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第41話 ケーキと涙

 かるびと信一がふたりで帰っていき、俺の部屋には静寂が訪れた。

 玄関が閉まる音を合図に、しばらくその場に立ち尽くす。さっきまでの賑やかさが嘘みたいだ。部屋に漂う甘いケーキの匂いと、少し熱を帯びた空気だけが、ついさっきまでの余韻を留めていた。


「……ったく、めちゃくちゃにしていきやがって」


 部屋を見渡して、俺は大きく溜め息を吐いた。

 ローテーブルの上には食べ散らかしたお菓子の袋やジュースの空きペットボトル、なんか信一が持ってきたゲーム盤の諸々(持って帰るのが面倒だから預けておくとか言いそのまま帰りやがった)。

 ここまで荒れるとは思わなかったけれど……まあ、楽しかったしいいか。


「その……ごめんね? お部屋、汚しちゃって」


 詩依が部屋を見るなり申し訳なさそうにそう漏らした。

 彼女はエレベーターまでふたりを見送ってからまた俺の部屋まで戻ってきたのだが、改めてこの惨状を見て、げんなりしたのだろう。


「別に、詩依が汚したわけじゃないだろ」


 俺は肩を竦めてから、床に転がったお菓子袋を拾い上げる。

 犯人はもちろん、信一とかるびだ。

 ふたりも片付けを手伝うと言ってくれたのだけれど、かるびは家が遠い。あまり遅くに帰らせるわけにもいかないので、帰したのだ。


「ごみ袋、持ってくるね」

「場所わかる? 冷蔵庫の横の」

「うん。下の棚だよね?」

「そうそう」


 詩依がパタパタとスリッパを鳴らして、台所に向かった。

 ふと冷静になってみたが……詩依がこうして当たり前にごみ袋の所在を知っているのって、何だか変な感じだ。

 母さんの提案から詩依がうちで夕飯を食べるようになってから、はや数週間。いつも詩依は母さんと一緒に夕飯を作っているので、当然ごみ袋の在り処を知っていても不思議ではないのだけれど……こう、いきなり距離感が変わり過ぎているというか。

 前まで殆ど他人同然だった清楚可憐な幼馴染が、この数週間で当たり前に家にいる。この感覚には慣れなかった。

 詩依が四〇リットルの大きなごみ袋を取ってきてからは、自然な流れで片付けを始めた。

 テーブルの上のケーキの皿を重ね、ペットボトルをまとめてビニール袋に放り込む。床に転がった菓子くずやコマを拾い集めて、またゲームボードを折りたたんで箱に仕舞った。

 無言の作業。それでも、不思議と居心地は悪くなかった。

 詩依は床に落ちた小さなゴミも見逃さず、ティッシュを丁寧に折り畳んで、細かい菓子くずも逃さずに拭き取っていく。その姿が何だか健気で、見ていて胸の奥がくすぐったくなった。

 ある程度片付けが進んだ頃、ふとローテーブルに視線をやると……ラップを掛けられた皿が一枚、ぽつんと取り残されている。中には、残り一切れになったショートケーキ。


「……あれ? ケーキ、まだ残ってたのか」


 勿体ない。せっかくの詩依の手作りだというのに……とは思ったものの、ケーキそのものも大きかった上に、大量にスナック菓子もあった。

 さすがに食べきれなかったのだろう。


「食べちゃっていいか?」


 詩依に訊いた。


「お腹いっぱいじゃないの?」

「いや、全然余裕。食べる。てか食べたいし」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど……無理しないでね」


 詩依は困ったように笑うと、そのケーキと一緒に余っていたプラスチックフォークも添えて渡してくれた。

 勉強机に凭れ掛かって、そのままケーキを食していく。

 うん、やっぱり美味い。

 ふわふわとスポンジケーキに、程よい甘さの生クリーム。そこに苺も相まって、もはやこれはショートケーキの理想と言っても差支えがない。

 そんなことを考えながらもぐもぐと食べていると、ローテーブルを拭いていた詩依がこちらを見上げていた。


「……美味しい?」


 そして、不安げにこう訊いてくる。

 なんだか、初めて料理をご馳走になった時よりも不安そうに見えた。

 どうしてだろう? さっきも散々美味い美味いって皆と一緒に言っていたように思うのだけれど。


「え、何で? 普通にめちゃくちゃ美味いけど?」


 正直に答えて、ぱくぱくと食べていく。

 本当はもうちょっと空腹の時に食べたかった気持ちもあるのだけれど、明日まで冷蔵庫に保管しておくと生クリームが固くなってしまいそうだ。どうせなら、一番美味しい形で食べておきたかった。それに、おそらく冷蔵庫の中にケーキがあったなら……母さんが仕事終わりにぺろりと食べてしまう気がする。

 そんなことを考えながら食べていると、ふと視界の隅で詩依の手がぴたりと止まった。俯いたまま、かすかに肩が震え──いきなりぐすっと泣き声が漏れるのが聞こえて、はっと顔を上げる。

