第13話 四つ葉のクローバー
朝の空気は、昨日までのじめっとした湿気がまるで嘘だったかのように澄み渡っていた。
見上げれば、雲ひとつない空に、眩しいくらいの朝日。道路にはまだところどころ水たまりが残っていたけれど、アスファルトの上には新緑の影が揺れていた。頬をかすめる風はやわらかく、ほんのりと草の匂いを運ぶ。移り変わりの季節は、こんなふうに静かにやってくるのだろう。
ちらりと隣を見ると、そこには幼馴染の詩依がいた。
詩依の長い髪がふと風に揺れて、首筋のあたりが一瞬だけ露わになった。そこに射し込んだ朝日が、白く滑らかな肌をほんのりと照らし出す。五月の柔らかな光の中、その一瞬が妙に印象に残った。
こんなふうに朝の通学路を詩依と歩くのは、どれくらいぶりなんだろう?
最後に一緒に登校したのは、多分中学に入ってすぐの頃。でも、部活が始まって、俺が朝練に顔を出すようになってからはそれもなくなった。
だから、実際にこうしてよく一緒に登校していた記憶は、小学生の頃のものの方が多い。
隣の彼女を盗み見しつつ、当時の記憶を掘り起こしていく。
当たり前過ぎていまいち印象に残っていないのだけれど、昔を思い出しているうちに、気付けば俺の足取りはいつもより軽くなっていた。
いつもはぎりぎりの時間に家を飛び出して、途中で信号に引っかかっては舌打ちしながら早足になって、そんな自分に余計イライラして。だけど今は、ただ静かに一定のリズムで靴音が続いている。
余裕のある朝ってこんなにも素敵なんだな。そんな柄にもないことを、考えさせられてしまう。
……何話せばいいんだろう?
俺たちの間に、特に会話はない。お互い変に気を遣うわけでもなく、無理に明るくしようとするわけでもなく、ただただ自然体。特に気まずさもないのだけど、せっかく迎えに来てくれたのに、無言というのも何となく申し訳ない気がしてきた。
もう一度、詩依の横顔を盗み見る。
こうして意識的に見ると、やっぱりその可愛らしさに目を奪われてしまって。五年前と違い、前を見つめているその横顔はどこか儚くて柔らかい。それなのに何故か大人びて見えてしまって、少しだけ俺を緊張させた。
てか……詩依って、好きな奴とかいるのかな?
この五年間。俺は詩依の情報を殆ど意図的に仕入れてこなかった。もちろん、ルックスだけで話題になる子なのだから、意識していなくても情報が入ってくることはあるのだけれど、少なくとも彼氏ができたという話は聞いたことがない。特別仲の良い男友達がいたわけでもないはずだけど、言い寄っていた男の中にはハイスぺ野郎もいた。実際のところ、どうなんだろう?
そんなことを考え始めて、思わず溜め息を吐く。こういうことを考えてしまうから、初恋を封印したのに。
そうして横顔を盗み見ていると、彼女がこちらの視線に気付いて……柔らかく微笑んだ。
「……思ったより元気そうでよかった」
先に切り出されてしまった。
どうやら、心配を掛けていたらしい。まあ、昨日の様子を見られていたら仕方ない気もする。
「お陰様で。それが心配でわざわざ迎えに来てくれたのか?」
「それもあるけど……不安じゃないかなって」
詩依は視線を前に戻して、信号機を見上げる。青信号がちょうど点滅し始めたタイミングだった。
しまった、捕まってしまったか。ここの信号、結構長いんだよな。
俺は重ねて訊いた。
「不安?」
「不安ってより、心細いっていうのかな? もし学校に行く時に柏木さんに会ったら、とか。あの先輩に会ったら、とか。桃真くんの立場になってそういうの考えたら、憂鬱になりそうな気がしちゃって。私だったら、きっとひとりで不安になっちゃうだろうし」
信号機から横断歩道に目線を落とし、小さく息を吐いた。
今日のお迎えは、わざわざ俺の気持ちを慮ってくれてのことだったようだ。
実際に、その指摘は結構正しい。なるべく考えないようにしていたけれど、どうしても嫌な気分は過るし、想像もしてしまう。彼らとまた相まみえた時、どんな気分になるか想像しただけで嫌悪感や不安感に襲われた。
彼女はそんな俺の気持ちまで察して、勇気を出して家まで来てくれたのだ。
「大丈夫だって。俺、そんなに弱くないから」
「……そっか」
詩依は寂しそうに笑って、ほんの少し肩を竦めた。
素直にありがとうと言えばいいのに、こうして強がってしまう自分に思わず呆れてしまう。
でも、なんというか……詩依の前では、強がりたかった。昔、かっこ悪いところを見せないように精一杯背伸びしていた自分のイメージを守りたかったのかもしれない。
