テンプレ展開
ふと目が醒めてサイドテーブルを見ると、時計は6時57分を指していた。アラームが鳴り出すちょうど3分前だ。私はベッドから出ようと布団を跳ね除けたが、左足が痺れていたせいで、僅か30cm下にある床に落下した。痛い。強かに手足を打ちつけながらも、私はテーブルまで這い寄り、眼鏡を手に取った。
ぼんやりとしていた視界がクリアになっても、頭の中は靄に包まれていた。今日の予定は何だったか、誰かと会う約束をしていた気がするのだが、それが誰か思い出せない。
そういえば、今日は燃えるゴミの日だったはず。私は痺れている左足を庇うように、右に重心を傾けながら台所へと歩こうとした。シンク下の水切りネットを外して捨てなければ。起きたばかりだというのに、ゴミのことばかりで頭がいっぱいになる。全く不愉快な朝だ。
野菜クズが絡まった水切りネットを取り出した時、目覚まし時計のアラームが鳴り始めた。止めるのを忘れていた。無視しても良かったが、スヌーズ機能のせいでアラームは何度も鳴り続ける。私はゴミの処理を一旦中断し、ベッド脇に戻ってアラームを止めた。窮屈なアパートのワンルームが活きたと思う瞬間だった。
しかし、アラームを止めて溜め息をついた途端に、外から足音が響いてきた。足音は私の部屋の玄関の前で止まった。こんな朝から一体、誰だろう。わざわざアパートの四階まで上がってくる者は少ない。チャイムも鳴らさず、足音の主は玄関の前に留まっているようだった。
私はにわかに不安になった。まさか、近所に現れたカルト宗教の勧誘だろうか。
そのカルト宗教は最近、近所でよく見かけられると大いに噂になっていた。なんでも、来世の幸せのために神様に帰依して欲しいと訴えかけてくるのだという。勧誘員は子供向けのライトノベルに出てきそうな、色素は薄いが発育の良い高校生程度の少女で、「世界を救って欲しい」などと、とんでもなく臭い台詞を吐くらしい。
たとえ今のご時世でも、そんな口車に乗せられて入信するやつなんて常識的に考えているわけないだろうと、私は思っていた。だが、どうやら現実は違ったらしく、三ヶ月前、隣に住んでいた加藤君が宗旨替えしたと、アパートの大家は言っていた。
加藤君は少女に出会ってから何かに覚醒してしまったようで、来世では悪役令嬢になるとか言って、郊外のダムへと出掛けて行ったきり、戻って来なかった。おかげで加藤君の家賃は三ヶ月ずっと滞納されたままになっていると、大家は同じ愚痴ばかり言っている。
大家は少女が現れないように、集合ポストが設置してある一階の壁に「宗教の勧誘禁止!」と大きく赤字で書かれたポスターを貼って対抗していた。しかし、そんなポスターなど気にせず、少女はアパートを侵食しているようだった。
少女の口車に乗せられて、同じアパートの住人が一人また一人と減っていく。近所でも、長年、夫を介護していたという老婦人や、学校でいじめられていたという多感な中学生が少女のカルト宗教に入信し、様子がおかしくなったという話もあった。
彼らは突然、いなくなることもあれば、事故で亡くなることもあった。共通しているのは、事前に少女と出会っていたということだけだった。それでも、誰かが当局に通報した様子は無かった。個人の信教の自由は保証されている。つまりはそういう自由が行使された結果、このような事態になっているわけで、その原因をカルト宗教だけに認めることは無いということなのかも知れない。
何れにしても、色素の薄い少女のカルト宗教は、事件性を帯びた存在だった。
私は息を殺して、扉の前から何者かが去っていくのを待った。部屋にいるのは悟られているだろう。しかし、それでも私は祈るような気持ちで時間の経過に耐えた。
やがて、足音は玄関の扉から遠のいていった。私は再び溜め息をついて、ゴミ袋をまとめ始めた。収集の時刻はとっくに過ぎている。急がなければならない。だが、玄関から出ると待ち伏せされる恐れがある。私はゴミ袋を持ってベランダに出た。
