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Snow letter  ― 遺言 ―

作者: 井浦美朗

 それは、空気の流れさえ凍りつくような厳寒の朝のことだった。

 淹れたてのコーヒーの香りがたちこめるダイニングで、祐善咲子ゆうぜん・さきこはトーストの焼き上がりを待ち構えていた。

 スリッパを通して身体の芯に伝わってくる寒さは、厚めの黒タイツでも誤魔化しきれない。だが、今日はどうしても成立させたい商談がある。だから、このチャコールグレーのタイトスカートに、青のグラデーションスカーフできめていきたい。これが咲子の勝負服であり、ラッキージンクスでもあるからだ。

 咲子は膝の内側を擦り付けあうようにしてダイニングの端から端へ移動し、朝食の準備を整えていく。

 もうすぐ6時30分。夫のしのぶが支度を終えて来るはずだ。それまでに、野菜スープを完成させておきたい。

 と、その時だった。

 突如、リビングの電話が鋭く鳴り響いた。

 こんな早朝に一体何事だろう、と咲子が思っている間に、夫の忍が受話器をとった。

「はい、祐善です。・・・・はい・・・。」

 忍は、ネクタイを片手で持ちながら話をしている。

 咲子は焼きあがったトーストにバターを溶かしながら、忍の方を眺めていた。忍は咲子に背を向ける恰好で話しているため、全然様子を窺い知る事ができない。

 電話は、1分ほどで終わった。

「どうしたの?」

 忍の唇は固まったように動かない。

 その表情に、咲子はハッとなった。

 嫌な予感が予感ですまないことを、腕の鳥肌がいち早く察していた。

 忍は瞼を伏せがちにし、低い声で言った。

「今朝早く・・・亡くなったそうだ。」

「・・・誰が・・・?」

 咲子は、その答えを知っていた。

 だが、聞かずにいられなかった。

 聞くまでは、信じたくない。

 例えその間が、数秒だったとしても。

 忍は、そんな咲子の気持ちを知ってか知らずか、ただ、聞かれたままに答えた。

美珂よしかさんだよ。」

 それは、4ヶ月前に癌と余命を告知され闘病し続けていた、咲子の親友だった。入院するまでは、会社の同僚だった。

「美珂さんのご両親が知らせてきた。どうする?病院へ・・・行くか。」

 咲子は、震える唇を無理に動かした。

「行って・・・どうなるの?」

「咲子。」

「行ってどうするのよ。美珂が生き返るわけじゃなし、どうしてそんな無意味なことしなきゃならないのよ!」

 バンッ、とダイニングテーブルを叩き、咲子は叫んだ。

「今日は大事な商談があるのよ。病院に行ってる暇なんかないわ!」

 朝食の用意を放って部屋を出て行く咲子を、忍は黙って見守ることしかできなかった。

 咲子がどんなに美珂を好きだったか知っている。だから、忍は何も言えない。何と言えばいいのか、わからない。

 鍋の中のスープの煮え立つ音だけが、冷たいキッチンに木霊していた。


 その朝、咲子はどういうルートで出勤したのか、覚えていない。ただ、地下鉄の暗いホームから地上へ向かう階段を登りきったとき、やけに太陽の光がまぶしかったことだけ脳裏に焼きついている。

 オフィスのエレベーターに乗り、薄暗い中廊下を歩き、自分のデスクに着く。

 時間が経ち、続々と皆が出社する。

 だが、一つの席だけは埋まらない。

 美珂の夫である、係長、松谷章まつたに・しょうのデスクだ。

 周囲は、もう美珂の訃報を知っているのだろうか。

 その時、課長が咲子の席にやってきた。

「松谷君の奥さんのことだけど・・・。」

 咲子の肩が、ビクッと震えた。

 課長の言葉の続きを聞いたら、すべてが現実になる。信じたくないことが、現実になってしまう。

「私・・・資料の準備をしてきます。」

 咲子はそう言うと、部屋を飛び出した。

 資料の準備など、とっくにできている。かと言って、デスクに戻りたくない。

 行くあてがない果てにたどり着いたトイレで手を洗いながらふと鏡を覗くと、そこには青い顔が映っていた。乱れた長い黒髪の間から、やけに紅い唇がのぞいている。見慣れたはずのその顔は、なぜか見知らぬ女に見える。

(私は・・どうしたらいいの?)

 しばらくし、咲子は取引先へ行く準備をしようとやむなくデスクへ戻った。そこへ、一緒に出張する予定の先輩社員がやってきた。

「緑川。」

 社内では夫の忍と同じ苗字であること故の混乱を避けるため、旧姓の「緑川咲子」で通している。

「今日は、僕一人で行くよ。」

「え・・・?」

 咲子は先輩社員を見上げた。

「どうしてですか?私、この商談は絶対成立させたいと思って準備してきました。」

「わかっている。だけど、・・・そんな青い顔色の人を連れて行けない。」

 咲子は、思わず頬を手で触ってみた。その手が小刻みに震えているのを、咲子は初めて知った。

 先輩社員は咲子の肩をたたき、

「僕に任せておけ。君の分も、ちゃんとプレゼンしてくる。絶対、商談はまとめてくる。」

「でも、」

「君のご主人が・・ほら、入り口で待っているよ。」

 営業2課の入り端に、夫の忍が来ていた。

 忍の暗い顔は、咲子を否応なく現実に引き戻した。

「・・・咲子。美珂さんに会いに行こう。」

「どこへ・・?」

「松谷家だ。遺体が、自宅へ戻ったというから。」

「嫌よ。」

「なに?」

 咲子は、唇を噛み締めた。

「私は行かない。」

「どうして?親友だろう?最期のお別れをしたくないのか?」

「したくないわ。」

「咲子。」

「見たくないわ。美珂の死体なんかに会ってどうするの?話しかけたって返事ができないものに会って、見て、どうしろって言うの!死体にすがりついて、『生き返って。』って、泣いてお祈りでもしろって言うの!?」

 咲子の大声に、課の社員達の視線が集まる。

 忍は眉をひそめて、咲子の肩を支えた。

「落ち着けよ、咲子。じゃあ俺一人で行くから、お前は家に戻れ。」

「・・・。」

「今夜は、帰らないかもしれない。明日は松谷の家から出社することになるかもしれない。そしたら、替えのシャツを持ってきてくれ。」

「どういうこと?」

「・・・松谷のことが、心配なんだ。一人にさせたくない。」

「松谷さんが・・・心配?」

「俺は今朝、病院へ寄ってきた。だいぶ憔悴しきっていたからな。ついていてやりたい。」

「・・・そう。」

「本当はお前の傍にもついていたかったんだ。だけど咲子にその気がないなら仕方がない。今日は、親友を選ぶ。」

 忍は咲子を説得するように瞬き、そして咲子に背を向けた。

(私は、別に今、誰かに傍にいてほしいなんて思わない。)

 咲子は忍の背を見送りながら、そう思って唇を噛んだ。


 咲子と美珂は7年前、大手商社に同期入社した。

 咲子は大学のミスキャンパスに選ばれたこともある美貌の持ち主。一方美珂は地味な容貌で、同期の中でも全く目立たぬ存在。だが、新入社員研修でたまたまグループが一緒だったことから二人は話をするようになり、いつの間にか意気投合していた。美貌を誇って自信に溢れ、行動力もあり、男友達の多い華やかな咲子。生真面目で仕事をソツなくこなすものの、人より何歩も後ろに下がって行動する控えめな美珂。周囲は美珂を完全な引き立て役として見ていたが、咲子は美珂の堅実で誠実な姿勢を尊敬していたし、美珂は咲子の積極性と実行力に憧れていた。やがて咲子は秘書課、美珂は経理課に配属されたが、その後も二人は良い友人として付き合ってきた。

