番外編 溺愛の赤きルドラン ※シライヤ視点
「あ、くそ、失敗した」
愛しい声がそんな事を小さく漏らした。
その声がする方を見やれば、最愛の妻であるシンシアが、決裁書類に向かって視線を落としている最中だ。
シンシアは恐らく、口が悪い。
いつも丁寧な言葉遣いをして、結婚した後でさえも俺に対して敬語を崩さないが、彼女がうっかりと漏らしたような言葉は、あんな感じなのだ。学生時代から、何かに集中していたり、少し疲れている時等は、よくあんな言葉遣いを短く漏らす。
そんな所も可愛くて仕方ない。
普段は聖母かと見紛う程の気品と嫋やかさを兼ね備えた彼女が、ホロリと本性を漏らすその瞬間が、俺はとても愛しくてたまらないのだ。
この愛らしい瞬間を失いたくなくて、漏らす口の悪さに言及した事は無い。一生そんな彼女の隣に寄り添いたい。
何か助ける事はあるかと尋ねようかと思ったが、その前に、彼女の手は次の書類へ伸ばされた。優秀な妻は、一人で解決してしまったようだ。俺も彼女の夫として優秀な所を見せなければと、張り切って手元の書類へ集中した。
「二人でやれば、あっという間ですね」
「あぁ、これで明日からしばらく休みを取れる」
片付けた業務に充実感を覚えながら、使用人が運んでくれた茶で喉を潤す。かつてこの屋敷で、たった一人でブルック公爵家の仕事を押しつけられる事になった時とは比べものにならない程、早く仕事をこなせるようになった。
シンシアが、支えてくれるおかげだ。
「父と母の到着は、明日の夕方頃になると連絡がありましたよ」
「そうか、夕食はご一緒できるんだな。嬉しいよ」
ルドラン子爵ご夫妻は、旅先の帰りに直接土産を渡したいからと、ブルック公爵家へ立ち寄ってくれるそうだ。一泊して帰るという話だが、何泊だってしてくれて良いのにと思う。
あの監禁事件の後、俺は長くルドラン子爵家で保護されていた。まだシンシアと婚約を結ぶ前だったというのに、夫妻は「お義父さん、お義母さん」と呼ぶことを許してくれ、俺を息子として可愛がってくれた。
「おとうさん、おかあさん」と呼んで、笑顔でこちらを振り返ってくれる人ができた事に、当時の俺は、はしゃいでいた。
今も幸福そのものだが、あの時の幸福も忘れられない。明日お二人にお会いできるのが楽しみだ。
「シライヤ。お風呂に入ったら、新しい香油を試しましょうね。温感効果があって、人の肌から香りが立ちやすくなっているそうです。面白そうですよね」
「へぇ、それは珍しいな。シンシアは面白い物を探すのが得意だな」
確かこの前、プロテインという物を屋敷の使用人に配っていたな。
用意してくれた物を早く試す為にも、風呂場へ向かおうと立ち上がると、シンシアがそっと身体を寄せてくる。彼女の唇が俺の頬の方へ近づき、優しいキスを期待して、ドキドキと胸を高鳴らせた。キスをして貰いやすいように身体を少しかがめた後、彼女の行動を絶対に邪魔する事の無いように、じっと動きを止めて待つ。
「香油は、私が塗りますからね。全身に……」
「……っ」
されたのはキスでは無かった。耳に息をかけられながら、甘く囁かれる。
ボッと顔に火でもついたのかと思う程に熱を感じた。
俺も彼女も、そういうことはお互いが初めてのはずなのに、今のところ彼女に勝てた事は無かった。いつかは俺がリードしたいと思うのに、今夜も駄目なのかもしれない。
始まる前から負けを予感しながら、フラフラと熱に浮かされた足取りで風呂場へ向かった。
今夜はいつもより暑くなりそうだ。
「会いたかったぞ、二人とも」
「お土産沢山買ってきたのよ。一緒に開けましょうね」
次の日、ルドラン子爵夫妻は予定通り、夕方に屋敷へ到着した。
今朝はしばらくベッドから出られなかったので、お二人を出迎えられないのでは無いかと心配だったが、間に合って良かった。
「お義父さん、お義母さん、お待ちして…コホッ……失礼」
「どうした?風邪気味か?」
「い、いえ。大丈夫です」
