第30話 ふたりきりの勉強会。
部屋の中には、さっきまでのにぎやかな空気が嘘のように静まり返っていた。
ローテーブルの上にはまだノートと教科書が広がっていて、詩依はシャーペンを指に挟んだまま、ページをじっと見つめている。
何かを思い出したように答えを書き始め、でも間違えたようで、またすぐ消しゴムで消していた。きっと、上手く集中できていないのだろう。まあ、俺も似たようなものだけど。だからこそ、こうして詩依を視界の片隅でずっと追っているわけだし。
さっきまでの騒がしさの残響が、微かに残っている気がする。でも、音としては何もなくて、たまに外のサイレンが遠くから聞こえてくるだけだ。ただ、部屋に満ちた静けさが、じっと同じ姿勢でいるときにだけ感じるような、じわじわとした緊張を肌の奥に染み込ませてくる。
詩依は小さく息を吐いてぼんやりと部屋を見回すと……そこで、不意にくすっと笑った。
「……何だよ」
なんだか少しバカにされたような気がしたので、訊いてみた。
「あ、ごめん。ここにいると、何か色々思い出しちゃって」
詩依は何かを懐かしむように、柔らかな表情を俺の方に向けた。
その大きな青み掛かった瞳の中に俺が映っていて、思わずどきっとする。彼女は言った。
「昔……小学生の頃」
「ん?」
「よくここで手伝ってたよね。桃真くんの夏休みの宿題」
詩依は目を細め、その笑みに少しからかいの意図を含めた。
「……あー。あったな、そんなこと」
俺は微苦笑を浮かべて、頬を掻いた。
夏休みの終わり頃、俺は遊びに夢中で宿題が半分くらい残っていたことが多く、いつも詩依に助けてもらっていたのだ。
「桃真くん、いつも宿題後回しにして溜め込むんだもん」
「そんで、どうにもならなくて、いつも詩依に泣きついてたんだよな」
「そうだよ。それで、私はもうとっくに終わらせてるのに、また同じ宿題をやることになるの」
詩依は少しむくれたような口調で言ったけれど、その目はどこか楽しげで。当時もこんな感じでむくれつつも、どこか「仕方ないなぁ」といった感じでいつも俺の宿題を手伝ってくれていた。
「あの時はお世話になりました」
とりあえずわざとらしく頭を下げておくと、詩依が「どういたしまして」とお辞儀し、互いに小さく吹き出した。
「でも、今思えば……ちょっとだけ楽しかったかも」
「確かに。大変だったけどな」
「それは、桃真くんの自己責任だと思うけど」
「ごもっともで」
平謝りすると、また可笑しそうに詩依がくすくす笑った。
本当に、懐かしい。毎回必死だったけれど、ああして夏の終わりに彼女と一緒に宿題をやる──基、写させてもらったり解いてもらったりする──ことも毎年のイベントで、俺はそれを楽しんでいたように思う。
もしかすると、俺だってその気になればもっと早く宿題を終わらせていたのかもしれない。いや、それはさすがに過去の俺を過大評価し過ぎか。あの時はきっと、頭のどこかで詩依が助けてくれることを前提としていたように思う。
詩依の視線がまたノートに落ちた。そして、ふと口を開く。
「実は……中学の頃、それで結構心配してたりして」
「え?︎俺のこと?」
「うん。宿題とか、テスト勉強とか。ちゃんとやれてるのかなって」
思いがけない詩依の言葉に、思わず息を呑む。
まさか、詩依がそんな風に俺を心配してくれていたなんて。思いも寄らなかっただけに、胸がじんと熱くなった。
「まあ……さすがに、な。小学校の時より宿題も多くなかったし。塾も通い始めたから、何とかなったよ」
肩を竦めて、ちょっとだけ強がってみせる。
詩依と疎遠になってから、俺は俺でひとりでも大丈夫なように、密かに努力をしていた。
詩依と同じ高校に行けたのも、その頑張りのひとつだ。学年順位だって、今でも何とか五十番以内には収められるように頑張っている。当時の俺からすれば、大した進歩だ。
まあ、詩依はいつも一桁とか二桁前半をキープしてるようなので、結局学力ではどうやっても勝てそうにないのだけれど。やっぱり普段から真面目に勉強している奴は強い。
ただ、それでも──またこうして、彼女と勉強できていることが、何より嬉しかった。疎遠にはなったものの、俺の中ではきっと、『幼馴染に置いて行かれたくない』という思いが心のどこかにあったのだと思う。そうした小さな努力の積み重ねが、今こうして実を結んだ気がした。
もし、俺があの時、もう詩依は別世界の人間だと諦めていれば、こうして同じ学校に通うことも、一緒にテーブルを囲んで勉強することもなかったのだから。
