第35話 クッソ暇なこの時間にあの約束を
ふたりで歩く川堤は、いつにも増して綺麗に見えた。
夕方の陽射しが傾きかけて、川面にはきらきらと光の粒が浮かんでいる。どこまでも緩やかに流れていく水の帯が、風に揺れるたび柔らかく輝いていて……まるでそれ自体がひとつの景色じゃなく、誰かの記憶の中にだけある幻みたいにさえ思えた。
コンクリートの土手は歩道として整備されていて、ところどころに街路樹が植えられている。風に揺れる木々の隙間から差し込む西陽が、詩依の髪をほんのり金色に染めていた。
すぐ横にいるのに、少しだけ距離がある。だけど、それが心地いい距離に感じられた。どちらともなく歩幅を合わせて、ただ川の流れを見ながら歩く。それだけなのに、何だかとっても晴れやかな気持ちになる。
どうしてふたりこんなところを歩いているのかというと──その説明には、十分ほど時間を遡ることになる。
ショッピングモールでの買い物を終えた俺たちは、最寄り駅から電車に乗り込んだ。休日の午後ということもあり、車内には同じように遊び帰りの乗客がちらほらいた。
詩依と電車に乗るなんていつ以来だろう?
そんなことを考えながら、車窓から流れる景色を眺めていた。
俺たちの間には言葉がなくても、変な沈黙にはならなかった。静かだけど、どこか心地いい。そんな空気感が、自然と俺たちを纏っていた。
そんな時、電車が鉄橋に差し掛かって。春の日差しを受けて、川の水がキラキラと光る川面に目を奪われた。まるで無数の小さな宝石が流れていくようで、その幻想的なきらめきが、とにかく綺麗だったのだ。
それは詩依も同じだった。青み掛かった瞳が光を映して、川面と同じようにキラキラと輝かせている。
その横顔を見ていたら、ふと、言葉が口をついて出た。
『次で降りて、川沿い歩いてみないか? 軽く散歩的な』
最寄り駅のひとつ前なので、少し遠回りにはなる。でも、あの川堤を通れば、俺たちのマンションには帰れる。
詩依は驚いたように目を丸くしてから、ふっと目を細めて頷いたのだった。
電車が次の駅に着くと、俺たちはそのまま降りて──そして、今に至る。
川の水は、宝石を散りばめたみたいに輝いていて、その反射が対岸の緑を照らしていた。水の流れる音と、時折吹き抜ける風。鉄橋を渡る電車の音、道端に咲く小さな花。どれもがゆるやかに、今日という日を締めくくってくれている気がする。
誘ってよかった。そう思わされた。
詩依は時折立ち止まり、川面を覗き込んだり、小石をつま先で転がしたりしていた。そういう何気ない仕草が妙に愛おしく感じられるのは、俺の気のせいだろうか。
「……桃真くんとここを歩くの、いつぶりかな?」
詩依がぽつりと言った。
俺が失恋した次の日からのこの数週間、登下校を一緒にするようになったので、一緒に歩くことそのものが久しぶりなわけではない。
でも、この川辺を歩いたのは随分と久しぶりだったように思う。
「小学生の頃ぶりじゃないか? 学校の帰り、たまにここ歩いてたろ」
「懐かしいね。桃真くん、靴濡らしてしょっちゅうおばさんに怒られてた」
「……それは、忘れた」
不貞腐れたふりをして視線を逸らすと、隣で詩依が可笑しそうにくすくす笑っていた。
彼女はきっと、知らない。
その時俺はもう初恋を意識し始めてしまっていて、隣にあるその笑顔にときめいていて。自分の気持ちをどう抑えたらいいのかわからなくて、それを隠すために川で水切りをして、靴を濡らしていただなんて。
『またおばさんに叱られるよ?』
そんな風に困り顔で注意してくれるのが何だか嬉しくて、ついふざけて。可笑しそうに笑っているところを見て、また嬉しくなって。
そこで、あ~……なるほど、と思う。
俺はきっと、詩依の笑顔を見るのが誰よりも好きだったんだ。
いや、笑顔だけじゃない。困った顔も、拗ねた顔も、もしかすると格ゲーに負けて泣いている顔さえも好きだったのかもしれない。
詩依は基本大人しくて物静かではあるけれど、もともとは感情豊かな女の子だ。それが中学以降はすっかり身を潜めてしまって、ただお淑やかなイメージだけが先行してしまった。
学校ではあまり素を出せていないのだろうか? それとも、俺の前だからこそ出してくれてる、とか……? いや、さすがにそれは調子に乗り過ぎか。
ともあれ、詩依とこうして話していると、なんだか時間がゆっくり進んでいるように感じる。さっきまで人で溢れたショッピングモールとは打って変わって、この川沿いの道は静かで落ち着いていた。
風になびく詩依の髪が、午後の太陽の柔らかな光を受けてきらきらと揺れる。こんなふうに、ただ並んで歩くだけなのに、なんでこんなに大切に思えるんだろう?
そんな想いに浸っていた時、不意に視線が足元へと落ちた。
あれ?
歩道と川のあいだの小さな草地に、やたらと密集して咲いている白い花が目に入った。風に揺れて、ぽつぽつとした丸い葉の塊が波打っている。
……クローバーじゃないか?
足を止めて、少しかがむようにして目を凝らす。
葉は三つに分かれていて、白い筋のような模様が入っている。間違いない。シロツメクサだ。
あたり一帯に、びっしりと広がっている。こんなに咲いてる場所、あんまり見たことないかもしれない。
何だか……今なら、見つかる気がした。
「詩依」
「なあに?」
「今日ってこの後予定とかある?」
「……? ないけど……?」
不思議そうに、詩依が首を傾げた。
俺はその視線から逃げるように草地の方を向いてから、小さく息を整える。
勇気を奮い立たせてからまた詩依の方を向き直って……重ねて、こう訊いた。
「俺もクッソ暇だからさ……ちょっと寄り道、付き合ってくれないか? もしかしたら、その……あるかもだし」
詩依は一瞬、「え?」ときょとんとした顔をした。
けれど俺の視線の先に気づいた途端、息を呑むようにして目を輝かせ──次の瞬間にはぱっと笑顔になって、嬉しさを零した。