第4話 疎遠になった幼馴染に、何故か風呂に放り込まれた
雨で冷え切った身体にあたたかいお湯が染み渡りっていって、思考がどんどん奪われていく。
見慣れたはずなのに、どうにも雰囲気が異なるように見える浴室の天井。うちと間取りが同じなのだから、当然床や壁の色なんかは同じだ。でも、中の雰囲気は全然異なっていた。
浴室内は綺麗に整えられていて、水垢ひとつ見当たらなかった。おばさんの趣味なのか、或いは詩依の趣味なのかわからないけれど、風呂の中には可愛らしいキャラが描かれたバスチェアとそのセットになっている桶があって、湯舟にはアヒルが浮いている。入浴剤入りのお湯の良い香りに包まれ、自然と力が抜けていった。
お湯の温度はぬる過ぎず熱過ぎずでちょうど良い湯加減。何だかぽかぽかしていて意識もぼんやりとしていたのだが──ノックとともにがちゃっと脱衣所兼洗面所の扉が開く音がして、意識がはっと戻ってくる。
折れ戸の樹脂ガラスの向こうには、うっすらと詩依のシルエットが見えた。
「あ、桃真くん?」
「え!?」
「バスタオルと着替え、ここに置いとくね」
「あ、はい。大丈夫、デス。アリガトウゴザイマス」
何故か片言の返事になってしまった。
けれど、現在の状況を踏まえると、それも仕方ない。正直、思考を放棄しているだけで、今現在の状況が自分自身でも全くわかっていないのだ。
「あと……ごめん」
詩依が、申し訳なさそうに謝った。
「はい!? なにが!?」
「着替え、お父さんのしかなくて。シャツとか下着は今洗濯してるから、乾くまでもうちょっと掛かりそうなの」
「お、お構いなく」
「ちゃんと温まってね? 時間とかは、気にしなくていいから」
詩依はそう言い残し、パタパタとスリッパの足音をさせて脱衣所から出て行った。
部屋の外では、先ほどから電子音と洗濯機が回る音が響いている。ドラム式洗濯機が、きっと俺の服を洗っているのだろう──じゃなくて!
いや、待て待て待て……! どうしてこうなってる? ってか何が起こってる!?
口元まで湯舟に沈んでぶくぶくと息を吐く。
心地よい湯加減と入浴剤の香りでふわふわしていた頭が、今のやり取りと彼女の声で一気に冷静になった。
そうだった。何をこの異常すぎる状況で湯舟に浸かってのんびり入浴を楽しんでいるのだ。
一旦、状況を整理しよう。
まず、さっき詩依に同じマンションの四〇六号室──ちなみにうちは五〇五号室だ──に連れ込まれたかと思うと、彼女はすぐにタオルを持ってきて、俺の頭に被せた。それから「お風呂、ちょうど沸かしてあったから。ちゃんと浸かってね」と俺を脱衣所に押し込み、そのまま入浴するよう指示したのだ。
今日の一連の流れから完全に思考が死んでいたし、雨でびしゃびしゃになっていて気持ち悪かったこともあって、とりあえず髪と身体を洗ってから湯舟に入ったのだけれど……こうして思考が働くようになってみれば、明らかにこの状況はおかしい。というかおかしなことだらけだ。
そもそも、何で詩依は俺に声を掛けたのだろう?
