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満月

 気を失った冬華の脳裏には、いにしえの記憶がうっすらと蘇っていた。


 あの頃、愛しい人と過ごした日々。それは彼女の人生の中で幸せな時間だった。けれども幸せは長く続かない。いつしか追われる身になり、吉野の山で別れた後、捕らえられ、尋問され、鎌倉まで連れて来られ、また尋問される日々が続いた。鶴岡八幡宮で舞を強要された静は何度もそれを固辞した。しかし囚われの身である彼女は結局従うしかなく、お腹の中にいる子と共に義経への想いを歌にして、舞った。


 文治二年四月八日 静御前は鶴岡八幡宮で舞を披露した。

『吉野山 峯の白雪 ふみ分けて 入にし人の 跡ぞ恋しき』

 吉野山の峰の白雪を踏み分けて行ってしまったあの方が恋しいと静が舞ったこの歌は、古今和歌集から引用されている。

『みよしのの山のしらゆきふみわけて 入りにし人のおとづれもせぬ』

 古今和歌集 巻六 冬歌 三二七首目 壬生忠岑

 吉野の山の白雪を踏み分けて入った人から何の音信もないと言う意味だ。


 次に静が舞ったのがこの歌。

『しづやしづ しずのおだまきくりかえし むかしをいまに なすよしもがな』

 この歌にも引用されたであろう和歌がある。

『いにしへの しづのをだまきくりかへし むかしをいまになすよしもがな』

 伊勢物語にあるこの和歌は、古くからあるしづの苧環を繰り返し巻くように、昔を今に戻したいものだと言う意味がある。静の歌は、義経を恋い慕い、あの時のように昔に戻ることができればと言う思いが込められていた。しかし、この歌とは別にもう一つ『しずのおだまき』を用いた和歌が、最初の歌と同じ古今和歌集に存在していた。

『いにしへの しつのをたまきいやしきも よきもさかりは ありしものなり』 

 古今和歌集 巻一七 雑歌上 八八八首目 詠み人知らず 

 こちらの歌は、身分の高い者も低い者(賤しき)も盛りの時はあったのだよと言う意味だ。

 

 静が舞を舞った時、目の前にいるのは愛しい人を追い詰めた張本人。今はこうして多くの御家人を抱えて君臨しているが、彼だってもとは罪人扱いの流人。対して自分は賤しい身分とされる白拍子。あなたの今は盛りの時かもしれないが、先は分かりませんよという皮肉もこの歌には込められていたのかもしれない。


 そしてその数か月後、静が産んだ子供は取り上げられ、由比ヶ浜に遺棄された。


『文治二年(一一八六)九月大七日庚戌 二品令歴覽由比深澤給 岡崎四郎義實献駄餉云々                     吾妻鏡第六巻より』

 源頼朝(二品)は由比ヶ浜から深沢の里辺りを見て回ったと書かれている。


 愛する人の子を殺され悲嘆に暮れていた頃、あの人が訪ねてきた。会いたくもなかったが、拒絶も許されない。あの人は、由比ヶ浜辺りを視察したと言った。なぜ、そのような話をしているのか真意が汲み取れない。由比ヶ浜に行ったところで、子は戻って来ないのだ。

『静、 そなたは儂が憎いであろう』

頼朝の言葉に、静は黙って目を伏せた。彼女は目を伏せたまま口を開く。

『憎いなど、私には何の感情もございません。私が愛しているのは九郎様だけです。あの方への想い以外、私は何も持ち合わせておりませぬ』

頼朝はそっと手を延ばし、艶やかな黒髪に触れた。静は未だ伏せ目たまま、彼の顔を見ようともしない。

『いにしへの しつのをたまきいやしきも よきもさかりは ありしものなり、か。儂にはわかる。あいつへの想いだけではない。儂への皮肉も込められているとな。東女の御台所にはあの歌の真意は伝わらまい。あれはお前の歌を聞き、幽玄だと言いおった。白拍子ふぜいが生意気な口をききおって』

頼朝は忌々しそうに言って、彼女の肩を押す。押し倒して、身体を跨いだ。静は目を閉じ、口を真一文字に結んだ。

『だが、その心意気は誉めてやろう。お前は実に聡明な女だ。このまま京へ帰すには惜しい』

 真上から見下ろして頬を撫でるが、静はじっと目を閉じたままだ。明らかに彼を拒絶している。

『あいつに、二度と逢う事はないだろう。今生でも来世でも』

 閉じられている瞳が気に入らなかった。あきらかな拒絶が気に入らない。欲しいのなら、無理矢理にでも奪えばいい。己の立場を誇示するために、美しい瞳を己に向けさせるために、彼は彼女を我が物にした。男が屋敷を後にした後、彼女は魂の抜けたような様子で部屋で窓に凭れていた。しばらく思考をやめた後、緊張の糸がぷつりと切れてしまったかのように、鳴咽し始める。

 その様子を母の磯禅師が悲痛な面持ちで見つめていた。



「う……ん」

 冬華は身じろいでうっすらと目を開けた。

「気が付いた?」

 彼女の華をの覗き込んだ鷲が、心配そうに声をかける。

「お母さん! お母さんはどこ?」


「ゴメン……冬華を連れ帰ることしかできなかった」

 鷲はゆっくりと首を振った。

「あれは夢じゃなかったんだ……」

 力なく呟いて、周囲を見回す。彼女は部屋の隅にあるソファーに寝かされていた。

「ここは?」

「僕の家だよ。前にも話したように一人暮らしだから、誰にも遠慮はいらない。しばらくはここにいよう」

「ありがとう、いろいろごめんね」

 力なく微笑んだ時、玄関のドアがガチャリと開く音がした。思わず身構えると、「大丈夫、御堂だよ。様子を見に行ってもらったんだ。お母さんがいたら、救急車を呼ぼうと思って」


