ハンガリー王妃への道
オーストリア帝国の新たな危機に皇后としてどう苦難を乗り切るのか?
ハンガリーを訪問して以来、ハンガリー愛を隠そうともしない私。
私は虐げられている者を愛す。
何故なら私も虐げられている者だから。
観劇の日に私はロイヤルボックスに座ったわ。
その時の宮廷人のアングリとした顔をいったらおかしかった。
私がマジャールの伝統的な帽子を被っていたからなおさらよ。大公妃もオペラグラスでじっくり確認していたそう。
静かなはず席が人の囁く声が騒めく。私はしたり顔でその後怒りにまかせたようにボックスの席を立った。
後ろからあたふたと何か起こったのかわからずフランツが追いかけてくる。
こうなる事は予想していたわ。
だからと言って止めないわ。
私は愛する者に同調するわ。どんな敵がいようとも。どんなに批判されようとも。
フランツはまだハンガリー国内が不安定なので、私の行為を批判したりはしない。
私のウイーン評価が下がれば下がるほど、ハンガリーの私の評価はウナギのぼりだから。
帝国を二分する事はフランツにとっても痛手なの。
ドイツ人とマジャール人(ハンガリー人)、ボヘミア系等スラブ系民族オーストリアは多民族国家なの。
なんとかフランツ・ヨーゼフ一世の名の下に統一国家の体をなしてはいるけれど、民族紛争はあちこちで起こっているから夫の頭痛の種でもあるのよ。
しばらくは国賓をお迎えする皇后の公務をしっかり行ったわ。
米国の代理大使の晩餐会の時、私手元がくるってグラスを割ってしまったの。
「あら。私本当に不器用で」
と頬を染めてしまったわ。
フランツが始末してくれて、またグラスに酒を注いだの。
代理大使はその姿を無作法とは言わなかった。
皇后は本当に美しい人です。
膚の色が光に映えて輝くような白さ、瞳は黒くお顔の表情も話し方も、柔らかく包みこむよう。
何か恥じらいのようなものさえ感じます。
英語も堪能で私とは小声でしたがずっと英語で話しておられました。
私が浪漫派の詩人でないのが残念。
いろいろと美しい比喩を思いついたでしょうし。
あの長い睫毛を歌うソネットも作れたでしょうから。
って言ってくれてたみたいなの。
プロイセンの将軍も奥様への手紙でこう感想を書いたそうよ。
噂は本当でした。
皇后は愛らしいというだけではたりず、かつてないほど美しく人より抜きんでている。
とてもいいつくせないほどの美しさ。
やや内向的で小声で話されるため聞き取りにくい所はあります。
食後皇后の所へ紳士達が集まりましたが、打ち解けた様子でお話されておられて公務をなさっていらっさいます。
その時間になるとみやびに腰を落とし礼をされるので退出の時はわかります。
1864年ますますハンガリー語をマスターする為にマジャール人の女官を雇う事にしてリストを作らせたの。
その目にとまったのが23歳のイーダ・フェレンツィだった。
そんなにいやどちらかというと低い身分でいて、気立てがよさそうな写真の顔、是非会ってみたかった。
11月に彼女と面会したわ。
面談はとても有意義だった。
「気に入りました。一緒にいていただくことがおおくなります」
彼女の人柄だけでなく。
アンドラーシやディアークと親交があったのも決めてね。
彼女を皇后御進講係にして雇ったわ。大公妃は即自分に皇后の動静を知らせる様にスパイにしようとしたけれど前もって思っていた事なのでイーダにはいいふくめていた。
彼女は主人に忠実だった。
肺に持病をかかえていたのでいつも一緒にとはいかないけれど、彼女のおかげでますますハンガリーへの愛が高まっていったわ。私の心を許せる初めての女官よ。
彼女と離れてバートギッシンゲンにいる時に手紙を書いたわ。
「何をしても貴方の事を考えているわ。
私のいない間に素敵なプリンスに恋をしても結婚したりなんかせず、私の傍にずっといてくださいね」
女官は結婚すると女官を退職しないといけないの。
皆私が気に入らない女官をリストラしてマジャール人で埋め尽くして、女官達には結婚もさせず横柄に振舞ったというけれど。
そんな事をしたのは一人だけ。
エステルハージ侯爵夫人だけよ。
大公妃のスパイ!