まあ、昨日あんなダサいところを見せてしまった時点で、背伸びも糞もなくなってしまったのだけれど。
「てかさッ。朝来るなら、一言連絡入れてくれよ。いきなり来るから、さすがに心臓止まりそうになったって。母親からもなんか怪しまれるし」
ちょっと空気が悪くなってしまった気がして、俺は声を無理矢理明るくした。
しかし──予想に反して、詩依はどこか恨めしげにじっとこちらを見つめてくる。
「えっ、どした? 何で怒ってんの?」
「だって……知らないから」
「何を?」
「桃真くんの連絡先。昨日、結局聞けなかったし」
「……あっ」
めちゃくちゃ初歩的なミスをしていた。
そうだった。ご近所さんで幼馴染だから当たり前に知っていると思っていたが、お互いにスマホを持つようになったのは中学に上がってからだ。そういえば、詩依と連絡先を交換していない。
「えっと、じゃあ今のうちに交換しとくか」
「……うんっ」
一転笑顔で、スマホをポケットから出した。
一見詩依はお淑やかで大人しいのだけれど、実はこんな感じで結構表情は豊かだ。さっきみたいにすぐに不機嫌になったり、ゲームで負けたら泣いたり、嬉しそうに笑ったり。そういうところを見れるのは、もしかすると幼馴染の特権なのかもしれない。
QRコードで読み込んで、LIMEのフレンド登録完了。これでいつでも詩依と連絡が取れると思うと、やっぱりちょっと嬉しかった。
「あっ……」
詩依のLIMEのアイコンを見て、小さく声が漏れた。
それは微かに見覚えのあるものだった。
──台紙に貼り付けられた、小さな押し花の写真。色褪せた四葉のクローバーの押し花だ。
その写真を見た瞬間、記憶がぶわっと蘇る。
小学校低学年の頃の遠足だっただろうか。どこだったか忘れたけれど、ちょっと離れた場所にある自然公園だったと思う。
皆がそれぞれ各々自由に遊ぶ中、俺たちは地面にしゃがみこんで、必死に四つ葉のクローバーを探していた。確か、クラスの女子が四つ葉のクローバーを見つけたのを見て、詩依が羨ましそうに「いいなぁ」と呟いたのが切っ掛けだった。
なかなか見つからなくて苦労したのだけれど、自由時間終了間際にようやく俺が見つけて、詩依にプレゼントした。後日、彼女はそれを押し花にして、俺に自慢するように見せつけてきたのを覚えている。
よく見ると、押し花の色が少し茶色くなって、端も欠けていた。
「そのアイコンってさ、まさか遠足の時に俺が取ったやつ?」
念のため、訊いてみた。違ったら恥ずかしいし。
詩依は「あ、これ?」と自身のアイコンをタップして拡大した。
「……うん、そうだよ。桃真くんに採ってもらった四つ葉のクローバー。さすがにもう傷んじゃってるけどね。今も机の中に仕舞ってあるよ?」
もじもじと髪をいじって、彼女は俯いた。
さすがにもう十年くらい経ってしまっているし、この写真の時よりも劣化してしまっているらしい。何年か前に、完全に傷み切ってしまう前に写真に撮っておいたのだという。
「あの時嬉しそうにしてたもんな。まさか、まだ持ってるとは思わなかった」
「……捨てられないよ。だって……初めて桃真くんがくれたものだもん」
詩依は恥ずかしそうにそう呟くと、こちらを上目遣いでちらりと見て、すぐにまた目を逸らした。
心臓がはち切れるかと思った。それが理由で今も持ってるとか……そんなの、反則だろ。
頼むから、やめてくれ。変な勘違いだとか、変な期待だとかをしてしまう。つい最近、ほんの昨日痛い目に遭ったばかりなんだ。今はちょっと安静にしておかないと、キツいんだって、色々。そう思うのに、この幼馴染は全然俺の心に平穏を齎してくれない。
閉じ込めた初恋が、嫌でも蘇ってくる。
信号が青に変わって──ふたりして、歩き出した。
その刹那、気付けば俺はこう言っていた。
「……四つ葉のクローバー見つけた時に行った遠足ってさ、今くらいの季節的だったよな」
具体的に何月だったかは覚えていない。そんなに暑くなかったし、たぶん五月か六月だったとは思う。
詩依はきょとんとして小首を傾げた。
「え? 確か、そうだったと思うけど……?」
「それなら……今度、クッソ暇な時にでも探しに行ってみるか。さすがに十年も経ってると、押し花って言っても見応えないだろうし」
ぶっきらぼうな物言いで、不貞腐れたように言う。
自分で自分の言っていることが恥ずかしくてならなくて、ついこんな言い方になってしまった。
おそるおそる、ちらりと隣を見てみると──
「……うんっ!」
喜色満面の幼馴染。
失恋した翌朝は、妙に甘酸っぱくて……まるでずっとしまっていた初恋の味を、もう一度口にしたみたいだった。




