皇后としての責務
本当に皇后王妃としても公務を私は放棄していたの?
公務と慰問、慈善活動を行わずに旅道楽に日々を過ごしたのか?
1873年12月に夫の在位25周年記念式典も私はちゃんと彼の横でお祝いしたわ。
花火に 電飾、荘厳なミサと祝辞と不敬罪受刑者の恩赦が行なわれたわ。
祝福が最高潮に達した後に日が暮れてから馬車で夫と共にウイーンの街を一巡する。
私が環状道路を横切ろうと馬車を出た時だった。
扉が開いた後降りてしばらくは歓声に答えて微笑んだのだけれどそのうちとても怖くなったの。
ものすごい群衆が四方八方から私に押し寄せて、潰されそうで動悸が止まらなかった。
横でマリーが必死に叫んでくれた。
「助けて……道を空けて…皇后様が押しつぶされてしまいます。誰か…誰か後生です。
助けて…助けて…空気を!!」
私の顔は真っ青で冷や汗がとまらず今にも失神しそうだった。
こんな様子で1時間後ようやく紳士が数人道を空けてくれ馬車へとマリーと乗り込む事が出来たの。
ぜんぜん動悸がおさまらない…息もようやくしている。
「貴方のおかげで助かりました」
ようやくマリーにお礼が言えたのはしばらくたってからだった。
私は群衆が怖い。病いをおって静養に行ってから?いえ。シェーンブルグで妊婦の姿をさらすあのことから?バイエルンでいる時は全然感じなかった。
国を出る時に多くの市民が別れの挨拶で見送ってくれたけれどそんな事感じなかった。
どうしたのかしら?
何が起こっているのかしら?
とにかくまるで見世物の様にさらされるのは我慢ならない。
8月下旬モラヴィアのオルミューツを夫婦で訪問したわ。
今回はロシア皇帝のアレクサンドル三世との会議を予定していたの。
ベルリン会議での締結の改訂とバルカン半島の安定を提言するための重要会議だったのでどうしても成功しないといけなかった。
歓迎会は無事に滞りなく終わったけれど、大した成果はあがらなかったの。
でも私には2つの幸福と希望がもてたの。
この時に女優のカテリーナ・ラリッシュとの出会い。
そしてご褒美にギリシャ旅行!
皆私を旅行や詩を読む、ギリシャ文学、語学、ハンガリーや趣味や娯楽だけで過ごしたと思っているようだけれど。
ウイーンやブタで定期的に慰問にも訪れたわ。
それは事前に行われる定期的な行事ではなく、随行員は一人だけ。
そして突然訪れて患者や収容者一人一人と話をして彼らに寄り添った。
当然院の関係者はいい顔をせず、悪評を並び立て宮廷の関係者に訴えかける。
でも庶民や貧しい者に寄り添うのはパパから教わった行為だから。
偽善者は嫌い!!
慈善活動を大っぴらに宣伝の様に世の中に伝えるなんて下品だわ。
後でもお話するけれど、義弟のマクシミリアンがメキシコで処刑された後、お見舞いと和睦の意味でフランス皇帝夫妻がザルツブルグにくるのだけど、私は同席したくなかったけど、夫がひつこく誘うので行ったわ。
そし病院や孤児施設など慰問訪問、慈善活動もしていたわ。皇后としてではなくひっそりとね。
またそれぞれの章で紹介するわね。
一般的にエリーザベトは公務を拒否して旅ばかりしていたと言われるが、大事な公務や家族の記念日等の大切な時にはウイーンやエルメスヴィラ、ブタ、ゲデレー城などで公務を行った。またさりげない慈善活動にも行っていたものの、そのさりげなさと直接当事者に接しようとするあまり権威を重んじる代表者を無視してしまう傾向にあったためウイーン宮廷人や有識者には酷く評判が悪かった。