愛称
「え?」
クインリーが予想もしなかった返答をしたのでナナトは思わず声を出してしまい、慌てて自分の口を手で押さえた。クインリーとホーパーの会話を聞いていたナナトは今、まずデシラを解放しようと考え、劇場ホール中央後方からステージの方へ向かって移動を始めたところだ。幸い、漏れた声に気付いた者は誰もいない。
お慕いしていたってことは好きだったってこと? クインリーさんとあの医者は両想いだったの?
混乱したナナトは思わず動きを止めた。
四つん這いになって観客席を東から大外回りで移動する考えだったが、クインリーの次の言葉を待つ。現在、デシラは弱った様子に見えるが歩ける状態でステージ上にいる。腰に繋がれている縄が何製で、舞台袖の奥にどんなふうに縛り付けられているかここからでは見えないが、たぶん自力でほどくのが困難なんだろう。いってみれば人質だ。デシラさえ解放すればクインリーも劇場から逃げ出せるはず。
ナナトはデシラも助けるという約束を果たそうとしていた。
「ドクター・ホーパー…、いえ、ホーンと呼ばせて。あなたは私が交際のお申し出を断った理由を勘違いしているのよ」
クインリーは劇場中に通る声でステージ上のホーパーに語り掛けた。その言葉で、ナナトはクインリーの意図を察する。つい先ごろの会話が思い起こされた。“簡単に演技できるコツを教えてあげる。相手を愛称で呼びながら台詞を読んでみるの”。
クインリーさんは演技に入ったんだ。
あの医者の注意を逸らすため。そしてその間、僕にデシラさんを救出させるために。
わざと大きな声で話しているのも劇場のどこかにナナトが隠れていると予想し、意図を伝えるのが目的。ナナトは笑みを浮かべ、移動を再開した。
「勘…違い?」
「あなたほど優秀な人を振る女性がいるものですか。私はね、ホーン。結婚がまだ二人にとって時期尚早であると伝えたつもりなの。あなたならきっと察してくれると思ったのだけれど私の態度が悪かったのね、ごめんなさい」
ホーパーはヒトから犬の姿へと獣化した。かなり興奮した様子で矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「な、なぜ時期尚早なのだ? いや、そもそも尚早だとしてなぜ交際さえ拒んだのだ? なぜその後、私になんらアプローチをかけてくれなかったのだ?」
「ホーン。あなたも知っているでしょう? 今年の暮れにヴァンドリアで大きな舞台が控えていることを。私はそれまでの間、醜聞に晒されぬよう、ヤスピアの政府高官から指示を受けているの。何故ならこの舞台は歴史的にも両国的にも極めて意味が重要で…」
クインリーは長々と説明を始めた。時間稼ぎだ。ますますクインリーの意図に確信を持ったナナトはホールの端を移動し続け、東出口まで残り五メートルという位置までやって来た。
「もういい! 君が難しい立場にいたのはわかった!」
ホーパーが大声で遮った。
「正直なところ、君は再び断ると予想していた。なのでそこにいるデシラを盾にして…聞こえが悪くてすまないが人質のような扱いにして、結婚はならずとも君と交際を迫るつもりでいた。実際に付き合ってしばらく経てば、いくら君でも私の魅力に気付くだろうと考えてだ。でも君がもし私と結婚するつもりがあるというなら…。あ、明後日のこけら落としの上演後、舞台挨拶で私と婚約したと大々的に発表してくれないか?」
クインリーがじっとホーパーを見つめ、静かに尋ねる。
「明後日? その間デシラはどうなるの?」
「か、彼女なら私が責任を持ってここで治療に専念する。適切な薬さえ処方すればたちどころに回復へ向かうだろう。もちろん迷惑かけたことを詫び、払える額で金銭も償う。そうだ。私たちの結婚式に仲人で出席してもらうのはどうだろう? いや、彼女のことはどうでもいい。それより約束してくれ! 明後日、皆の前で婚約を告げると!」
ホーパーはクインリーの回答を待った。衝動を抑えきれないといった様子で喜色満面の表情でいる。クインリーがゆっくりと口を開いた。
「わかっ…」
「駄目だ!」




