ハンガリー王妃誕生と愛する天使の誕生
ハンガリー王と王妃の戴冠式はシシッの勝利の証でもあった。
政治的に唯一かかわった出来事が今実を結ぶ。
そしてザルツブルグの2人の皇后の美勝負がザルツブルグ市民によって行われる。
私のハンガリー愛は絶頂天にあり、その思いをある行動で表そうと決意した。
夫にそれを告げた時、彼は歓喜して私を強く抱きしめた。
私はルドルフを出産した後彼との同衾を拒否していた。
10年夜を共にしていなかった。
私の耳には入ってきていなかったけれど、夫にはそれ相応の夜の衛生係が王宮で、シェーンブルグ宮で、度々用意されていただろう。
でも王子王女として祝福して迎えられるのは私の産んだ子供達だけ。
私達は久しぶりに同じ寝台に寝て、夫の愛撫を受けた。
二人で朝を迎える日々を過ごした。
戴冠式の準備はとどこうりなく行われ二人でハンガリーを訪問する。
これから行われるであろう拷問の様な儀式の数々、それと引き換えにしてもいいほどの使命感。
汽車の窓辺には多くの人民が私達に手を振って、ハンガリー訪問と戴冠式の祝いたいという熱狂的な人々に迎えられる。
ハンガリーの王と王妃へとこの融和の象徴「オーストリア・ハンガリー二重帝国成立」のお礼として。
ハンガリー政府からなんとゲデレー城を贈ってくれた。
私がほしいと夫に訴えたあの城。
気の利いた贈物に大変うれしく思ったわ。
この素敵な城と隣接する深い森は乗馬と狩猟には最適だった。
私の居住地、故郷になるのは間違いない。
そしてこの日の為に念入りにハンガリー王・王妃の戴冠式の全ての準備が整った。
「その公務はとてつもなく拷問にさらされるでしょう」
そう母に手紙を書いた。
でも確実に正確に威厳を持って臨席しないといけない。
全てはこの愛する国の為にハンガリーに全てを捧げます。
1867年6月8日午前7時
オッフェン宮をフェレンツ・ヨージェフ1世がハンガリーの元帥の伝統衣装を着て騎乗した。
右手にハンガリーの剣を翳し颯爽と強靭な馬でパレードに現れると市民達が歓喜の声をあげた。
私エルジェーベトは結婚式で使用した金の馬車に乗り込んだ。
皇太子ルドルフも伝統的なハンガリー衣装で馬車に乗っている。
フサフサした帽子が可愛らしい凛々しい姿に頼もしいわ。
今日の衣装はパリのシャルル・フレデリック・ウォースがハンガリーの伝統衣装を参考に製作したハンガリーの伝統衣装を参考に製作された見事な品でまさに戴冠式に相応しかった。
かなり重くずっしりと肩に重さを感じるが、それよりもハンガリーの重責を感じている。
従事する護衛達は中世の装うをまるで当時の行列の如く現在によみがえらせている。
「ハンガリーの衣装は火の神ウゥルカーヌさえ美少年アドニスに変貌させる」
臨席したベルギー大使夫人が言ったそうよ。
「パレード全体は豪奢でまさに壮観だったが今の時代に合わないのでは?」
とスイス公使が言ったとか。
ブタへ向け、そして入場する姿は壮麗な絵巻物の様だったからそう言われても仕方ないわね。
伝統と現代は相反する物だから。
行列はそのうちマーチャーシー聖堂に到着した。
聖堂内は長いハンガリー王室と教会の歴史を十分に感じる神聖さに身がしまる思い。
ハンガリー大司教の介添えの元アンドラーシ伯爵がハンガリー王の王冠をフェレンツ・ヨージェフ1世に被せる。
彼が音から死刑判決を受けた事を思えばなんて素晴らしい光景でしょう。
私はこの日を忘れない。
夫が威厳を蓄えた姿は凛々しく勇ましい。
彼がハンガリー国王となった瞬間感無量の私は胸いっぱいになる。
しかし次は私の戴冠だ。
私の右肩に王冠が置かれた。
これはハンガリー王妃の戴冠に基づくのだそう。
そしてパイプオルガンによるミサが開催されり。
この日の為の戴冠ミサ曲をその作者であるフランツ・リストによって指揮され披露された。
この時の様子を娘コジマに書き送ったそうよ。
「これほど美しいエルジェーベト王妃を見た事がない。
荒々しい豪華さが繰り広げられる中で王妃は天の幻の如くに見えた」
その場にいる全ての人が叫ぶ。
「フェレンツ・ヨージェフ1世万歳」
「エルジェーベト万歳!」
ひと際その叫びは熱を浴び教会内に響き渡る。
おもわず涙が流れる。今私の願いが成就した瞬間だった。
戴冠式は無事におえ、あとは祝典が続くドナウ川を船で渡り祝賀の景色を眺めて祝宴祝賀の宴会の連続。
疲れはしているが、これは仕方のない事と諦め事にする。
そして大恩赦が施行され没収された財産は戻り、亡命者達は続々と帰国した彼らは国の為に尽くしてくれるだろう。
従順な臣下となるだろう。
夫の右腕として、力になるだろう。
ハンガリーの協力の元、他民族の反発を抑える事に引き換えに成立した二重帝国は今新たに出発する。
そんな祝賀の中で訃報が届く。
メキシコのマクシミリアン1世が捕らえられ処刑されたと。
全ての祝賀が終わり、私達は疲れはてていた。
二人でバートイシュルへ静養に訪れる。
夫はイシュルで義母に弟の処刑を報告しなくてはいけない。
義母は半狂乱になり、呆然として政治への興味を失って老いが急速に進んだという。
夫は動揺したが、遺体を受け入れる様に指示した。
悲劇は続く。
避けられないのかしら?
