第20話 それはまるで春風のようで
翌朝──マンションの下に降りると、エントランスでは楚々とした幼馴染が待っていた。
詩依は俺がエレベーターから降りたのを確認すると、嫣然として俺を迎えた。
「おはよ、桃真くん」
「……おはよ」
一瞬だけ見惚れてしまって、反応が遅れた。
溌剌とした笑顔でもなく、喜色満面でもない。本当にただ添えただけの、柔らかな笑み。それなのに、飾りっけのないどこにでもあるマンションのエントランスに、一輪の花が咲いたように感じられた。
美少女、恐ろしすぎる。
「……? どうかした?」
「いや、何でもない。行こっか」
「うん」
詩依が俺と並んで、歩き出す。
ここ数年はひとりで歩いていた通学路。昨日も感じたことではあるのだけれど、彼女が隣にいるだけで、なんだか一気に道も華やかになった気がした。
「あー、そういえば……話しておかなきゃいけないことがあったんだ」
「なあに?」
「実は……部屋に置いてあったおじさんのジャージが母さんに見つかっちゃって」
歩きながら、昨夜母親との間にあった一部始終を話した。
もちろん、詩依が俺のことを色々母さんに訊いていたとか、そういった無粋な話はしていない。言ったところで彼女を恥ずかしがらせて気まずくなるだけだろうし、俺だって反応に困ってしまう。
「悪い、さっさとジャージ返しておけばよかったよな。昨日返すのすっかり忘れててさ。今日にも返しに行くよ」
俺は詩依に詫びた。
はっきり言って、これは俺に非がある。昨日学校に持っていくなり、朝のうちに返すなりしていれば問題なかったのだが、すっかり失念して無防備にベッドの上に畳んで置きっぱなしにしてしまっていたのだ。
いや、まあ……本当はちゃんと朝食食べてから紙袋にでも入れようと思っていたのだけれど、まさか詩依が迎えに来るなんて思っていなかったし。あの時点でジャージのことなど完全に頭からすっ飛んでしまっていた。
「う、ううん! お父さんも全然ジャージのこと気付いてなかったし、私は全然いいんだけど、それより……」
「ん?」
「おばさん、私のこと何か言ってなかった……?」
おそるおそるといった様子で、詩依が訊いてくる。
おそらく、ゲームのことだったり、俺のことを色々調査していたことだろうか。それとも、うちの母親と案外仲が良いこととか?
正直に話す必要はないし、その一件については隠しておいた方が良さそうだ。
「いや、特には……あっ、そういえば」
「な、なに!?」
怯えるように、詩依はびくっと身体を振るわせた。
一体何にビビっているんだ、こいつは。母さんと何を話したんだろう? むしろ気になってきた。
「母さんが、昔みたいにうちで夕飯食べないかって」
「え……?」
「おばさんもやっぱ詩依が家でひとりでいるの心配みたいでさ。それで、まあ……俺と昔みたいに話す仲になったんなら、母さんがオフの日はうちに来たらどうかなって。……あ、嫌だったら全然断っていいからな? うちの親が勝手に言ってるだけだし」
慌てて補足する。
もしかしたら詩依は詩依でそのひとりの時間を楽しんでいるのかもしれない。それに、何だか俺が来てほしがってるみたいに受け取られても困るし。というか、それで気まずくなられる方が嫌だ。
確かに昔は毎日一緒にいたけれど、俺たちの間には空白の五年間がある。その間に、色々な関係値がリセットされていてもおかしくはないはずだ。慎重に、慎重に距離の詰め方を考えなければ。
……もしかしたら、俺のこういう慎重さが莉音にとってはよくなかったのかもな。でも、やっぱり人から嫌われるのって嫌だし。なるべく不快にさせたくないのだから、慎重になってしまう。これはもう、俺の性分みたいなものだ。
詩依がどんな反応を見せるのかと思って、ちらりと彼女の顔を覗き見てみると──
「いいの……?」
信じられない、というように目を見開いていて。でも、その瞳は何かに感動しているかのように、揺れていた。
「いいも悪いもないだろ。母さんがいいって──」
「行く!」
俺の言葉を遮って、詩依は即答した。
その瞳は、光を湛えた水面のようにきらきらと揺れている。まるで胸の奥で、そっと花が綻んだみたいな──そんな笑顔だった。
それから彼女はすぐにスマホを取り出して、何やらLIMEを起動している。
「何してんの?」
「えっと……早めにお母さんに連絡しておこうかなって」
この幼馴染、行動がめちゃくちゃ早い。
普段は引っ込み思案なのに、何故かこういうところでは昔から謎の行動力があった。昨日のお迎えもその謎の行動力のひとつだ。
「じゃあ、俺も母さんに伝えておくよ」
スマホを取り出して、母さんに【詩依、夕飯食べに来るって】とメッセージを送っておく。
すぐに、スマホの通知が鳴った。母さんから秒でOKのスタンプが返ってきたのだ。続いて、別のメッセージも送られてきた。
【今日あたしパートないけど、今晩来る?】
いきなり今日からかよ。
色々俺の心の準備が追いつかないのだけれど。
「詩依」
彼女の名前を呼んで、自分のスマホ画面を向けてみせる。
詩依の瞳が、朝の光を映すみたいにきらりと揺れた。
「わ、やった。私もお手伝いしますって、伝えておいて?」
「……了解」
言われた通りに、母さんにメッセージを送っておく。
すぐに、何故か魔女がひっひっひと笑いながら竈で何かをぐつぐつ煮込んでいるスタンプが返ってきた。
一体どういう意味なんだ、それは。
「桃真くん」
不意に彼女から名前を呼ばれて、顔を上げると──そこには、ふわりと春風が吹き抜けたように微笑む彼女がいた。
「誘ってくれて、ありがとう」
その笑顔に、思わず心臓がどきっと跳ね上がる。
ちくしょう。可愛すぎるだろ、こいつめ。幸せだけど、胸が苦しくて心臓に悪い。
「前はああ言ったけど……ほんとはちょっぴり、寂しかったから」
ぽつりと漏れた、そんな本音。昨日は『あんまり気にしたことはなかった』と言っていたが、やっぱり本当はちょっと孤独だったのだ。
周りに気を遣ってしまうからこそ、彼女はそうした嘘をよく吐く。でも、本当はもっと寂しがりやで、怖がりで。ひとりの時間だって、きっと本当は俺が思っている以上に不安だったのかもしれない。
「それなら、よかったよ」
俺は小さく溜め息を吐いて、空を見上げた。
空はとても綺麗に晴れ渡っていて……今日も今日とて、良い朝だ。
詩依が隣にいるだけで、素敵な朝になる。そんな風に思ってしまうのは、さすがにちょっと調子に乗りすぎだろうか。
ともあれ……何故か、数年ぶりに幼馴染がうちで夕飯を食べるというイベントが確定してしまった朝。
帰ったら部屋の掃除ちゃんとしておかないとな……などと、別に詩依が部屋に入ってくる予定もないのに考えてしまう俺がいた。