第3話 「まだ時間あるんだし、もう一回しよ?」(莉音回)
「いやぁ。お前との相性最高だわ。な、莉音」
保住先輩はそう言って、ダブルサイズのベッドの上にごろりと寝転がった。
滲んだ汗が彼の額を伝い、こめかみに微細な滴を描いていた。
「うん」
あたしは頷きつつ、枕元にあったティッシュに手を伸ばす。けれど、手が届かなくて、結局起き上がる羽目になった。
零れてしまわないように気を付けながらティッシュを数枚取って、お腹の上に出された欲望を拭う。
……やっぱり、臭い。
べたつく感触と臭いには、いくら回数を重ねても慣れなかった。
こんなものを身体にかけないでほしいと思ってしまうのは、あたしの中に罪悪感があるからだろうか。これが、ちゃんと付き合った恋人だったらそうはならなかった?
今となってはわからない。もう彼とは、こうなることはないだろうから。
「こんなに良い身体してんのに一向に手ぇ出してこないとか、終わってるよな」
「……そうだね」
「まあ、そんな童貞くんが相手だったからこそ俺はこうやっていい思いできてんだけどな。童貞くん、ありがとう! 君の彼女は俺が美味しく食べさせてもらったよ!」
保住先輩が、誰かにお礼を言うようにして──とことんバカにするようにだが──天井に向けて片手を上げた。
「にしても、莉音。あいつの顔、見たか? 傑作だったよなぁ。男って女寝取られた瞬間あんな顔するんだな。いやー、最高にいいオカズだったわ。マジでゾクゾクした」
保住先輩はにやにやと下品な笑みを浮かべて、こちらに顔を向けた。
「趣味悪いってば」
あたしは彼から視線を逸らして、小さく溜め息を吐いた。
いつにも増して激しいと思ったら、そういうことだったのか。獲物を奪っただけでなく、完全に相手を屈服させた勝利の快感がスパイスになっていたらしい。お陰でこっちは一度でへとへとだ。
桃真……ちゃんと帰ったかな。
ふと桃真の傷ついた顔を思い出してしまい、胸の奥がずきっと痛む。
あたしと保住先輩がこうなってしまった以上、桃真はどうやっても傷ついてしまうのだけれど、それでももう少しどうにかならなかったのか。まあ、もう今更全部が手遅れなのだけれど。
「でもよー、お前今日ちょっとノリ悪かったんじゃね?」
「そう?」
「ああ。いつもより声小さかったし、俺から目ぇ逸らしてただろ。……今みたいに」
そこで、はっとして保住先輩に視線を戻すと、彼は変わらずいやらしい笑みを口元に携えていた。
「そりゃ……目の前であんなことになったら、気分も滅入るでしょ」
あたしは誤魔化すようにしてペットボトルの水を口に含んでから、ふと自分の身体を見下す。
男の前ですっぽんぽんになって水を飲んでいるというのに、そこまで恥ずかしさを感じなくなってしまった自分に、思わず苦い笑みが浮かんだ。
ほんの少し前の自分とは変わってしまった。それを嫌でも実感させられる。
一か月前まで、全然こんなんじゃなかったのに。桃真と軽くキスするだけで舞い上がって、天井と地面が入れ替わってしまったんじゃないかってくらいドキドキしてしまっていたのに。今では、男と唾液を絡ませることに、躊躇がなくなってしまっていた。
「さっさと別れちまえばよかったのによ」
「言うつもりだったよ。でも、先輩がいつも呼び出すんじゃん」
反論すると、保住先輩は「おいおい、俺のせいかよ」と呆れたように肩を竦めた。
「浮気相手の呼び出しで彼氏とのデートすっぽかして楽しんでたくせによ。これって、俺が悪いわけ?」
「……うるさいな」
何も言い返せなくて、心の中で舌打ちをする。
本当はもっと早く別れを切り出すつもりだった。同じ学校の先輩とこういう関係になってしまったなら、いつかこうなる。あたしが上手く隠していても、保住先輩がいつか桃真にちょっかいを出して、バラす。そんなの、わかりきっていた。
デートをドタキャンして、他の男に会いに行って。それなのに、『埋め合わせするね』『また今度遊ぼうね』だなんて言ってしまう自分が怖かった。一体何がしたいんだお前は、と何度自分にツッコんだかわからない。
そこで次こそは別れようと決意するのに、まるでタイミングを見計らったようにまた呼び出されて、あたしは罪を重ねていった。
でも、別れ話をする機会がなかったかと言えば、嘘になる。別にデートでなくても、少し会うだけならいつでもできた。
でも……どうしてか桃真を前にすると、言えなかったのだ。彼を傷つけたくないという思いが先走ってしまう。
……いや、違うか。あたしはきっと、桃真を傷つけた自分を見たくなかったんだ。
「今更だけど、何であんなんと付き合ってたわけ?」
「えっ……」
思わず、言葉を詰まらせてしまう。
嫌な質問だった。その答えを言うのが、難しい。
いや、答え自体はとてもシンプルだ。でも、ここではそれを言いたくなかった。
むしろ、『何で俺とこうなったわけ?』と訊かれた方が、すらっと答えられる。
不満を聞いてもらっているうちに流されたとか、強引に迫られて拒否れなかったとか、色々言えるのに。
桃真に告白した理由を、この男に言ってしまうことで……あたしの中に残された最後の純粋さみたいなものまで失われてしまう気がした。
……なんてね、ウケる。
一瞬考えて、自嘲的な笑みが浮かぶ。あたしにそんな純粋さなんて、もうないのに。
「……もう終わったんだし、関係ないでしょ」
あたしは時計をちらりと見てから、誤魔化すようにして保住先輩に覆いかぶさった。
「お?」
「まだ時間あるんだし、もう一回しよ? 早く忘れさせてよ」
「へへっ、そうこなくっちゃなあ!」
先輩は一度舌なめずりしてから、その瞳の奥に欲望の火を灯し……あたしの口の中へ、無造作にその舌を突っ込んでくる。
──あーあ。何でこんなことになっちゃったかなぁ。
そう思いながらも、全てを逃避するみたいにして。麻薬みたいにふわふわしてくる快楽に、身を委ねた。