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ハンガリー王妃への道Ⅱ 穏やかな和解

シシッのハンガリー熱は素覚ましく遂にはハンガリーの独立を擁護するため夫を手の上で転がし始める。


「急いでおたよりします。

 ありがたいことに可哀そうなお父様は身体だけは元気です。

 お母様は可愛らしい天使の様にお父様を守っています。

 いつもお父様のそばにいて、病院に行ったり、誰かに助けを求められたり、誰かを慰めないと

 いけない時だけでその他にご用事のない時はお父様の元を離れません」


 義母は子供達にそう手紙を送った。

「皇后陛下はまさに天下の配剤です。

 優しく母の様にあらゆることに目を配り、全てを理解しようとされます。

 結構な事。

 人々の心を勝ち得るには遅すぎたくらいですがやっとうまくいきました」


ヒュルシュテンベルグ伯爵夫人が日記に書いていたそうよ。


1866年7月3日のケーニヒグレーツの戦いで敗戦しプロイシア軍がウイーンを目指した時、7月9日夫は私をブタに避難させるように告げた。


私は彼の元を離れる事に反対したけれど、最悪の事態にハンガリーの助けは不可欠だと夫の説得に承諾してブタへ向かった。


表向きはオッフェン宮の病院の慰問でいうものだった。

皇后を非難させるなど国内的にも動揺が走るから。

この非常事態に夫と離れるのは身を裂かれるほど悲痛だったが。

しかしハンガリーを訪問するのはこれからのオーストリアの運命も関わる事なのだと思いなおした。


しかたなくイーダや女官達、侍従を連れて列車に乗り込んだ。


現地は歓喜の声で迎えられる。

確かに戦争中で華やかな演出はないが、彼らの私への期待と未来を感じる。


「不幸のどん底にある王妃に背を向けるのは卑怯である。

 まして、王家にとって全てが上首尾であったつい最近まで、王妃の歓心を買おうとしていたのだからなおさらのことだ」


アンドラーシとディアークは言う。


ブタで数多くの病院と救護施設をまるで機関車の様に訪れ、慰問を繰り返しそれ以外はアンドラーシと今後のオーストリアとハンガリーの関係について話し合った。


夫はフランスの介を期待したけれど、ていよく断られた。しかもイタリアも落ちた。

ドイツも弾かれようとしている。

夫に残された選択は少ない。

挿絵(By みてみん)

この戦いは完全プロイシアの完勝オーストリア連合軍は惨敗を期した。



私は疲れを知らず、ハンガリーの重鎮2人にただひたすら全霊を注いで魂を彼らにぶつける。

その熱は2人に伝わり、その3人の魂は同化していった。


後は夫を説き伏せるだけだった。


再びウイーンに帰り、早々にハンガリーのアンドラシーン伯爵を外相に就任するようにもはやハンガリー以外オーストリアを救えないと説得した日々を送り再びウイーンに戻った。

やはり話し合いは平行線で夫は首を縦に振らない。


私はすぐ行動に起こした7月13日今度はバートイシュルに避難させていた二人の幼い子供達を連れてブタ入りしたの。


私はまさに17世紀かのマリアテレジアがやはりプロイセンに敗れようとした時、幼いヨーゼフ1世を連れ、当時反乱激しいハンガリーを頼りプロイセン軍に敗色濃いオーストリア軍に援軍するように説き伏せた逸話の再現した。


邸に入り、急いでウイーンのマイラット伯爵に手紙を書き送った。


「どうか皇帝陛下の傍で、今ハンガリーに対してあらゆる譲歩を拒否する陛下の目をどうか開いてさしあ

 げてください。

 いまやオーストリアを救えるのは我が祖国だけ。

 私の救い主になっていただように懇願します。

 ……アンドラーシのハンガリーの信任は深く外相に任命されれば反乱は沈静化されるはずです。

 少なくともハンガリーの情勢を平穏を保つ事ができるはずです……

 あなたにお便り申し上げますのは他意あってのことではありません。

 どなたかを信頼致します時には大幅の信頼を寄せております。

 どうか私の力が及ばなかったところでご成功いただけますように…数百万の人々の心が感謝の思いを満

 たす事でしょう。

 そして私の息子は最大の恩人である貴方の為に日々熱心な祈りを捧げるはずでございます」


としたためた。


夫と何度かの手紙のやりととの後、ようやくアンドラシーン伯爵とディアークとの会談を了承してくれた。



「ゆっくり話を聞きます。

 話をさせます。

 貴方達がいないので淋しい。

 