 咲子が夫の忍と知り合ったのは、3年前。美珂の上司として配属された忍に、咲子が一目ぼれしたのが始まりだ。咲子は美珂に忍のことを探ってもらい、結果、キューピッドになってもらった。その2年後、一般職から総合職への試験に合格して営業に配置転換された咲子の上司となったのが、松谷章まつたに・しょう。課は違えど係長同士として知り合った忍は章と親しくなった。章より二つ年上の忍は間もなく課長代理に昇進したが、二人の友情は変わらなかった。年の差関係なく、タメ口をききあう仲だ。

 忍は章が好きだったし、咲子は美珂が好きだった。夫婦の意見は一致し、二人ををくっつけてしまおうと画策した。そして二人が結婚したのが、半年前。美珂の病気が発覚したのが、4ヶ月前。

 そして・・・。


 美珂の通夜にも、告別式にも、咲子は受付に立った。

 知り合いにも、知らない人にも同じように頭を下げてばかりいた。香典を頂くたび「ご愁傷様です。」という言葉をかけられ、その度に首だけが下を向く。

 会場ですすり泣く人を見ても、咲子の心は何も感じなかった。それよりも、(泣けるだけ、あんたたちは冷静なのよ。)と冷ややかな眼差しを向けていた。

 咲子がそんな気持ちになる理由の一つに、美珂の夫、松谷章の姿があった。

 章は一度も下を向くことなく、ただひたすら宙を睨みつけていた。

 濃い眉の下の一重の眼で、薄い唇を真一文字に引き締め、正座のまま微塵も動かなかった。

 真新しい黒いスーツに黒いネクタイ。

 そこには、いつもオフィスで見ていた上司の面影はない。

 やつれた頬が、険しい表情を一層際立たせている。

 美珂と出会う前も、出会ってからも、章は無愛想で厳しい、しかし誠実な男だった。他人に厳しいが、それ以上に己にも厳しい。それゆえか、友人はほとんどいなかった。本社に戻るまでずっと地方を回っていたらしいが、いつも一匹狼的な存在だったらしい。上司にも臆せず意見を言い、誰に媚びることもなく、他人に容易く気を許さない。そんな章が唯一友人として付き合ったのが、忍だった。

 忍は、咲子とは対照的に葬儀の裏方で忙しく走り回っていた。

 章には「何も心配しなくていい。」と言い、松谷家の親類と打ち合わせをしたり、葬儀屋との連絡に奔走している。ここ数日、咲子は忍とろくに顔を合わせていない。

 告別式の後、親類縁者が火葬場へ向かう際、忍と咲子も一緒に来るよう、親戚一同に促された。

「最期のお別れです。」

 棺の周りに一同が集まった時、咲子はそこへ近づくことができなかった。

 咲子は結局、美珂の死に顔を一度も見ることができなかった。

 忍が咲子の手を引こうとしたが、咲子は黙って首を振った。見たくなかったし、見れない。

 だがその時、棺に寄らなかった者がもう一人いた。

 章である。

 美珂の家族や章の両親が涙を流して別れを惜しんでいる中、章は一人、離れた場所に立っていた。その章の拳が震えているのを見たのは、おそらく、同じように棺に寄らなかった咲子だけだったろう。

 咲子は、章の気持ちが、細い糸のようになって自分の心に流れ込んでくるのを感じ取った。

 鉄の扉が重い音をたてて閉じられ、火葬が始まった。

 終わるまでの時間、皆は別室へ案内された。

 だが、章だけは閉ざされた固い扉の前から動こうとしなかった。

 忍が章の肩を抱き、別室で休もうと促すと、章は忍に言った。

「ここに居たいんだ。」

「でも、ここには座る場所もない。だいぶ疲れているはずだ。少し休んだほうがいい。」

 忍の言葉に、章は少しだけ微笑んだ。

「ありがとう、祐善。だけど、ここに居させてくれ。」

「・・・じゃあ、俺も一緒に。」

「いや、祐善は緑川についていてやれ。俺は、大丈夫だから。・・・これが最期だから、美珂と二人きりにしてくれないか。」

 忍はそれ以上何も言わずに、章を残して立ち去った。

 忍が泣いたのは、そのときが初めてだったかもしれない。咲子は隣に並んで歩きながら、そう確信していた。忍が泣くのは、美珂の死に対してではない。美珂を失った章の辛さに涙しているのだ。

 遺体が焼け終わるまで、2時間はかかる。

 親類達が和室で食事をしたり、話をしている中に忍も混ざった。

 忍と咲子は若いながら、章と美珂の仲人を務めた。二人がそれを強く望んだからだ。そんな縁もあり、章や美珂の一族とは付き合いが深い。忍がその中に混ざるのは、当然といえば当然だった。咲子は美珂の両親と話をしていたが、途中どうしても章のことが気になり、トイレに行くふりをして席を立った。

 今日、この時間に火葬が行われているのは美珂一人らしく、待合室を出てしまえば、人影はほとんど無い。

 広い大理石の廊下の片方に並ぶ、鉄の扉。

 その一つの扉の前で、章はまっすぐ立っていた。

 微動だにせず、拳を握り締め、扉の中を睨みつけるように仁王立ちになっていた。

 その様子を柱の陰からうかがい知った咲子は、章がどれだけ美珂を愛していたのか、痛いほど思い知った。

 仏頂面なのは妻に対しても変わらないらしいと聞き、「ちゃんと美珂を大事にしているんでしょうね?」と詰め寄ったこともある。章はいつも返事を濁していたが、美珂が「幸せだ。」と言い切るから、章を信じることにしていた。だが、信じるまでも無く、その愛は真実だったのだ。

 忍が章を心配するのが、よくわかる。

 今、章は確かにしっかりと立っているようだが、一方で、今にもあの扉を開けて、燃え盛る棺に抱きついてもおかしくないような気もする。無論、扉には鍵がかかっているし、そんなことはできるわけがない。しかし、そんな危うさが今の章の身体には感じられてならないのだ。

 咲子は、じっと息を殺して章を見守った。

 目を離してはいけないような気がした。

 そして、固く心に思った。

 章が泣かない限り、自分も泣いてはいけないのだ、と。

 美珂を失って一番辛い章が泣かないのに、他人の自分が泣いてはいけないのだ、と。

 だが、章が泣かないのは悲しみを耐えているからではないかもしれない。咲子と同じように現実を受け止められないか、まだ美珂の死を実感していないかのどちらかかもしれない。または、美珂の死を受け止めようと気を張っているからか。どちらにせよ、章の心は張り詰めた糸だ。いつか、切れる時が必ず来る。いつか、緩むときが訪れる。その時、章がどうなってしまうのか。

 美珂亡き今、章を暫らく見守ることが自分や忍の役割なのではないか・・・。咲子は、そう感じていた。


 7日間の慶弔休暇を終え、章が出勤した。

 いくら「見守る」とはいえ、章の家に居座るわけにもいかず、ただ心配するだけだった咲子はホッとし、同時に嬉しかった。このまま出勤しないのでは・・という、一抹の不安もあったからだ。