喉に刺すような物を感じて、咳が出てしまった。原因なんて解りきっているが、お二人に話す訳にもいかない。シンシアが、労るように背を撫でてくれる。
「お土産の中に、喉に良い紅茶がありますからね、飲みながらゆっくりしましょう」
「ありがとうございます。さぁ、お部屋へ」
お二人を奥の部屋へ案内するために数歩歩いた所で、再びお二人から心配そうな声がかけられる。
「何か歩き方がおかしくないか?腰でも痛めているんじゃないか?若いうちから腰をやっては大変だ」
「心配ね、医者を呼んだ方がいいかしら。それとも、もう診て貰ったの?」
「……っ大丈夫です。どうか、お気になさらず」
誤魔化すように言うが、二人は気遣うような顔を俺へ向けたままだ。どう切り抜ければ。
「ごめんなさい、シライヤ。貴方が可愛くて、昨日はやりすぎてしまいましたね。辛いようなら、ベッドに戻りますか?」
「シンシア!?」
まったく誤魔化す気が無かったシンシアに驚いて、狼狽えながら彼女の名を呼んだ。
「あぁ、良かった。それなら直に良くなるだろう」
「良かったわ、酷くしてはいけないから、今日は暴れないようにね」
良かったのか?シンシアの言葉を聞いて、二人とも納得したように笑うと、勝手知ったると言うように先に廊下を進んで行ってしまった。「慌てなくて良いから、ゆっくり来なさい」と優しい言葉を置いて。
「シライヤ、支えますから、ゆっくり行きましょうね」
「うぅ……」
俺一人が顔を熱くさせて、羞恥と戦いながら歩を進めた。
ルドラン子爵夫妻と夕食をご一緒した後、暖炉一つとソファーが多く配置された部屋で談笑を楽しむ。穏やかな色合いで揃えられたこの部屋に、真っ赤に燃えるような髪と瞳を持つ人間が三人もいると、そこだけ花が咲いているように華やかだ。
ルドラン子爵夫妻は、お二人とも真っ赤な髪と瞳を持つ。
親戚同士での結婚だったそうだ。
シンシアとの結婚式で、ルドラン側の親族に囲まれた時、誰もが「大変だろうけど、頑張って」というような事を口にした。それは公爵となる事や、妻を持つという責任についての事だと思ったが、よくよく話を聞いていると、まったく違う話であった事に気がついた。
「赤が強い程、ルドランの特徴を濃く受け継ぐからねぇ」
そう言ったのは、色素の薄い栗色の髪を持つ男性。平民の出で、国を跨ぐ商人をしているそうだ。妻にルドランの一族の者を貰ったのだという。その妻は、シンシアと同じくらいに赤い髪と瞳を持つ、ルドランの血が濃く出た女性だった。
「君の所、妻だけじゃなく、義両親まで真っ赤だろう?あ、ごめんねぇ、公爵様だよね、僕、こっちの言葉はまだ不慣れでねぇ、失礼な話し方だったかな」
「いや、良いんだ。楽な話し方で構わない」
「そうかい?ありがとうね。それで続きなんだけど、ルドランの一族は赤が濃い程、愛情深い人になるらしいよ」
「……ヤンデレという事か?」
「ヤンデレ?なんだいそれ?」
「すまない、遠い国の言葉らしいが、貴方の知っている言葉では無かったようだ」
「へえ、今度調べてみるよ。それでね、ルドランの愛は海のように深く重く、一度沈められれば、二度と浮き上がれないと言われているんだ。つまり溺愛だよねぇ。字のごとく、溺れるような愛を向けられる訳だ。僕の妻もねぇ……あ、この話は恥ずかしいからいいや。溺愛は、パートナーだけに向けられる訳じゃ無いんだよ。親、子に兄弟姉妹、親族まで。手が届くと思えば、身内全てを溺愛して愛を注ぐんだ。僕の所は義父がルドラン側なんだけど、そこまで赤くは無いし、僕達夫婦は国外へ出ている事が多いからね。妻一人の溺愛を受け止めるだけで良いけれど、君はね、義両親共に真っ赤だし、公爵ともなれば領地を簡単に離れる訳にはいかないよねぇ。……大変だねえ。頑張って」
彼にポンポンと肩を叩かれた。それに続くように「本当だね、頑張って」「慣れるまで大変だけど、頑張って」「溺愛に溺れても、死ぬわけじゃ無いしな…」等の様々な言葉をかけられながら、励ますように肩や背を叩かれた。
