鴎の飛翔 晩年編
全てから解放されていよいよ始まる鷗の逃避行とウイーンへの帰還。
晩年のエリーザベト皇后
ギーゼラは幸せな結婚生活を送っている。
ルドルフは死んでしまった。
夫には友達以上恋人未満の彼女をあてがった。
私はマリーヴァレリーとフランツ・サルバトーレのバートイシュルの区教会で行われた結婚式に参加した。
ルドルフの死後初めての祝いに久しぶりに喪服を脱いでライトグレーのドレスを着て穏やかな気持ちで心から喜んだ。
束の間のそしてこれを転機に決意した。
もう私は飛び立ちたい。
「年齢を感じたらすぐに世間から身を引くつもり、段々ミイラの様になって若い日にしがみ付くような真似で厚化粧なんて我慢出来ない。
いずれベールをつけて身近な人にも顔を見せないつもりです」
これを実践する為に内では分厚いベールで顔を覆い、外に出る時は帽子、日傘、扇子を持参してや肖像画も絶対に撮らせないと心に誓ったし実行したわ。
でもパパラッチは望遠カメラでとっていたわね。
ある時はウイーンを馬車で移動している時、静養先での散歩、お買い物中や街中の散歩中だわ。
でも全てピンボケや遠すぎて私だと辛うじてわかる程度の写真だった。
うふっ!
計画通り。
私の飛翔はいつもある時は二両編成の皇后専用列車に乗り、そして皇帝からの贈物蒸気船ミラマーレ号で。
時に一般交通機関で一般人として過ごす。
私になる………。
でも身体の調子があまりよくないから晩年は温泉施設のある保養地で過ごすことが多くなった。
そして旅行先も限られていった。
いろんな病気を抱えていたわ。
そのほかにもいろんな症状が出てきたの。
乗馬のし過ぎで坐骨神経痛になって酷い時はアムステルダムの高名な医者の治療を受けたりやバートつまり温泉ね。
頼ったわ。
その医師はアムステルダムで開業していて彼凄く新雑な物言いをするのだけど、私は信頼しているの。
この間なんて。
「今のような食事を続けていたら2.3年後には皴くしゃのおばあさんになりますよ」
この医師のいう通り、海で傘を差しながらも私達は知らなかったけれど、瞳から紫外線を浴びるんですってね。
晩年は海と山を堪能したせいで皴がきつくでていたのよ。
しかたないわね。
扇子と傘、ヴェールで隠したわ。
医師の助言通り私は治療中はちゃんと食事をとった。
勿論治療中だけね。
私のダイエットは永遠に継続中、皆摂食障害って思うでしょ。
私は食べて吐いたりしないわ。
ただ体重計に乗って数百G増えたら悲鳴!
ダイエット開始よ。
貴方達でいうおそらく神経系の脅迫神経症というかもしれないわね。
私達の世界はまだ精神学が未発達だったのフロイトもまだまだ子供だったので、変な人=狂人それ以外の当てはまる病は認識されなかったの。
特に腰が痛くて酷い時にはモルヒネやマリファナを使用したわ。
あっ!勘違いしないで!!
当時は治療薬で医師の処方を守って使用してた。
決して中毒患者じゃないから!!
後貧血もひどかったわね。
食事をきちんと取らないから鉄分が足らなかったの。鉄分入りチョコも食べていたの。
いろんな軟膏をいっぱい処方してもらっていた。
他にもバスソルトや点眼水、ノコギリ草やハッカ草、咳止め、シップ剤、虫刺され用の塗薬、鉱泉水や温泉水。
お通じも悪かったわ。
食べないんだからそうよね。
後栄養失調で出来る足の飢餓水疱症水膨れが嫌ね。
薬はたくさん頼んだわ。
でも心臓にも問題があって左心室の肥大機能が低下しているそうよ。
主治医は大変だったわよね。
暗殺されていなくてもそんなに長生きしなかったわねきっと。
静養先はバートギッシンゲン、バートブリュッケナウ、バートシュワルバッハ、バートナムハイム。
特にバートギッシンゲンは特に好きよ。
海辺が好き。
海が好き。
1890年8月から11月長期航海旅行からほとんど毎年のように旅行に出ていたわ。
アルカション、オポルト、リスボン。
ジグラルタル、アルジェリアのオラン、モロッコのアルジェ、チェニス、カリアナ、コルシカ、
フィレンツェ、ミラノ、ナポリ、ポンペイ、マルセイユ主に地中海!
