混乱
怪しい男から逃げるように店を後にした三人は、しばらく走ったところで立ち止まった。
「何、あの人。いきなり冬華の髪に触ってさ、変態?」
眉間に皺を寄せて、ともちゃんが言う。
「冬華のストーカーかも。今までにどこかで見たことない?」
ゆかりんも険しい顔だ。
「見たことないなぁ。同い年くらいだったよね。詰襟の学生服を着てたし、誰かと間違えたんじゃない? 人違いだよ、きっと」
冬華は、店の方を振り向いた。先ほどの彼は、自分を誰かの名で呼んだ。いきなり髪に触れられはしたが、友人が心配するほどの嫌悪感はなかった。
「気をつけなよ」
ともちゃんが、心配そうに冬華を見る。
「うん、そう……だね。ありがとう」
「あ、それより、生徒会長さまだよ。神冷先輩ってさ、噂によるとすごい人たらしなんだって。そばにいると、みんなファンになっちゃうみたい」
「その話、私も聞いた。どこか冷たそうだけど、まぁ、そのギャップが良いんだろうね」
歩を進めながらゆかりんが話を戻すと、ともちゃんもそれに続く。
二人があれこれと生徒会長の噂を口にすると、冬華が『でも……』と口を挟んだ。
「神冷先輩って、女性関係は派手だよね。あの人、見るたびに違う彼女と歩いているよ。ああいうのは人たらしじゃなくて、女たらしって言うんだよ」
冬華は何度も校内外で、神冷先輩が彼女らしき女性と歩いている姿を目にしていたのだ。
「いやいや、確かにそうかもしれないけれど、歴代の彼女とは円満に別れているみたいだよ。実は最低な人だったとか、おかしな噂は全く聞かないもん」
ゆかりんがそう言うと、冬華は険しい顔で二人を見た。
「あのねぇ。円満って、芸能人夫婦の離婚じゃあるまいし。喧嘩もせずに別れるって、おかしくない? きっと陰で脅して、口留めとかしているんだよ」
「ちょっと、冬華。さっきからずっと神冷先輩に対して厳しすぎない?」
「冬華は先輩と話したこともないでしょうが。なんでそんなに嫌いなの?」
不思議そうにゆかりんが尋ねた。
「ちょっと苦手なんだ。完璧すぎるって言うかさ」
「じゃあさ、どんなタイプなら良いのよ。冬華の恋バナ、全くないよねぇ」
にやにやしながら、ともちゃんが冬華の頬をつついた。
「い、いるわよ。私だって、好きな人の一人や二人!」
ムキになって言い返すが、頭の中に浮かぶのは、ぼんやりとしたシルエットだけだ。具体的な誰かではない。ともちゃんは同じクラスに彼氏がいる。ゆかりんは恋多き女で、いつも誰かを追いかけている。一方の冬華には、浮いた話一つもなかった。
「冬華って可愛いし、隠れファンがいるって。賢哉が言ってたよ」
賢哉というのは、ともちゃんの彼氏である。名前は樹 賢哉。 中肉中背、いつも笑顔で、周りをほのぼのとした雰囲気にしてくれる同級生だ。彼はクラスの誰からも好かれる人物だった。二人は昨年の学園祭の準備中に意気投合し、付き合い始めたらしい。
「隠れファンって何よ。陰でしか言えないってこと? なんか腑に落ちないなぁ」
冬華が頬を膨らませると
「高校生活なんてあっという間だよ。恋の一つもなくてどうする」
ゆかりんがぽんと冬華の肩を叩く。
「ゆかりんは恋しすぎだよ」
冬華は呆れたように笑った。
ゆかりんは先月、些細なことで喧嘩をして彼氏と別れたばかりだ。それなのに、数日前から隣のクラスの男子がかっこいいと騒いでいた。廊下でぶつかった時、咄嗟に支えてくれた彼を好きになったらしい。今まで眼中になかった男子だったが、身を挺して自分を守ってくれた、これが恋の始まりだとゆかりんは冬華たちに熱く語った。彼女はいつも、自分を守ってくれそうな男子にときめいている。
「人の一生は短いのだよ、冬華くん。早く王子様を見つけ給え」
「なにそれ」
ゆかりんが威張って言うので、冬華は肩を竦める。
「アオハルできるのは、今だけなんだよ」
ともちゃんが付け加えた。
「はいはい。よく覚えておきますよ。じゃあね。また明日」
冬華は二人に手を振って別れた。ともちゃんとゆかりんは電車通学なので、駅の方へ向かう。徒歩通学の彼女とはここから別方向だ。
