謙虚すぎる俺が妹に愛されすぎてるわけないよな!?
よろしくお願いします!
「そんなことで本当に大丈夫なのですか。お兄さま」
夕食の冷製スープより冷え切った視線で青年を見下ろしながらそう言うのは、まだ十五になったばかりの年若い少女である。
声のするほうから差し伸べられた手をとって青年が身を起こすと、彼を兄と呼ぶ少女はわざとらしく口元に手をやり、咳払いをする。
「お兄さまがそんなことでは、ポーリーヌはわがオルターニュ家の行く末が心配ですわ」
冷たい視線と言葉は容赦なく青年の心にちくちくと刺さってゆく。ポーリーヌ・ドルターニュ。
美しい長い黒髪をさらりと背中に流して、悠々と兄を見上げている。身長の差から目線は兄より下だが、まるで見下しているかのような視線。
オルターニュ辺境伯家の頼れる長女であり、なにを隠そう彼の妹である。
「つまづいて転んだぐらいでそこまで言わなくてもいいじゃないか……」
たじたじとして目を合わせられなかった兄だが、ついに恐るおそる妹の目を見て言い返した。
「何につまづくと言うんですの? お兄さまとわたしのお部屋の前の廊下には何もありません。お父さまがたの絵画や美術品で飾られた廊下ならまだしも──それから、今晩のスープは冷製ではありませんわ。お兄さまがあまりの猫舌に、小一時間ふーふーして冷ましただけじゃないですの」
「ポーリーヌ、そのへんで許しておくれよ。兄さんはここ数日の準備で疲れてしまったんだ」
「ええ、ええ。まさにそのことですわ、お兄さま」ポーリーヌはお待ちしておりましたとばかりに舌鋒を強める。「お兄さまは明日、王都へ向けて発たれる。それはいったい、なんのためですの?」
じろり、と見上げてくる視線にまたもや目を逸らさずにはいられない情けない兄。
「それは……貴族学校に入学するためだね」
「そうですわ。お兄さまは貴族学校でご学友をつくられ、切磋琢磨の日々の中で、立派な貴族の嫡子として成長なさって、オルターニュ家を背負い立ち、ひいては王家を支える諸侯となっていただかなければ」
「おっしゃるとおりです……」
「お兄さまにはそのご自覚がいささか足りていないように存じます。ああ、心配でたまりませんの。お兄さまが一人で王都へ、貴族学校にゆかれては、わたしがお兄さまをお助けすることもできませんから」
妹の歯に衣着せぬ、いや、あえて限界まで絢爛豪華に着飾った暴言の数々によって、もちろん兄は苛まれているわけなのだが、実はそれだけではない。
兄であるアンリ・ドルターニュには、ある秘密があったのである。
(アンリお兄さま、ああ……今日もなんて愛らしいお方。何もないところでつまづきあそばされるなんて、昔から少しも変わらない愛嬌のあるお方。妹のわたしがそばで付き添って支えて差し上げなければ、不安でたまりませんの……)
先ほどからアンリの耳を、鼓膜を揺らしていた物理的な音波、空気を振るわせて伝わる少女の声とは違う、しかしたしかに同じ少女のものだとわかる声が、どういうわけか直接アンリの思考の中に再生される。
(叶うのならば、危険な政争に巻き込まれる恐れのある嫡子の座などからはわたしがお救いして、なんの心配もいらない領主の伴侶として安寧に暮らせるようにしてさしあげたい……ああっ、何をいうのポーリーヌ! 領主の伴侶ということは、次期オルターニュ辺境伯の伴侶──お兄さまが嫡子でなくなれば、継承権は長女のわたしにある。つまりは、わたしは無意識にお兄さまをわたしの伴侶に……なんて汚らわしいの、ポーリーヌ! でも、ああ……想像するだけで幸せになってしまう。お兄さまが優しく笑っていてくださるだけで、ポーリーヌはなんでもできる気がいたしますの。でも、お兄さまにだけはこんな気持ちを知られるわけにはいかない。きっとお兄さまははしたないわたしを嫌いになる。顔から火が出そうなほど気恥ずかしいし……なにより、わたしたちは兄妹なんですもの。叶わぬ恋ならば秘しておくのが花というもの。ああっ、お兄さまとこうして同じお屋敷で暮らせるのも今日かぎり……明日からは離ればなれになってしまうのね。手を握ってお話したいわ……けれど、普段のわたしの態度からすれば急に手をとったら変に思われるかも。本当はお兄さまを抱きしめたい、キスしたい、いいえ、♡♡を♡♡♡して♡♡♡したい。お兄さまの♡♡♡♡が♡♡♡になるまでわたしの♡♡♡♡♡が♡♡♡♡♡♡♡♡♡)
「ポーリーヌ!」
急いで妹の手をとった兄に、妹はなんでもないような顔をして応える。
「……なんですの、アンリお兄さま?」
「と、とにかく……貴族学校では頑張ってくるよ。俺のような頼りないちっぽけな男では、中央の名だたる名家に負けずとも劣らない辺境伯家の評判に泥を塗ってしまうかもしれないが……そうならないように全力で尽くすさ。ポーリーヌも、心配は要らないよ。領地で俺の学業がうまくゆくことを祈っていてくれ」
妹は兄の頼りない、しかし精一杯の気勢を聞き終えると、顔色ひとつ変えずに言った。
「ふうん。お兄さまにしてはまともなお答えです。期待するまではいきませんが、オルターニュの一員としてわたしも力の及ぶかぎりお手伝いいたします。おっしゃるとおり、くれぐれも辺境伯家の評判に傷のつかぬよう、ご尽力くださいませ?」
言い終えて、妹はすぐに部屋に引き下がってしまった。兄は冷や汗を拭って、ため息をつきながら自分も部屋に戻って考える。
(さっき聴こえたのはなんだったんだ!? まさか妹があんなことを考えているはずがないよな!? 前世の日本じゃヤンデレとか言われてた類のものだぞ、あれは……幻聴にしてもたちが悪すぎる! 俺の深層心理があんな幻聴を起こしているとしたら……やっぱり俺って本当にヤバいんじゃないか……?)
異世界転生してから十七年と少しにして、アンリ・ドルターニュは恐ろしい妄想に取り憑かれていた、というわけではもちろんなく。
彼はいわゆる転生特典スペシャルお得セットとして、【人の心の声が聞こえてしまう能力】を与えられていたのだった。
だが、彼自身はそれをこの年まで疑い続けていた。まさかこんな冴えない自分のことを、表面上はあんなに冷酷で、兄を人とも思っていなさそうな妹が、心の中で決して兄に聞かれてはならないほどの錯乱した妄言を垂れ流すほどに溺愛していようとは、彼には考えもつかなかったのである。
明日も投稿します!