コルフ島、シチリア島~
そしてふらりと夫の約束を果たす為にウイーンに舞い戻るの。
夫との約束よ。
二カ月後にはヴァレリー夫妻と建設途中のコルフ島の別荘を見学したわ。
そしてウイーンで若いギリシャ語教師と出会ったの。
ますますギリシャに傾倒していく。
旅とギリシャとハイネが私の全てになっていく。
そしてこのコルフにアキレオン荘が完成した。
でもコルフで定住は出来ない。
エジプト、またウイーンへ。
そしてアキレウス、カールスバート、リジ、ゲデレと旅は続く。
でもね。
皆が驚くような出来事がウイーンで起こったのよ。
いいえ起こしたの。
ロシアの皇太子歓迎会で私が出席したの。
もう宮廷は大騒ぎよ。
会話もそこそここなしたわ。
でも役目を果たすと即旅よ。
ヴァレンシア、マラガ、グラナダ、カディス、スペインの沿岸を周遊よ。
そしてジブラルタル。
そうそう旅行中は夫はこまめに手紙が来たわね。
そのつど郵便局留めで送られてくるわ。
私のスケジュールを把握出来ないから、随行担当者は悲鳴をあげて四苦八苦していたようよ。
でもそのかわりにとても広い視野が持てたと思うの。
「心から君の幸せを祈るとともに、私達に残された未来、それはあるいはもう僅かの間であるかもしれないが・・・。
その未来に、これまで君がそうであったように、私に優しく愛らしくあってほしい願う。
表に出して見せるのが下手だし、かえって君に迷惑だろうから。
私はただこよなく君を愛しているとがけいう。
神の祝福が君の上にある様に…神が君を守り給い、私達がわだかまりなく再会出来る事を祈る。
私達には他に望む事も期待する事もない…」
可愛らしいじゃない彼!
でもウイーンには帰れない。
「また期待を裏切られた。
君は世界中を放浪し彷徨い歩く運命なのか」
セヴィリア、マヨルカ、リヴィラ……と旅は続くのよ。
そんな中スイスのテリテで夫が合流したの。
二人で静養なんて…悪くないわ。
そしてヴァレリーに男の子が出来て見にいったわ。
夫は涙目になって言ったわ。
「ルドルフを思い出してしかなたい……」
あんなに生きてる時は喧嘩していたのに。
本当に親子なのよね。
私も涙ぐんだわ。
旅行中夫は仕事の事など忘れて私と一緒。
マリー・フェステティチュ伯爵夫人は回想で言っているわ。
「皇后の魅力で皇帝は皇后の思いのまま」って。
今回はアコルフ島に建てたキレウス荘に飽きたの。
もう売ろうかしら?
