第25話 幼馴染と母
……やっぱ、落ち着かないな。
リビングと自分の部屋を行ったり来たりしながら、俺はそわそわとした居心地の悪さを何とか押し殺そうと努力していた。
詩依が、数年ぶりにうちに来ている。それだけでも落ち着かないのに、その彼女が母親と一緒に今日の夕飯を作っているのだ。
あまりの居心地の悪さに、普段は全然手伝いなんてしないのに夕飯作りを手伝おうとすると、あっさりと母さんから「邪魔」と台所から追い出されてしまった。
そんな俺を見て、詩依はくすくすと笑っていたのだけれど……何だか、もう家のどこにいてもこっ恥ずかしいし、落ち着かない。それに、何やらしょっちゅう笑い声が聞こえてくるし、ずっとお喋りをしながら料理を作っているので、何を話しているのかも気になって仕方なかった。
ちなみに、今夜のメニューはハンバーグとポテトサラダ、それからバターライスらしい。今朝、詩依が手伝うことを伝えてから決めたメニューだそうだ。
用も無いのにリビングに行って、ソファーに腰掛けた。俺の耳は自然と台所に向いてしまっていて、聞こえてくる音の一つ一つを拾ってしまう。
台所の方から聞こえてくる包丁でまな板を叩く軽やかな音。それから、ふたりの笑い声。
「ハンバーグ作るの、すごく久しぶりです」
「そうなの? 手付きからして結構慣れてそうなもんだと思ってたけど」
「昔は結構練習はしてたんですけど、お父さんが玉ねぎあんまり好きじゃなくて。どうしても候補から外れちゃうんですよね」
「あら、意外ね! 男なんて皆ハンバーグ好きかと思ってたけど……あ、ちなみにうちの男どもは、ふたりともハンバーグ大好きよ?」
「そうなんですねっ」
ハンバーグをこねながら、詩依が嬉しそうに顔を綻ばせた。
何だその会話は。
勝手に俺の好みを伝えないでもらえますか。実際好きだけども。
というか、母さんは明らかに俺が聞き耳を立てていることを前提に話している気がする。声音にどこかからかいの響きがあった。
でも、詩依の声もちょっと弾んでいて、楽しそうだ。普段の学校とはまた違う、少しだけ甘えたような声音で、なんというか……可愛い。
こうして実際にやり取りしているところを見ると、母さんと詩依は俺の知らないところで本当に交流があったのだと改めて思わされた。
「詩依ちゃん、普段もご飯作ってるの?」
「はい。平日はお父さんもお母さんも帰りが遅いので、夕飯は私の担当になっちゃってます」
「あらあらあら! あたしが高校生の頃なんてお米の炊き方も知らなかったのに、偉いのねー。ほんと、お嫁さんに欲しいタイプだわ〜! ねえ、桃真?」
「──!? けほっけほっ!」
母さんが少し声を張り上げて聞えよがしに言った途端、詩依が咽た。
俺も咳き込みそうになったけど、何とか我慢する。
「……あんまからかうなよ。詩依、困ってるだろ」
俺は堪え切れず、ソファーから振り返って母さんを咎めた。
明らかに詩依を使って遊んでいる感が漂っている。せっかく来てくれているのに、申し訳ないだろうに。
「あらあら、そんなことないわよ。ね、詩依ちゃん?」
「……は、はい。大丈夫、です」
顔を真っ赤にして、詩依はこちらをちらりと盗み見る。
目が合った拍子にびくっと身体を強張らせてから、それを誤魔化すようにハンバーグをこねていた。
一旦俺の忠告で母さんも詩依へのからかいをやめ、また調理に戻った。
包丁の音とフライパンを火にかける音が交互に聞こえてきて、俺はテレビのリモコンをいじるふりをしながら、また変な話をしやしないかと完全にそっちの会話に意識を集中していた。
ふたりの声は、楽しげで、心地よくて――でも、なぜか胸の奥がむずがゆくなる。
うちの台所で、母親と詩依がふたりで並んで料理。幼馴染とはいえ、こういった光景は初めて見た。何か、凄く不思議で新鮮だ。
それから暫くして、ふたりの足音とともに、いい香りがふわりと部屋中に漂った。
「できたよー、運ぶの手伝ってー」
母さんに呼ばれて、俺ははいはいと返事をしてダイニングへ向かう。
台所の中に入ると、皿に盛り付けられたふっくらとしたハンバーグと、彩り豊かなポテトサラダ、それから炊きたてのバターライスが並んでいた。