 章は課長に挨拶をし、また、葬儀に訪れた同僚にも挨拶をして回っていた。周囲の同情の空気が、課内を覆いつくしているようだった。

 章は、一番最後に咲子の所に来た。

「色々と、世話になった。ありがとう。」

 咲子は立ち上がり、頭を下げた。

「とんでもない。私は・・・何のお役にも立てませんでした。」

「君と祐善には、結婚式の前からずっと世話になりっぱなしだった。君たち夫婦は、俺たち夫婦のいつも支えだった。感謝している。」

 咲子は眉根を寄せて、やつれた章を見つめた。

「だいぶお疲れのようですね。どうか、ご自愛だけは忘れないで下さい。」

「ありがとう。」

 気の利いた言葉一つかけられない自分が恨めしい。いつも、そうだ。

 咲子は、気落ちしている人に何と声をかけたらいいか、いつもわからない。「それは咲子が気落ちしたことないからだよ。咲子は美人だし、頭いいし、何でもこなせるもんね。自分に自信あるでしょ?男に振られたこととか、片想いとか、経験ないでしょ。だからだよ。」学生の頃、女友達からそんな風にいわれたことがある。咲子だって、努力しているし、悩んでもいる。そんなに自信があるわけでもない。なのに、他人からはそんなふうに思われているんだ、と思うとショックだった。必死の努力をして掴んだ栄光でさえ、「生まれつきの美人は得だよね。」の一言で済まされてしまう。そりゃあ、色んな容姿が存在するこの世で、咲子は確かに恵まれているのだろう。だが、それに胡坐をかいているわけではないことを知って欲しい。

(それを言わなくても真っ先にわかってくれたのは、美珂だった。)

 だから、ずっと一緒にいても苦にならなかった。咲子が友達になりたいと思った唯一の女性だった。美珂を失い、咲子は再び独りの日を送ることになった。

 昼休み、女子トイレの個室に入っていたときのことだった。

 咲子は昔から女子が集団でトイレに行くのが嫌いだ。化粧直しのために洗面台に群がっている女子も嫌いだ。だが、昼休みの終了が近い時間帯には嫌でもそういう連中に出くわす。

 咲子が個室を出ようとドアに手をかけたときのことだった。

「ねえ、営業2課の松谷係長のこと聞いた?」

 このトイレは食堂の近く。色々な課の女子が出入りする。聞きなれない声の主は、見知らぬOLだろう。咲子は思わず手を引っ込め、個室の中で息を潜めた。

「聞いた。奥さん、死んじゃったんでしょ?」

「まじ?超かわいそー。」

「結婚半年だって。残酷だよねぇ。」

 OLは3、4人くらいで会話をしているようだ。

「でもさぁ、喜んでる女は絶対いるよ。松谷係長って愛想無いけどイケメンで有名じゃない?社内OL専用裏サイトの人気投票で5本の指には入るもんね。」

「そうそう。結婚するって聞いたとき、何人の女が泣いたことか。しかも相手の女って、はっきり言ってブスだったじゃん。」

「すぐスレに顔写真貼り付けられて、酷評されてたよね。地味で冴えなくて、『どこがいいの?』みたいな。」

「そうだよ、だから皆納得しなかったんだもん。」

「でも、これで振り出しに戻ったわけよね。」

「もしかして、狙っちゃう?」

「いい男なんて、すぐ誰かのものになっちゃうんだから遠慮してちゃ負けだもん。」

 その会話を耳にした咲子の怒りは、限界に達した。

 激しく肩で息をしながら憤りを抑えていたが、もう、駄目だ。

 咲子は個室のドアを勢いよくバンッと開けると、洗面台に並ぶOLの後ろに仁王立ちになった。OL達はドアの音と鬼気迫る気配にハッとして、恐る恐る振り返ってきた。

 咲子は社内でも有名な美人OLの代表だ。社員なら誰でも顔を知っている。長身の美女に見下ろされるように睨まれ、OL達はすっかりビビッて声も出せない。

「誰が、・・・誰がブスですって?」

 咲子はOL達の間に割り込み、さらに睨みをきかせた。

「松谷係長はね、女を見る目があるのよ。上辺ばっかり着飾って誤魔化してるような馬鹿OLには興味がないの。少なくとも、あんたたちみたいに人の悪口言って喜んでるような女なんて歯牙にもかけないわね。」

 咲子は更に、一人のOLににじり寄った。

「悲嘆にくれてる係長に下らないチョッカイ出したら、私が承知しないわよ。よく覚えておきなさい!」

 OL達は肩を丸めてそそくさと逃げ去っていった。

 まだ怒りがおさまらない。何かを投げつけたり、殴りたい気分だ。

(美珂・・・。)

 亡き親友を想うと、それだけで涙が出そうになる。だが、咲子は必死にそれを堪えた。

(駄目よ。誓ったじゃない、松谷係長が耐えてる以上、私も泣かないって!)

 咲子はそう自分に言い聞かせて、デスクに戻った。

 その日の帰り、忍が営業2課に立ち寄った。忍は咲子ではなく、章のところに向かった。

「よかったら、晩飯でも一緒にどうだ?咲子も誘って。」

 すると章は、力なく首を振った。

「いや、悪いが遠慮しておくよ。」

「松谷、お前、全然食べてないだろ。スーツ浮いてきてるぜ。」

「・・・食べられないんだ。」

「全然?」

「ああ。口に何か入れる気にならない。だけどそれを知った俺の父や美珂の両親が泣くんだよ。無理矢理病院に連れて行かれて、点滴打った。今も毎日会社帰りに病院に寄って点滴打ってもらうことになっている。」

「・・・そんな・・・。」

「多分、身体が生きることを拒否しているんだろうな。でも、自殺する勇気はない。」

「当たり前だろ!?自殺なんかしたら、一番悲しむのは美珂さんだ。」

「そうなんだよな。・・・わかってるから、どうにもできない。」

 それを聞いた咲子は、忍の後ろから章に話しかけた。

「一人でいると、よくないのではありませんか?私たちのマンションに、暫らくの間いらっしゃいませんか?」

「そうだな。松谷、そうしろよ。」

 章は、やつれた頬で微笑んだ。

「ありがとう、二人とも。すごく嬉しい。でも、一人で大丈夫だ。」

「そうは思えないが?」

「一人でいることに慣れて、実感しないと・・・美珂が死んだことを身体が納得しないんだよ。」

「松谷・・・。」

「頭で理解しても、心が、まだ受け付けないんだよ。頭も、口も、耳も、心も、手も足も、全部がばらばらな気がする。俺のものであって、俺の意思とは離れたところにある気がする。でも、それを乗り越えないと・・・いけないだろう?」

 力なく微笑む章の笑顔が切なくて、忍も咲子も言葉を失った。

 その日、忍と咲子は一緒に岐路についた。

 普段は仕事の終わる時間もバラバラだし、何より会社という公の場に夫婦というプライベートを持ち込みたくなくて、二人が会社で一緒にいることは殆どなかった。出勤も退勤も各自の都合のままに任せていた。しかし、今日は特別だ。

 地下鉄に揺られながら、忍は窓ガラスに映った咲子に向かってつぶやいた。

「咲子は、美珂さんが亡くなってから・・・泣いたか?」

 咲子は俯いたまま、首を振った。

「泣いてないわ。」

「・・・よく、耐えられるな。」

「耐えるわよ。だって、松谷係長が泣いてないんだもの。」

「松谷が?」

「そうよ。あなただって、見てないでしょう?泣いているところ。」

「そう言われれば・・・そうだな。」

「私、お葬式でも火葬場でも涙を見せなかった松谷さんを見て思ったのよ。一番辛い松谷さんが耐えているものを、他人の私が耐えなくてどうする?って。」

 忍は、その言葉に隣にいる咲子の横顔を初めて見た。

「咲子・・。」

 咲子はその視線を感じながらも、忍を見ることができなかった。

 何となく、言うべきでなかったことを言ってしまった感じがしたからだ。

 忍もそれ以上、何も言わなかった。

 苦しい気持ちを吐き出しても、何もならない。

 一番苦しいのが誰かわかっているから、苦しみきれないのかもしれない。

 その半端な立場が、逆に自分の首を絞めていく。

 辛いとき、やるせない気持ちのとき、いつも咲子は忍にすがっていた。だが、今回はそれを欲しない。忍に抱かれても、何の慰めも見出せないとわかっているからだろうか。もう二度と美珂を抱けない章を思うと、自分一人男の胸で安らぎを得ることなど許されないと思うからだろうか。咲子自身、理由などわからないが、不思議なほど心も身体も忍を欲していない。