そう言ったら。夫に猛烈にしかられたわ。
クスッ。
また旅に逆戻り、コモ湖、ミラノ、ジェノバ、ナポリ……。
ギリシャやコルフ島、ソレント、フランス、パリ、カンヌ、リスボン、ポルト、サンモレ、モナコ、マルタン岬、ゲデレー、バートイシュル、ミュンヘン、テリテ、全部言ったらきりがないわ。
でも以前はよく滞在した実家のポッセンフォーヘン周辺は1895年以降は家族が亡くなったので訪れる事がなくなった。
オーストリアに入ってもウイーンには戻らずにトリエステのミラマーレ城で旅の疲れをとるの。
それでまた出発よ。
航海は本当に楽ししかった。
船旅は随行員達がげんなりしてたわ。
だって嵐の中、突き進むのよ。
皆船酔いと神経的に参ってマリーなんか回顧録で愚痴を書いていたわ。
「皇后様の行動はまわりの者の心臓を止めてしまうばかりか、理解力まで奪ってしまいます。
昨日の早朝はひどい天候だったのですが、それでもあの方はヨットで海に乗り出しました。
9時にはすでに土砂降りになり雷を伴ったすざまじい大雨が3時まで続きました。
その間中皇后様は見ている私達の前でヨットを走らせデッキに腰をかけておられていました。
傘をさしてもずぶぬれで。そこからどこかへ下船してご自身の馬車を呼んで他人の別荘で夜を過ごそうとなさいます。
私達がどのような気持ちでいるかご想像がつくでしょう。
幸いな事に医者が常時随行しています。
とはいえとんでもないことが起こっているのです。」
「私達はこの6週間を極寒の中で過ごしている所です。
皇后様は傘が2度裏返しになり、帽子が頭から吹き飛ばされるような天候でも外出される」
私は嵐が好き。
荒れ狂う船の甲板でロープに縛られて海と戦っていたの。
「波が私を誘うのでデッセウスに習ってそうしているのです」
楽しかったわ。
やめられなくて、生きている。って感じるの。
死んだら亡骸を波打ち際に埋めてほしいわ。
旅行中は誰も「私だと気がつかない」のがいい。
そのせいでトンだトラブルにも合うのだけれど。
それがまた楽しいのよ。
ある時は全然知らない土地の知らない家に入ったわ。
相手はびっくりよね。
見たことない黒一色のスマートな女が突然家に乱入したんだから。
叩かれたわ。
でもそんな経験も笑い話よ。
誰も私がオーストリア皇后なんて思わないわ。
そうそうギリシャの王宮になんの連絡もせずにヴァレリーと訪問したわ。
「王と王妃に会いた。オーストリア皇后が来た」
って。
まるで突撃隣の晩ご飯みたい。
不在と言われ、本当にそうだったの。
私の身元が確認できたら王太子妃と話したわ。
話しをしたというより一方的に私がギリシャ語で話しかけていたの。
王太子妃はまだ嫁いだばかりでギリシャ語かまったくできなかったの。
あと他の突撃はね。
オランダ国王やバートホンブルグに隠棲していたフルーデリケ元ドイツ皇后へ訪問したの。
拘束される騒ぎになったわ。
面白かった。
こんな事をいろんなとこでしていたら、とうとうオーストリア皇后は狂気に陥ったって噂され新聞に載る始末。
別にかまわないわ。
私はそんなのへっちゃら。
だって狂っていないもの。
イルマ達には「面白いわね」って笑って言ったのよ。
でもね。
私のライバルと称したユージェニー元フランス皇后にはマルタン岬に行くたびにきちんと表敬訪問していたわよ。
かつての敵国、美のライバル、そして私と同じ子供を亡くした皇后の姿はお互い年をとったけど……。
威厳ある物腰や雰囲気はさすがだと思ったわ。
「魂が別世界を漂っているようで、なんだか幽霊と一緒にいゆみたいでした…」
彼女はその当時の私にそう印象を受けたというの。
そうそう90年代後半は夫も合流して一緒に静養してくれるようになったの。
夫婦らしい生活を過ごせたわ。
「夫はすっかり私のポケットの中」と嬉しそうに言ったからマリーがほっとして言っていたわね。
レストランでプレッチェルを頂いて、嬉しくてバイエルンへお手紙を送ったの。
「ようやく皇帝陛下がちょっとしたバカンスを取ってくださったので喜んでいます。
この共和国ほど陛下がバカンスを楽しまれる場所は他にありますまい。
陛下はご機嫌で自由と美しい景色と素晴らしい料理を満喫されています。」
コートダジュル、バートギッシンゲン、マルタン岬なんか楽しかったわ。
最後のスイスも一緒に楽しめたらよかったのに。
彼の気持ちは。
「幸せという言葉は私達にはそぐわない。
私達には少しばかりの静けさと理解、そして不幸の重荷が少しだけ少なければそれでいい」
ですって。本当に。
ハプスブルグ家なんて……
マルタンでキスをして夫はウイーンへ帰って言ったわ。
「どうかオレンジと菫アイス以外の物を食べてほしい」
と言ってね。
私の食欲は気分次第なの、雰囲気や医師の言葉、そして食事相手などね。
さあ旅行先ね。
コルフ、ゲデレ、アルジェ、マルタン岬、コルフ、ヴェネチア、スイス、ゲデレ、マルタン岬………。
いずれも偽名での旅行よ。
私の付き添いを体力精神力共に疲れ切ったマリーは事務付きになったイーダと随行には引退したの。
代わりに代々若い子がついて今はイルマ・シュターライ伯爵夫人よ。
可愛らしい子で私が噂とは違って優しくて優美でととてもつくしてくれたわ。
若いから私も気をつかいながら、旅を楽しんでもらえて満足よ。
北アフリカではいきなり知事邸をオーストリア皇后が訪問しにいったわ。
何時間もまたされて結局主人は留守ですって。
居留守を使われたわ。まぁ誰も本物って思わないわね。
北アフリカを去るときに駅で私の事がばれて沢山の群衆が駅を埋め尽くしたの。
私は群衆が苦手怖いの。でも今日は大丈夫!イルマが不思議に見ていたわ。
次の瞬間歓声が上がって現れたのはF夫人。
ファイファリックよ。
私の大切な髪結師!
