プロローグ 膝に矢を受けちまってな2
《リステル・フロント》
トネットがいた戦場は常にそう呼ばれていた。
世界一の大国であるリステル王国。その東端では長きにわたって魔王軍との戦いがあった。
それがいつ始まり、どれほど続いているのか、トネットは全くもって興味がなかった。
いつかの酒の席で、もうこの戦いは200年以上も続いているのだと聞いた覚えもあるが、それも本当なのかどうかはわからない。
何しろ、トネットにとってそんな歴史などどうでもいいことでしかないからだ。
トネットにとって重要なのは、ここが最前線であること。
日々、多くの魔族との戦いがあり、そこに命を燃やす熱狂がある。
後方からやってきた者の中には、『ここは地獄だ』などと言う者もいたが、トネットたち最前線で生きる者にとっては、《リステル・フロント》こそが、唯一無二のパラダイスなのだ。
剣を振るい、魔法を使い、大いに笑う。
この戦場で笑える誰もが思っていた。
ここだけだ。ここだけが世界で唯一、全力で己が命を楽しめる場所だと。
傍から見れば狂っているのかもしれない。気が触れていると言われてもおかしくはない。
そんな自覚、あの戦場で生きようとする者であれば、当たり前のように持っていた。
だからこそトネットたちは、腹に決めていた。
死ぬならば《リステル・フロント》で、と。
▼
「トネットッ!?」
それは誰の声だったか、今となっては思い出すことも出来ない。
その日もトネットたちは、戦場へと繰り出し、思う存分に暴れまわっていた。
待ち受ける魔王軍の兵士を蹴散らし、己の存在を証明するように、戦場で敵の亡骸を積み上げていた。
ゴブリン、オーク、オーガ。
リザードマンにサイクロプス。
生物として人間より遥かに優れている、魔族ども。
そいつらが徒党を成し、魔王軍の兵士として立ち塞がっているばかりか、襲い来るのを、トネットとその仲間たちは蹂躙していた。
膂力で上回る敵を身に着けた剣技で切り払い、圧倒的な生命力を誇る奴らを渾身の魔法で焼き払う。
自分たちが生物として劣っている。
そんな絶対的な恐怖があるからこそ、それに打ち勝つ快楽が、熱狂となり、笑みが零れる。
一歩間違えば命を落とす。そんなスリルこそが、戦場に響く哄笑の源泉だ。
「トネットッ!! 返事をしてくださいなッ!!!」
「ぐ、あ……」
だからこそ、トネットはその瞬間も心のどこかでは喜びを感じていた。
右ひざに受けた矢が、自分をさらなる窮地に追い込んでいることに。これでより一層、命がけのシチュエーションへとこの身を投じることが出来ると。
根っからの戦闘狂。
今思えば、その異常なメンタリティがトネットを後方送りにする原因だったのかもしれない。
「いいですわね。抜きますわよ」
「いいから早くしろ、アスセーナ」
矢を受け蹲るトネット。仲間の危機を察した騎士団メンバーが、トネットを守るように集結する。
「ぐ──っ」
「すぐに治しますわ」
引き抜かれる矢じりに自分の肉体の一部をこそげ取られながら思わず掴んだのは、集結した騎士団メンバーの中でもひと際特異な女の肩だ。
「じっとしていてくださいな」
「──ッ、早くしろ」
「それだけ言えれば問題ありませんわ。それに、わたくしを誰だと思っているんですの?」
「うるせぇよ、殺戮ナース」
トネットを含め、周りにいる面々は騎士団を呼称していることからも、王国から支給された鎧に身を包んでいる。
しかし、トネットがアスセーナと呼んだ女は、その限りではない。
有体に言ってしまえば、その装いは看護師に他ならない。しかし、戦場での機動力を確保するためか、スカートは通常のそれよりも短くなっている。露になった太ももにはベルトが巻かれ、そこには三本のナイフが、またそれより大ぶりなナイフが腰の後ろに付いている。
くっきりと整った顔立ちに、長く伸びた赤茶けた髪。収まりきらないからとでも言うように開襟した胸元からは深い谷間が覗く。
もし王都の病院に勤める看護師がアスセーナを見れば、嫌悪するような眼差しを向けるに違いない。しかしそんな出で立ちの彼女へ、トネットたち騎士団のメンバーはこれ以上ないぐらいに信頼を寄せている。
「治しますわよ」
「ああ」
そんな短いやりとりの間にも、トネットの膝に空いた穴は塞がっていく。矢を受ける前の肌を再現でもするかのように、瞬く間に傷が治っていくのを見ていれば、否が応でも彼女の実力を認めざるを得ない。
「相変わらずいい腕じゃねぇか」
「当然ですわ。わたくしを誰だって思っているんですの?」
自信たっぷりに先ほどと同じセリフを吐くアスセーナ。彼女こそは、世界最高のヒーラーに他ならない。
簡単な治癒魔法ならば誰でも使える世の中において、さらに秀でた力を持つ者のみがヒーラーという称号を得ることが出来る。
各地の病院や診療所に勤める者が多い中、さらに実力のある者のみが騎士団への入団を許される。
