鴎は孤高の世界へ…ギリシャ編
乗馬、フェンシングの後にはギリシャ愛が私を支配する。
ギリシャはヨーロッパ文化の母。
全ての文化はこの南の小さな島々半島に由来するの。
私の家系で母方の伯父ルードヴィヒ一世は大のギリシャ好きだった。
ミュンヘンを第二のアテネにすると建設費をつぎ込んでいろんなギリシャ施設を造りました。
オスマントルコ帝国から独立したギリシャに列強の後押しを受けて次男を国王として即位させたくらいです。
けれど結局政治の不作が続いて退位して亡命する事になるのですが……。
だから私のもギリシャ好きの血が流れている。
ギーゼラだけでなく生まれたばかりのルドルフまで義母に奪われ、夫は外交と内政に疲れて不倫まで。
もうボロボロだった私は咳がとまらず、不眠、欝症状と突然の感情の起伏不安定な体調の中ようやく南の温かい場所での療養が医師によっていい渡された。
場所はポルトガル領のマデイラ島だった。
十分に静養した後、すぐにウイーンには帰らずにいろんな場所を経由した。
ギリシャのコルフ島もその一つ。
すごくきれいな島で気に入ったけれどフランツが迎えに来て帰らなきゃいけない。
残念だった。
でもウイーンに戻るやいなや症状がぶり返した。
すぐに静養に出たわ。
行先は当然コルフ島にしたわ。
あの空、太陽、海、全てがこの世のものとは思えない。
不思議なもので行くと決まってから旅行の準備をしているだけで症状がよくなった気がした。
ぁぁ、何も感じたくない。
ウイーンは嫌や。
私を私でなくす場所だと今でも思う。
でも死後私の遺品はウイーンのあの監獄宮殿に陳列されているのよね。
嫌だわ。
夫に付き添われてトリエステで船に乗り換え、わずかな随行員と気の知れた女官達を連れてコルフ島に到着した。
4カ月の間に島内でいろんな事をしたわね。
途中で姉のヘレーネも来てくれてとても素敵な日々だった。
ヨットに乗って、歌を歌って心の底から笑ったの。
この辺りはまた後もお話で伝えるわね。
そうコルフ島は私の心の隅に大切にしまい込んでいた。
1885年10月東地中海を回遊。
この時にトロア遺跡よ。
シュリーマンが発見した。
貴方達もご存じよね。トロア遺跡発見者。古代遺跡冒険家でも彼商人よ。
しかもクルミア戦争で荒稼ぎした死の商人だった。
でも彼の案内で遺跡を訪ねる事になっていたけど、私の座骨神経痛が酷くて見学は中止にしたの。
残念。
1887年10月から11月に思い立ったようにギリシャの教養旅行を計画したの。
乗馬も坐骨神経痛でやめたし、一時期フェンシングも嵌ったけれど運動は競歩に切り替えたわ。
コルフ領事で古典学者のアレキサンダー・フォン・ヴァルスベルグ男爵を口説き落とし、意気揚々とギリシャの島々をめぐる旅は本当に最高だった。
彼ったらこの話を聞いた時には
「簡単に要点だけ話せともことだった。
皇后は多弁を好まない。
そして御前に連れていかれた。
皇后は無というほどではなかったが、ぞんざいな口調で話をした。
私には醜く、年寄で線路の様に痩せていて、衣装も似合っていないように見えた。
愚かな女性ではないが狂っていると感じて私はとても悲しい気分になった」
と思ったそうよ。
でも旅行中に一遍するの。
「皇后は別人だった。
よくしゃべり、形式ばらず、利発で優秀で親し気で偏見がない。
要約すれば私がこれまで出会った中でも最も魅力のある人間の一人だ。
四時間であの方の隣か狭いと所ではすぐ後ろを歩いたが、その間も休みなく話されたので晩になると酷
い喉頭が炎症になるほどだった。
あの方のおっしゃる事は風変わりではあるが、とても誠実だった。
いずれにしても知性という面ではとても優れた方であり、私はめったにないほど興味をひかれた。
ご自身の能力は自覚しておられるようで遠慮ない言動はそれを根拠にしているらしい。
そう考えなければ皇帝陛下があの方にあれほど気を使う理由が理解出来ない」
「うっとりするほど愛らしい。
あの方に抵抗できない。
…私に大切なのはあの方、あのご婦人だけだ」
大絶賛ね!!
