紅玉の伝説
それは一つの物語。
吟遊詩人が今も語る伝説。
「時は、今よりもはるか前の御世のこと。
神々と最も繋がりが深かった時代。
大陸全土をさまよった一人の少年。
これは誇張でもなく、真実の話。
愛を求めた少年の孤独な旅のお話し────」
それはいつのことだったか。
正史に記された少年の名は、時代と共に消え失せて、真実を知る者はだれもいない。
ただ一人、紅玉の伝説を伝える吟遊詩人を除いては。
少年を犯罪者と見なす国は多くあるけれど、吟遊詩人はそうは思わなかった。
少年のことを運命に翻弄された憐れな子供と思い、だからこそ吟遊詩人は語る。
少年の軌跡をたどり、彼がどのように生きてきたのか人々に語り伝えることこそが役目と思って。
※※※※※※※※※※※※
それは、眩い光が柔らかな陽射しとなって降り注ぐ季節。
海に面したキルガ国で、賑やかな盛り上がりを見せるのは、国随一の港町ヴァーゼ。
人での多さもさることながら、何よりも目を惹くのは、複雑に入り組んだ通りに整然と並ぶ家屋だった。大小さまざまな石を埋め込んだ白壁が、太陽に反射してきらきらと輝く様は、まるで宝石のような華やかさ。
だから、広い道路を占める屋台よりも、旅人であふれるのは美しい飾りが施された家の通り。
ここにも一人、ふらりと足を運ぶ少年の姿。
一目で旅人とわかるような出で立ちの彼は、人通りの激しい噴水の前に立ち止まったまま、何かを探すかのように視線を走らせる。
少年は旅をする者。
仲間を捜し、町や村をさすらうはぐれ者。
彼に名はない。
生まれてすぐに海に捨てられ、名を与えられぬまま、年月が過ぎた。彼を育てた養い親は、名を与える権利を持たず、彼は名無し者として生きている。
「神は、なぜ僕を愛して下さらない? 僕はこんなにもあなたを愛しているのに……」
天を仰ぐ彼の目に映るのは、透き通った青空。
神々の住む天界は遠すぎて、少年は、眩しげに目を閉じた。
フードを被り直し、歩み始めた彼の耳に、美しい歌声が届く。
その声に導かれるように、顔を向けた。
一番美しい壁の装飾をしている屋敷が目に入り、惹かれるように足が向かう。
サファイヤがちりばめられた屋敷の前で歩みを止めた彼は、しばし歌声に酔いしれる。
───美しい声。
澄んだ音色は、まるで天上から落ちてくるかのようで、目を瞑りうっとりと聞き惚れた。まるで神が奏でているかのような、そんな美しい歌声に、彼は息をするのも忘れた。
身じろぎ一つしない彼の耳に、嗄れた声が微かに届く。
「ええい、やめぬか! 外に聞こえる!」
開かれた窓から聞こえる怒声に、少年は顔を上げた。
白いカーテン越しに見えるのは、でっぷり太った白髪混じりの中年男。
男が、手を振り上げ、思い切り下ろした。
鈍い音が続き、何かが倒れる音。
何が起こったのか瞬時に察した少年は、顔を強ばらす。
窓が勢いよく閉まり、声は聞こえなくなった。
「なぜ……」
少年は、そこに立ちすくんだまま動けなかった。
「神よ……天の声を持つ者にお慈悲を」
彼は祈った。
自分の心を奪った歌声の持ち主のために。
そして、拳を握りしめるとその場から去った。
月明かりがうっすらと形を浮かび上がらせる頃、少年は、昼間の家にそっと忍び込む。
木を伝い、窓を開けば、すすり泣く声。
「囚われた鳥ならば、逃がしてあげる」
伏して泣き続ける少女にそう囁けば、びくっと細い肩が震える。青い瞳が、彼を見上げ、そのひょうしに瞳からこぼれ落ちるのは、──サファイヤ。
「驚いた。君は青い種族?」
「────……っ」
侵入者にびっくりして叫び声をあげそうになった少女の口を優しく押さえて、柔らかく微笑めば、少女の顔が少しだけ和らぐ。
「怖がらないで。僕は君を救いに来たんだ」
言いながらそっと手を外す。
少女は不思議そうな顔で少年を見つめる。
「あなたは、だれ……?」
窓から差し込む月明かりだけが二人を照らす。