私のシャドー。
「ファイファリック夫人の邪魔はしてはいけない
わ。さあ行きましょう」
意気揚々と横目で列車に乗り込んだわ。
そうそう1895年には妹のマチルダと一緒にアルジェで散歩して楽しんだわ。
気がしれた姉妹達と過ごすのが楽しいわ。
私の身元がでも時々うっかりとバレる時があったのよ。
バリで一般バスに乗って乗車料を金貨で払おうとしたら、周りがざわついて、速攻逃げて他人の家にかくまってもらって馬車で逃げたわ。
ギョッとしたけど。もうバスは駄目ね。
そうテリテ滞在中のホテルの裏山を散歩していた時、小さないい身なりをした子供二人に通せんぼされたのよ。
少年達は扇子を掲げていない私の様子から、ただならぬ威厳を感じたのか。
女の子は膝をかがめてお辞儀をしたの。
可愛らしかったわ。
私思わず笑みを湛えたの。
二人は部屋に戻り、祖母にその時の事を話したそうよ。
その祖母はこう言ったそうよ。
「お前達この日を決して忘れてはいけませんよ。世界で一番美しい方にお会いしたのだから」
その少年は不思議そうにこう言ったそうよ。
「でも御婆様。あの人の顔を皴だらけでしたよ」
そう言った少年を御婆様は無作法なとはりてビンタしたそうよ。
私の美の伝説はちゃんと伝わっていたのね。
またある時に女優がバートイシュルのレストランで私を見たそうよ。
私はいつもの喪服、帽子のベールは上げていた。イルマ達が席を立った時、私は口に入れていた入れ歯を取り外し、コップの水で洗い流したの。
見られていたのね。
唖然として自分の目にしたものが信じられないといった様子そうよ。
ああ夫ともゆっくり旅行を楽しみたかったわ。
早く皇帝なんて退位すればよかったのに。
この人が皇帝でなければよかったのにと今も思うの。
そうすれば普通の夫婦のように穏やかに暮らせたのに。
私ね。
ハプスブルグ帝国が滅亡するかもしれないかもと思って、資産をスイスで運営させていたの。
私が死んだ後に帝国は地図から消えたのでしょう。
そうそう皆私が亡くなって遺言を見てびっくりしたそうよ。
あんなに外遊していたのに。あんなに豪遊していたのにって。
全部夫のポケットマネーよ!!
すごい資産を子供や孫に残していたのだから。
やりくり上手でしょ。
晩年のエリーザベトの旅行のお供をしたのはイルマシュターレ伯爵夫人でした。
初めて召し上げられた時の彼女の喜び皇后の素晴らしい印象と旅行中も嵐の中奇行を行うエリーザベトが彼女達を気つかう言葉や様子が彼女の日記からわかります。
晩年のエリーザベトが気分の浮き沈みはあっても非常に優しく気つかったのがよくわかります。
この後はルドルフのマイヤーリンク事件へと続く。