 詩依が肩を震わせ、両手で顔を覆い泣いていた。


「はっ……え!?」


 いきなりの状況に頭がついてこず、一気にステータスが混乱に陥った。

 わけがわからない。


「ちょ、ちょっと待った。俺、今なんか変なこと言った!?」


 慌ててお皿とフォークを勉強机の上に置くと、俺は詩依の隣に駆け寄った。

 しかし、詩依はイヤイヤするように首を振る。


「ごめ、ん。なんでも、ない、から……」


 そう言って、堪えきれないように声を詰まらせた。

 なんでもなかったらいきなり泣くわけがない。でも、全く思い当たるところがなかった。

 何か昔俺がやらかしたのかと思ってケーキに纏わる何かを想い出そうとするも、本当に記憶にない。

 でも、詩依が泣いているのは事実で、そして、きっと泣くに値する何かがあったのも間違いなくて。

 少しだけ躊躇ったものの……俺は、詩依の細い肩をそっと抱き寄せた。四つ葉のクローバーを見つけたあの日のように、できるだけ優しく。

 詩依は、やっぱりあの日みたいに嫌がらなくて。少しだけ、俺の方に身体をすり寄せてから、小さく咽び泣いた。


「その……たぶん、俺のせい、なんだよな?」


 詩依を抱き寄せたまま、恐る恐る訊いてみた。

 正直、全く記憶にない。少なくとも詩依がケーキを作れるようになっていたことさえ俺は知らなかった。ただ俺がケーキを食って美味いと言ったことで、詩依が泣く意味がわからない。

 でも、何の意味もなく泣くわけがなくて。さっき四人でケーキを食べた時に何もなかったということは、きっとちゃんとした理由があるはずなのだ。


(ちが)、う……」


 詩依は俺の胸に額を押し付けるようにして、首を横に振った。

 そして、こう続ける。


「私の、せい、だから。私が、ダメだった、だけだから」


 まるで自分に言い聞かせるようにして、ひっく、ひっくとしゃくり上げる。

 何が詩依のせいで、何がダメだったのかの説明はなかった。きっと、説明する気もないのだろう。

 教えてくれない以上、或いはその理由がわからない以上、俺にできることなんて、たかが知れている。ただ彼女の肩をさっきよりもほんの少しだけ強く抱きしめて、その背中を撫でてやることくらいしかできなかった。

 すると、詩依も遠慮がちに俺の腰に手を回して。大切なものを守るかのように、腕に力を込めた。


「詩依……?」


 彼女は何も答えず、ただ嗚咽を堪えるだけだった。

 何だか、この状況が信じられない。

 俺の部屋で、高校生の詩依がいて。お互いに相手を抱き締め合っていて。詩依の小さくすすり泣く声だけが、俺の部屋に響いている。

 夢なんじゃないかと思ってしまう状況だけど、リビングの方から微かに漏れ聞こえる換気扇の音がやけに現実的で、ここが夢じゃないのだと教えてくれた。

 それから暫くして、詩依は泣き止んだ。あの日と違って、今回は収まるまであまり時間は掛からなかった。


「……ありがとう。もう、大丈夫」

「ほんとかよ?」

「うん。たまに……不安定になることがあって。いきなりごめんね」


 詩依は腕の力を緩めて隙間を作ると、恥ずかしそうにこちらを見上げた。

 向かい合って殆ど抱き合っている状態でそうなると、当然見つめ合う形になるわけで。このままキスでもするんじゃないかってくらいに、彼女の顔が近くにあった。

 涙で潤むその青み掛かった大きな瞳があまりに弱々しくて、いつも以上に儚げで。どうしようもなく守ってあげたくなってしまって。

 もし付き合っていたなら、このままキスだってしてしまえるのに。つい、そんな不謹慎なことを考えてしまう。

 そこで詩依も距離の近さに気付いたのか、はっとして俺から離れた。


「……えっと、ごめん。また、ここ濡らしちゃった」


 困ったように笑って、俺の胸元を指差す。


「いや、別にそれはいいよ。それよか、もし俺に何か不満とかあるんだったら言ってほしいんだけど」


 今回ばっかりは、本当にわからない。自覚がないだけで何かしていたとか? それだったらはっきり教えてもらわないと困る。

 しかし、詩依は首を横に振った。


「ううん、ほんとに違うの。今回は、ほんとに私が勝手に情緒不安定になっちゃっただけで……桃真くんは、悪くないよ。それに、今のも悲しくて泣いたわけじゃないし」

「そうなのか?」


 全然そうは見えなかったんだけど。何だか辛いのを堪えているみたいな泣き方だったように見えなくもない。

 でも、詩依は俺のそんな疑念を否定すべく、「うん」と小さく頷いて。柔らかく微笑んで、こう紡いだのだった。


「桃真くんにケーキ食べてもらえて、嬉しかったから。それで、泣いちゃったの」

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