 忍も、同じなのかもしれない。

 互いの会話も殆ど無くなった。

 だって、楽しい話などできない。

 仕事の愚痴なんて、美珂の死に比べれば取るに足らないことだ。

 今日あった出来事など、話すほどのこともない。

 二人の将来など、考えることさえ罪深い。


 咲子が風呂に入っている間、忍は間接照明一つ点けただけの薄暗いリビングで一人、ブランデーを飲んでいた。

 透明なグラスの中の琥珀色の液体を揺らしながら、忍はただ一つのことを考えていた。

 美珂の上司であり、章の親友である忍は、美珂が入院する直前に一通の手紙を受け取っていた。

― 私が死んで、章がどうしようもないほど苦しんでいたら、渡していただけないでしょうか ―

(・・苦しんでいるさ。そんなこと、当たり前じゃないか。)

― こんな重い役目をお任せするのは、大変申し訳ないことです。でも、祐善課長代理にしか、お願いできないんです。咲子では、駄目なんです。章がどんな風になるか、私にはわかりません。章の心を理解して、冷静に判断できるのは、課長代理だけなんです ―

(松谷には、必要かもしれない。所詮他人である俺達には、できることなど何もないんだ。美珂さんの残したこの手紙しか・・・松谷を救うことができないに決まっている。)

 忍はグラスの残りを一息に飲み干しすと、大きな音を立ててテーブルにグラスを置いた。ソファの上に仰向けに身体を投げ出し、目を閉じる。

(目を開けたら・・・すべてが嘘になっていないだろうか。そんな馬鹿げたことが、現実になってくれないだろうか。)

― 私が死んでも、章には幸せになってもらわなければ ―

(それは、俺だって同じ気持ちだ。だけど・・・。)


 美珂の死から2ヶ月が過ぎた頃、それは突然に起こった。

 仕事の最中に、章が発狂したのである。

 というより、突然立ち上がり、怒鳴ったのだ。

「どうして皆平気でいられるんだ!?俺にはわからない、どうして俺はこんなに冷静にのうのうと生きていられるんだ!?あいつが死んだのに!死んでしまったのに!!」

 自分のデスクで仕事をしていた咲子は、青ざめて章の下に駆け寄った。

「しっかりしてください、係長!」

 章は咲子の両腕をつかんで、顔を覗き込んだ。

「緑川、どうしてお前まで冷静なんだ!?親友だろう!死んでしまったんだぞ!あんなにやせ細って!・・・あんなになって死んでしまったんだ、君だって見ただろう!?」

「見ました!わかっています!苦しいのは、私だって同じです!」

「どこが同じなんだ?緑川は冷静で、俺は気が狂っている!いっそこのまま死んでしまいたいほどに!!」

 騒ぎを聞きつけて駆けつけた忍が、章を後ろから羽交い絞めにした。

「松谷、俺と一緒に来るんだ!」

 課内は騒然としている。忍は営業2課長に頷いてみせ、課長は社員を諌めた。

「さあ、みんな静かに!仕事を続けて。」

 咲子は乱れた髪を軽く撫で、その場にへたりこんだ。

 全然気づかなかった。

 章がまだ、こんなにも苦しんでいたなんて。

 章が理性で感情を押し殺す人間だということを忘れていた。

 平気なわけがなかったのだ。

 すべての感情を押し込めて、平静を装っていただけだったのだ。

 頭の中が混乱した咲子は仕事など全く手につかず、昼休みになると待ちかねたように忍のところへ行った。

「松谷さんは?」

「病院。財布の中の診察券を見つけて、かかりつけのクリニックに連れて行った。精神安定剤を打ってもらって、眠っている。」

「病院の先生は、何て?」

「最初は松谷の家族が無理に受診させていたらしいんだが、ここ1ヶ月、来院しなかったというんだ。医者は、もう立ち直ったんだろうと思っていたようだが・・違ったようだな。」

「松谷さんのご家族には、知らせたの?」

「ああ。すぐにお父様が見えたよ。ろくに寝ず、食べない生活はずっと続いてたんだな。心もだが、身体も衰弱しているから1週間ほど入院が必要らしい。」

「・・・49日が終わって、張りつめていた気が緩んだのかしら。」

「そうかもしれない。・・迂闊だったよ。少し、安心してしまっていた。美珂さんの死から立ち直ったのでは・・なんて。」

 咲子は、次第に自分を襲う黒い影に身震いした。

 それは、今更・・というより、今だからこその「美珂が死んだ」という確かな実感だった。

 忍は、デスクにしまってある美珂の手紙を思い出した。

 白い封筒には、硬く封がしてある。

 中を見てみたい、切にそう思った。

 この手紙で、章がさらに悲しみの底に堕ちていったら元も子もない。

 思慮深い美珂のことだから、章のすべてを察して配慮しているとは思うが、それでもどう影響を及ぼすかわからない。

 忍は「まだその時ではない」と判断し、もう少し様子を見ようと考えた。

 次の日。

 咲子は早めに仕事を終えて章を見舞おうと考え、いつもより早く家を出た。

 8時すぎにはオフィスに着き、営業2課の扉を開ける。

 と、次の瞬間、咲子は心臓が止まるかと思うほど驚いた。

 入院しているはずの章が一人、朝日のまぶしい部屋の中で机に向かっていたからだ。

「係長・・!何なさってるんですか?」

 章は、咲子の方を見もせずに答えた。

「見ればわかるだろう。仕事だ。」

 咲子は、章のデスクの前に立った。

「入院なさったと聞いています。」

「俺は、どこも悪くない。」

「身も心もぼろぼろだって聞きました。何を考えているんですか!?」

「・・それでも俺は、生きている。だから大したことはないんだ。」

 咲子は、章の両肩をつかんだ。

「病気の人にかぎって、自分は大丈夫だ、なんて言うんです!どうせ病院を抜け出したのでしょう?戻ってください。送っていきますから。」

 章は咲子を、冷たい、しかし生気のない目で睨み付けた。

「俺の身体だ。勝手にさせろ。」

「美珂が今のあなたを見たら、どんなに悲しむか・・!」

「悲しむがいいさ。あいつだって、俺を悲しめている!」

「何てひどい・・!あなたは、美珂を愛していたんでしょう?」

「今だって、それは変わらない・・!俺は自分が呪わしい。美珂が死んだのに生きていられる俺は異常だ。このまま死んでしまったほうが、よっぽど正常だと思わないか?」

 パンッ

 咲子は、思わず出た手を宙に浮かせたまま唇を噛んだ。

 唇が震えている。

 でも、言わないではいられない。

「美珂が考えていたのは、いつもあなたのことでした。死んだ後、あなたの苦しむ姿を想像して苦しんでいた。なのにあなたは、自分のことしか考えていない。美珂が望んでいるのは、あなたがあなたの人生を全うすることでしょう?死んでしまったほうがいいとか、そんな弱音を吐かないでください・・・!」