「あのさ、行って来たんだけど」

 疲れ顔の御堂がリビングに入って来るなり言った。

「どうだった?」

 鷲の問いに御堂は首を振る。

「誰もいないし、何の痕跡もなかった。あいつ跡形もなく片付けやがった。近所の老夫婦に聞いたんだけど、何も見ていないって」

「そうか」

「え? お母さんは?」

「部屋にあった血痕をすべて消して、どこか別の場所に運んだんだと思う。とりあえずこれから警察へ行こう。全てを話してあの人を逮捕してもらおう。とにかくお母さんの居場所を聞き出さないと」

 立ち上がった鷲を冬華が制した。

「待って、先輩は人間の思考をコントロールできるんだよ。相手が警察官だって関係ない。たぶん、事件を無かったことにできる。下手したら私達が捕まるかもしれない。私達が捕まれば、あの人にいいようにされるだけだよ」

 強張った顔で言ったその時、


「ええと、私も入って良いかな。なんか取り込み中みたいだけど」

 リビングのドアから友人が顔を覗かせた。

「ゆかりん?」

「そこで会ってさ、立ち話もアレだから一緒に来てもらった」


「みんな思いつめた顔をしてどうしたの。冬華、顔色が悪いよ。大丈夫? 一体何があったの? 冬華のお母さんがどうかしたの?」

「それは……」


 ゆかりんに話せば、警察に行こうと言うだろう。そうなれば興俄の能力や、これまでの経緯を話さなければならない。どうしようかと冬華が逡巡していると、

「それはまた説明するよ。ここに俺達がいるのは黙っておいて欲しいんだけど」

 御堂が口を開いた。

「え? 誰に黙っておくの?」

「誰にも。これから会った人みんなに黙っていて欲しい」

 真剣な顔で鷲が告げた。

「うん、分かっ……た」

 納得がいかないような顔で、ゆかりんは頷いた。

「俺は菜村さんを送って帰るわ。二人ともゆっくり休んだ方がいい。顔色が悪いぞ」

 また明日来るからと言って、御堂はゆかりんと部屋を出て行った。


「お母さんを助けられなくて本当にゴメン」

 しばらくの沈黙の後、鷲が呟いた。

「そんな、鷲くんの所為じゃないよ。私がもっとしっかりしていれば、私があの人を止められれば。どれもできなかった……」

「二階に姉の部屋があるから少し横になると良いよ。僕は隣の部屋にいるから、何かあったら声をかけて」

「何から何まで……迷惑かけてごめんね。ありがとう」


 冬華は深夜になっても眠れなかった。

 母はどうなってしまったのだろう。もうこの世にはいないかもしれない。そう考えると涙が溢れた。たった一人の家族なのに。やっと何でも話し合える関係になったのに。大人になったら、楽をさせてあげたかった。拭っても拭っても涙は止まらない。そしてそれは嗚咽に変わった。隣の部屋で寝る鷲に聞こえないよう、布団を被り声を押し殺して泣くけれど、涙は止まらない。


そっと起き出して部屋を出た。彼を起こさないように、廊下を静かに歩くと部屋のドアが開いて鷲が顔を出した。


「ごめん、起こしちゃったよね」

 冬華が詫びると

「いや、僕も眠れなくてさ。夜風にあたろうと思って起きたんだ。行ってみる?」


 彼は廊下の先にある階段を指さした。屋上にバルコニーがあるようだ。彼に続いて階段を上がる。ガラスの扉を開けて外に出ると、生ぬるい夜風が身体を包んだ。


「月が綺麗だよ」

 空を見上げて鷲が言った。冬華も倣って空を見上げる。空の低い位置に満月が出ていた。

 ほんの数時間前、母とこの月を見ていた。私が前世を思い出さなければ、母は助かっていただろうか。私達は穏やかに暮らしていたのだろうか。知らないうちに大きな波に飲み込まれ、波に飲まれた自分は二度と浮かび上がることはできない気がした。ただ波に身を委ねているだけ。この先、どうなるのかさえ分からなかった。


 隣に立つ鷲を見ると、彼はまだ空を見上げていた。月明かりに照らされた彼は、とても綺麗だった。冬華は、自分ではない誰かがこの満月を覚えていると不意に思った。


「昔の私達もこうやって月を眺めたことがあったのかな」

 ポツリと零すと

「そうだと思うよ」

 すぐに返事が帰って来た。彼は続ける。

「あの人の前で僕は無力だった。僕はあの人に傷の一つもつけることができなかった。初めて会った時からそうだった。あの人は全てを見透かしているような目で僕を見たんだ。今の僕が無力なのを知っていたんだろうな」

「でも、鷲くんが来てくれなかったら、私はここにいない。あの人に連れ去られていた。助けてくれてありがとう」

 眼下には家の灯りが広がっていた。あの明かりの向こうには人々の日常がある。見えている景色はあの頃とはまるで違うけれど、いつの時代も懸命に生きている人達の姿があった。

 空に浮かぶ満月はあの頃と同じように、ただ二人を見下ろしていた。


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