ふと階下に視線を移すと、通りの向こうからゴミ収集車がゴミ集積場に向かって走ってくるのが見えた。このままでは間に合わない。
私はサンダルを履くと、勢いをつけて欄干を飛び越えた。四階からベランダの直下にある自転車置場のトタン屋根に、ゴミ袋をクッションにして落下する。そして、そのままトタン屋根を転がって、私は地上に降り立った。ゴミ集積場までの行き掛けに、自転車を盗もうとしていた泥棒をゴミ袋でノックアウトし、私はゴミ収集車が到着する前にゴミ出しを完了した。
つもりだったのだが、派手に動き回ったせいでゴミ袋は破れていた。その中身は自転車置き場と泥棒の顔にぶち撒けてしまったようだ。まぁ、誰にでも失敗はある。私はゴミを出したつもりのまま、ゴミを収集している作業者に見つからないように、他人の部屋のベランダをつたって自分のベランダへと戻った。
お茶でも飲んで一服しようと思いながら部屋に入った時、玄関に一人の少女が立っているのが見えた。色素は薄いが胸の発育は良い高校生くらいの年頃の少女。玄関の扉にはチェーンをかけていたはずなのに、どうやって入ってきたのか。少女が一歩前に出ると、その背後で扉のチェーンが半分に切れているのが垣間見えた。
「ひ、他人ん家に勝手に入って、な、何ですか」
私は上ずった声を絞り出して少女に尋ねた。
「神様を、貴方に」
「あっ」
聞くんじゃなかった。私は思わず「しまった」という表情を浮かべたが、少女の話は止まらなかった。
「来世のための神様なんです。どなたでも入信できます。今なら、来世で役立つスキルを付けてくれるんです。だから、その代わりに、来世で世界を救って欲しいんです」
「聞こえない。あー。何も聞こえない。神様だったら既に別のやつを拝んでますー。そういうの本当に間に合ってますー」
私は両手を耳に当てて少女の声を遮った。少女は土足で部屋に踏み込んでくると、私の両手を耳から引き剥がした。
「別に、本当に世界を救わなくてもいいんです。ちょっと救うつもりくらいの心づもりで大丈夫です。最初は追放されたり命を狙われたり婚約破棄されたりすることもありますが、最初だけです。後は自由に来世を楽しめる。そういうありがたい神様なんですよ」
一体どこがありがたいんだ。波乱万丈じゃないか。
「やめてください。そういう勧誘は。間に合ってますって」
私は少女をとりあえず日用にしているアウトドアチェアに座らせると、麦茶をコップに入れて出した。自分は余っている計量カップに入れた麦茶を一息で飲み干す。
「勧誘ではありません」
「思いっきり勧誘じゃないですか」
「勧誘だったら、私には何の利益も無いでしょう」
少女はあどけなさの残る顔で、私をじっくりと見つめた。
「例えばですよ、私が文芸創作に貴方を勧誘するとしたら、どうしますか?」
「嫌、お断りします。文章力とか語彙力とか無いんで」
「そうじゃなくて、文芸創作の勧誘にあたって、神様に帰依する必要がありますか?」
「無いですね」
「教団に加入する必要はありますか?」
「無いですね? ん?」
「お布施も入信の儀式も要らないでしょう。つまり、これは勧誘ではないんです。これは純然たる布教活動です。私は布教によって、マージンの一部をもらう権利があるんですよ。ね?」
ね? と言われても、釈然としない気分だった。
「そうかも、知れないですね。でも、そういうの禁止だって下に書いてあったでしょ。帰ってくださいよ」
「禁止されているのは『勧誘』であって、『布教』では無かったはず。だからこうして、布教に馳せ参じました」
理屈としては通っているかも知れないが歯痒い気持ちになる。いくら布教と言われたところで帰依する神様なんて早々、決められるものではない。しかし、中に入り込んできてしまった以上、このまま帰すというのもお互い決まりが悪い感じもする。
「じゃあ、貴方が――」