 その時、廊下で速い足音が響いた。

 ドアが音をたてて開き、忍が現れた。

「やっぱり・・!ここだと思った。松谷、すぐ病院へ戻れ。ご家族が心配して、俺に連絡をしてきたんだ。」

 章は、忍から目をそらせた。

「皆して、俺を病人扱いしないでくれ。」

「仕方のない奴だな。最近、アルコールとコーヒーばかりだったと聞いている。胃もやられてるそうじゃないか。」

「食い物が喉を通るほうがおかしい!こんなに苦しいのに、食欲なんか湧くわけがない!」

「・・・立派な病気だよ。いつまでもそんなでは、死んでしまう。ちゃんと療養して、直せ。・・・頼む。」

 二人はしばらく押し問答をしていたが、間もなく章の両親がやってきて、章をなだめすかして病院へ連れ帰った。

 その場には、咲子と忍だけが取り残された。

 咲子は何も言う気になれず、それは忍も同じだった。

 しばらくして、忍が重い口を開いた。

「もっと、一緒に苦しんでやるべきだった。」

「・・・私達では、何の慰めにもならないってわかっていても?」

「そうだ。何の役に立たなくても、一緒にいて、一緒に悲しんでやるべきだった。」

「松谷さんだって、本当はわかっているのよ。生きていかねばならないってこと。でも、愛する人が死んでも生きてるってこと自体が無神経な様で、許せないのね。」

 忍は、背中を向けたまま言った。

「今晩、俺は病院で松谷についていてやりたいと思う。咲子は、美珂さんの実家に行ってくれないか。」

「・・美珂の?」

「ああ。死後、章が美珂さんの実家に一度も行ってないってことはありえない。どんな様子だったか聞いてきてくれないか。」

「わかったわ。」


 美珂の実家は東京に近い神奈川県の、ベッドタウンにあった。

 ひっそりとした一戸建ての家で、美珂の家族は生活していた。

 仏壇に線香をあげて手をあわせた咲子に、美珂の母親がお茶をだしてくれた。

「こうして来てくださると、美珂も喜びます。」

 モノクロームの写真の中の美珂は、小さく微笑んでいる。

「松谷さんは、よくいらっしゃってますか。」

「ええ。週末には必ず。それで美珂の思い出話なども聞いていかれて。」

「松谷さんは、やっぱりまだ、美珂を愛しているんですね。」

「本当に、ありがたいことです。まあ、まだお若いですから、そのうち他の方と再婚なさるとは思いますけど。」

「そんなに器用な方ではありませんわ。」

「美珂の形見だと言って、いつも肌身離さずつけていたイヤリングをハンカチに包んで大事に持っていらっしゃるんですよ。」

「松谷さんが、初めて女性に・・美珂にプレゼントしたものだと聞いています。」

「そう。それから美珂の愛読書をぜひ欲しいとおっしゃって。一ページずつ丁寧にめくっては、あの子と同じ思考を辿れるのだと喜んでくださるんです。美珂は、本当に幸せ者です。」

 章らしい、と咲子はほほえんだ。

 咲子は再び、仏壇の写真を見上げた。

(美珂・・。松谷さんは、大丈夫よね?だってあなたが守ってくれているのだから。)

 止まったまま、二度と動かないその笑顔。

 咲子は溢れる感情を見せまいと、「また来ます。」とだけ言って、家を後にした。

 私鉄から地下鉄に乗り継ぎ、咲子はいつしか晴海ふ頭に来ていた。

 学生の頃から、やるせなくてどうしようもなくなると、海を見にここへ来ていた。

 都心のビルの夜景が、遠くに見える。

 潮の香りが、鼻をかすめた。

 人一人いない港で、今は波さえ音をたてない。

 停船する船が、わずかなオレンジの光を灯している。

(死んだのだ・・美珂は。)

 咲子の身体に、激震が走った。

 親友を失った、その悲しみが、今再び、咲子を襲う。

 入院して間もなく、美珂は咲子に「もう見舞いに来ないでくれ。」と言った。

 ― これ以上醜くなるの、もう、見られたくないの ―

 最期の1週間は、章でさえ臨終の間際まで近寄らせなかったという。それが美珂の、最期のプライドだったのかもしれない。

(幸せになれたはずなのに、もっと、もっと。)

 思い出す何百というシーンが、咲子の悲しみを一層盛り上げる。

 だが、泣くことはできない。

 だって、章が耐えている限り、自分も耐えると誓った。あの章が人前で泣くとは思わない。しかし・・・。

 強くならねば、と思う。

 章のためにも、自分がしっかりしなくてはいけない。

 最愛の者を残して死んでいかねばならなかった美珂のためにも。

 誰だって苦しいし、悲しいのだ。

 だから、そこから這い上がらねばならない。

 悲しみに、勝たなくてはならない。

「負けない・・。私は、絶対に負けない。」

 潮風に吹かれ、長い髪が宙を踊った。

 遠くで鳴る汽笛に紛れるように、咲子は叫んだ。

「負けるもんかーっ!!」

 夜の海は、咲子の声を呑み込み、黒い闇に変えていく。

 それはまるで、出口の見つからない心のようだった。


 章の病状は、想像以上に重かった。

 まるきり口をきかなくなってしまったからである。

 見舞った咲子は、章の母親の峰子と病院のロビーで話をした。

「あの章が、と思うと、ショックでなりません。」

 以前会った時には、若く美しくみえた峰子だったが、美珂の死と息子のことで一気に老け込んでしまったようだった。

「神様もひどいことをなさる・・。こんなに愛し合う二人をこんなに早く引き裂いてしまうなんて。」

 咲子は買ってきた温かい缶コーヒーを峰子に渡し、自分の分のプルトップを開けた。

「美珂も、とても心配していました。自分がいなくなったあとの松谷さんのことを・・。」

「この2ヶ月、本当に地の底でもがいて生きてたんですね。気付いてやれなくて・・・母親失格です。」

 峰子はハンカチで目頭をおさえた。

 咲子は、峰子の肩を支えた。

「お母様。松谷さんは、強い方です。大丈夫です。きっと、立ち直ります。」

 そんな決まり文句しか言えない自分に、腹が立つ。

 峰子をロビーに残し、咲子は一人、章の病室を訪れた。

 何も言わず、髪もボサボサで虚ろな目でベッドに横たわるだけの章の変わり果てた姿に、咲子は心を痛めた。

「一日も早く・・目を覚ましてください。」

 無論、返事はない。

「美珂のためにも、どうか。」

 その時だった。

 突然、章の手がピクリと動いた。

 咲子はハッとして、章の顔をのぞきこむ。

「・・・・美珂・・。」

「松谷さん・・?」

 章はゆっくりと掛け布団をめくると、病室の窓の方に身体を向けた。

「美珂・・・美珂がいる。」

 章はそう言って、窓の方に手をのばしながら、よろよろと歩き出した。

 咲子はどうしたらいいかわからず、呆然とその場に立ちつくした。

 だが、章の動きはそれに留まらなかった。

「美珂・・・待ってくれ、美珂。」

 この部屋の窓は安全上の配慮から、少ししか開かないようになっている。章はそのわずかな隙間から手をのばし、懸命に外へ出ようとしだした。

 咲子は慌ててその身体を押さえた。

「松谷さん!危険です、離れてください。」

 章は、開かない窓をもどかしく思ったらしい。拳で力いっぱいガラスを殴りはじめた。

 章の拳が、見る見る赤くなっていく。

「松谷さん!」

「美珂がいるんだ、あそこに!」

 章は空へ向かって手を伸ばし、もう片方の手でガラスを叩き続ける。

「いけません、松谷さん、駄目です!」

「美珂がいるんだ、あそこに!早くしないと、行ってしまう!!」

「しっかりしてください、美珂はいないんです。死んでしまったんです!」

「嘘だ!だってあそこにいるじゃないか。笑って、俺を待っているじゃないか!」

 咲子は章の細い胴に抱きついて止めるので、精一杯だった。

 体中汗だくになり、咲子は叫んだ。

「美珂はいないんです!もう・・・どこにもいないのよ!!」

 騒ぎを聞きつけた医師達が駆けつけ、ようやく章はベッドに戻された。

 咲子は息を切らして壁に体重を預け、うなだれた。

 今度ばかりは、泣きたかった。

 泣くことを堪えていることに、何の意味もないような気がした。

(教えてよ、美珂・・・。私は、どうしたらいいの?)

