第12話 想定外の訪問者
翌朝──自分でもびっくりするほど、目覚めがよかった。
早くに寝た、というのもあるのかもしれない。
昨日、詩依の家から帰ったあとは、とりあえず着替えて急いで乾燥機付きドラム式洗濯機におじさんのジャージをぶっ込み、そこからはずっとスト6をやっていた。
スト6歴数か月の詩依にボコられたというのもあるし、家には母さんが帰ってくるまで誰もいないので、手持無沙汰だったというのもある。
ちなみにうちは今、母さんと二人暮らしだ。親父は去年から福岡に単身赴任していて、あと2~3年は戻って来れないらしい。もしこのマンションが賃貸だったら俺たちまで引っ越しさせられていたところだったので、ローンを組んでまでマンションを買ってくれていて助かった。高校に入って早々転校はシャレにならない。
さてと、制服は……お、このぐらいなら着れそうかな。多少スースーしそうだけど。
乾き具合をチェックしつつ、制服に着替えていく。
昨日ずっと扇風機に充てて陰干ししていたお陰で、一応着れる程度には乾いてくれている。若干生臭さが残る可能性も考え、寝る前と今朝、しっかりとファブリーズをぶっかけておいた(使い過ぎて母親には叱られた)。その甲斐あって、匂いも問題なさそうだ。
ズボンを履いてからワイシャツに腕を通したところで、ワイシャツからほんのりと詩依と同じ匂いがして思わずドキッとする。
昨日、公園のベンチで途方に暮れていた時、雨の匂いに混じってほんのりと香ってきた匂いと同じ。詩依の服と同じ柔軟剤が使われているのだから同じ匂いがして当然なのだけれど、それでも意識せずにはいられない。
ってか、あまりにもいつも通りすぎるな。
昨夜家に帰ってから今に至るまでの間、本当にいつも通り。いや、いつもより調子が良いかもしれない。その理由は明白だった。
……失恋した日に初恋の人の家で風呂入って飯食ったって、何だよそれ。
その非現実性に、思わず笑ってしまう。
本当は帰った後も、もっとズシンと失恋の痛みがくるかと思っていた。でも、意外と平気でゲームをしていれば気分を紛らわせた。
今朝も同じだ。学校に行くと、嫌でも莉音や保住とは顔を合わせる。保住とは学年が違うし、莉音ともクラスが異なるのがまだ救いだが、どこかで目にはするだろう。それを考えるともっと憂鬱になってもおかしくないはずなのに、今のところそこまで気が重くなっていない。それもこれも、詩依のお陰だ。
まあ……実際に顔を合わせたら、また違うんだろうけどな。
着替えを終え、リビングの食卓に出されたパンを齧りながら、テレビへと視線を移す。
テレビでは朝のお決まりのニュース番組がやっていて、今は全国の天気予報が表示されていた。
全国晴れマーク。昨日あれだけ強く降っていた雨は止み、今日は一日中晴れだそうだ。
「……俺も、晴れるといいんだけどな」
そう、ぽそりと呟く。
今のところ気分は悪くないけれど、学校であのふたりと顔を合わせると、どうなるかわかったものではない。やっぱりこうして考えてしまうと、それだけで憂鬱だ。
そんなことを考えていると……ピンポーン、とインターフォンの呼び出し音が鳴った。
こんな時間に来客? と思って時計を見てみると、まだ八時を過ぎたばかりだ。
「誰かしら? はいはーい」
どうせ外には聞こえないのに、母さんがそう言いながらパタパタとテレビドアフォンへと駆けて行った。
こんな朝っぱらからどんな用事だろうか? セールスだとかは基本九時以降しか来れないはずだけれど。
「……あれ?」
そこまで考えて、ふと気付く。
今の音って、ドア前のインターフォンの音じゃなかったっけか?
