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第1話 NTRれ現場目撃

「……ごめん。浮気した」


 ピンクブロンドの髪が印象的な少女──柏木莉音(かしわぎりおん)が、静かにそう告げた。

 唐突に絶望が舞い降りたのは、強い雨が降るゴールデンウイーク明けの月曜日だった。街路樹の葉に冷たい雨粒が弾けて、冷たい雨は傘を持たずにいた俺の心と身体を容赦なく蝕んでいく。


「は……? どういう、ことだよ……?」


 声が掠れ、微かに漏れた。

 どうして急にこんなことになるのか全くわからないまま、俺はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。

 目の前には、人生で初めてできた恋人・莉音。そして、その隣には同じ学校の先輩・保住春斗(ほずみはると)の姿があった。

 ふたりは雨に煙るラブホテル街で、ひとつの傘に身を寄せ合い、腕を組んでいた。

 この場面に遭遇したのは、ほんの偶然だ。

 学校帰りにカフェに行こうと約束していたのに、ドタキャンされ……意気消沈してひとりで街をふらふらと歩いていたら、男と相合傘をしている莉音の姿を目撃してしまった。

 そして……後を付けたら、ここ。ラブホ街だった。

 ふたりがそのままホテルに入っていくことを看過できず、気付けば怒鳴り声を張り上げていた。

 お前何やってんだよ、と。何でそいつとそんなとこ入ろうとしてんだよ、と。

 その返答が、さっきのそれだった。莉音は続けた。


「それから……浮気が本気になっちゃった。だから、もう別れて」


 俺を見ずにそう重ねて、保住の腕に身体を寄せる。

 保住は勝ち誇ったような笑みを頬に携え、その汚い手で莉音の肩を抱き寄せた。


「なん、で……」


 意味がわからなかった。理由も、原因も何もかもが全然わからない。

 バレンタインに莉音から告白を受けてからの三か月間、ずっと大切にしてきたのに。ずっと一番に考えてきたのに。

 一瞬、悪い夢かと思った。夢だったらよかった。

 でも、冷たい雨が俺の肌を今も打ち続けていて。その雨水の冷たさと打ち付ける感触が、ここを現実だと知らしめる。


「お前、三浦(みうら)って言ったっけ? お前さあ、まだわかんねーの?」


 下卑た笑みを携えたまま、保住が言った。


「お前はもう飽きられてるし、お前に許さなかったことを俺には許してんの。こんなとこ、お前とは入ったことないだろ?」


 保住は後ろのホテルをちらりと見やってから、再度嘲りに満ちた視線を俺に向け直した。

 その言葉には、何も反論はできない。

 俺と莉音はまだ数回キスした程度の清い関係で、身体の関係なんて以ての外だった。

 初めてできた恋人だったから、大切で。大切にしたくて、いつかふたりの心が繋がった時にそうなれたらって思っていたのに。

 それなのにこいつは……その壁を簡単に越えて。俺の大切にしていたものを、簡単に潰してしまったというのだろうか。そんな事実、受け入れられるわけがない。

 相変わらず下品な笑みを浮かべたまま、保住が言った。


「お前とのデートをぶっちした日は全部俺とこうやって楽しんでたんだよ。今日も同じ。いい加減気付けよ」

「お前には……訊いてないだろ」


 これ以上ないというくらいの憎悪を込めて、保住を睨みつけた。

 殺してやりたい。こんなに人を憎んだのも、心が張り裂けそうなくらいに憤怒と絶望が同時に襲ってきたのも、人生で初めてだった。

 でも、そこで納得もできてしまう。

 莉音がデートをドタキャンしたのは、今日が初めてではなかった。ゴールデンウイーク前から度重なっていたドタキャンに、どことなく焦燥感を覚えていたのは事実だ。


「おいおい、そんなに睨まれても困るぜ? 元はと言えば、お前が悪いんだからな」

「え……?」

「莉音がさー、お前との付き合いが退屈だっつーから相談に乗ってやってたんだよ。そしたら、結局俺と付き合う方が面白くなっちまったんだとよ。まあ、挿れたこともねーお前じゃ、女の楽しませ方もわかんねーよな? そんなこんなで頂いちゃったわけ。ごめんなー彼氏ぃ。あ、もう振られたから今は元カレだっけか?」