 咲子の長い睫が、溢れようとする涙を必死に止めている。

(私には一体・・何ができるというの・・・。)


 章の容態は、日増しに悪くなる一方だった。

 美珂の幻覚を見、わけのわからないことを口走る。

 まさに重症だった。

 今までは仕事という目的に身も心も捧げて何とか理性を保っていたのが、入院し、そのすべてを取り上げられてしまったために精神の拠り所を失い、心が堕ちていくばかりになったのかもしれない。

「寂しいんでしょうね、とても。」

 章の担当医が、咲子にそんなことを言った。

「でも、私達ではその寂しさは癒せないんです。」

「・・・彼は、そんなにまでも奥さんに盲目的だったんですか。」

「松谷さんは、ずっと仕事一筋だったと聞いています。生活のすべてを、仕事に捧げていたんです。そんな中、美珂に会って・・・初めてだったのかもしれません、松谷さんにとって本当の恋愛は。」

「仕事・・・させた方がいいのかもしれませんね。」

「え?」

「松谷さんのように、一つのことに真っ直ぐのめりこんでいくタイプには、ありがちなパターンなんです。奥様と会う前の支えが仕事なんでしたら、仕事に復帰させたほうがいいのかもしれません。入院して悶々とすごしていても、どうも改善の兆しが見られないようですし。」

「・・・会社で、また奇行が出ないとも限りませんわ。」

「会社の協力が得られるなら、数時間ずつでも出社させて様子をみたいと思いますね。会社の産業医とも連携して・・どうでしょう?」

「とりあえず、明日課長に話をしてみます。その上で、また連絡を。」

「わかりました。お願いします。」


 章の能力を高く買っている営業部長の計らいで、まずは午前中3時間のみ、部長付き秘書という形で仕事に復帰することになった。通常業務に戻すには、まだ心配が多いからだ。 

 その話を聞いた忍は、出しかけた美珂からの手紙を、もう一度机にしまいこんだ。

 渡すことは、いつでもできる。

 

 そして夏が過ぎ・・


 やがて、駆け足で秋がやってきた。



 章は、美珂以外の女には興味がないと言い切っていた。

 美珂は自分の死後、遠慮せずに再婚するよう何度も章に言っていたが、がんとして受け付けなかった。

 部長の計らいや、家族の優しさ、そして忍と咲子の切なる思いに触れ、章の心は少しずつ和らいでいった。

 とはいえ、まだ予断は許さない状態のため、まだ完全に仕事に復帰はできていない。部長につきっきりで過ごし、午後5時には何があっても退社する。

 医師の忠告は、とにかく美珂の話は今は避けるように、ということだった。それができるほど、章の傷はまだ癒えていないからである。

 しかし、どういうめぐり合わせなのか、それは、突然の出来事だった。

 営業部長が商談で、ある精密機器メーカーを訪れ、章もそれに同行していた時だった。

 帰りのエントランスホールで、不意に現れた女子社員に二人は目を奪われた。

 その会社には以前から何度か来たことがあったが、はち会ったのは、これが初めてだった。

 章は、持っていた鞄を思わず落としてしまった。

 部長はどうしていいかわからず、ただ息を詰めてその様子を見守るしかなかった。

 相手の女子社員も二人の様子に戸惑い、目をぱちくりさせていた。

「あの、どうかなさいましたか?」

 優しい声だった。

 その女性は、まさに瓜二つとしか言い様がないほど、美珂に生き写しだった。

 正気に戻ったのは、部長が先だった。

「いえ、何でもありません。失礼しました。・・・松谷君、行こう。」

 部長は章の鞄をひろうと、まだ呆然としている章の腕を引っ張るようにして外に連れ出した。

 これがいいことなのか、悪いことなのか・・・。

 帰りのタクシーの中、章は一言も口をきかなかった。

 だが、めぐり合わせは、これで終わらなかった。

 次の週。

 例の女子社員が、章の会社にやってきたのである。

 女子社員はあの精密機器メーカーの常務秘書であり、社長令嬢というおまけまでついていた。常務直々の商談のため、営業部長は会社のVIP用ラウンジに二人を招いた。最上階にあるこのラウンジは、一般社員でも重要取引の際は使用できることになっている。

 その日は、咲子も偶然にこのラウンジで外国からの客と商談をしているところだった。

 咲子ははじめに章と営業部長に気付き、そして次に、同じテーブルに着いた女に気付いた。

(・・・!)

 咲子は息を呑み、青ざめた。

 なぜ青くなったのかはわからない。ただ、不快感が体中を襲った。

 やがて章達は商談をすませ、雑談をしながらコーヒーを飲んだ。

「いや、こんなに優秀な部下をお持ちとは羨ましい。松谷さん・・でしたね。将来が楽しみだ。」

 常務の言葉に、営業部長も話をつないだ。

「我社の期待を背負ってますから。将来の重役候補ですよ。」

「その上、なかなかの男前で。実はここにいる私の秘書の中川江梨花君は、うちの社長の一人娘なんですが、どうでしょう?ここは一つ、結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」

 営業部長は、思わずコーヒーを喉につまらせて咳き込んでしまった。部長はすべての事情を知っている。どんな返事もできはしない。

 すると、江梨花の方が頬を紅くして、常務に言った。

「やめてください、常務。お二人が困ってらっしゃるではありませんか。」

「・・いえ、気にしないで下さい。」

 営業部長は、驚いた。

 章がまともに他人に対して受け答えをしたのは、久々のことだ。

 今でさえ余計なことは一切しゃべらず、「はい」とか「いいえ」とかの繰り返しだったのが、これはどういうことだ?

 部長はこれが、美珂にそっくりの江梨花のせいなのだと、疑ってやまなかった。

 二人が帰り、章と部長だけになると、すでに用を終えていた咲子は営業部長を呼びとめ、章には聞こえないように訊ねた。

「さっきの女性はどなたですか。」

「中川精密機器工業の常務秘書にて社長令嬢だ。」

「・・・それだけですか。」

「それだけ、とは?」

「・・部長は、何もお感じにならなかったんですか?」

 部長は、歳でくすんだ瞳を、厳しく咲子に向けた。

「私達には、関係の無いことだ。感じる感じないは、松谷君にまかせればいい。」

「係長はまだ病気なんですよ?それなのに、目の前にあんな瓜二つの女がうろついたら、」

「うろついたら・・・何だね?」

 咲子は言葉に詰まった。

 部長は軽く溜息をつき、言った。

「亡くなった奥さんに似ているからという理由でどうにかなる男ではないだろう、松谷君は。」

「・・・なら、よいのですが。」

「松谷君の理性は、今も昔も変わらないよ。安心しなさい。」

 いつもの優しい部長の声に戻ったため、咲子もそれで納得するより他なかった。

 だが、事態は急速にエスカレートしていった。

 江梨花の家が、章に対し、縁談を持ちかけたのである。

 仲介した営業部長は章の立場をすべて中川社長に打ち明けたが、社長は一向にかまわない、と言うのだ。

「うちの娘がとにかく惚れ込んでしまって・・・。いや、急ぎません。松谷さんの沈んだ心をもし江梨花が癒してやれるなら、それで今は十分です。」

 営業部長が江梨花の見合い写真を持って松谷家を訪れると、章の両親も突然の話にうろたえていた。

「とにかく、亡くなった美珂さんのことはもう娘同然に思っておりましたし、まだ1年もたっていないので・・・。申し訳ありませんが、何ともお返事できません。」

 章の父は江梨花の写真を見ながら、複雑な思いにかられた。

 もし江梨花が普通の娘なら、すぐに断っていただろう。だが、美珂に瓜二つとなると、少し話が変わってくる。性格はともかくとして、章の興味をひくには十分すぎる。もし、美珂に似ているからという理由で再婚したとしても、それで章が落ち着くならいいのではないか、と思ったからだ。この先、息子が一生一人でいるのは、やはり賛成できない。もしかしたら、これは美珂のお導きではないのかとさえ考えた。