少年は、少女のあどけなくも美しい顔にふさわしい、可憐な声を聞きながら目に穏やかな光を乗せる。
「僕に名はない」
「名前が、ないの……?」
「そう。僕は名無しの子。けれど、人は僕を紅玉と呼ぶ」
「紅玉? 愛称、みたいなもの……?」
「……そうだね」
少年の少し沈んだ声音に気づかぬ様子で、少女はうっとりと目元を落とした。
「すてきな呼び名。きっとあなたの瞳を見て、そう呼ぶんだわ。まるで、そう…夕日みたい……きれい……きれいな瞳ね……」
少女のほっそりとした手が少年の顔に伸ばされる。
少年は月を背に屈んでいるから逆光で色は見えないはずなのに、少女は見事に色を言い当てる。
「夕日……? 初めてそう言われた。僕の目は禍々しいと血の色だとみんな言っていたのに」
少年はただ顔をこわばらせていた。
少女の言葉に驚いて、けれどその言葉を理解するとふんわりと温かいものが体の底からあふれてくるような気がして、少年はきゅっと唇を噛みしめた。
「わたしは好きよ。ちっとも恐ろしくなんてない。静かで暖かい色だわ。見つめていると気持ちが穏やかになるの。不思議ね」
小鳥の鳴き声のような可愛らしい声に、嘘の色はない。
本心から言っている少女に、少年の胸がじんと震えた。
「……君の名前を教えてくれる?」
「わたしはドゥーア。姓はないの。ただのドゥーアよ。あなたは、なぜここに? もしかして泥棒さん?」
そう問いかける彼女の声は、言葉ほどに危機感はない。
少年が乱暴を働かないと本能で悟っているのだろう。
少年は本来の目的を思い出し、少女を見つめた。
「君を助けにきた。ここから出たくない?」
少年の言葉に少女は大きく目を見開く。
「ここから? いいえ。わたしは、ご主人様のもの。ご主人様が、わたしを売るか捨てるかなさるまで、この家から出るつもりはないわ」
少女は笑った。
当然のことを言っているかのように笑った。
「君は、青い種族の者。縛られる必要はないよ」
「あなたはさっきもわたしのことを青い種族と呼んだけれど、なぜ? この青い瞳と関係あるの?」
「何も知らないで、ここにいるの?」
「ご主人様は、わたしを両親から買ったっておっしゃっていたわ。わたし、幼い頃の記憶がないから、何もわからないの」
「青い種族はお金じゃ買えない。きっと、君の主人は、君のことをさらったんだろうね」
「まさか! 時々、癇癪を起こされるけれど、とてもお優しい方よ?」
「こんなに腫れているのに?」
少年が触れるは、少女の頬。
不自然に膨らんだ頬の輪郭が痛々しい。
月明かりに照らしてみれば、どす黒く変色しているのかよくわかるだろう。
「わたしがいけなかったの。約束を破ってしまったんですもの。わたしの存在は秘密なんですって」
「君が、上質のサファイヤを生み出すからだよ。青い種族が流す涙は、サファイヤに変わる。君が青い種族だと知られたら、命を狙われるくらいじゃすまないよ」
「この石のこと? ご主人様は、ただの青い石だとおっしゃっていたわ。この石は、わたしの中に入り込んだ毒が固まって、外に出てくるんですって。だから、いっぱい出せば、具合がよくなるとおっしゃって下さったのよ。嘘を言わないで」
「嘘じゃない。僕は赤い種族の者だから。僕も君と同じで、宝石を作ることができるんだ」
「なら、見せて。そしたら、信じてあげるわ」
「泣きたくないのに、どうして泣ける? 信じたくないならそれでもいい。君には君の人生がある。こんなところに閉じこめられ、世界を知らずに死なせるのは惜しいと思ったから、逃がしてあげようと思っただけ。君がそれを望まないなら僕は去るよ」
「ありがとう。あなたは優しいのね。でも、初めて会った人にいろいろ言われて、どうして信じられるの? わたしは今の生活でも満足しているわ。辛いこともあるけれど、わたしは幸せなの。だから、わたしのことは心配しないで」
にっこり笑った顔がどこか翳って見えるのは光の加減のせい?
