プロローグ 膝に矢を受けちまってな1
「ハッハー!」
戦場に響くご機嫌な笑い声。
周囲の剣戟も喧騒も、魔法が炸裂する音すら関係ない。
今この瞬間、この場所にいることが楽しくしょうがない。そんな歓喜に満ちた声だ。
「まだまだこんなもんじゃねぇだろうッ!?」
はしゃぐ声と同時に何体ものモンスターが吹き飛ぶ。
下級兵と言えど、相手はオークだ。その巨躯を吹き飛ばせる存在がただの人であるはずがない。
「てめぇらそれでも魔王軍の兵士かッ!!!」
なぜ怒号を飛ばすのか。彼にそれを尋ねれば、きっと笑ってこう答えるだろう。
『連中の殺意が足りねぇんだよ。つまんねぇんだろ、そんなんじゃ』
それが当たり前のことだとでも言わんばかりに、きっと彼はそう言う。そして言った次の瞬間にはもう駆けだしているだろう。
次なる高揚を求めて。戦場で最も熱狂する場所──すなわち最前線へと。
トネット・バドマーティ。
人類最強の騎士にして、どうしようもない命知らず。
立てた功績は数知れず。人類の魔王軍との戦いにおいて、間違いなく称賛されるべき傑物だ。
しかし、そんな彼は地位にも権力にも興味を示さない。
英雄として祭り上げられることも、勇者として称えられることも勝手にしろと吐き捨てる。
そんな彼がただひとつ求めたものは、最前線。
世界最高の鉄火場にて、思う存分に己の力を振るうこと。それだけを求めた。
だからこそ、不意の出来事とは言え、右ひざに矢を受け後方送りにされたことは、トネットにとっては人生の楽しみを奪われるのに等しい出来事だった。
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「くそつまんねぇ」
吐き捨てられた言葉には、多分な苛立ちが込められていた。
今にも舌打ちをしそうな表情で、己が境遇を省みる。
戦場での出来事に文句を言うつもりはない。
何が起こるのかわからず、何が起きても不思議ではないのが戦場だ。
その中でも好き好んで最前線に身を置き続けたのは、他ならぬ自分自身に違いない。流れ弾に当たることもあれば、友軍の魔法攻撃に巻き込まれることもあったかもしれない。というか、あった。初めて戦場に出たのが15歳の頃。それから6年近くの歳月を戦場の、最前線で過ごしてきたのだ。
友軍の攻撃に巻き込まれたことの一度や二度、当たり前のように経験してきた。
「でも、これは無いんじゃねぇか?」
ケガ程度なら問題ない。最前線にいた仲間の中には優秀なヒーラーがいた。死後3時間以内までなら生き返らせられると豪語していた彼女の手にかかれば、腕が一本吹き飛んだ程度ならば、次の日には当たり前のように戦場に舞い戻ることが出来ていた。
「笑えねぇ」
死ぬのならそれもいい。なぜって、死んでしまえばそこで終わりだからだ。これから先がないのであれば、命が尽きるその瞬間までを楽しんで死ぬだけだ。それにあのヒーラーがいればもしかしたら生き返ることも可能だったかもしれない。
実際に試したことはないが、そういう可能性もあるのなら、別に死ぬのだって構わない。
「ふざけんじゃねぇ」
だが、今の自分はどうだ。
ケガをしたわけでも、死んだわけでもない。こうして五体満足に生きている。
なのにどうして、戦場から、最前線から遠ざけられて、王都なんていう戦いのたの字もないような後方へと送還されているのか。
「くそっ」
天涯付きのベッドも、ふかふかの布団も、温かい毛布も、全てが腹立たしい。昨夜の晩餐も、豪華な風呂も、そして今、横で健やかな寝顔を見せている女も、その全てが戦場とはかけ離れていて、トネットの中に苛立ちを募らせる。
なんだこれは。なんなのだ。
魔王軍の襲来を知らせるラッパの音も、気のいい戦友たちのしょうもない会話も、剣と鎧がぶつかり合う音も何一つとして聞こえてこない、穏やかでのんびりとした空気。
平和そのものだ。
しかしそれがトネットにはどうしようもなく肌に合わない。馴染まない。居心地が悪い。
もっと雑でいいのだ。こんな真っ白なシーツなど必要ないのだ。わら草の上に麻布を敷いただけでも十分に寝れる人間からすれば、こんなきれいで清潔な環境は、逆に落ち着かない。
「ン……。ぅん……?」
などと考えていると、横で身動きをする気配がする。
カーテンの隙間から差し込む朝日に目覚めの気配を感じたのか、それとも先ほどからの苛立ち紛れのひとり言を聞かれたのだろうか?
一瞬そんな考えがトネットの脳裏に過るが、すぐに聞かれたからどうだと言うのだと思いなおす。
この女に聞かれて困ることなど何ひとつとしてないのだ。むしろ、この国の姫だと言う彼女の耳に入った方が、戦場に戻れる可能性が高まるのかもしれない。
だったら逆に聞かれていた方がいいのではないか?
