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夏祭

 週末、夏祭りの日。


 鳥居の先に参道が見える。冬華と興俄は歴史を感じさせる色褪せた朱色の鳥居をくぐり、20段ほどの石段を上った。石段を登りきったところに、苔の生えた狛犬が左右に鎮座している。とうに日は沈んでいたけれど、その場所だけは熱気が立ち込めていた。浴衣を着たカップルやラフな格好の若者グループ、家族連れが参道に溢れている。屋台に吊るされた白熱灯が、たこやき、焼きそば、りんご飴を照らしていた。ここ数日は雨も降らずからりと晴れていた。


「雨が降ったら困るなって思っていたんですが、晴れて良かったです。それにしても結構人がいますね」

 参道沿いに並んだ屋台を横目で眺めながら、冬華が言った。

「梅雨の中休みだな。梅雨前線が南下してくれたおかげで湿度も低くて過ごしやすい。冬華の浴衣、良く似合ってるよ」

 興俄が彼女を見て微笑む。


 冬華はえんじ色の生地に桜の柄があしらわれた浴衣を着て、朱色の帯を締めていた。髪もいつものロングスタイルではなく、お団子ヘアだ。浴衣は母に着付けてもらった。母は浴衣の帯を締めながら誰と出かけるのかと、不安そうな顔で聞いてきた。やはり先輩をよく思っていないようなので、ともちゃんたちと出かけると嘘をついた。

 先輩は濃紺のしじら模様の浴衣に黒い帯を締めている。先ほどからすれ違う女性たちが、自分ではなく、明らかに彼を見ているのが分かった。


「先輩の方が似合ってますよ。悔しいですけど」

「そうか? ああ、早く行かないと。目的地はこの先だ。屋台はあとにしよう」

「何が始まるんですか?」

「巫女舞。神楽の一種だよ」

「かぐら?」

「これから神社の拝殿で、八乙女系の巫女神楽が始まるんだ。祈祷や奉納の要素が濃いが、舞の優美さも味わえる神楽だよ」

「へぇ、興俄先輩は何でも詳しいんですね」

 次いで冬華は『あ、そうだ』と口を開いた。

「そう言えば、巫女と白拍子って違うんですね。ほら、前に聞いた静御前が白拍子って書いてあったから、何だろうって調べたんです」

「やっと少しずつ自覚がでてきたか」

 ぼそりと興俄が呟いたが、冬華には聞こえていない。拝殿に着いた彼女の目は既に、これから行われるであろう神楽に釘付けになっていた。拝殿の両側には篝火が焚かれている。厳かな空気が漂う中、千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が現われる。彼女達は太鼓や笛などの囃子にあわせて舞い踊り始めた。静けさの中に響く音が心地よかった。


「綺麗……」

 神楽が終わると、冬華は思わず呟いた。

「冬華が舞えば一番だろうな。神様も喜ぶだろう」 

「もう、冗談はやめてくださいよ。舞えるわけないでしょう。あ、そう言えば椎葉くんも、前に舞がどうとか聞いていたなぁ」

「そうか」

 抑揚のない声が返ってくる。

「椎葉くんたら、私に舞が舞えるかって聞いてきて。舞えないよって答えたら、今度は輪廻転生って信じるって言い出して。怪しい宗教にでもはまっているのかと思いました。違うって否定はしていましたけれど」

「ほう」

「でもあの綺麗な顔で勧誘されたら、怪しい宗教だとしても入信するかもしれませんね」

「それ、俺の前で言うか? 普通、彼氏の前で男の話なんてしないだろ」

「え? ああ、すみません。彼とは同じクラスの子って言うだけで、深い意味はないですよ」

 冬華が苦笑いすると、

「本当に無かったと言い切れるのか。どこかで疚しい気持ちがあるんじゃないのか」

 低い声が降って来た次の瞬間だった。急に手首を掴まれて、そのまま引きずられるように社殿裏へと連れて行かれた。照明はほとんど当たらないが、空から注がれる月明かりが、周囲の景色を認識させた。先ほどまでの喧騒が嘘のように、静まり返っている。木々の葉が風で揺れている。少し先には古い石垣が見えた。


「えっと、興俄先輩?」

 冬華が呼びかけると、彼は石垣の前で足を止め、黙って冬華の身体をくるりと反転させた。彼女の背中が石垣に当たった。

「あの……」

 彼は彼女の身体をぐっと石垣に押し付けた。月明かりが照らした鋭い眼差しに、言いようもない不安を感じる。彼の左手は肘まで石垣に付いて、身体を動かすこともできない。空いている右手が顎に添えられ、くいと上げられた。

「俺だけを見ていろ」

 興俄はそう呟いて、彼女の唇に己の唇を重ねた。あまりにも冷たい唇に、冬華の全身が粟立つ。身体が硬直し、抵抗しようにも身動きが取れない。数秒後、興俄は彼女の唇を解放すると、ゆっくりと言った。

「いいか。おまえは、俺のものだ。何も見るな。何も思い出すな。余計なことは考えるな」

「どうして……」


 怖いと思った。この人から離れなければと思った。それでも動く事すらできなかった。冬華にとっては初めてのキスだった。好きな人とのキスは心が温かくなって、安らげるようなものだと思っていたのに、こんなにも冷たくて恐ろしいものなんて知らなかった。今の彼女に残ったのは、恐怖心と嫌悪感だけだった。

「じゃあ、行こうか。屋台が出ていただろ。冬華は何が食べたい?」

 何事もなかったように、彼は冬華の手を取り歩き始める。

「先輩……怒っていますよね」

 おずおずと尋ねた。

「俺を裏切れば許さない。それだけだよ」

「そんな……私、裏切るだなんて……」

 ただ、クラスメイトの話をしただけなのに。そう思ったが言い返せない。先ほどの彼は冬華の知っている彼ではなかった。

「俺から離れるな」

 しっかりと手が握られる。彼の手は、驚くほど冷たかった。


「夢野さん」

 突然背後から声をかけられて、冬華は足を止めた。隣にいた興俄はまるで、それが誰か分かっていたかのように悠然と振り返り、声の主を睨み付ける。握られていた手に力が入り、冬華の身体は思わず強張った。

 振り向くと、先ほどまで噂をしていた椎葉鷲が二人の前に立っていた。彼はまっすぐに冬華を見ていた。

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