第19話 鋭すぎる洞察
帰宅後、すぐに母親から詩依について色々追及されるのかと身構えていたのだが……意外にも何も訊かれなかった。
もうそろそろ歳で物忘れが早くなったのだろうか? なんて言ったらきっと殺されてしまうのだけれど、まあ訊かれないに越したことはない。このまま忘れ去っていてくれ。
そう願いつつ、数時間が経った。
夕食ができたとリビングに呼ばれ、自分の席に着いてテレビのバラエティー番組を流し見しながら、母さんの作った夕食を食す。今日の夕飯は焼き魚に味噌汁と納豆という超健康食。普段母さんがパートの日は俺がろくなものを食っていないと察しているようで──昨日は除く──割と夕飯は健康食が多い。なんだかんだ、日本食は美味いのだ。
この時になると、俺はもう完全に気を抜いていた。昨日食った詩依のシチュー美味かったな、だなんて考えてしまっていたくらいだ。
きっと今日一日家事をして過ごすうちに、母さんの中で今朝詩依が訪れたこともなかったことになっているのかもしれない。それであれば、好都合だ。
もう詩依とも連絡先を交換しているわけだし、明日からはエントランスで待ち合わせればいい。完璧だ。これで、もう母さんから変な勘繰りを入れられなくて済む。そう思っていたのだけれど──
「あ、そうそう。訊くの忘れてたんだけどさ」
「ん?」
「ベッドに置いてあったジャージ、誰の?」
「ブッ──」
気管に米粒が入ったのかと思うくらい、息が詰まった。
「ちょっと、汚いわよ桃真。行儀が悪い」
「かかかか、勝手に人の部屋入ってんじゃねーよ! ししし思春期の男子の部屋だぞ!?」
「いいじゃないのー。そうしないと、洗ったあなたの洗濯物の置き場に困るんだもの」
母さんは何食わぬ顔で漬物に箸を伸ばして、ご飯を口に含んだ。
それからお茶を飲んでから、こちらを見てにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「にしてもあんた、相変わらずこういう引っ掛けに弱いのねえ? あれ、雪村さんとこのパパのジャージ?」
……だめだ。完全にバレてしまっている。
そこまで見抜かれているのなら、素直に白状した方が良さそうだ。逆に誤魔化すと、もっとややこしくなってしまう。
こういう変な鋭さがあるから警戒していたのだけれど……あれか。俺が警戒しているのに気付いていたから、敢えてこっちが警戒心を解くまで時間を置いていたのか。
しかも、詩依というワードを出さずにジャージの方から攻めてきたあたりも狡猾だ。こっちが反応できなかった。
「まあ……昨日、雨で制服ずぶ濡れになってさ。それを憐れんだあいつが、着替え貸してくれたんだよ」
「昨日、ねえ?」
「昨日」
「あたしもいたんだし、服が濡れたなら普通にうち帰ってきて着替えればよくない? ……あれ? そういえば、濡れてるシャツとかって今日の洗濯物にあったっけ?」
「…………」
この母親、鋭すぎる。
そう。注意深く見れば、色々とおかしいところはあるのだ。
扇風機を引っ張り出してきて一晩中風に当ててようやく着れるかというくらい濡れていた制服。なのに、ワイシャツもインナーも下着も濡れているものはない。
ジャージがなければ別の言い訳もできた。だが、あれがあることによって、『着替えを貸してもらった』という言い訳が必須となってくる。そうなれば、何故他に濡れているものがないのか、という矛盾が生じてしまうのだ。
お茶を飲んで、一旦心を落ち着けようと思ったタイミングで、母さんは言った。
「振られたんでしょ、カノジョに」
「ブッ──」
今度はお茶が気管に入りそうになった。
「だから、汚いってば。あと、さすがに反応がワンパターン過ぎるわよ?」
「あんたがそうさせてんだよ!」
わかっててやってるだろ、このクソババアめ。
兎も角、これは色々観念した方が良さそうだ。言った覚えのない情報まで仕入れられているとなっては、もうどうしようもない。
俺は大きく溜め息を吐き、箸を置いて濡れた口元をティッシュで拭いた。
「つか……何で知ってんだよ。色々」
詩依のことは、まあ仕方ない。朝迎えに来ているところを見られているし、ジャージも部屋に置きっぱなしだったのだから、バレてしまうのも納得はできた。
だが、元カノのことについてはさすがにわからない。そもそも、俺は莉音と付き合っていたことさえも母さんには言っていなかったのだ。
母さんは溜め息混じりで答えた。
「何年あんたの母親やってると思ってんの? バレンタインに告白されたんでしょ。それくらい、見てればわかるって」
まさかの付き合った日からバレていた。