一緒にいた〝あの頃〟と〝今〟は、同じようででも少しずつ違っていて。だけど、こうしてふたりで笑い合えるなら、たぶん離れていた時間も必要だったのだと思う。
だったら、全然問題ない。一度途絶えたと思った縁が、こうして残っていたのだから。また、その縁を築いていけばいい。
それからは、詩依とふたりで勉強会を再開した。さっきよりも空気が柔らかくなって、意識も集中を取り戻せていた。これなら、勉強も捗りそうだ。
そう思っていたのけれど──ページの途中で手が止まった。
目の前にあるのは、三次関数の変域と最大・最小値を求める応用問題。グラフの形を頭に思い浮かべようとしたけれど、定義域の設定や符号の変化に意識が追いつかなくて、数式はまるで暗号のようにしか見えなかった。
「……なあ、詩依」
我慢できず、声をかけた。
「なあに?」
顔を上げた詩依が、軽く首を傾げる。
「ここの問題、どうやるんだっけ……?」
俺が指差したのは、途中式の書かれたまま手が止まっている三次関数の応用問題。
わざと訊いたわけじゃない。本当にわからなかったのだ。
「ああ……それ、わかりにくいよね」
詩依は頷くと、シャーペンを置き、髪を指で耳にかけた。
そして、俺のすぐ横にすっと身を寄せる。その動作があまりに自然で、でも唐突すぎて、心臓が一拍跳ねた。
「えっと。まず、この式を変形して──」
俺のノートを覗き込むようにして、詩依が指先で数式をなぞる。
──距離が、近い。詩依の肩が俺の腕に微かに触れてしまっている。
さらさらとした髪が、俺の頬の近くをかすめた。ほんのりと甘いシャンプーの匂いが鼻腔を擽り、思わずくらりとする。
これはやばいって。こんなの、意識するなってほうが無理だ。めちゃくちゃ良い匂いするし。
そんな俺の苦悩など露程も知らず、詩依は真剣な表情で数式の意味をひとつずつ丁寧に説明してくれていた。もちろん、俺の脳内はそれどころじゃない。
「で、次にこの部分を因数分解して……」
詩依の声が、耳元で心地よく響く。
甘い匂いに彼女の息遣いや声音、それから僅かに隣から感じる体温なんかが俺の意識を数式から遠ざけてしまって……殆ど話の内容が頭に入って来なかった。
「……? 桃真くん?」
俺の反応がなかったのが気になったのか、詩依は手を止めて、不思議そうに俺の方を見上げた。
その刹那──至近距離で、彼女と目が合う。
詩依の顔が、思った以上に近かった。ほんの数センチ。鼻先が触れそうなほどの距離だ。
俺たちは、お互いの瞳を真っ直ぐに見つめ合う形になっていた。
一瞬、時間が止まって……詩依の頬が、すっと赤く染まる。
次の瞬間、彼女はばっと身体を引いた。
「ご、ごめんっ!」
「い、いや! 俺の方こそ、なんかごめん」
お互いに明後日の方を向いて謝りつつ、ちらりと相手を確認するように見て……また目が合う。
詩依の顔は、さっきよりも赤くなっていた。
ふたりの間に、まだ残り香がふわりと漂っている気がして。俺も背筋を伸ばしたまま、じっと彼女を見つめたまま固まってしまった。
すると、詩依が自分の顔を隠すようにして、鼻や口元を両手で覆う。
「……あんまり、見ないで」
「へ!?」
「今、顔すごく赤くなってると思うから。恥ずかしい……」
泣き出しそうなくらい、その青み掛かった瞳は揺れていて。今にも沸騰しそうなくらいに、頬が赤く染まっていた。
お前、それは……やばすぎだろ。
俺は思わず頭を抱えたくなった。
可愛すぎて、やばい。今この家に誰もいないのが余計にやばい。可愛すぎて抱きしめたくなってしまう。
心臓がうるさくて、もう自分の呼吸の音すらうまく聞き取れなくなっていた。
結局そのまま何とも言えない空気が続いてしまい、ふたりの勉強会はお開きとなった。
うん。まだちょっと、密室でふたりきりの勉強会は、俺たちには早かったのかもしれない。
そう思っていたのに、帰り際──
「また、一緒に勉強しよ……?」
遠慮がちでおそるおそるといった感じではあるのものの、詩依はそう俺を誘ってくれた。
もちろん、俺の答えは決まっている。
ただ──うん、場所は変えたほうがいいのかもしれない。図書館とか、ファミレスとか、ファーストフード店とか。周りに誰かの目がないと、色々暴走してしまいそうな気がしてならなかった。
あと、このままだと俺の心臓も持ちそうにない。
清楚華憐な幼馴染との勉強会は、前途多難だ。




