恨みを買うのもある意味仕方なかった。
詩依の立場が小学生の頃と変わってしまったのなら、そして今の彼女と一緒にいたいと思うならば、こんなことで音を上げていられない。俺は俺で、なるべく詩依の〝幼馴染〟に相応しい人間にならなければならなかった。
そうした努力を怠ってしまったのが、きっと中学から先月までの五年間に至る俺なのだから。
そんなこんなで慌ただしく過ごす中、体育祭当日を迎えていた。
朝、目覚ましのアラームが鳴り響いた瞬間、俺は反射的に顔を顰めた。
カーテンの隙間から差し込んでいる光はどこまでも眩しくて、起きた瞬間快晴だということが窺い知れる。これ以上ないくらいの体育祭日和だ。
しかし、気分は天気に反比例して重い。
え~っと……今日俺の出る種目、なんだっけ?
布団に顔を埋めたまま、今日のスケジュールを思い浮かべる。
一〇〇m走、四〇〇mリレー、大縄跳び、綱引き、ムカデ競争、障害物競走、二人三脚、玉入れ。
……いやいや、冷静に考えたらやっぱ頭おかしいだろ、これ。
たった一日でこれだけこなすとか、正気の沙汰じゃない。しかも、大縄跳び、ムカデ競争以外の種目は全部午前中に固まっている。午後になる前には力尽きてそうだ。
生きて帰れるだろうか? この晴れっぷりなら気温も高そうだし、下手したら倒れて保健室直行だ。そんな自分の未来を想像できてしまって、溜め息が漏れる。
「はぁ~……起きるか」
いつまでもだらだらしているわけにもいかない。
意を決して身体を起こし、身支度を整えた。
顔を洗って学校指定のジャージに着替えると(体育祭はジャージや体操着で登校することになっているのだ)、朝食を食した。
トーストにスクランブルエッグ、それとベーコン。普段の朝より少しだけ豪華なのは、体育祭だからだろうか。母さんなりの応援なのかもしれない。
だが、食欲は今ひとつ。無理やり口に詰め込み、味わう余裕もなく胃に流し込んでいく。
せっかく作ってくれたのに申し訳ない気もするが、今日は何かを楽しむ余裕なんてなさそうだ。
食器を流しに置き、洗面所で顔を洗う。
冷たいお茶を流し込んで何とか気持ちを切り替えようとするが、どこか頭はぼんやりしていた。
気付けばいい時間になっていたので、そのまま家を出た。
玄関扉を出た瞬間に、青色一色の空が視界に飛び込んでくる。まるで絵に描いたような清々しい空だというのに、俺の心の中は鉛のように重かった。
「おはよ、桃真くん」
エントランスに降りると、先に待っていた詩依が柔らかい笑顔を向けてくれた。
いつもは制服姿の彼女が、今日は学校指定の体育着を着て立っていた。俺と同じ深めの緑を基調とした学校指定のジャージに白のライン、ネーム刺繍の入った胸元。シンプルなはずなのに、彼女が身にまとえばどこか垢抜けて見えるのは、顔立ちや雰囲気のせいだけじゃないと思う。
袖口から覗く白い手首、ハーフパンツの裾から伸びる細くしなやかな脚。普段は真っすぐ下ろされている長い髪が今日はポニーテールになっていて、僅かに揺れていた。普段よりも素朴な装いなのに、逆にそれが新鮮で。どうしてか目が離せなかった。
何でもない姿のはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。
そういえば、あんまり体操着の時にじっと見るなんてないもんな。
「……どうしたの?」
俺が固まっていたからか、彼女がきょとんとして小首を傾げた。
「いや、何でもないよ。行くか」
「うん」
少しいつもと違う朝にドキドキしつつも、いつもみたいにふたりで登校。途中で信一とかるびのふたりと合流して、学校へと向かった。
終始信一とかるびは俺の過酷な一日を茶化して慰めてくれていたが、詩依だけはどこか心配そうにしてくれていた。それだけが救いだ。
順位なんてどうでもいい。とりあえず、全部全力でやり切って、今日という一日を乗り越えよう。
そんな決意を持って校門をくぐり、荷物を教室に置いていつもの四人でグラウンドへ向かった。開会式はグラウンドで行われ、それから各々出場する種目の場所に行ったり応援に行ったりする流れだ。
グラウンドでは、すでにクラスごとの場所取りが行われていて、赤・青・白・黄とカラフルなテントが並び、そこに生徒たちが次々と吸い込まれていく。
