夫婦
「北川先生……いつから見ていたんですか」
北川先生と呼ばれた彼女の名前は、北川麻沙美。この高校に在籍する日本史の教師だ。年齢は26歳。色白で派手な顔立ちの美人で、赤みがかった茶色の髪を無造作に束ねている。スタイルが良く、親しみやすいと言うよりは近寄りがたい存在だ。
「声をかけたところからかな。可愛いわね、貴方の彼女」
北川麻沙美はにやりと笑った。
「最初から話を聞いていたのか……悪趣味ですね」
興俄は小さく溜息をつく。
「だって、貴方がまた女生徒を泣かせるんじゃないかと思って見てたのよ」
「泣かせたのは先生でしょう。嫉妬深くて気性が激しいのは、相変わらずなんですから」
「人聞きが悪いことを言わないで。貴方が女好きだからでしょ。厄介ごとが増える前に、早く彼女を手懐けなさいよ」
「ええ、手は打ちますよ。俺に靡かない女はいませんから」
「はいはい、大した自信ですこと。それよりも、貴方の言葉はいちいち聞き捨てならないんだけど。誰が嫉妬深くて気性が激しいのよ」
「気分を害したならすみません。まぁ、でも、先生が俺を見つけてくれたことは、感謝していますよ」
今度は興俄が意味ありげに笑った。
「ちょっと。さっきから先生って呼ぶのはやめて。それと、二人きりの時は敬語を使わないでと言ったでしょう。まさか、もとは私より十歳も年上だった貴方が、今度はこんなに年下だったなんて予想外よ。私が周囲の猛反対を押し切って、流人だった貴方の妻になった過去を忘れていないでしょうね」
「敬語は使った方が良いと思いますよ。誰が聞いているか分かりませんから。それに覚えていますよ。嫉妬深い貴女が、俺が通っていた女の屋敷を破壊したこととか」
盛大な溜息をついて、興俄は肩を竦める。
「私に内緒で妾を囲うからでしょう」
麻沙美は目を細めて興俄を睨み付けた。
「勘違いしないで欲しいんですけれど、俺は貴女を大切にしてきたつもりです」
穏やかな口調で興俄は微笑む。しかし、彼女は納得がいかないようだ。
「私はいつも騙されていた。否、少しは疑っていたかも。まぁ、今となってはもうどうでもいいわ。それより、あとで私の家に来て。泊って行けるでしょ」
「はいはい、仰せのままに」
気だるそうに頷いて、興俄はその場を立ち去った。
――あの人には逆らわない方がいいな。
神冷興俄は、小さく溜息をつく。彼には幼い頃から人の心が読める能力があった。
きっかけは、幼稚園の頃。周囲の大人達が声に出して話す言葉と、心の中で創り出される言葉があまりにも違う現象に気付いた時だった。心の中で蠢く言葉は、いつも彼の脳内にダイレクトに響いていた。はじめは、どちらが口に出した言葉か分からず混乱して、周囲から疎まれていたが、次第に区別がつき、どんな人間とも上手く付き合えるようになっていた。
優しい先生が実は子供を疎ましがっていて、内心では罵時雑言を吐いていたり、大人同士笑顔で会話しているにもかかわらず、内心では罵りあっていたりと、なるほど、人はこうやって生きているんだと彼は幼いなりに理解した。そして自分以外の人間は、人の気持ちが意外と分からないのだなと知った。
小学生の頃、ふと目の前にいる友達の顔を見ると『まずい、宿題をやっていない。もうすぐ授業が始まる。どうしよう。神冷くん、貸してくれるかな』と聞こえてくる。しかしそれは声には出ない。『これ写す? どうぞ』とノートを差し出すと、はじめ驚いた顔をした友人は嬉しそうに『ありがとう』と言い、翌日からは興俄に対する態度を変えた。彼は人の気持ちを知ると同時に、相手を容易にコントロールするようにもなった。自分にとって不要な相手の情報は遮断でき、必要な相手の心中のみを知ることも可能にした。幸運なことに、自分の感情や思考は他人に読まれなかった。
北川麻沙美に会ったのは、彼が中学生の時。
一人で街を歩いていたら、背後から見知らぬ女に呼び止められた。彼女の第一声は『ああ、やっと見つけた』だった。実年齢よりも大人びて見える彼は、中学生ではあったが、稀に年上の女に声を掛けられていた。彼女もその手のナンパだろうと、適当にあしらったが、なかなか離れようとしない。それどころか『ずいぶん探したのよ』とか『どれだけ待たせるの』としつこい。誰かと間違っているようでもないので、頭のおかしな女だなと思い、少し脅かそうと心を読んだ。何を考えているか言い当てれば、たいていの人間は気味悪がって自分から離れていく。
しかし、全く見えなかった。いつもならば少し意識を集中すれば読めるはずのモノが、分厚い壁のようなものに囲まれたて何も見えなかった。心が読めない人間に出会ったのは初めてだった。彼女は戸惑っている興俄に言った。
『貴方は源頼朝の生まれ変わりなの。やっと見つけた。私達は強い絆で結ばれている。私と離れるなんて、できないのよ』と。
北川麻沙美と興俄の関係はそれから現在まで続いている。