俺ってそんなにわかりやすいのだろうか? 家に帰ってきた時には顔に『カノジョができました』とでも書いていたとでも? さすがに初日からバレていたのは恥ずかしすぎる。
「それは、まあそうなんだけど……何で振られたことまで知ってんだよ? 普通に怖すぎるだろ」
「さすがに昨日の時点ではわからなかったわよ。ちょっと話した時に、何となく落ち込んでそうだなーとか、なんかあったのかなーってのは夜にも思ったけど……今朝詩依ちゃんが迎えに来て、ピピーンときたわけよ」
何でそこでピピーンとくるんだよ。母親の思考回路がわからなすぎる。
というか、昨日の時点でうっすらと察せられていたのか。一応、詩依のお陰で大分回復はしていたし、母親が帰ってきた時には普通に接することができていたと思ったのだけれど……親の観察眼って恐ろしい。
ほんの小さな表情や雰囲気の変化から俺に何かあったことを察して、その翌日に詩依が迎えにきたことからそこまで推測できるなんて。もう一種のエスパーだろ、それは。
「それで? 昨日は振られて落ち込んでたところを詩依ちゃんに慰められてたの?」
うぐ、っと息が詰まった。
自分的には全然そうではないつもりだけど、昨日の自分を思い浮かべてみると、傍から見ればそうとしか思えないだろう。
「そう受け取られても仕方ない、かな」
「全く……あんたも罪なことするのねー」
俺の答えに、母さんは心底呆れた様子で溜め息を吐いた。
「は? 罪って、何が?」
「なんでもないわ。独り言よ」
何かを慮って憐れんでいるかのような母の声音。そこには何故か俺への非難が混じっている気さえした。
何で振られて落ち込んでいた俺が咎められないといけないんだろう? 意味がわからない。
母さんが話題を変えるようにして言った。
「あんたはどう思ってたのか知らないけど、たぶん詩依ちゃんはずっとあんたのこと気にしてたんじゃないかな」
「え!?」
「本当にたまにだけどね。あの子、あんたのことあたしに訊いてきてたのよ。桃真くんどんな感じですか、とか。最近はどうしてますか、とか」
「……マジか」
これまたびっくりな情報が出てきた。
ただ、スト6のことや、うちの親がよく遊びに来ているということも言っていた。もしかすると、母さんと詩依は俺の想像以上に交流があったのかもしれない。
「去年の暮れだったかしら? まだ桃真くん格闘ゲームやってますかっていきなり訊かれて。それで、確かストファイってのまだやってると思うわって言ったら、お父さんにゲーム買ってもらったわけじゃない? それ見たら、さすがにあたしだって色々察しちゃうってわけよ」
母さんは相変わらずどこか楽しそうににやつきながら言った。
何を察したんだ、この母親は。言うなら最後まで言ってほしい。さっぱりわからない。
「そんで? 詩依ちゃんと付き合うの?」
「ブッ──」
いきなり爆弾をぶっ込まれ、今度は味噌汁が気管支に入りそうになった。
この夕食を終える前に死んでしまうかもしれない。
「あんたねえ……さすがに三回連続はないわよ」
「あんたがそうさせてんだよ!」
どうしていきなり付き合うだとか何だとかまで話がすっ飛んでいくのだ。
話したのだって昨日が五年ぶりなわけで、その空白の時間を埋めるのもこっちは大変なのに。いや、それは確かにそうなれたら嬉しいなとは思うけれど、今は時期尚早が過ぎる。
「詩依とはそういうんじゃないって。ただ……久々に一緒のクラスになってたからさ。俺もずっと気にはなってて。そんで、昨日のことをきっかけに昔みたいにまた遊ぼうぜって感じになっただけだよ」
「昔みたいに、ねえ?」
母さんは物言いたげにこちらをじろっと見ると、また溜め息を吐いた。
だから、さっきから何なんだ。
「この前も言ってたんだけどね、詩依ちゃんのママ、前から気にしてらしたのよ」
「ん? 何が?」
「雪村さんところって、共働きでしょ? それで、夜まで詩依ちゃんを家でひとりにさせるのが結構心配らしくて。いくらマンションでドアロックがあるって言っても、最近は物騒な世の中じゃない? あんな可愛い娘がいたら、そりゃ心配になるわよね」
「あー……」
母さんの言い分、いや、おばさんの心配もわかる。
実際に昨日詩依から直接それを訊いて、俺も気になったところだ。
「まあ、あんたは言っても男の子なわけだし? さすがにあたしがパートの時もふたりで一緒にいろだなんて言えないけど……あたしが家にいる時はさ、またうちにご飯食べに来てもらってもいいんじゃない? それこそ、昔みたいに、ね?」
また何か言いたげに、やたらと『昔みたいに』を強調して、母さんはいやらしい笑みを浮かべたのだった。
本当に、何なんださっきから。
「……一応、伝えておくよ」
俺は大きく溜め息を吐くと、味噌汁を飲み干した。