   貴方を愛するフランツより」


私の勝利。

オーストリアは敗戦したけれど…。


しかしこの会談で夫は最終回答を保留にした。

私の心は疲弊した。

度重なる緊張と敗戦のショック、そして優柔不断の夫のハンガリーへの判断。


主治医を呼び、静養を薦められた。

夫からは毎日の様に手紙が届く。


敗戦の処理が連日続く、戦争終結に至る交渉は困難を極めた。それは金額的なものではなくほとんど長きに渡りヨーロッパを支配してきた双頭の鷲ハプスブルグの終演の予感さえするものだった。


まずドイツ東西のプロイセン領の統合を達成し、オーストリアを統一ドイツから排除、そしてヴェネト州へのイタリア譲渡、賠償金の支払い、ホルシュタイン、シュレスヴィヒを譲渡、ハノーファー王ゲオルク5世、ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、ナッサウ公アドルフ(後にルクセンブルク大公を継承)の廃位で終わった。


大きなそして初めのオーストリアの外壁がはがれていく始まりだった。

その終焉の時私はこの世にいなかったけれど。




*******************************************


夫の頑固なまでに私の政治へハンガリーへの要求は当面膠着状態が続いていたし、私の忍耐力の限界はとうに切れていた。

本当にどこかへ旅に出ていきたい気分だし、夫の手紙を重すぎて面倒くさい。


オッフェン宮で主治医は静養に向かうよう助言された。

夫から交渉に疲れ果てた悲痛な手紙が毎日の様に届く。


最愛のシシッ、私の可愛い天使、君の小さな男の子、君のあわれな子と締めくくる手紙。


そうだろう長い間当然の様に名前だけだとしても神聖ローマ帝国皇帝として、ナポレオン失脚後のウイーン会議ではドイツ連邦会議の中心的役割を担ってきたオーストリア帝国が。

その主たるゲルマン民族圏から除外される。

まさにプライドはズタズタにされたのだから。


でもここで譲歩してはいけない。

これからのオーストリア・ハンガリーの為にも。


「もし会いにこられたら、どんなにか嬉しいか…君がいないのが本当に辛い。

 おそらく、あれほど辛かった日々の後で、君と同じ思いだと思う。

 子供達はそちらに置いてくればいい。

 君に会える事がどれほど大きい慰めになる事か…」


そして皇帝はアンドラーシをシェーンブルグ宮殿に呼んで話合う。

最初の頃に比べて愛想はよくなったらしいけど、まだ信頼するまでには至っていないらしい。


私はオッフェン宮を離れウイーンではなくブタの子供達に会いに行った。


その後も夫からの懇願ととうとう諦めの手紙がブタに届く様になった。


夫は敗戦後のオーストリア体制を再び構築しないといけないし、私は譲るつもりはないからゲデレー城の病院を慰問した。


おもいのほか素敵なこの城の地理的印象に魅了されて、突然夫にこの周辺の土地を買いたいと出してしまったの。

夫からは自重するようにたしなめられたわ。

そうよね。

少し反省したわ。


だからイーダにも説得されてウイーンに戻ったの。



夫の誕生日も近かった。


その日はちゃんと祝辞が行なわれたし私も参加したわ。

でももう緊張の糸が切れた様にどうしても旅に出て行ってしまいたくなったの。


夫の意固地に似たハンガリーへの拒否反応に希望がなく努力は無駄の様に思ったら、もう何をする気にもならないし、傍にいて魂が消費されるのも耐えられなかった。


プロイセンとオーストリアの和平交渉が終結しようやく多くの不安は立ち去った。

後は国内情勢を落ち着かせるだけだ。


しかしまたしても不安の材料が今度はメキシコから届くの。


実は夫の弟がナポレオン3世の口車と妃のシャルロッテの皇后に就く執着の説得にメキシコ皇帝として即位を決めてしまった。


出発前にオーストリア帝国皇位継承権を放棄する書面にサインをして、旅立って行った。


メキシコは内戦中で皇帝軍は苦境に立たされていたの。シャルロッテがヨーロッパに入り、再びフランスの援軍を要請したけれど体よく断られ、今度はローマ教皇の賛同の元連合軍の参加を画作したけれど、やはり色よい返事がもらえない。