少し遠い目をしながらそれをしたのは、ルドランの赤き一族を、妻や夫に迎えた者達だった……。
「どれにするか迷ってしまって、結局全部買ってしまったよ」
「良いわよね、沢山あれば、沢山読めるし」
ルドラン子爵夫妻は、旅先での想い出話と共に山のようなお土産を開けて、俺達へ一つ一つ見せていく。
今は絵本の山を抱えている所だ。
「ありがとうございます。いずれ授かる子供達も、喜ぶでしょう」
シンシアと話し合って、俺達は結婚2年目まで子供を作らない事にしている。二つの領地経営に慣れる為と、婚約期間が短かった俺達は、もう少し二人の時間が欲しいと思ったからだ。
だが、ルドラン子爵夫妻はきっと、早く孫の顔が見たいのだろう。焦る気持ちも解る。子爵領の跡継ぎの事も、早く解決したいだろうし。
申し訳ないとは思いつつも、やはりシンシアとの二人の時間も手放し難い……。
複雑な気持ちで絵本を一冊手に取ると、ご夫妻はきょとんとした顔を向けてきた。
「……授かる子供達?いやいや、これはシライヤとシンシアにだよ」
「そうよ、孫達への贈り物は、授かってから沢山買うわ。これは私達の息子と娘に買ってきたのよ」
「……え?」
手の中にある絵本と、夫妻を交互に見やる。俺とシンシアに?俺は今、絵本を贈られたのか?学園を卒業し、成人を迎えた俺が、絵本を?
「シライヤが持っているその絵本、とても素敵ですね。今夜はそれにしましょうか」
「それにする……?」
シンシアは、当然のようにそんな事を言う。
「海賊の絵本か!腕が鳴るな!」
「美しき女海賊の役は私の物よ!ベッドに行くまでも無いわ、ここで始めちゃいましょう」
シンシアの言葉に、夫妻は声を弾ませて立ち上がった。
「始める……?」
一人事態についていけない俺は、呆然とソファーに座るだけだったが、夫妻は同じソファーに座る俺とシンシアを挟むようにして両脇に座る。お義母さんはシンシアの隣に、お義父さんはスペースが足りないので、ソファーの肘掛けに半分腰掛けるようにして俺の隣に。
「ではシライヤ、絵本をめくる役をやってくださいね。一番の大役ですよ。眠気と戦いながらめくるのは、大変なんですよ。私はシライヤを撫でる役をやりますからね」
俺を撫でる役というのは必要なのだろうか。いや、必要ではあるが。それはいつだって大歓迎だ。
「まさか、絵本を読むのか?今から皆で?」
「寝物語は、皆で読まないといけません。読み手は親です。いつかは、私達の子供達にも、こうしてあげたいですね」
「そういう……、ものなのか」
寝物語。聞いた事があるような。そうか、これが寝物語というやつなのか。大人になってもやるものなんだな。知らなかった。
最初のページをめくると、お義母さんはサッと土産の中から望遠鏡を取り出して、高く掲げながら言う。
「ヨーホーヨーホー!新大陸を見つけたよ!あんたたち準備は良いかい!」
次はお義父さんが、土産の中からスカーフを取り出し、頭に巻きつけ言う。
「アホイ!お頭大変でぇ!クラーケンのヤツに見つかったぁ!」
迫真の演技だ。寝物語とは、ここまで熱を入れる物だったのか。興奮して、眠れなくならないか?
シンシアの優しい手が俺の頭を撫で、腕が身体を抱きしめ、たまに頬へキスをする。俺は子供の頃、きっとこういう愛情が欲しかったはずだ。
物語が佳境に入るにつれ、不思議と心が安らかに凪いでいく。温もりを横に感じながら、いつしか瞼を上げておくことが難しくなってきて、ゆっくりと視界が細くなっていく。
「可愛い」
お義父さんの声。
「可愛い」
お義母さんの声。
「可愛い人。愛しい私の宝物」
シンシアの優しい声。
夢を見た。
海賊船の上、沢山の手が俺を撫でて愛でていると思ったら、ゆっくりと海へ引きずり込む。恐ろしいような気がしたのは、ほんの一瞬だけ。
海に入れば、そこは温かく包まれるようで、手はそのまま俺を海底へ深く沈めていく。抵抗はしなかった。このまま深く沈みたかった。
二度と浮き上がれなくても構わない。
この海の底で、俺は永遠に幸せなまま、終わっていく。