「神谷です」
少女がにこやかに名乗った。
「えっと……カミヤさんが布教している宗教っていうのは、具体的にどんな神様なの?」
「国内平均から見て幸福度が5.0を下回る、周囲よりも不遇な境遇に置かれた人を転生させて来世に転がす神様です。教団では『イセカイテンセイ』と呼んでいます。双子神で『イセカイテンイ』というのもあります。どちらか好きなほうに帰依していただくことになります」
「入信の儀式とかはあるんですか」
「不遇であれば、どのような方法でも結構です。突発的な事故とか信頼していた相手の裏切りで自殺とか、酷い最期を迎えるのがクールですね」
どの辺りがクールなのかは不明だが、そういう人を拾い上げる悪趣味な神であることは間違いないだろう。
「で、その『イセカイテンセイ』の教団には、どのくらい寄付すればいいんですか」
「初期費用は無料です」
「はあ」
「その後はシーズンパスか個別の追加コンテンツへのお布施が可能で、追加コンテンツに千円から十万円程度が必要です」
「追加コンテンツ」
「料金は人によりますね。約束された復讐劇や追放予定の賢者、VRMMOでご活躍になる場合ですと、三十万円程度お支払いになる方もいます」
「そんなに」
「どうですか。バラ色の来世のために少しお布施していただけませんか」
「バラ色って、随分と廉価な表現ですね。うーん。いや、本当にそういうの間に合ってますんで」
「駄目ですか?」
私が視線を泳がせると、少女は射抜くような眼で私を睨んだ。
「駄目ですね。死んだからって来世を他人に決められるのは御免ですから」
私の言葉に、部屋の空気が冷めていく。それは文字通りの意味で、私は背筋に悪寒が走った。
「では、仕方ありません。異教徒には死の餞別を」
少女が呟くと、その右手に命を刈り取る大鎌が出現した。私は咄嗟に後ろに飛び退き、死の一閃を回避した。次の瞬間、少女が蹴り飛ばしたアウトドアチェアを避けると、ぶつかったベランダの窓ガラスが粉々に砕け散る。このままではバラ色の来世をチョイスするまでもなく自分の命が終わってしまう。
私はサイドテーブルに置いてあった目覚まし時計を少女に投げつけて隙を作ると、再びベランダに走った。欄干を飛び越え、自転車置き場のトタン屋根に着地する。朝方、痺れていた左足が良くない方向に曲がったのを感じながら、私は自転車置き場に逃げ込んだ。
しかし、少女は私の思考を読んでいたように、先回りして私の自転車を大鎌で真っ二つに破壊していた。逃走手段は無い。
「逃げられませんよ。宗旨替えするなら、今が最後です」
「そんな言葉で揺らぐ信仰なら、最初に投げ売ってますよ」
「では、さようなら」
少女の大鎌が回転し、私の身体を袈裟懸けに切り裂いた。私の最期の記憶は、傷口から溢れた血飛沫が、壊れた自転車と少女の白い肌を濡らしていく光景だった。
ふと目が醒めてサイドテーブルを見ると、時計は6時57分を指していた。アラームが鳴り出すちょうど3分前だ。私はベッドから出ようと布団を跳ね除けたが、左足が痺れていたせいで、僅か30cm下にある床に落下した。痛い。強かに手足を打ちつけながらも、私はテーブルまで這い寄り、眼鏡を手に取った。
ぼんやりとしていた視界がクリアになっても、頭の中は靄に包まれていた。今日の予定は何だったか、まるで思い出せない。
だが、どうやら今日はゴミを捨てに出さないほうが良さそうだということは直感的に分かった。私は目覚まし時計のアラームを止めて、すぐさまクローゼットにしまってあった大きなクッションを取り出した。
最近、近所ではカルト宗教の勧誘が噂になっている。その勧誘員の少女に出会わずに過ごしたほうが良さそうだった。折角、偶然通りがかった豊艷な謎の美女から死に戻りのスキルをもらったのに、来世などという甘い言葉で現状の生活を手放す理由は無い。私はクッションを抱えたまま、四階のベランダから飛び降りた。