そんな実力者揃いの騎士団ヒーラーたちの中、アスセーナは《リステル・フロント》の、さらに最前線で戦うトネットたちを任されている。
その事実こそが、彼女の実力が世界最高であると物語っている。
「行けますの?」
「ああ、問題ねぇよ」
しかし、この時ばかりはアスセーナのその能力の高さが仇になったと言わざるを得ない。
もしこの時、戦場にいるのが超一流のアスセーナではなく、ただの一流ヒーラーであったなら、そしてトネットを一時でも戦場から遠ざける判断が出来たのなら、彼が後方送りになり、《リステル・フロント》から世界最強の騎士が姿を消すこともなかったに違いない。
▼
トネットが復帰し、ひとしきり暴れまわった後。日没を合図とするように、その日の戦いは緩やかに収束した。
いかに戦闘狂と言えど、無限に戦い続けられるわけではない。いや、トネットの能力ならばそれも可能かもしれないが、アスセーナをはじめとした他の騎士団メンバーがそれについていけない。
命知らず。向こう見ず。
そんな風に称されるトネットであるが、自分が思う存分に戦うには仲間たちの力が必要不可欠であることも分かっている。
だからこそ、戦いは日没までと決めているのだ。
無法極まる《リステル・フロント》において、トネットが守る唯一のルールがそれだ。
「交代の連中はもう出たのか?」
「ええ、いつも通りに。明日には彼らが構築した新たな前線が戦場になっているはずですわ」
「そいつは楽しみだ」
戦場から戻ったトネットは、アスセーナの自室に連れ込まれていた。紙とインクの匂いに混ざって、女の匂いが鼻をくすぐる。
そう言えば最後にアスセーナを抱いたのはいつだったか。そんなことを考えながら、トネットはアスセーナにされるがまま、鎧の下に着ていたインナーを脱がされていく。
「今日も彼らはぼやいていたみたいですわよ。『《侵略騎士団》に休暇を与えろ』って」
「何言ってやがる。俺らが勤勉に働いてるから、連中の食い扶持になってんだろうが」
「都合のいい発言ですわね。好き勝手にしてるくせに」
「事実だろ?」
《リステル・フロント》は魔王軍との最前線であると同時に、リステル王国の領土線でもある。日々の戦いにおいて、魔王軍の領地へと攻め入り前線を押し上げているトネットたちのことを、他の騎士団と区別するために、誰が言い出したのか《侵略騎士団》と呼称するのが一般となっているのだ。
「そんなことより、改めて膝を見たいって、何の意味があるんだ? 矢の傷ならお前が戦場で治しちまったじゃねぇか」
「ええ。ですが、少し気になる点がありますの」
「気になる点?」
「はい。よくよく考えてくださいまし。ただの矢が、鎧を貫通してあなたに傷を負わせられるわけがありませんわ」
「確かにな」
言われればその通りだ。トネットが戦場で身に着けている鎧は、リステル王国でも腕利きの職人が仕上げ、さらに王国でも選りすぐりの魔法使いが防御の魔法をかけた一級品だ。
そんな鎧を貫通し、さらに自身を魔法で強化しているトネットの肌に突き刺さるなど、並大抵のことではない。
それがわかっているからこそアスセーナは、戦いが終わり一杯ひっかけようとするトネットを強引に自室へと連れ込み、こうして丁寧に再診をしようとしているのだ。
「運が悪かっただけじゃねぇの? 戦場だぞ、ここは」
「そんな一言で全てを済ませようとしないでくださいまし。きちんと診ないとわからないことも世の中にはありましてよ」
「世界最高のヒーラーが言うと、説得力が違うな」
「そんなふざけた話ではありませんわ」
果たして、アスセーナの言う通り。
気楽な雰囲気でいたトネットを黙らせる程度の異常が、彼の体には発現していた。
「なんっだ、こりゃ」
「──トネット」
「傷? いや、そんな感じじゃねぇよな。模様? だけど、こんな悪趣味な刺青を入れた覚えはねぇぞ」
「トネットッ!!」
戦場でだってそんな声は聞いたことがない。アスセーナはそれほどの緊迫感を持ってトネットの名前を呼ぶ。
この時はまだ彼の中にも楽観的な考えがあったに違いない。
矢を受けた右膝におぞましい模様が浮かび上がっている程度、目の前にいる世界最高のヒーラーであれば、何とか出来るに違いないと。
しかしトネットは、次の瞬間に己の耳を疑うセリフを聞くことになる。
「これは、この呪いは、わたくしには手の施しようがありませんわ」
決然とした眼差しでアスセーナは言葉を続ける。
「即刻を離れて頂きますわ。王都へ戻ってくださいまし」
恐らくトネットからすれば、過去最高に質の悪い冗談に聞こえた事だろう。
だが彼にとって最悪だったのは、アスセーナのその言葉が冗談でも何でもなく、本当に実現してしまったことに他ならない。
右膝に受けた矢。
その一矢がもたらした呪いにより、人類は最強の騎士を失い、トネットもまた、最前線から後方の王都へと送還されることになってしまったのだ。