姉ヘレネの夫タクシス侯爵が死去した。
葬儀の為にいそいでヘレネの元に向かう。
葬儀の後実家に帰り、妹の元で過ごした。
どうも婚約者のルードヴィヒ1世の態度が余所余所しいのだそうだ。
もしかしたら結婚にはいたらないかもしれない私はそう思った。
そんなポッセンフォーヘン城の滞在中に夫から手紙が届いた。
ザルツブルグにナポレオン3世夫妻が訪問するので一緒に迎えてほしいという内容だった。
私はナポレオン3世が大嫌い。
大の女好きで品がなく酷く醜いと思っている。
姿も心も!
ユージェニー皇后の美には興味はあったけれど、最近とても体調が悪いのでそれを口実に断った。
「もしかしたら妊娠したかもしれません。
そうだとするとザルツブルグに出かけるのはとても無理な話です。
淋しくて一日中泣き暮らしています。
…慰めていただきたい…のに。
もう何をする気にもなりません。
乗馬も散歩も……楽しみも」
そう書き送ったわ。
だってその通りだったから。
でも彼ったらザルツブルグに来てですって…嫌になっちゃう。
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残念ながら私の妊娠は思い違いかしら?
夫がザルツブルグ同行を諦めない…。
仕方ないから1867年8月ザルツブルグへ向かい夫と二人を皇帝夫妻を歓迎したわ。
陸続きのヨーロッパではある時は味方ある時は敵と入れ替わるのは仕方のない事からもしれない。
でも心がそうは感じていない。
やはり嫌いな男だ。
本当に醜い男、汚らわしい男。
あえて微笑みは浮かべないし、冷たい表情を作ったわ。
迎えたザルツブルグ駅は見学の市民でごったがいしている。
ほとんどすべての感心事はフランス皇帝皇后を迎えたいという期待ではない。
私とユージェニー皇后の美の対決だったようね。
どちらがヨーロッパ宮廷で一番美しいか?
だったらしい。
彼らの目にはユージェニー皇后は確かに美しかった。
王族ではないものの小柄ながら威厳を感じる。
一方私は背が高くバイエルン公女であり気品と優雅さ威厳を感じたみたいだったらしいわ。
そして決め手は豪華なモードのスカートの先にユージェニーの靴先がちらりとのぞいていた瞬間だった。
市民はそれを見てはしたないと感じ、完全に勝者は私に決まったそうよ。
ユージェニー皇后は私が王族出身というのもあり、始終私にも丁寧な態度だったわ。
義弟カール・ルードヴィヒは手紙にその様子を義母に書き送ったわ。
「確かにユージェニー皇后は今も美しい女性では違いありませんが、私達の皇后の傍では卑しい召使のようでした。
シシッが歩み寄り抱擁しようとした時、ユージェニー皇后はベールをあげた顔はほんのり色香がありました。綺麗な手、足、しかしスカートをあげて足元を見せるやり方はあるまじき振る舞いでした」
と。
この訪問の時私達は知らなかったのだけど、後世こんなエピソードが公開されたの。
フランスのハンス・ヴィルチェク伯爵が回顧録で語っていた。
ユージェニー皇后が私の元に来て
「オーストリア皇后が昼頃私を訪ねてきます。
中に入られたらしっかり扉を閉めてだれがこようとも通してはなりません。」
とおっしゃった。
私は扉の前で待機しているとナポレオン3世陛下がおいでになり皇后に会いたいとおっしゃる。
しかたなく部屋にはいるがいらっしゃらない。
その後2部屋を通り過ぎなんと更衣室の扉が半開きになっていた。
なんとお二人はこちらに背を向けて、なんと脹脛のサイズを測っておいででした。
私が知るかぎりヨーロッパで一番美しい。忘れる事が出来ない出来事だった。
しかし見とれ続けるわけにいかないので、私はドアを軽く動かした。
すると両皇后陛下は姿勢を整え振り返って微笑んだ。
「陛下がお呼びならしかたありません。参りますと」
知らなかったわ。見られていたなんて………。
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ナポレオン3世は厚かましくも夫にパリ訪問を打診してきた。