俺たちもその流れに乗りつつ、ふと周囲に目を向けた。
すると、少し離れたところで、一組のカップルを見つける。片割れは、見知った野郎で二度と顔を見たくもない男。莉音を寝取った保住の野郎だったのだ。
だが、瞬時にその光景に違和感を覚えた。
「あれ……?」
保住の野郎の隣にいたのは、莉音ではなかった。
栗色の髪をポニーテールにまとめた、小柄で可愛らしい女子。俺たちと同じ緑色のジャージを着ていることから、二年生であることが見て取れる。
ふたりは周囲の目も気にせずイチャついていて、保住の野郎がその女子の腰に自然と手を回していた。そのまま、彼女の耳元に顔を近づけて何かを囁きかける。そのたびにその女子は嬉しそうに笑い声を上げ、保住の肩に軽く凭れ掛かっていた。
そのあまりに自然な仕草に、周囲の空気も微妙に変わっている。傍から見ると、どう見ても付き合っているようにしか見えなかった。
「あー……〝野球部の天使様〟だろ?」
信一がやや遠慮がちに言った。
保住の野郎がいることで、俺が嫌な気持ちになるのかもしれないと気遣ってくれたのだろう。
「〝野球部の天使様〟?」
「そ。野球部女子マネの粗野美海。〝野球部の天使様〟って言われてて、部員の憧れだったんだよ。それがここにきて、いきなりエースの保住先輩と付き合い始めたらしい」
信一がケッと毒吐いた。
「ってことは、結局莉音とは付き合わなかったのか?」
「じゃねーの? まあ、すぐに別れたのかもしれんが。にしても、腹立つぜぇ……なんであんな糞野郎がホイホイ可愛い子と付き合えるんだよッ! それがエースだってか? 不平等過ぎるだろおおおお!」
信一が周囲の男子の気持ちを代弁するかのように、怒りを吐露した。
保住の野郎が最低な糞野郎というのはまあ俺も同意なのだけれど、モテるってことはそれだけ何かしら雄としての魅力があるということだろうか。
莉音とも知らない間に仲良くなっていたみたいだし、まあ何かしら上手いのだろう。
そんなことを考えていると、かるびが頭の後ろで手を組みながら、やれやれといった様子で言った。
「まあ、確かに可愛いんだけどさ~。あの子、あたしあんま好きじゃないんだよね」
「なんかあったの?」
信一がかるびに訊いた。
「別に何も? でも、あんまあの子の印象良くないんだよね。あたしあの子と同中だったから知ってるんだけど、結構あの時から彼氏とっかえひっかえしててさ。二股とかしてたっぽくて、修羅場作ってたみたいだし。高校では猫被ってるみたいだけど、たぶんあたしと同中の女子は皆結構苦手なんじゃないかな?」
「へぇ……」
結構ばっさり切り捨てている。
あんまり人のことを嫌いにならなそうなかるびが、ここまで苦手意識を表に出すのは結構意外だ。
かるびは噂だけで人をここまで否定するような人間ではない。おそらく、中学時代の粗野美海の素行が余程目に付いたのだろう。
男子人気は妙に高いけれど、女子からはあまり良い噂を聞かない──そういうタイプの女子は、えてして内側に問題を抱えているものだ。
その〝野球部の天使様〟が改心したのか、そういった火遊びを今もしているのかはわからない。ただ、どうやら保住の野郎も一癖ある女を掴んだらしい。
でも、だとしたら……莉音はどうしているのだろう?
『……ごめん。浮気した』
『それから……浮気が本気になっちゃった。だから、もう別れて』
ゴールデンウイーク明けの雨の日に莉音から言われた言葉が自然と蘇る。
浮気が本気になって、それから体の関係も持っていたのなら、もう付き合うだけなのだと思っていたのだけれど……案外上手くいかなかったのかな。
そんなことに思考を巡らせていると、隣にいた詩依と目が合った。どこか心配した様子で、眉をハの字にしてこちらをじっと見つめている。
保住や〝野球部の天使様〟の話で俺が不快感を抱いていないか、気にしてくれていたのだろう。
「ばか、大丈夫だよ」
俺は肩を竦めて、詩依に小さく笑ってみせる。
そう言ってやると、彼女も安堵したかのように「そっか」と柔らかい笑みを浮かべた。
……うん、そうだった。
もう俺は、あいつらとは関係ない。今は、今隣にいる人たちを大切にしよう。
そう自分に言い聞かせながら、開会式の整列場所へと足を進めた。




