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鯛茶漬け

 ふと我に返ると知らない場所にいた。

霧ががったどこかの高原のようだ。晴れていれば景色がいいだろうにと思った。


「ここはどこだろう……?」


 私はふわふわした感覚で道なりに歩いた。辺りは人っ子一人いない。


 「ああ、綺麗だな……。」


川が見えると川風のせいかさっきまでより霧が薄い。もう少し進んでみようと思った私の鼻が、すん……と何かを感じた。


いい匂い……。


 顔を向けると小さな洋食屋が見えた。レトロな趣の喫茶店のような店。そう言えば腹が減っている。何とも言えない懐かしい香りに鼻を刺激され進んで行くと、小さな看板があった。


【ダイニングキッチン『最後に晩餐』】


そのネーミングにぷっと吹き出す。自分が店を開くとしても、この店名は選ばないだろう。

 店から漏れる温かく美味しそうな匂い。私は中に入ってみる事にした。ドアを開けると、チリリンと鈴が鳴って来店を告げた。


 「いらっしゃいませ。」


カウンターの向こう。人の良さそうな店主がニッコリ笑う。


「カウンターにどうぞ。」


そう言われ私はカウンターに座った。すかさず置かれる水とおしぼり。


「……いい店ですね。何だか懐かしい。」

「ありがとうございます。」

「ところで、ここはどこでしょう?」


 おしぼりで手を拭きながら訪ねた私を、店主は少し不思議そうに笑う。


「面白い事を仰いますね。」

「……いや、すみません。」


 店主からみれば客がどこかわからないなんて思いもしないのだろう。いきなりそんな事を言ったら頭のおかしな奴だと思われかねない。


コト……。


私の前に料理が置かれる。びっくりして店主の顔を見た。店主はニッコリ笑うばかりだ。まだ注文していない……そう言おうと思ったが言えなかった。


三つ葉のスッキリとした香りが温かなご飯の湯気に交じる。

漬けにされた鯛の旨味と醤油。

海苔と擦られたばかりの胡麻の香ばしさ。

熱々の出汁の香り。

それらが鼻から肺に抜け、私はゴクリと唾を飲んだ。


 小皿の山葵をたっぷり載せる。そして出汁をかけると、鯛の身が白くチリリと身を縮める。それまで別々に香っていた食材が一気にまとまり、空腹には耐え難いハーモニーを奏で出す。

 私はレンゲを手に取り、鯛の身を崩しながら軽く混ぜすくい上げた。ふうふうと息を吹きかけ、頬張る。出汁の優しい旨味とワサビのピリリとした刺激。半分ほど火の通った鯛の柔らかさ。清々しい三つ葉の爽快感。


美味い。


私は夢中になってそれをかき込んだ。優しい味が体に染み渡って行くのを感じた。


あぁ……幸せだ……。


 思えば私は鯛茶漬けが好きだった。好きだと言った事はなかったが、妻がよく出してくれた。

 仕事が忙しすぎて食欲が落ちた時。昇進などの祝いの飲み会で午前様に帰ってきた時。ミスで残業が続き、くたびれて帰った時。

 そこにはいつも温かな笑顔と共に鯛茶漬けがあった。

 もちろん喧嘩もした。遅くにガミガミ言い合いながらドンッと出される事もあった。

 それでも君はいつも一緒にそれを食べた。「怒鳴ってたらお腹が空いた」「作ってたら食べたくなった」「たまにはいいわよね?」だの、色々言い訳しながら一緒に鯛茶漬けを食べた。

 鯛茶漬けは茶漬けとは言うが、お茶漬けの素をかけて作るような茶漬けじゃない。手間のかかる、ちょっと贅沢な料理だ。そんな鯛茶漬けを遅くに二人で食べる。喧嘩してぷりぷり怒っていても、これを食べ終わる時にはお互い笑顔になった。


「やっぱり美味しいわ。頭にきてたけど、食べたら少し落ち着いたわ。」

「……ごちそうさま。……すまなかった。ちょっと苛々していた。ありがとう。」


 ぽた……と、空になった器に雫が落ちる。目から涙が溢れて後から後からこぼれ落ちる。


 「……ああ……ああ…………っ!!」


どうして鯛茶漬けが好きなのか思い出した。どうしてここにいるのかも思い出した。


「……帰りなさい。まだ、間に合いますよ。」

「はい……。あ、でも……。」

「お代は次に来られた時に頂きます。」


 私は席を立った。そしてもと来た道を戻り始めた。歩いてなどいられなくて、途中から走り出した。






 ピッ……ピッ……ピッ……と電子音が聞こえる。

薄っすらと開けた目には、見慣れない白い天井。体は動かず、鼻に差し込まれた管が痛い。


「……お父さん?お父さん!!目が覚めたの?!」

「あぁ……お前か……。」

「お父さん!聞こえる?!お父さん?!」

「聞こえてる……。」

「よかった……本当によかった……!!」


点滴の繋がる手を妻が握っている。目を開けた私を怒ったような泣きそうな顔で怒鳴っている。私は泣き出す妻の手をなんとか握り返した。


「……なあ。」

「何?!」

「……お前の鯛茶漬けが食べたい。帰ったら、作ってくれないか?」


私の言葉に妻は目を丸くして、そして泣きながら笑った。


「……馬鹿ね、いくらでも作ってあげるわよ!だから……早く帰ってきてよ、お父さん……。」


私は妻の手を握り、小さく頷いてそれに応えたのだった。

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