次の女官長はオーストリア人だったし、他にもいたわ。辞めさしてなどいないわ。
結婚して退職していった人や姉の嫁ぎ先のバイエルン貴族もいたのよ。
私のハンガリー熱をフランツも感じていたし、なにより問題のあるハンガリーで私の人気が爆上がりなのをブタで感じたみたい。
私同伴でブタを訪問する計画を立てようとしていたみたい。
私知らないからミュンヘンにいたわ。
翌年1月8日ウイーンで2週間遅れで私の誕生日の祝賀のハンガリーからの使者の謁見が予定されたから勿論戻ったわよ。
でも私のお母様に伴われてね。
そして当日彼らを喜ばす為に私のクリノリンのドレスはハンガリーの民族衣装をデザインを基にした。
この日の為に朝から念入りに髪を整えて準備をした。
蝋燭の光以上に彼らに印象つけないといけない。
私が彼らの庇護者であるように。彼らの女神の様に。
しかも私の周りの女官には新しくマジャール人も増やしていた。
枢機卿の次にハンガリー貴族の使節団が入場する。
枢機卿は低い声で祝辞を述べて言った。
「ハンガリア国民の王妃への変わらぬ忠誠。
ハンガリー国民が王妃の来訪を心から待ち望んでおります」
「あの素晴らしい街を再訪するのは私の心からの願いです」
と私は美しいマジャール語で答えたわ。
そのあとの感動的な事といったら。
どよめきのあとの声といったら今でも興奮する出来事だった。
「エルジェベト万歳!」
ここいにるのはまさに君主の妻にして国民に愛された、そして国民を愛すると誓う。
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1月29日約束のハンガリーへの旅が始まった。
ブタに着いても夫とハンガリー貴族達のわだかまりは強く、双方歩み寄る可能性は零に等しそうだった。
皇帝として数々のハンガリーの反乱、自分への暗殺未遂とわだかまるのは十分だった。またハンガリー貴族達はいずれも投獄された経験者や反乱で殺害された家族も多くいたためそう簡単には和解に至らない。
それは私の存在は緩衝材になるはず。
滞在中は嫌いな公務も極力こなした。
あの嫌いな舞踏会さえ厭わず出席した。
ハンガリー議会団を前に会見した場で私はスピーチした。
美しいイントネーションのハンガリー語で。
「願わくば全能の神がその最も豊かな祝福をもって貴殿らの活動に報われんことを」
このくだりで手を合わせ瞳は涙が溢れ白い肌、赤い頬を濡らした。
あまりの感動で議員団は涙に溢れ頬を濡らしていた。
でもここでは不思議と我慢出来た。
2日後ハンガリーの重鎮達から独立政府の承認を要求する嘆願書が出される。
つまりフランツヨーゼフ一世にハンガリー王として即位し、オーストリアとは別の政府組織に独立したいと。
夫は冷たくこの進言を拒否したのだったわ。
彼は私が泣き脅しても政治的に譲歩しないのはわかっている。
そんなに簡単にはいかないけれど、一回でうまくいくほど両者の溝は深いから粘り強く。
私がアンドラシーン伯爵達と夫の溝を埋めるわ。
夫は私の評価を大公妃に手紙で知らせていたらしいの。
「シシッの礼儀正しさ、節度ある対応、そして見事なハンガリー語の才能は私の力。
厳しい通達も優しい口調のお国言葉であれば通り事もあるようです」
一回の協議で決定するほど簡単ではないわ。
そうあの時に思った。
でもこの訪問は間違いなく第一歩。
ウイーンへ帰る汽車の中で私は新たな気持ちでいた絶対ハンガリーを擁護するんだと。
実はね今夫はいえオーストリアは政治的にかなり危うい立場にいるの。
シュレースヴィヒとホルシュタインはドイツ国内にあってデンマークが実質支配していたの。
1864年プロイセン主導でこの地域の主権を取り戻すという名目で共同戦線をはりオーストリア軍とプロイセン王国対デンマーク軍が衝突した戦争があった。
プロイセン王国は開戦前に列強に傍観の確約をつけ、戦争が大規模化しないように中立の確約を取り付けてからデンマークへ同地を放棄する旨の伝達を行った。
デンマークはこれを拒否して開戦した。
結果はオーストリア帝国・プロイセン王国の勝利。
プロイセンはシュレースヴィヒを、オーストリアはホルシュタインを統治する。
プロイセンはオーストリアに賠償金を支払い、ザクセン=ラウエンブルクを統治する。
キール港をドイツ連邦の所有とし、プロイセンはその軍政・警察事務を管理する。
レンデスブルク城はドイツ連邦の所有としプロイセンおよびオーストリアが守備兵を置く
をオーストリアとプロイセンでバート・ガスタイン協定が締結されたの。