私も同伴してとの事だったけれど、今度は本当に妊娠していたのが分かった為に「苦渋の思いですが」と断った。
ちっとも残念ではありませんけれど。
大役を果たした私は褒美に実家ポッセンフォーヘン城へ訪問する。
ウイーンを離れている時には夫や子供達に手紙を出したわ。
6歳のルドルフには
「毎日御祖母様と附属礼拝堂に行きます。
そこではフランシスコ派の修道士様が私達の日曜ミサよりもずっと手早く行ってくださいます」
「マッペルおじ様が本を一抱え持ってきて読み始めるとそれが長いので皆居眠りしてしまいます。
ゾフィーの顔に水をかけて本気で怒らせるのが唯一の楽しみ!」
チューリッヒにいるマチルダの元へ、そして出産を控えるマリアの元へと大急ぎでかけつけた。
度重なる結婚式の延期の果てにルードヴィヒが結婚するくらいなら死んだほうがましだと言い出しているという。
その後2人の婚約は結婚をしない王に対して父の怒りは頂点に達し婚約破棄が決まった。
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私は帰還後静かにウイーンで過ごした。
流石に義母も久しぶりの帝室の誕生に嬉しいらしく理由をつけて私の部屋を訪れた。
敵意はないとはわかっているが新婚当時の恐怖が払拭出来ず、優しさからくる助言すら嫌がらせの様に感じてしまい義母の退出後は暗い気持ちになっていしまう。
出産3カ月前にハンガリーのゲデレー城に移った。
ウイーンでは出産をハンガリーで行う事に大顰蹙を買っているという。
でもこの子は必ずハンガリーで産み育てる。
こんどこそ我が子といえる子を全霊で育てる。
ゲデレーの王女様と。
1868年4月22日私は王女を出産した。
マリーヴァレリー・フォン・オーストリアと名付けられた。
「とても可愛い。ブルーの瞳、ふさふわした黒い髪、鼻はまだつぶれているけれど小さな口元、頬はぷっくりして、とにかく太っていて元気に動いています」
と夫はドルフに書き送っていたそうよ。
私は大満足だった。
必ずこの子は私の全てになる。
上の2人は義母に奪われたこの子は私の手で育てる。
そしてハンガリーの子にしてみせる。
ルドルフはラトゥ―ル伯爵の教育の元大変大人びた賢い子供に成長していった。
「褒美がほしいから勉強しているんじゃない。私の義務だからしているのだ」
とっているのだそうよ。
語学に堪能で鳥学に大変興味が高いそう、ただ感受性が非常に強くて些細な事も敏感に心身に影響しているのが気になるのだけれど。
将来が楽しみだわと私は思っていた。
最近の出国は主に実家の事で旅行は控えている。
そしてウイーンは経由という意味合いが強くなった。
つまりゲデレー城が私の宮殿となってこの時期は家族で過ごすのが当たり前になっていった。
私の関心事はマリーヴァレリーの健康と成長の一点に限られていたわ。
どんなにウイーンが私を嫌って批判しても私はまげないわ。
ハンガリーは私を。
私はハンガリーを愛すと誓った。
エリーザベトは最初の3子を生後すぐ育てられなかった。
そのトラウマから末娘は最初から自分自身で育てると決め、乳母から教育係まで全ての決定権を持ち周りの人間をハンガリー人で占め彼女に接する時にはハンガリー語だけで話すようにしていた。
しかしかえってこの行為がマリーヴァレリーに影を落とした。
「ハンガリーの王女様」と呼ばれた背景にはエリーザベトとアンドラシーン伯爵の不倫の子とウイーンではまことしやかに噂されたからだ。
その噂はヴァレリーはフランツヨーゼフ1世にそっくりだったため自然に消えたものの娘に大きな傷をつける結果になったのだった。
しかしその後ヴァレリーは母親の不倫の事実はないと知り安堵する事になる。
エリーザベトは異性から賛美される事は好んだものの、性的な欲求には逆に嫌悪感に近いものを持っていたのだった。
ヴァレリーはかえってハンガリー嫌いになり、