この頃になるとギリシャ文学を古代言語で読みたいと古代ギリシャ、現代ギリシャ語の勉学を励む様になるのよ。
ギリシャ講師もつけたわ。
1888年10月から2か月やはりヴァルスベルグ男爵を連れてギリシャ島々を旅行したの。
この時コルフ島に別荘を造ろうと思い立ったの。
「随分沢山美しいものを見ましたが、スケーリエをこえるものはこの世にありません。
昨晩この不思議な国が目の前に開け、心はこれほどの美しさの前で飽きる事を知らないのです」
サッフォーが飛び降りた崖、イタケ―島。
そして夫に書き送った。
「未来の故郷だと思っている」
コルフ島に別荘の計画を始めた。
あまりの海への心酔に肩に51歳で「錨のタトゥー」を入れたわ。
夫は大慌てで手紙に驚きを書いてよこしたわ。
膚に入れ墨なんて王侯貴族でも私だけよね。
この旅行から帰ってあのマイヤーリンク事件が起こったのよ。
ルドルフの死を忘れる為にまたギリシャに没頭したわ。
時間がもったいなくてギリシャ文学の学生に散歩の時に読み聞かせや語学の勉強をするようになったの。
だって時間がもったいないもの。
この事を弟のカールテオドールに言ったら。
「頭が狂っていると思われるからですよ」だって。
「どからなんだというのですか?狂ってないのは自分でわかっているというのに」
と言い返したわ。
ナポリ建築家カリートがヴァルスベルグ男爵の指示の元、ポンペイ式の遺構を建築のモデルにしたそうよ。
ミューズたちの銅像も用意した。
ホメロス、プラトン、バイロン、アポロン、ミューズを。
館内の天井に「凱旋するアキレウス」を描かせた。
家具や食器などの日用品はウイーンでナポリ風に製作されてコルフに運ばれた。
印には私のマークである「イルカ」が刻印されている。
デュッセルドルフに建立するはずで倉庫に眠っていた私の好きなハイネの像を持ってきたわ。
詩人も癒されるかしら?
建築途中だったけれど。
1891年3月15日ミラマーレ号に乗ってヴァレリー夫妻とコルフ島へ行ったわ。
ヴァレリーはまだ工事中だったけど建物が美術館の様でエイサブの街並みを望むテラス、アルバニアの山々、深い青い海。
この景色と気候、静けさ全てが気にいっていたようだった。
特に夜は少し暗いけれど電気照明が照らされてこの世の者とは思えない。
まさに神々の世界。
列柱で囲んだ中庭北側に段丘状の庭園が二面傾斜で続いた先に海。
下の段丘の先端に「瀕死のアキレウス像」を設置した。
「この宮殿はアキレウスに捧げた」
アキレウス。
己の真意だけに忠誠を誓い、己の夢だけに生きた人。
その後島々とアテネに観光に行ったのよ。
月光美しい夜にアクロポリスの丘のパルテノン、エレクティオンも素晴らしかった。
そうその時、ギリシャ王宮にも行ったわ。
オーストリアのエリーザベト皇后と名刺を渡してね。
あたふたしていたわね。
王夫妻は不在だと追い返されるのかしらと思ったら、本当に外出中で輿入れしたばかりの王太子妃と会ったわね。まだギリシャ語を理解出来ないようだったけど、ずっとギリシャ語で話したわ。
ぽか~んとしていたけれど…。
そしてコルフ島へ戻ったわ。
1891年5月あまりギリシャ文学を愛する為にギリシャ教師を雇用した。
彼の私の回顧録を出したの。そのせいで解雇されたけれど。
その中で王宮の私の姿についてこう書き出しているわ。
「長い裾の黒い絹のドレス、黒い駝鳥の羽が縁飾りについている。風変わりな衣装吊り輪にぶら下がっツいる。体操には全く不向き。
鳥だろうかそれとも蛇かと皇后は客を待っている間ももったいないとそのかっこだそうだ。
「いつもはこんな時間にしないのだけど。今日は時間がなくてぶら下がっているわけ。
まさか大公妃達も私がこんな格好でいるとは誰も思わないでしょうね。」
このギリシャ講師はまるでこの世のものとは思えない神秘的な姿に目を奪わてたみたい。
10月アキレイオン荘が完成したけどしばらく行かなかった。
1892年2月から4か月アキレイオン荘でゆっくり隠棲生活したわ。
木々がまだ十分に成長していなくて理想通りとはいかないまでも。