 章は父から江梨花の話を聞くと、「皆、どうかしている。」と吐き捨てるように言ったきり、二度と話をしなくなってしまった。


 後日、章個人を訪ねに、昼休みの時間帯に江梨花がやってきた。

 章はどうしても邪険にできず、近くの喫茶店に誘った。

 ガラス張りの大通り沿いの席で、江梨花は頭を下げた。

「父が、とんでもない話を持ちかけたのではないでしょうか。」

「・・・。」

「私は、確かに松谷さんのことを初めてお見かけしたときから、素敵だと思っていました。でも、まさかそれで縁談にまで持っていくとは思っていなかったんです。私の勝手なわがままからご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。」

 江梨花は、机に額がくっつくほどに深く頭を下げた。

 章は、何も言う気になれない。

「それに、私・・松谷さんの亡くなった奥様のこと、聞きました。お辛い所に、私みたいなそっくりな女がうろついていたら、もっとお辛くなってしまいますよね。」

 会社で仕事をしていたときの美珂の口調と表情が蘇ったようで、章は思わず苦笑した。

「・・・確かにあなたは妻によく似ている。そんなあなたが悲しそうな顔をするのは、やっぱり見るに忍びない。ですから、もう気にしないで下さい。」

 江梨花は、そっと微笑んだ。

「松谷さんは今でも、本当に奥様のことを大切に思っていらっしゃるんですね。」

 章は、ちょっと目を伏せた。

「これは、お聞きになっていませんか。私は精神を患って、まだ完治していないことを。」

「そうは見えません。」

「理性を保とうと、必死だからです。余計なことを、考えないようにしているからです。」

 江梨花は、章の気持ちを察した。

「私がいたら、嫌でも思い出してしまいますよね。」

 その暗い声に、章はふと優しい気持ちになって微笑んだ。

「でもその反面、ずっと見ていたい、とも思ってみたりもするんです。・・勝手でしょう?」

「いいえ、ちっとも。でも、松谷さんは私という人間そのものには全く興味がないのだと、よくわかりました。」

 美珂と違うのは、自分の気持ちをストレートに伝えてくるところだ。江梨花は、羨ましいくらい正直なのだろう。

 その頃、社員食堂で忍と待ち合わせていた咲子は、あるOL達の会話に釘付けになった。

「ねえ、私さっき、すごいもの見ちゃった!」

 若いOLの黄色い声は、とにかく響く。

「えーっ、何々?」

「松谷係長が、女の人と一緒にいたの!」

 咲子はハッと硬直して、水の入ったグラスを持つ手に力を入れた。

「松谷って、あの営業の?」

「そう。ほら、奥さんが病気で死んじゃって、ちょっとおかしくなったっていう人よ。」

「だって、もとから女嫌いで有名じゃなかった?今なんて、女とは口もきかないって聞いたよ?」

「それがさぁ、一緒にいたのが、なんか奥さんになった女にすごい似てたんだよね・・。死んだって話、嘘じゃないよね?」

「本当に決まってるじゃん!」

 咲子は、デザートのプリンにスプーンを差し込んだOLの肩をつかんだ。

「松谷係長を、どこで見たの?」

 咲子の表情がよほど怖かったらしく、OLはすぐに答えた。

「オフィス出たとこの、”カフェ・フランボワーズ”だけど・・?」

「ありがとう!」

 咲子は財布を持つと、グラスを置いたまま食堂を飛び出した。

 すれ違いざまに食堂に入ってきた忍は、咲子の慌てぶりに驚いた。

「咲子?どうしたんだよ?」

「ごめん、すぐ戻るわ。ちょっと待ってて!」

 咲子が会社を出て大通りを渡ろうとした時、向かい側にあるシックなガラス張りの喫茶店から章と江梨花がでてきた。

 二人は何か会話を交わすとすぐに別れ、江梨花は地下鉄の駅へ向かって歩いていき、章は会社へ戻ろうと、横断歩道に向かってきた。

 横断歩道を渡ったのは、咲子が先だった。

 咲子に気付いた章は足を止めた。咲子が、明らかに自分に向かって歩いてきたことに気付いたからだ。

 渡りきったところで、咲子は章と向き合った。

「今の方が、中川精密機器工業の社長令嬢ですね。」

「・・・ああ、そうだ。」

「会ってらしたのは、美珂に似ているからですか。」

「・・・。」

 章は沈黙を保ったまま信号が再び青に変わるのを待ち、横断歩道を渡り始めた。

 咲子は、慌ててあとを追いかけた。

「係長!」

「・・・緑川には、関係ないだろう。」

「私は、心配しているんです!」

 大通りを渡りきり、再びアスファルトの歩道を歩く。章は大またで早足になり、咲子は懸命にそれを追いかけた。

「俺の何が心配なんだ?」

「美珂に似ているという理由だけで、他の女の人に惹かれたりしないでほしいんです!」

「なぜ、そう思うんだ?」

「だって、あなたは女の人とただでお茶を飲む人ではないでしょう!?」

 章が不意に立ち止まり、咲子は危うくぶつかるところだった。

 章は振り向いたが、その瞳は冷たい光を帯びていた。

「誰とお茶を飲もうと、俺の勝手だ。どうして緑川にそんなことを言われなきゃならない?」

「係長は、もう美珂を忘れてしまったんですか?」

「忘れてないから、似ている女でも何でも見ていたいと思うんだ。」

「そんなの、美珂に失礼です!」

「緑川。」

 章は、咲子を厳しい視線で見下ろした。咲子の瞳も怒りの色を帯びていたが、章の表情の恐ろしさに、思わずたじろいだ。

 章は言った。

「そういうことは美珂が考えることで、緑川には関係の無い、筋合いのないことだ。」

「それは・・・。」

「緑川が考える領分ではない・・違うか?」

 咲子は負けじと言い返した。

「そんなこと、わかっています。でも、私が言わなければ他に誰も言わないでしょう!?美珂が言えないから、私が代弁しているんです!」

「・・・美珂は、そんなことは言わない女だ。」

「口にしなくたって、嫌に決まってます!嫌でないなんてありえません!」

「それは美珂の考えではなく、君の考えだろう?」

「違います!」

「違わなかったとしても!」

 章の切れ長の一重が、真っ直ぐに咲子を凝視した。

「俺の行動に、どうして緑川が干渉する?」

「干渉って・・・。」

「それは、美珂にしか許していない権利だ。緑川に与えた覚えは・・無い。」

 その言葉は、咲子の心を深く貫いた。

 章の言うことは、正しい。

 なのに、こんなことを言ってしまった、言わずにいられなかった自分がいたことに、咲子は気付いた。

 何も言えずに俯いた咲子に、章は口調を和らげた。

「俺は、本当は心のどこかで美珂を忘れたいと思っているのかもしれない。眠れないほど苦しい気分が、美珂に似ている女が現実に動いているのを見るだけで、やわらいだりするんだ。」

 咲子が見上げた章の横顔は、ただ一人の女を想っている男の顔だった。

 整った鼻筋から薄い唇にかけての線が、切なくなるほどきれいで、咲子は苦しくなった。

「すまない。」

「・・え?」

「言い過ぎた。・・・緑川の言うことは、最もなのに。」

「係長・・・。」

「わかっているんだ。このあと、もっと深い絶望が待っていることを。」

「もっと・・深い?」

「そうだ。だから今は少しだけ、夢を見ていたいんだ。救われる気分を、少しだけでも味わいたかった。どうせ美珂を・・忘れられるはずがないからな。」

 章はそう言って苦笑した。

「・・・緑川にだから、こんな恥ずかしいことを打ち明けている。緑川は、俺の気持ちを誰より早く察してしまうからな。今回のことも・・図星だったし。」

「・・・。」

「もし、緑川以外の女にこんなことを言われていたら、許さなかった。そうだな、手をあげていたかもしれない。それで、許してくれないか。」

 章はそう言うと再び背を向け、オフィスのエントランスに向かっていった。

 このときの章の一言が、どれだけ咲子の心に染みたか。

 咲子は胸が一杯で、わからないくらいだった。

 咲子は今、自分がとてもまずい気持ちを持ち始めたことに、苦い思いも感じていた。

(私は・・・。)

 咲子は、オフィスの非常階段の壁に額をおしつけ、頭を冷やそうと努めた。

(どうかしてる。私は、何を考えてるの・・・?) 

