苧環
「じゃあ、残りの問題は一人で解いてみろ」
ある程度理解できるようになると、興俄は自分の鞄から文庫本を取り出して読み始めた。冬華は問題を解きながら視線を動かして、本を読んでいる彼の横顔を盗み見る。(睫毛長いな。唇の形、綺麗だな……)彼女の視覚に入った情報が、そのまま脳内に流れ込んできた。
そしてふと思った。今、先輩と二人きりだ。この状況は……どうしよう。キスされたら、どうしよう。嫌ではないけれど、望んでもいない……ような。でも断るのもおかしいよね。つきあっているんだし。いや、まだ早いかな。彼女の脳内では色々な妄想が駆け巡っていた。その時、
「どうした、手が止まってるぞ」
顔を上げた先輩に怪訝な顔をされ、思わず我に返った。
「あ、あの、その」
気がつかれたかなと顔を赤くする。
「冬華」
名前を呼ばれた次の瞬間、彼の顔がゆっくりと目前まで迫ってきた。冬華は思わず目を瞑る。キスされる。目を瞑ったまま、どうしようかと考える。考えるが何も起こらない。数十秒が過ぎ、恐る恐る目をあけると、先輩は声をあげて笑い出した。
また馬鹿にされたと思った冬華は頬を膨らませた。
「先輩、面白がっているでしょ」
「あ、わかった? 冬華の反応が、いちいち面白いからさ。心が読めなくても、お前の考えは丸わかりだな」
「丸わかりって……やっぱり馬鹿にしていますよね」
「そんなことないよ」
先輩は再び本を読み始めた。冬華は心のどこかで、なぜか良かったとホッとしていた。まだまだやらなきゃいけない勉強がある。そう思い、鞄を開けて国語の教科書を取り出す。
「先輩、わぶんのいもかんって何ですか?」
国語のワークを開いて、冬華が尋ねる。
「いもかん? 芋羊羹のことか? どこだ。ああ、伊勢物語か。あのなぁ、これは『わぶんのいもかん』じゃなくて『倭文の苧環』。だいたい漢字が違うだろう。苧は芋じゃない。自覚がなさ過ぎて、ホントびっくりするよ」
呆れたように興俄が言う。
「え、自覚って何ですか?」
「いや、今の冬華が可愛いなって思って。ずっとそのままでいて欲しいと思っただけさ」
「あ、また馬鹿にした」
「してないよ。倭文は古代の織物、苧環は糸を紡ぐ道具。この話は昔、親しい仲だった女に、男が手紙を送ったんだ。内容は、麻糸を紡いで巻き取った苧環のように時を巻き戻して、幸せだった日々に戻る方法があったらなと書いたんだが、女からは何の返事もなかったって話。ってなんで俺が説明しなきゃいけないんだよ」
先輩は面倒だと言わんばかりの顔をする。
「だって、苧環なんて絶対に読めないでしょう。見た事も聞いたこともありません」
「聞いたこともない、か。仕方がないな」
先輩はスマホを取り出し何かを検索し始めた。表示された画面を冬華に見せる。
「ほら、この四角い枠状の糸巻きが苧環。古事記にも登場したり、平安時代は七夕の供物だったりしたようだ。俺は、いにしえの人の中には糸を紡ぐ苧環を、逢うことのできない愛しい人に再び逢いたいと、願いをかけていたんじゃないかなって思うよ」
真顔でそう言うので、冬華は意外そうな顔をした。
「へぇ、先輩ってロマンチストなんですね。苧環から恋愛を連想して、誰かを思う人の話にするなんて。なんかもっとこう、合理的な人だと思っていました」
「ロマンチスト? 初めて言われたよ。でもまぁ、そうかもな」
先輩は曖昧な笑みを返した。
しばらく勉強をしていると、突然玄関のドアが開いた。
「ただいま。あら、お客さん?」
玄関から母の声がする。どうやら予定より早く帰って来たようだ。
「お母さん、早かったね」
冬華は玄関に向かって声を掛ける。
「今日は夜勤になったの。食事を済ませたら、また行くわ。お友達でも来ているの?」
部屋に入った母の姿を見て、興俄先輩は立ち上がった。
「初めまして。冬華さんとお付き合いしています、神冷興俄です。お留守中に上がり込んですみません」
にこやかに挨拶をする先輩の顔を見た母の顔が、みるみるうちに強張っていた。
「あ、あの、冬華の母です」
それだけ言って、母は黙った。てっきり『彼氏がいるなら、お母さんにちゃんと話して』などと叱られると思った。若しくは『彼氏かっこいいわね』などと笑顔で言われると思った。それなのに、母の表情は曇っていた。いや、恐れているようにも見えた。予想外の展開だった。
「お母さん?」
冬華は不思議そうに母を見つめる。
「俺はそろそろ帰るよ。どうもお邪魔しました」
興俄は鞄を手に取り、冬華に微笑んでから、母に会釈をして帰って行った。
「冬華に彼氏がいるなんて、お母さん全然知らなかった」
母は、たった今彼が出て行った玄関の方角を見つめたまま言った。
「ゴメン、つい言いそびれてさ」
母の背中に手を合わせる。怒っているのだろうかと思い、もう一度ゴメンと呟いた。
「冬華はこれで良いの?」
振り向いた母はまっすぐに冬華を見つめた。
「え? 何が?」
「あの人でいいの? 本当に」
「お母さんは私が興俄先輩と付き合うことに反対なの?」
母の質問を質問で返した。先輩の何が気に入らないのか、わからなかったのだ。
「貴女が良いのなら反対はしない。けれど、自分自身に聞いてみて。本当にあの人で良いのかって」
「あの人って……。お母さん、興俄先輩を知っているの?」
「知るはずないでしょ。今日初めて会ったのに」
「そう……だよね」
「ご飯の支度、今日はお母さんがするから。いつもありがとうね。本当に感謝しているわ」
「そんなに改まって、どうしたの?」
今日の母は何かおかしいと思った。母は冬華を見つめて口を開いた。
「子供が辛いとき、甘えられるのが親の役目なの。お母さんはそれができていないんじゃないかなって。いつもこうやって家事を任せて、申し訳ないって思ったのよ」
母はそそくさとキッチンへ向かった。冬華の目には、母が先輩に怯えていたように映っていた。先輩はずっと笑顔だったのに、母は始終、強張った顔をしていたからだ。
二人はまるで、以前にもどこかで会ったようだった。