ついに精神に異常をきたしてミラマーレ城に幽閉された。

マクシミリアン大公は義母に退位して亡命したいと申し出た手紙を送ったけれど、義母は退位などとありえない君主たるものの自ら王権を放棄するなどあり得ない。名誉ある戦死が唯一だと書き送ったの。


これが致命傷になってメキシコから離れなくなって後は雪崩の様に命を放棄するしかなくなった。




**********************************************





1867年8月23日私の妹がルードヴィヒ2世王と婚約したのだ。

私は一抹の不安を覚える。

あの王が女性に興味を覚えて妹は幸せになるのかと。

そしてあの二人の間に夫婦という関係性を感じなかったわ。

あの子の王を見る瞳は憧れ的なものにしか見えずに王のあの子を見る目は何故か女優的な一人の娘というにはまったく感じなかった。


ミュンヘンに飛びやはり二人の様子は舞台で見る恋人同士のような現実離れしたように感じたの。

祝福した足でもう一人の妹マチルダに会った。


丁度出産を控えていた。私が訪問した後に女の子を生んだわ。

疲れた様子でマタニティーブルーにも見えた。

マチルダも性格的に夫と合わなかったので夫婦仲はいつまで経っても他人行儀だった。

結局その後2人は離婚することなく別居して夫は事故とも自殺ともわからない死に方をして、マチルダはヘレーネや私の、実家を転々としているか旅行をしているかの生活をしてしまう。


その訪問の間も夫へ手紙を書いたわ。


「ハンガリアの問題が解決して、近く2人であちらに行けると知らせてくれるのを心待ちにしています。

 ハンガリーに行くと言ってくだされば。

 目的に達成される訳ですから、私の心も落ち着きます」


どうやらこの時期夫はハンガリー使節団のアンドラーシ達と度々会合を持っていたの。

ことここにいたって、戦争で疲弊した国力を回復するのにはハンガリーの鎮静化の安定が何よりも重要だという決断に至ったようだった。

挿絵(By みてみん)

オーストリアとハンガリーの協定案はようやく日の目を見たの。


夫が議会で「協定の草案」の原稿を読んでようやくシシッとハンガリーの要求が実現したの。

私はウイーンで戻ったわ。


そしてようやくオーストリア議会でこの協定が審議され承認されたわね。



1867年 オーストリアとハンガリーの妥協でオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立に至った。


両国は内ライタニアと外ライタニアに分けられ、国内はそれぞれ議会、憲法を掲げた。

外交、軍事、それにかかわる財政は二重君主国全体で一元的、共通の体制をしくことになった。


ハンガリー議会でアンドラーシ伯爵が首相に就任した。

そして遂に夫はハンガリー王に私は王妃に正式に戴冠する準備に入ったの。


アウスグライヒ体制の始まりようやく遅いわよ貴方と心の中で思ったものよね。


そして夫婦の和解も同じく叶った。


 









遂にハンガリー王と王妃の戴冠式を迎える。

フランツヨーゼフ1世はゲルマン民族によるドイツ連邦の宗主からプロイセン戦に敗れその座を明け渡すしかなかった。

プロイセン王国はその後ドイツ諸侯の地位を追い込み全ドイツを統一しゲルマン民族の帝国を造りあげた。

オーストリアは二つの選択があった。ハンガリーと手を結び他の民族を抑え込むか?

民族の独立をある程度認めて連邦国を目指すか?

結局絶対君主主義の考えに固執しハンガリーの独立を認め自身が王に戴冠するという決断に至った。

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