でもこれがプロイセンの罠だった。
プロイセンはどうしてもオーストリアをドイツ圏の影響力をなくしたかった。
当時のドイツ連邦議会【神聖ローマ帝国に代わる組織】ドイツ人による緩やかな連合を議会にして繋がっていたの。でもオーストリア人は全員ドイツ人ではないスラブ人、クロアチア人、イタリア人、いろんな民族が国民にいるわ。
プロイセンは一つも民族で支配出来る帝国を建国するのを目標にしていたからオーストリアを排除してドイツ人だけ連邦をつくりたかった。(しかし最終的には連邦ではなく自国に取り込んで帝国を建国為だったのは間違いなかった)そのための布石を着々と築いていた。
その後プロイセンはイタリアと国交協定を結んで北を固め。
そしてすぐにドイツ連邦憲法の改正案を提出、普通選挙で議会を選出した。
これはオーストリアを締め出す内容だったので夫は反発したわ。
これを想定してバート・ガスタイン協定を指摘してオーストリアに戦争阻止するにはオーストリア駐屯地ホルシュタインに進軍したの。
オーストリアはドイツ連邦議会でプロイセンを強烈に非難し、同議会でプロイセン討伐の命が決議されてプロイセンは同議会を脱退。
脱退しても自分の影響力を持てる小ドイツ連邦をつくればいいだけ。
開戦した。
私はバートイシュルにいたけれど、すぐに母に手紙を書いて子供達を残し急ぎウイーンに向かった。
母にこう手紙を書いたの。
「戦争の危機が迫っている今、皇帝を一人にしておくことは出来ません」
動員令の敷かれもはや避けられそうになかった。
ほぼドイツ諸侯が二つの勢力に分かれ戦った。
プロイセンとドイツ諸侯(メクレンブレグ系・ザクセン傍流)・イタリア軍
800000
オーストリアドイツ連邦軍(バイエルン・ザクセン王国他)
600000
数の上では200000の差だったけれど。
プロイセンは事前に戦争の準備をしていたし、武器や軍備の近代化・交通網あらゆる勝利の準備が万端だった。
それに引き換えオーストリア軍は軍備は旧式でしまも他民族国家だったので指揮も低下していた。
負けるのは目に見えた戦いだった。
フランツヨーゼフは執務室で報告を受けて、各省庁に指示を出して寝る暇さえなかった。
私は出来るだけ傍にいたわ。
義母が子供達にその様子をイシュルに書き送るくらい。
負傷した兵士達の収容された病院を数々慰問しては励ました。
ある病棟で壊死した片腕を切断手術を拒否している負傷兵に私は出会った。
彼にどうしても生きてほしかったので説得したわ。
「貴方のこれからの生活を私の出来る支援約束をします。
どうか手術をうけてください」
彼のしばらくの沈黙の後言った。
「皇后陛下が…傍で付き添ってくださるなら」
願いというより懇願に近く顔は引きつっている。
私は恐ろしくはあったけれど、小さく頷いた。
手術は粛々と始まり。私は彼の残った片方の腕を握り手術が終わるまでその冷たい空間の中で彼に寄り添った。
何とも言えない緊張感と恐怖のせいで不思議とその時間は短く感じられなんとか無事に手術は成功した。
ある兵士はもう助かる望みはない瀕死の状態だった。
意識はあり私は彼の傍に座り聞いた。
「私に出来る事はありますか?
出来る事ならどのような事も望みを叶えたいと思います」
兵士は薄れゆく記憶の中でかすれた小声で言った。
「皇后陛下…私の…最後に陛下…にみとっていただくことが出来るのなら。
何の………不安もなく……神の身元に旅立っていけます」
私は彼の手を握り、ぎこちなくではあったろうか。
微笑んで彼を見つ続けた。
数時間後彼は旅立った。
静かな微笑みを浮かべているように見える。
十字を切って彼の両手を組ませて瞼を閉じた。
私は放心状態のまま病院を後にした。
この戦いは
1866年6月14日 から8月23日に行われた。
ホルシュタインの戦い
ドイツ西部諸邦の戦い
ランゲンザルツァの戦い
キッシンゲンの戦い
アシャッフェンブルクの戦い
マイン川の戦い
ボヘミアの戦い
ケーニヒグレーツの戦い
オーストリア連合軍の敗戦・撤退・降伏
イタリア戦線
オーストリアの勝利
プロイセン連合軍はウイーンを目指し、帝都は戦争の足音がヒシヒシと近づいていた。
エリーザベトのハンガリー愛の傾倒は姑への対抗とは一概に言えないと考えている。
その素朴さ、反骨心、異民族、虐げられながらも自尊心高く自らを犠牲にしても絶対主義に立ち向かうその姿に共感したのではないでしょうか?
ルドルフ皇太子が死ぬまでハンガリーを故郷のように訪れました。