もう最後に話したは、中学に入ったばかりの頃くらいだったと思う。それ以降、この五年間彼女を見掛けることはあっても話すことなんてなかった。
そもそも同じ高校に進学するというのも親から聞かされたくらいで、俺は詩依の情報を何ひとつ持っていなかったのだ。最後に何を話したのかも、もう覚えていない。
先月、二年のクラス替えで小学校ぶりに詩依とは同じクラスになったけれど、だからと言って特に話すこともなかった。というか、そもそも機会がない。詩依は男子とは殆ど話さないし、友達も少ないようなので、共通の知り合いもいなかった。
もちろん、お互いに存在は意識していたけれど……それでも、五年間という月日はあまりな長くて、その間にできた溝も深かったように思う。だからこそ、どうして彼女が今更俺に声を掛けてくれたのかがさっぱりわからなかった。
「……あれ?」
そこで、ふと詩依のことばかり考えている自分に気付く。
何してんだろ、俺。ほんの数時間前に、こっ酷い失恋をしたばかりなのに。
それで一瞬、莉音と保住のことを思い出しそうになったのだけれど──ちょうどその時、脱衣所のドアが軽くノックされた。
「あの、何回もごめんね。入っていい?」
「……どうぞ」と応えると、遠慮がちにドアが開いた。再び樹脂ガラスの向こうに詩依のシルエットが浮かび上がる。
彼女はおずおずとした様子で、こう尋ねてきた。
「えっと……夕飯って、どうしてるの?」
「夕飯?」
「うん。おばさん、今日はパートで夜遅いんでしょ? それで、夕飯どうするのかなって」
「待った。何で詩依がうちの親のシフト知ってんだよ」
色々びっくり続きだけど、それにも驚いた。
俺は詩依のことはもちろん彼女の親のことも何も知らないのに、どうしてこっちだけ一方的に知られているのだろうか。
「おばさん、よくうちに来てお母さんと喋ってるから」
樹脂ガラス越しに、詩依がくすっと笑った。
意外な話に驚く。確かにうちの両親と詩依の両親は昔から仲が良かったけれど、今も関係が続いていたのか。
いや、待てよ?
よくよく思い返してみれば、母親から『詩依ちゃん、この前の期末テスト学年で十位だったんだって。あんたも頑張りなさいよ?』などとちょくちょく詩依情報を聞かされていた。
あまり詩依のことを思い出したくなくて、スルーしていたのだけれど……子供同士が疎遠になっていただけで、親同士は全然そうではなかったのだ。
「それで、夕飯のことだけど……」
詩依が話を戻した。
そうだった。母親がパートに出ている時の夕飯の話をしていたのだった。
「飯は自分でなんかテキトーに作ったり、レトルトのもん食ったり、コンビニとかスーパーの総菜で済ませたり、とかかな。なんか作り置きしてある時もあるけど。今日は未定かなー……」
最近のひとり飯のメニューを思い出し、指折りに数えていく。
ドライフードなんかもたまに食べているけれど、買いに行く余裕がある時は何かしら外食していた。ただ、今日はそんな余裕ないし、そもそも飯のことなんて何も考えてなかった。
すると、詩依か小さな声で呟いた。
「……シチュー」
「はい? シチューがどうした?」
こいつは昔からこういうところがある。
引っ込み思案であまり自分の意見を言わないところが昔からあって、俺は言葉の節々から彼女の願望だったり意見だったりを汲み取らなければならなかった。
まあ、そういうところもきっと、好きになった理由のひとつだったのだろうけど。でも、さすがに一単語だけで全てを汲み取るのは不可能だ。それに、話すことがそもそも久々なので、俺の詩依センサーも完全に錆び付いてしまっている。せめてもうちょっと情報を入れてほしかった。
詩依は何かを決意した様子で小さく息を吐くと……こう続けた。
「うち、今日シチューなんだけど……桃真くんも、食べていく?」
「へ?」
まさかの夕飯のお誘いだった。
どういうこと? お風呂も頂いて、夕飯までご馳走してくれるの?
「えっと。それなら、頂いていきます」
暫く考えてから、そう答えた。
家に帰っても、どうせ何かを作る気力もなければ、外に食べに行く元気も買いに行く気力もない。
それに、話し相手がいた方が色々気分も紛れそうというのも確かにある……と考えてから、違うか、と否定する。
それよりも、こうして昔みたいに詩依と話せたことが素直に嬉しかったのだ。だから、もう少し話したかった。きっとそれが俺の本音だったのだろう。
「うん! じゃあ、頑張って作るねっ」
俺の返事に満足したのか、詩依は声を弾ませて脱衣所から出て行った。
今にも鼻歌を歌いそうだ。
てか、おばさんじゃなくて詩依が作るのか。詩依って料理作れたっけか?
ちゃんと話すのだって五年ぶりなのに、何でこんなに至れり尽くせりなんだろう? さっぱりわからない。
昔は彼女のことなら何だってわかっていたつもりだったのだけれど、五年も経ってしまえば何もわからなくなってしまうようだ。
改めてそれを実感してしまったようで、ほんの少し寂しかった。