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ホーパー

 今日の毛並みもまた、美麗だった。

 かの女優に触れられるというだけでも、医者になった価値があったというものだ。


 クインリーの控室から出たホーパーは、誰にでも気取られないよう自然と、しかし注意深く右手をズボンのポケットに入れて歩いた。同じ劇場内に作られた医務室へと足早に向かう。医務室の前まで来ると、扉の前に掲げられた札をひっくり返し、ドアを開けて中へ入った。閉じられたドアに勢いに揺らされ、札がコンコンと音を立てる。札には“不在”と書かれてあった。


 医務室とはいっても、常備している医薬品や治療器具はごく少数で、部屋の大きさは劇場の中でも最も小さく、トイレよりも間取りが狭い。というのも、ここに来る患者はせいぜいプレッシャーによって不眠症に陥った俳優か、舞台に使う大道具を製作中に金具で手足に切創を負ったスタッフがほとんどだからだ。ホーパー自身も常駐しているわけではなく、週の大半は街の中に開業した診療所に勤務している。


 部屋の中に誰もいないことを確かめると、ホーパーはおもむろに右ポケットから手を持ち上げ、握っていた拳を目の前でゆっくりと開いた。手の中には先ほどクインリーを検診したときに気付かれないよう手に入れた彼女の橙の毛が四本ある。


 ホーパーは収穫物に満足し、ヒト型から犬へと獣化すると、骨にむしゃぶりつく犬のように夢中になってクリンリーの毛を嗅ぎはじめた。僅かだがクインリーの匂いが感じられる。日に照らされた毛皮のような甘く、香しい獣特有の匂い。素晴らしい、とホーパーは恍惚感さえ味わった。


 やはり私の伴侶には彼女しかあり得ない。


 自分のような半獣人はんじゅうじんが医者のような職に就くためには、ヒト種の倍は苦労するといわれている。その理由は主に二つあり、一つはヒト種よりも知能が劣るという通説つうせつ、もっともホーパー自身はなんら根拠のない俗信だと思っているが、それが為にヒト種より多く勉強する必要があるということと、もう一つは医の道を進むのにかかる諸々の費用が、多くの半獣人家庭の平均収入を大きく上回っている為である。


 金銭という点では、ホーパーは恵まれていた。

 彼が生まれた家は、祖父の代から他国との穀物貿易で財を築いた資産家だったからだ。物心ついたときから何の不自由もなかったホーパーだが、周りの子供たちと比べると体が小さて力が弱く、遊びの中の力関係で何度も挫折を味わい、惨めな経験の多い幼少時代を過ごしてきた。だが見返してやるという反発精神に目覚めたホーパーは教養を深めるのに労を惜しまなくなり、ほぼ一本道で医者となる。


 なってしまえば、半獣人の医者は重宝される。

 ヒトと獣人。そのどちらの身体にも変身できるため、当種族でしかわかりえない病状を客観的に他種族へ説明できるからだ。成人してからのホーパーの人生は常に順調だった。なにより彼にとって痛快だったのは周囲からの尊敬の目と賞賛の言葉だ。幼い頃傷ついた自尊心を回復させる唯一の治療薬といっていい。


 そろそろ結婚相手を考えてはどうだい?


 ある日、母親からそう言われると、ホーパーは生返事をしながら頷いた。実はすでに二度、ある女性に交際を申し込んだものの、二度ともそっけない態度で振られていたのだ。


 その女性こそ稀代の女優とされる、クインリー・カースティ。


 彼女の存在、というより評判はホーパー自身も早くから聞き及んでいて、妻として迎えるために医療界のコネを通して劇団お抱えの医者になったはいいが、どんな高価なプレゼントを贈ろうと、愛を込めた言葉をかけようと、彼女はホーパーの想いに答えることはなかった。


 クインリーいわく、“あなたは私ではなく、私の名誉に恋をしている”“私と付き合うことで自分の価値が高まると思っているだけで、私の中身を見ていない”と知ったような口で袖になしたのだ。


 私がどれだけ多くの女性から秋波しゅうはを送られているか、この女はわかっていない。


 外聞がよく、稼ぎがあり、将来も安定しているホーパーに言い寄る女性は、名前を覚えるのを諦めるほどの数に及ぶ。それもうら若き乙女、由緒正しき名家のご令嬢、ヒト種から獣人に至るまで様々だ。結婚しようと思えば明日にでもできる。だがホーパー自身は、自分ほどの男にふさわしいのはクインリーしかいないと考えていた。彼女にとっても有象無象の中から選ぶより自分と結ばれたほうが幸せに決まっている。


 彼女が私を相手にしないのは思考レベルが劣っているからだ。名誉はあっても所詮は虚業で身を立てた女。あまりに近くで見る木がどれほどの高さを誇るかわからないように、恋焦がれて近付いた私がどれほど希少で優れた人物なのか判断できる知力を持ち合わせていない。


 二度振られながらもホーパーは意に介さなかった。


 それどころかかえって執着心が増したといっていい。愚者でもわかるような話し方で自分の魅力を懇々(こんこん)と、正確にさえ伝えれば、必ずや彼女は私が夫として最良であると理解するはずだ。


 ホーパーは獣からヒトへと戻るとハンカチを取り出し、クインリーの毛を一本一本丁寧に包み込んでから、もう一度ハンカチ越しに匂いを嗅いで、手狭な部屋の中にある机の引き出しを開けた。そこには、これまでに貯めたクインリーの毛を包んだハンカチが数個と、輝くピアスが置かれてある。ホーパーが集めたコレクションだった。


 三度目の告白は、彼女にとって少し驚く形になるだろう。

 すでに手は打ってある。全ては明日だ。


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