少年は何かを言いかけ、思いとどまった。
「君がそういうのなら……」
なぜこんなにも苦しいのだろ。彼女の顔が頭から離れない。
深い海よりも朝明けの青空よりも鮮やかなあの瞳が、瞼の裏いっぱいに広がる。
蒼の残像を残しながら開いた目に映るのは、漆黒の闇夜に浮かぶ満月。
ひっそりと輝く月がなぜか少女の姿と重なり、それがまた彼の心を乱した。
「神よ、この感情に名を付けるとしたら、いったいなんと呼べばよいのでしょう?」
愛おしいというにはあまりにも激しすぎるこの想い。
いっそ奪ってしまえたら楽だったのに……。
それでも少年は少女のことが気がかりで、次の日も、また次の日も彼女の部屋に忍び込む。
開かれた窓は、いつでも少年を迎え入れる。
「あなたは旅をする人。外の世界はとても美しい?」
ぐったりと横になっている少女の姿を目に入れた少年は、震える唇をそっと噛みしめ、少しだけ笑みを作る。
「神がお作りになった世界だからね。君の瞳のような空と、海がどこまでも、どこまでも続いてる。太陽の日に浴びて草木は輝き、小鳥のさえずり、子供の笑い声、真っ白な雪、夜空を覆いつくす銀色の星、楽しげな笑顔、あどけない赤子の顔、白金の満月、魚がはねる瞬間広がる波紋、湖が夕日を映して赤く染まる時……」
少年が美しいと思ったときの風景を楽しげに語ってやれば、少女の目が微かに潤む。
「もっと、もっと教えて。あなたが見てきた世界を」
「聞かせてあげる。君が聞きたくないというまで。いつまでも」
「ありがとう」
嬉しげに呟く声は弱々しい。
ああ、と小さく呻いた少年は、歪む顔に笑みを張り付け、優しく話す。
「世界は広い。まるで夜空のごとく深くて、どこまでも続いている。旅を続けて十二年。それでもまだ世界は続いている。北へ東へ南へ西へ。いろいろな国、いろいろな人々と会ってきたけれど、これまで見てきたどんなに素晴らしい景色も君の前ではすべてが色あせてしまう。見て御覧、神と同じ瞳と神の声を持つ自分の姿を。君はとても美しい」
「本当に……? 本当に綺麗……?」
たった数日なのに驚くほどやせ細った手。その手を愛おしそうに包み込み、自分の頬にあてる。
「美の女神よりも美しいよ。白い肌、黄金の艶やかな髪、大きな瞳。だれもが君の美貌を羨む。女は嫉妬し、けれどいつしかそれは羨望に代わり、男は恋いこがれ、けれど君があまりにも神々しいからきっと近づけないだろうね。そして君はそんな視線に気づかずただただ笑っている。楽しそうに」
「違うわ。私が笑っているはあなたがいるから。あなたが私を見ていてくれるから」
少女は静かに微笑む。やつれた顔で。
胸が痛くなるような笑顔に、息を呑んだ少年は、動揺を彼女に悟られないようそっと視線を下げた。
「見ているよ。ずっと……」
逃げよう、と出かかった言葉は口の中。
少女の望みはここで一生を終えること。
ならば自分は……。
ぎりっと奥歯を噛みしめたその時、耳に入る足音。
荒々しい足音はこちらへ向かっていた。
「おいっ、青い石をもっと出せっ。もっとだっ。もっともっと生み出せっ」
欲に汚れた醜い声。
怒鳴りつけるような声は、薄い壁を突き抜けてよく届いた。
びくりと震える少女を痛ましげに見つめた。
「ここにいてはいけないわ」
「でも……」
置いていきたくないのだ、ここに、君を……。
「また、お話を聞かせてね」
少女は少年を拒絶する。
そして、少年は少女の願いを聞き入れた。
【また】が、訪れないことを知っていても……。
「神よ……! 僕が何をしたというのです? 僕が愛した人はすべて、僕の前からいなくなる。彼女は、僕が初めて一生を過ごしていたいと思った人。なのに……」
少年の慟哭に応じるかのように、雨が降っていた。
少年の怒りも悲しみもすべて雨音が消し去ってしまう。
「僕の望みはたった一つ。愛されたい。愛する人が欲しいだけなのに……」
その夜。
再び忍び込んだ少年が目にしたのは、生ける屍だった。
宝石は、無限に生み出せるわけではない。
命を削って生み出しているのだ。
だからこそ、美しく輝く。
少年は、腰に下げていた短剣の柄を握った。
そのとき、少女のふっと、瞼が震えた。
光が宿った青い双眸が少年を捉える。
お願い。
わたしを殺して。
苦しいの。
痛くて、痛くて、もう耐えられない。
それは、最初で最後の彼女の願いだった。
少年は、短剣を振り下ろした。
彼女は今、笑っている。本当の自由を手に入れて。
神はなぜこんなにも辛い人生を与えるのだろう。
幸せからほど遠い中で出会った小さな光。
それさえも、奪われて、最後に手を下したのは少年。
初めての恋は、血と共に消えた。
彼女と一緒に死ねたら楽だったのに……。
彼女の死体を奪われないように火を放つ。
燃え盛る屋敷をあとにした少年の頬を紅玉が滑り落ちていった。
※※※※※※※※※※※※
「さあ、これでこの物語は終わり。
けれど少年の旅はまだまだ続く」
終わりのない旅。
あてどのない旅。
失うとしりつつなくしたものは数知れず。
月日も忘れ、ただ歩き続ける。
なぜ生まれてきたの?
問いかけに答える者はいない。
出会いの後に待っているのは別れ。
なぜ少年は生きているのだろう。
それに答える者は、だれも、いない……。
昔に書いた作品をちょっと手直ししました。
ある曲がモチーフになっています。
少女は少年のおかげで、幸せの中で死ぬことができました。
少年は犯罪者として追われる立場ですが、宝石を生み出す種族は守られる立場なので、身分を明かせば刑に処されることはありません。
少女の主人の方があくどい事をしていたことをしていたので、運良く火事から逃げおおせた男でしたが、処罰されます。
宝石を生み出す種族を独占し、なおかつ死なせた罪は、重いです。
けれど少年が男の死を知ることは一生ないでしょう。少女の面影を求めて、彷徨い歩くのですから……。