「おぉ……美味そう」
思わず口から感嘆の声が漏れた。
詩依の料理の腕は先日実感している。きっと、母さんが作るハンバーグよりも美味いのだろう。めちゃくちゃ楽しみだ。
「でしょ? ふたりで頑張ったからねー。ね、詩依ちゃん?」
「……はい。頑張りました」
そう言ってこちらを見て、詩依がはにかむ。
恥ずかしそうに微笑んでいるだけなのに、なんでこいつの笑顔はこんなにも心臓に悪いんだろう? 小学生の頃よりも破壊力が増している気がする。
三人分の料理をテーブルに並んで、さあこれから食べようかという時。ふと、母さんのスマホがリビングのテーブルで振動した。
母さんはそれに気付いて「あっ」と小さく声を上げると、慌ててスマホを手に取った。
「うわ……職場からじゃない」
画面を確認して、うんざりだという顔をすると、そのまま通話を始めた。
「はい、もしもし……えっ!? ああ、それは仕方ないわね……うん、うん、わかった。今から行くわ」
通話を終えた母が、急いでエプロンを外しながらこちらへ戻ってきた。
もの凄くがっかりだという顔をしている。
「ごめん、ちょっと緊急で人が足りなくなっちゃったらしくて……代わりに出てくれないかって。閉めの作業できる人がいなくなっちゃったのよ」
「えっ、今から?」
時計を見ると、いつも母さんが出勤する時間帯より大分遅い。
今から出勤しても二時間くらいしか働けないんじゃないか?
「うん。桃真、後片付けはお願いね。詩依ちゃんはゆっくりしてってね」
「ちょ、待てって。せっかく一緒に作ったのに──」
「仕方ないでしょ。こういうのは助け合いなのよ。ここで助けておくと、あたしの我が儘も通るようになるから」
母さんは肩を竦めて溜め息を吐くと、早速仕事着をカバンに詰め込んだ。
まあ、言いたいことはわかる。わかるのだけど……今日は、まずい。
そもそも、母さんが自分で『まあ、あんたは言っても男の子なわけだし? さすがにあたしがパートの時もふたりで一緒にいろだなんて言えないけど』と言い出し、そう伝えてあるからこそ詩依の両親も不安なく娘をうちに預けているはずだ。
ここで母さんがいなくなると、そもそもの前提条件が崩れてしまう。
「夕飯は先にふたりで食べちゃって? 詩依ちゃん、ほんとごめんね。せっかく来てくれたのに」
「い、いえ! 全然、大丈夫です!」
詩依は慌てて手を振りながら、恐縮した様子で頭を下げた。
「まあ、その感じならふたりきりでも大丈夫でしょ。あたしのことは気にせず、ゆっくり食べなさいね」
母はバタバタと準備をしながら、くるりと振り返ってにやっと笑った。
「ごゆっくり、ね」
最後にそんなひと言を残して、母は軽やかに玄関の戸を閉めた。
──残された、俺と詩依。
母さんがいなくなった途端、室内の空気がひとつ変わった気がした。
さっきまで笑い声が響いていた空間が、急にしんと静かになって、どこか重くなる。
「……えっと」
「とりあえず……食べよ?」
詩依が母さんのハンバーグとサラダにラップをかけると、ちょこんと椅子に座って、困ったように笑った。
「だ、だな。……い、いただきます」
「いただきます」
ふたりの声が、どこかぎこちなく交錯した。
さっきまであんなに和やかだった空気が、母さんがいなくなっただけで、こんなにも気まずくなるとは思わなかった。
ふたりでご飯なら、一昨日だってした。
ただ、一昨日と今では、やっぱり明確に変わっているものがあって。あの時は失恋直後で頭も回っていなかったし、久々に話す詩依との会話が新鮮でありながらもどこか懐かしくもあって、色々な感情や思考が脳内で飛び交っていた。
でも、今は違う。
この数日の間に俺たちは幼馴染に戻って、イツメンになって、それから……俺の中では別の感情が芽生えてしまっていた。
それはもう、ただ初恋をぶり返しただけだと割り切れないものになってしまっていて。それを意識すると、途端に部屋でふたりきりというこの状況に、緊張してしまう。
……果たして、俺は夕飯をちゃんと味わえるのだろうか?
そんな懸念とともに、二日ぶりのふたりきりの夕飯が始まった。