うちのマンションはエントランスがあって、来客はまず集合玄関型インターホンで部屋番号を打ってから、呼び出し先の部屋にエントランスの鍵を開けてもらわなければ館内に入れないシステムだ。
そして、このマンションは集合玄関型インターフォンとドア前のインターフォンでは、微妙に音色が違う。
「……あんた、何があったの?」
背後から、母さんの愕然とした声が聞こえてきた。
「は? 何が──」
言っている意味がわからず、俺も振り返ってインターフォンの方を見てみると……母さんの反応に、納得した。
インターフォンのテレビモニターに、予想もしていなかった人物が映っていたのだ。
その人物は、落ち着かなさそうにもじもじとして、周囲を見回している。
「詩依ちゃんが、一緒に学校にってあんたのこと迎えに来たんだけど」
「……マジかよ」
幼馴染の行動、マジで予想外過ぎるし想定外過ぎる。
確かに昨日、話せるようにはなったし、学校でも話していいかと訊かれてもちろんだと答えたけども。まさか、朝迎えに来るなんて誰が想像するかよ──と一瞬思って、すぐにその考えを否定した。
違う、そうじゃない。むしろ、昔はこれが当たり前だった。
昔から俺は朝に弱く、基本的にギリギリの時間に起きて朝はだらだらしてしまいがち。油断すれば遅刻してしまうという体質だった。そんな俺を心配して、詩依が迎えにくるようになって……いつからか、それが習慣化していた。
中学入学を境になくなってしまった習慣ではあったのだけれど、小学生の頃はこうして詩依が毎日迎えに来てくれていたのだ。
それを思い出して、思わず頬が緩む。彼女はきっと……本当に、〝幼馴染〟をやり直そうというのだろう。
小さく息を吐いてから、母さんに伝えた。
「……すぐ行くって言っといて」
母さんの反応も見ずにパンを一気に口の中に詰め込み、ソファーの上に投げ捨てていたスクールバッグを掴んで玄関に向かう。背中から「帰ったらどういうことか聞かせなさいよー?」という声が聞こえた気がするけども、無視だ無視。俺だってどういうことかはわかっていないんだから。
玄関ドアを開くと……そこには、幼馴染がいた。この画角で彼女を見るのは、随分と久しぶりだ。
「あっ……えっと。おはよう、桃真くん」
言ってから、決まり悪そうに詩依ははにかんだ。おそるおそるといった感じで、その表情には不安と緊張が広がっている。
何だか既視感がある光景だなと思って記憶を巡らせてみると、すぐに思い当たった。
小学生の頃、初めて彼女が朝俺を迎えに来た時もこんな顔をしていたように思う。意味不明な行動力を発揮してみたはいいものの、土壇場になって不安になってしまう質なのだろう。何となく、こんなところも詩依らしいなと思ってしまった。
「おはよ、詩依。おじさんのジャージ、もう必要になった? 取ってこようか?」
敢えて、ちょっと意地悪をして訊いてみる。
「そうじゃなくて……学校、一緒に行きたいなって」
詩依は上目遣いでこちらを探るように見上げてくる。
その様子がめちゃくちゃ可愛くて、思わず胸がどきっと高鳴ってしまった。
「……そりゃ、もちろん構わないけど」
行先は同じだ。断るわけがない。というか、この状況で断れるわけがないだろう。
「ほんと? やったっ」
緊張からの解放と安堵で、詩依が嬉しそうに顔を綻ばせた。
そんな彼女を見て、胸の奥がずきずきと痛む。
……ああ、ちくしょう。沈まれ、クソッタレ。
俺は小さく深呼吸をして、高鳴る鼓動を落ち着ける。
あまりに懐かしく、久しぶりの痛みに動揺を漏らさないように、口元を引き結ぶ。
この痛みは独特で、少々堪えるのが大変だ。胸の奥は痛いのに何故かぽかぽかとしてきて、苦しいはずなのに幸福感さえも感じてしまって。気を許すと口角が上がりそうになる。
それはいつか、忘れようとしていた痛み──初恋の痛みだった。