1893年なんだかコルフ島への興味が薄れてしまったの。
3月売却も考えたけれど、ヴァレリー達が別荘を売ってもお金に困る事はないから大金をはたいて売り飛ばすのはどうかと思うと夫の反対でしなかった。
1895年早春にコルフ島へイルマ達を伴って滞在したわ。
浴室は総大理石、金張りの蛇口に海水のお湯。
ここで寝椅子に座り、マッサージを受けるのが日課だった。
イルマは到着前に島の光景でだけで気にいったみたいだったわ。
島々の花が咲き乱れてピンクだらけ、そして小高い山の中腹に白いアキレイオン荘が荘厳な姿が見えて興奮していたみたい。
別荘に続く桟橋を降りて徒歩でアキレイオンに向かいます。
ヤシの木、レモンとオレンジ、葡萄のの木々の間を縫うように歩き最初のバルコニーに到着した。
また歩いてヤシの木と薔薇の庭園を抜けてテラスに。
そしてその名の由来瀕死のアキレス像が出迎えてくれている。
そしてアルバニアの山々と青い海、青い空。
地上のギリシャの楽園。
私の部屋に上がり、イルマがこのギリシャ文化の結晶というべき別荘に感銘を受けているのがわかった。
私はイルマに言ったの。
「ここは私の避難所であり、私が完全に自分でいられる場所なのです。
ここでは私は俗世的な見方はしません」
その言葉通り、まさにここは古代ギリシャの邸宅をそのまま移したように内装も凝った造りになっている。
この島では私が髪を梳く誰にもあわないようにギリシャの勉強に没頭していました。
庭で一人過ごし朝食をとる。
11時に長い散歩に出かけて、午後は一人で自由に過ごす。
誰にもわずわらされずに。
庭に出るテラスはコリント式の円柱が美しく並び美しいギリシャ神話の神々の像がたてられています。
夜は電球が灯されてたここは更に美しいからイルマに見せてあげたわ。
「あなたはまだ月明かりにこれを見ていないので、貴方に見せたくて呼んだのよ」
私はイルマに優しく言ったわ。
イルマは不思議そうにやや興奮しながらこ、の古典的なこの世のものとは思えない魅惑的な幻想的な風景を。
光景を楽しでいるようだった。
まるでおとぎ話の世界に足を踏み入れたようとね。
よかったわ。
そしてホールに連れて行ってアキレス画も見せたわ。
翌日から他の小さな島を巡ってね。
そしてギーゼラ夫妻を招待していたから彼らの案内もしたわ。
そして皆でミサに参加して昼食会を開催したの。
私も頂いたわ。
その夜の夕食も私は身体の調子が良くて皆と楽しく夕食会を開催しました。
皆リラックスして、ここは最高に素敵だと言ってくれました。
そしてコルフ島の最後の夜、私は送別会を開催しました。
このコルフ島を離れる決心をしたのです。
その夜私は庭に建立した今は亡きルドルフ皇太子の碑をじっと見つめて。
私の影がルドルフの像にかかり抱きしめたような形になりました。
愛しい息子。
この島で魂が安寧にいる事を願っている。
もうこの島には訪れる事はないと思う。
私の体力と健康がそれをゆるさないだろう。
だからここで息子の魂よ。
眠って穏やかに……。
「私もそちらに行くわ」
宿命により。
私のギリシャ熱は暗殺される直前まで冷めない。
「オデッサ」「ホメロス」
そして古典ギリシャの文化、遺跡への情熱。
愛してやまないそれは命耐えても魂が永遠の追求するだろうと。
ギリシャはヨーロッパの文化の始まるの地として現在でも文化的価値の高い国とされています。
エリーザベトはその古代ギリシャにコルフ島を通し、更にアレクサンダー・フォン・ヴァルスベルグ男爵「オデッセイアの風景」に感銘を受けて教養旅行に出た時に「将来の故郷」と決めたと思われる。
手放す事を思った理由は特に明確ではない。
この設計に関わった関係者が死去した事も影響しているかもしれない。
この地上の楽園に愛息ルドルフの碑を建立し彼の魂を葬った後コルフ島を訪れる事はなくなった。
この息子の慰霊碑を建て二度と訪問しなくなったというのはここが死者の安寧出来る場所であるというエリーザベトの認識があったのではないかと思う。