冬華だって恋愛に興味がないわけではない。小学生の頃は友人に借りた少女漫画に衝撃を受け、いつか自分にも素敵な彼氏ができると信じていた。しかし、中学生になっても漫画のような甘い話とは無縁の日々を過ごして高校生になり、いまだときめく相手に出逢うことなく、現在に至る。
二人が騒いでいる神冷先輩は、確かにハイスペックなイケメンだが、実際目の当たりにすると、近寄りがたく恐怖なようなものさえ感じてしまう。憧れというよりは、畏れる気持ちが先行するのだ。
いったい自分はどんな恋がしたいのだろうと、彼女は深く溜息をついた。
冬華は母親と二人暮らし。父親は幼い頃、交通事故で亡くなった。頼れる親戚がいなかった母親は必死に働いて、彼女をここまで育ててくれた。家は決して裕福ではなかったが、こうやって地元の公立高校に進学し、友人たちと毎日を謳歌している。アルバイトをして家計を助けたいと思ったが、通っている高校はアルバイトが禁止されている。その代わり家事のほとんどは彼女が担当していた。
冬華が住んでいるのは古い公営住宅。色があせた外壁のコンクリートは、所々はがれて今にも落ちてきそうだ。彼女は物心がついた頃からここに住んでいる。全部で八世帯が入居できるのだが、現在は自分たち以外に高齢の夫婦が住んでいるだけ。近くに新しい公営住宅ができてからは、こちらに引っ越してくる人はいなくなった。
背の高い男が、公営住宅の前に立っていた。男はこちらを背にして冬華の住む住居を見上げている。高校生だろうか。来ているブレザーの制服は、自分が通う高校のものによく似ていた。近所に高校生が住んでいただろうか逡巡していると、男がゆっくりと振り向いた。
「あ……」
先ほどまで三人で噂をしていた、神冷興俄が数メートル先に立っている。冬華より、二十センチ以上は高い身長。端正で整った顔。彼は冬華を視界に収めると、鋭い目元をわずかに緩め、距離を縮めた。さっきまで好き勝手に噂をしていた張本人が目の前に現れて、冬華は気まずそうな顔をした。
「こんにちは。きみはここに住んでいるの?」
気まずそうな冬華とは対照的に、神冷興俄はにこやかな口調で尋ねてきた。
「は、はぁ。神冷先輩はここで何をしているんですか」
「へぇ、俺の名前を知っているんだ。光栄だな」
「光栄って……全校生徒、みんな知っていますよ。生徒会長じゃないですか」
「夢野冬華さんは、お母さんと二人暮らしだよね」
フルネームで呼ばれ、冬華は目を瞬かせる。
「どうして私の名前を知っているんですか。それに家族構成まで……」
「彼氏はいる?」
「いきなり、なんですか」
「好きな人は?」
「今は、いない……ですけど」
真っ直ぐな瞳に射抜かれて、思わず正直に答えた。そして次の瞬間。彼は突拍子もない言葉を口にした。
「あのさ、俺の彼女にならない?」
「え? な、なんですか、急に。ふざけています?」
「俺が嫌いかな」
この人は、自分が知っている神冷先輩だろうか。今まで、遠くから見るだけだった人物に告白されて、冬華の頭上にはいくつもの疑問符が並んでいた。
「ええと。好きとか嫌いとかじゃなくて、その畏れ多いというか、どうして私なんですか。誰かと間違っていません? いきなり現れて、彼女になってくれとか、何の冗談ですか。だいたい私は、今初めて先輩と話したんですよ」
「確かに話すのは初めてだよ。でも、キミじゃなきゃダメなんだ。ずっと捜していたんだから」
言っている意味が全く分からない。この人、頭は大丈夫なんだろうかと少し心配にもなった。
「いやいや。私、先輩のこと、何も知らないんですよ。それに私、先輩に捜されるほどの人間じゃないですから。絶対に誰かと間違えていますよね」
「俺を知らなければ、今から知ればいい。返事は急がないから、考えておいて」
じゃあねと片手をあげて、神冷興俄は去って行った。
「なんなの……一体……今日は厄日かなぁ」
知らない男子に、知らない名前で呼ばれたり、話したこともない生徒会長に告白されたり。夢であれば覚めて欲しいと願うが、一向に覚める気配はなかった。