トネットがそんな風に考え始めた時だった。もぞもぞとしていた女がぼんやりと目を覚ます。
「起きたか」
それはトネットからすればなんてことはない挨拶に他ならない。しかし彼女からすればそうではなかったようで、驚きに目を見開き、パクパクと口を動かしている。
「ト、トネット様!?」
「それ以外の何に見えるってんだ? まだ寝てるのか、姫さんよ」
「あ。い、いえ、そういうわけではないのですが。えっと、その、どうして……?」
「何がだよ」
何とも呑気なものだ。
寝起きがこれでは、戦友たちに笑われて、その日の酒の肴になること請け合いだ。彼らのことだから、『ママのおっぱいの夢でも見てたんだろう?』などとからかってくるに違いない。
「って、違うだろうが」
自分の思考を嚙み潰すように口の中で呟く。ここにあいつらはいない。決して上品とは言えないが、それでも気のいい戦友たち。苦楽を共にした彼らは遠い戦場に、そして自分は今、彼らが守り抜こうとしている後方の王都にいるのだ。
「ト、トネット様。えっと、その、どうしてわたくしの寝所にいらっしゃるのですか……?」
「本気で寝ぼけてんのか? ここは俺の寝床だぞ、姫さん」
「え、あ……」
その一言で徐々に記憶が戻ってきたのか、目の前にいる女は傍で見てもわかるほどに顔を真っ赤に染めてしまった。
「思い出したか? 昨夜、この部屋に忍び込んできたのは、あんただぜ。トアナ姫」
「い、言わないでくださいッ!!」
ピシャリとした言葉。
真っ赤に染まった頬が映えるのは、その肌が透き通るように白いからだろうか。やはり一国のお姫様ともなれば、蝶よ花よと育てられるのだろう。きめ細かい肌には傷ひとつない。長い銀髪もほつれることなくきれいに流れ、反射した朝日が整った顔立ちをさらに際立たせている。
トアナ・エレオノーラ・リステル。
その名の通り、このリステル王国のお姫様である。
「何そんなにツンケンしてんだよ。昨夜はもっと素直だったろうが」
「何を言って──、ッ!?」
「? まだ寝るのか?」
「ち、違いますッ! なんであなたはそんなに平然としていられるのですか!?」
「はあ?」
何言ってんだ、この姫さんは。そんな響きを含んだ声に、トアナは毛布から顔だけを覗かせながら羞恥に震える声でこう言った。
「は、裸じゃないですかッ!?」
「あんたもだろ」
「~~~~~っっっ」
「言いたいことがあんなら言葉にしてくれ」
「は、恥ずかしくないんですかッ!?」
「今更だろうが。それとも姫さんは昨夜のことは忘れたのか?」
「どうしてそんないじわるを言うんですか!?」
トアナの言葉にトネットの眉間には皺が寄る。何言ってんだ、この姫様は。今にもそんな一言が口を突いて出てきそうな表情だ。
「昨夜、抱かれに来たのは姫さんの方だよな?」
晩餐だと言われ、国王だの将軍だのと上品なだけで食いでがあるわけでもない夕食を共にさせられたばかりか、風呂まで一緒に入る羽目になり、疲れ切って部屋へとたどり着いたら、トアナが待っていたのだ。
月明りが差し込む部屋の中、寝間着にしては薄い、ほとんど下着のような格好でベッドの上に腰掛けていたトアナは、おもむろに立ち上がるとトネットにしなだれかかってきて、
『ずっと、お慕いしていました』
などと言ってきた。
戦場から遠ざけられた上に、お偉いさん方に付き合わされていた苛立ちがあったのもあり、正直なところ、トネットはそんな気分ではなかった。
だが、こちらを見上げるトアナの顔を見て、『ああ、こりゃ抱いてやらなきゃな』と思ったのだ。
だから抱いた。肌がきれいだから抱き心地はよかった。欲を言えばもうちょっと肉付きがいい方がトネットの好みではある。
「そ、それは……、そうですが」
「それで今更恥ずかしいって言われてもな」
「それとこれとは話が別です……」
「そうかよ」
「そうです……」
はっきりとしないトアナに、見るからにトネットの苛立ちは募る。これも戦場と後方との違いだろうか。最前線では、その緊張感もあってか、誰も彼もが思ったことをはっきりと口にしていた。度々それが原因でトラブルに発展したりもしたが……。
「あ、あの」
「ん?」
「その、えっと……、」
「なんだよ」
「ゆ、昨夜のこと、覚えていますか……?」
「ああ」
言葉少なに答えるトネットに、トアナがちらりと視線を寄越す。その眼差しに込められているのは一体どうした感情か。それを推し量る前に、トアナが再び口を開く。
「抱きしめて、貰えませんか……?」
「わかったよ」
つい、『今からもう一回やりたいのか?』と口にしそうになるのを思いとどまる。トアナのこの雰囲気は、きっとそういうことではない。恐らくそう口にしたが最後、烈火のごとく怒り始めるに違いない。
女って生き物は、つくづく面倒なのだ。
「ほら。毛布が邪魔だ」
「あ……っ」
トアナの華奢な体を覆っていた毛布を取り払い、トネットは壊れ物でも扱うような手つきで彼女の体を抱きしめる。
細い腰に、簡単に潰れてしまいそうな肩。ズタ袋を抱えるのとは違う。もっとやわらかく丁寧に、トネットはトアナの体を抱き寄せる。
「トネット様」
頬を寄せるようにして囁かれる名前。甘ったるい声音は、戦場で生きてきたトネットには新鮮な響きで耳朶を打つ。
「……」
「……」
無言の時間が続く。
優しく背に回されたトアナの腕に物足りなさを覚える。
こんな穏やかさを欲しているわけではない。もっと熱く、どうしようもない歓喜が体の奥底からこみ上げてくるような、そんな場所に身を置いていたい。
そんな戦場への渇望が胸を焦がすせいだろうか、腕の中にいる女に対していまいち真剣になりきれない自分がいるのを感じながら、トネットは事ここに至る経緯を思い返す。