 保住の嘲笑が、ラブホ街に響いた。

 コンクリートを打ち付ける雨がほんの少しその笑い声を薄めてくれたけれど、あまり効果はなかった。

 否定してほしくて、嘘だと言ってほしくて懇願するように莉音を見るが、彼女は気まずそうに目を逸らしただけだった。


「じゃあ、そういうことで。行こうぜ、莉音。お前はここで()()()がヤられてるとこでも想像してマスでも掻いとけや」


 保住はそう言って莉音を連れ去るようにして肩を強く抱き寄せると、ふたりしてそのままホテルの中へと入って行く。

 自動ドアが閉まる前に、一瞬だけ、莉音が俺を見た。まるで何かを言いかけたような、申し訳なさそうな顔で。

 しかし、俺が何かを話そうとする前に、逃げるようにして彼女は目を伏せて……男に身を委ねた。

 そして──俺たちを完全に断絶するかのように。

 自動ドアが、そっと閉まった。


       *


 気付けば俺は、自宅マンション前の公園にいた。

 傘も差さず、雨の中でひとり佇んでいる。

 おそらく自分の足で帰ってきたのだろうけれど、どうやって帰ってきたのかは全然覚えていなかった。

 まだ、起きたことの実感が持てていない。失恋というものを感じるには、あまりにも唐突過ぎた。

 いや、どうなのだろう? もしかすると、その予兆を心のどこかで感じていたのではないだろうか。

 前までよくしていた寝落ち通話が全くなくなって。デートの約束をドタキャンされるようになって。心のどこかで、きっと不安を感じていた。

 ただ、莉音を信じたかった。たまたまちょっとタイミングが悪かっただけだと思って、気付かないふりをしていた。

 莉音が男と相合傘をしているのを見た時点で、抱いていた違和感や不安は肯定されたようなものだった。それなのに後を付けて……その答え合わせをして。自分から傷つく道を、選んだ。

 でも、あの状況を見てもやっぱり莉音がそんなことをするとは信じられなかった。彼女の方から否定してくれるんじゃないかと期待してしまっていた。もちろん、信頼諸共その期待も裏切られてしまったのだけれど。


「もう……どうでもいいや」


 立ち尽くしているのにも疲れてしまって、俺は雨でびしょびしょになったベンチに腰を下ろした。

 どうせもう全身びしょ濡れだ。今更多少濡れたところで、もう大差はない。

 早く家に帰りたいとも思うのだけれど、今はまだ、母親がいる。この状況で顔を合わせたくなかったし、何か声を掛けられるのも嫌だった。

 あと一時間もすればパートで出掛ける。それまでは、ここで時間を潰そう。

 そう思って……それからも、ただ雨に打たれていた。

 考えていたことは、莉音のことばかりだった。


『ゴールデンウイークはたくさん遊ぼうね』

『明日は埋め合わせするから』


 どうして、こんな風に言ってきたのだろうか?

 そんなに興味が薄れていたなら、ちゃんとした形で振ってくれたらよかったのに。もっと早くに別れてくれたらよかったのに。

 どうして、どうして、どうして、どうして。

 その四文字だけが、何度も頭の中に浮かんでは消えていく。

 俺は莉音にとって何だったんだろう? ほんの気まぐれで告白して、気まぐれで付き合って、それで飽きたら捨てる。そんな程度の存在だったのだろうか。

 バレンタインにチョコを渡してきた日に見せた恥ずかしそうな顔も、告白の言葉も、一緒に過ごしてた日に見せてくれた笑顔も、恥じらいながら交わしたキスも、全部ただの気まぐれで、嘘だったのだろうか。

 考えるほどに、胸が張り裂けそうになった。

 今頃きっと、莉音はあの男とお楽しみの真っ最中なのだろう。いや、もしかすると、事を終えてピロートークに花を咲かせているのかもしれない。或いは、それにも飽きて、またあの男から嬲られているのかも。

 あの男は、俺が大切にしてきた莉音を。今日も、これまでも。俺がいないところで愛撫し、その欲望をぶちまけていたのだ。

 それを考えると悔しくて、悲しくて、頭がおかしくなってしまいそうだった。

 そうならなかったのは、きっとこの雨のせいだ。

 五月にしてはやたらと冷たい雨で、でも、その冷たさのお陰で俺は何とか正気を保てていた。そして、正気を保ててしまうからこそ、胸が抉られるような喪失感に襲われてしまう。

 正気を失ってしまった方が、きっと楽なのに。それでもまだ正気を保とうとしている自分が、憎かった。

 正気を保ってしまうなら。とことん雨に打たれて、悲劇のヒーローぶってやろう。そんなことぐらいしか、自分を慰められる方法が浮かばない。

 ……そのときだった。

 雨の音が、少しだけ変わった。雨音の中に、何かに当たってポツポツと弾けるような音が混じる。

 気のせいかと思ったが、違った。俺の周囲に落ちていたはずの雨がいつの間にか止まっていて、身体を濡らしていたはずの冷たい雫がいつの間にか遮られている。

 それから……ふわりと甘い香りがした。雨に混じる、ほのかな香り。甘く、それでいてどこか懐かしい匂いだった。

 その匂いに(いざな)われるようにして、ゆっくりと顔を上げる。


「あっ……」


 視界に映ったのは──同じ学校の制服を着た少女だった。

 腰まである長い黒髪は雨に濡れて艶やかに光を帯び、制服に張り付いて細い肩をそっと包んでいる。彼女がほんの少し首を傾けると、リボンで軽く束ねられたサイドの髪が、ふわりと揺れた。こちらを見据えた青みがかった瞳は、長い睫毛の奥で淡く光を帯び、雨粒を宿すごとに微かに煌めいた。目尻の泣きぼくろと薄く濡れた唇、そして華奢な体つきが、どこか儚げな印象を強めている。

 きっと、清楚可憐という言葉は彼女のためにあるのだろう──()()()()()()()()()()、そう思わずにはいられなかった。


「……桃真(とうま)くん?」


 少女の口から、俺の名前が漏れた。彼女からこんな風に呼ばれるのは、いつぶりだろう?

 思わず記憶を遡ってしまうくらいに、久々で。でも、幼い頃からずっとそう呼ばれていたせいか、その響きに違和感はなかった。

 彼女の名前は、雪村詩依(ゆきむらしより)

 同じマンションに住む、俺の幼馴染だ。



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