 章のつらい気持ちを想うと、心がきしむ。

 章の、ほんの少しの浮気に対しても、不安と嫉妬が渦巻く。

 こんな気持ちは美珂が感じるもので、咲子が感じるべきものではないはずだ。

 そんなことは、言われなくても痛いくらいわかっている。

 社員食堂で忍が待っていることを思い出したのは、昼休みが終わる直前のことだった。

 もういないだろうと思いながらもガランとした食堂に行くと、隅の席で一人、忍がコーヒーを飲んで待っていた。

 忍は咲子の姿を見ると溜息混じりに苦笑して、立ち上がった。

「もう、仕事の時間だ。行こう。」

「ごめんなさい。久しぶりに昼を一緒にとろうって、先週から約束していたのに。」

「いいさ。家へ帰ればどうせ一緒なんだから。」

「・・・今日は、定時で帰れそうなの。夕飯作って、待ってる。」

「ああ。」

 忍は笑って許してくれたが、咲子には罪悪感しか残らない。忍が許したのはランチをすっぽかしたこと自体であって、その理由に対してではない。咲子の心内を知れば、忍は笑うことはもちろん、咲子を許さないだろう。

 その夜は、忍も8時には帰宅し、二人で夕食をとった。

 咲子は、江梨花の一件をすべて忍に話した。しかし今日、章が咲子に言った言葉だけは、伝えずにおいた。

 すると忍は、咲子にとって思いがけない返事をした。

「もし、それで松谷が幸せになれるなら、いいんじゃないのか?」

 咲子は、その言葉にいきり立った。

「なぜ、そんなことを言うの?美珂に瓜二つってだけなのよ?それ以外の何ものでもないのよ!?まやかしだわ。」

「美珂さんだって望んでたことだ。松谷が幸せになるのなら、再婚して欲しいと言ってた。」

「どうして男にはわからないの?相手のことを思えば、再婚してほしいって言わざるをえないけど、本心では嫌に決まってるじゃないの!自分が死んだ後、また他の女を愛するなんて、どこの女が喜ぶっていうのよ!?」

「なら怒ればいいのは美珂さんだ。咲子が怒る筋合いがどこにある?」

「美珂が怒れないから、私が代わりに怒ってるのよ!」

「美珂さんが君にそうしろと頼んだわけじゃないだろう?」

「あなたならわかってくれると思ったのに!」

「わからないのは君の方だ。君は美珂さんが亡くなったのを悲しんでいるのか?松谷が苦しんでるのを悲しんでるのか?」

「両方よ!それは、あなただって同じでしょう?」

「当たり前だ。だが、君の方はそうは見えない。」

「・・・どういうこと?」

「君の頭の中は、松谷のことで一杯だ。・・・違うか?」

 咲子は、言葉を失った。

 否定が、できない。

 嘘を言えるほど、忍を愛していないわけではない。

 忍は、グラスの赤ワインを飲み干した。

 章が入院してた間ほとんど毎日咲子が見舞いに行っていたときから、忍は一抹の不安を抱いて、ここまで来た。

 だが、その不安が現実になってしまったとは。

 忍は、今まで言わなかったことを、咲子に打ち明ける気になった。

「実は俺、美珂さんから一通の手紙をうけとっている。」

「・・・そんなものを、いつ?」

「入院する前かな。死んだ後、松谷が苦しんでいたら渡して欲しいと言われて、預かった。」

 咲子は苦しくて、思わず笑った。

「どうして親友の私でなく、あなたなの?美珂のあなたへの態度も、おかしくない?」

「どうしてかって?今の君の状態を見ればわかることじゃないか。」

「私・・・?」

「そうだ。俺達4人は、友情の間に愛情も絡ませていた。だが俺は、それをごっちゃにしたことはない。美珂さんは友情で、君へは愛だった。」

「私だって、・・そうよ。」

「そうは思えない。君が江梨花さんに対して抱いているのは明らかに嫉妬だ。それは、気づいているんだろう?」

「私は、すべてが愛なのよ。あなたへも、美珂へも、そして松谷さんへも!すべてを愛しているのよ。でも、恋愛とは違うわ。そういうのって、あるでしょう?」

「今まではそうだったろう。だが、今はどうだ?」

「・・・私は、美珂を思わなくなった松谷さんなんて見たくないのよ。」

「松谷だって、立ち直らなくてはならないんだ。そのきっかけが女だって、仕方ないだろう。」

「美珂はどうなるの?松谷さんを置いて死ななくてはならなかった美珂は!?」

「死んでしまったんだ。もう、どうすることもできないんだ。それは、美珂さんだってわかっていた!」

「あんなに愛し合っていたのに!?江梨花さんの中に美珂を見て、何が幸せなの!?」

「じゃあ、松谷に一生一人でいろというのか!?」

「美珂がいるわ。美珂が、いつも一緒にいるわ!」

「松谷家の一人息子だぞ。まわりがどっちにしたって放っておかないだろう!」

「美珂以外の女なんて許さないわ!他のどんな女も、松谷さんの相手になんて駄目よ!」

「じゃあ、君が松谷と結婚するか!?」

「!!」

 忍に肩をつかまれ、咲子は自分の心がもうどうにもならないほど忍に曝されているということを知った。

「それなら、許せるのか。」

 咲子は、何もいえなかった。

 そんなこと、考えてもいなかった。

 だが、否定ができない。

 章が他の女と再婚するくらいなら、自分が独占してしまいたいと思う。

 こんな気持ちが、自分の中に芽生えていたなんて。

 咲子はこの時初めて、自分の気持ちを確信した。

 忍が言うとおりだ。

 もう、疑いようもない。

 忍は咲子の体をそっと放すと、静かに言った。

「咲子の気持ちは、よくわかった。」

 忍は食べ終えた食器を、カチャカチャと音をたてながら片付け始めた。

「実は明後日から1ヶ月、香港へ出張するんだ。・・・ちょうど良かった。」

「ちょうど良かった、って・・?」

「少し、お互いに頭を冷やしたほうがいいだろう。独りになって、色々考える時間が必要だ。」

「忍さん、私は・・。」

「美珂さんの手紙は、とりあえずまだ俺の手におさめておく。」

「駄目よ。・・・わかってるでしょう?松谷さんに必要なのは、美珂の愛だけだって。」

「それも、今だけだろう。・・・やがて、変わるんだ。」

 忍は食器をシンクに置くと、

「後は、頼んでいいか。出張の準備をしたい。」

 と言い残し、ダイニングを去った。

 咲子は、自分がとんでもないことをしていると思った。

 親友亡き後、その夫を好きになるなんて、どうかしている。

 だが・・・今の咲子に、その想いを消してしまえるだけの強さはなかった。章が美珂以外の女を愛したら、苦しくてたまらない。かといって、自分を愛するわけがないと、咲子は知っている。

 忍を蔑ろにしたのは、自分だ。

 あれほど好きで、大好きで、やっと結婚した相手を身勝手な理由で傷つけたのは、自分だ。

 章を好きになるということは、今迄も、これからも、咲子にとって絶対のタブーだった。

 美珂がいない今、美珂の残したものをどう処理して、現実につなげていくのか。

 美珂がいない今、美珂のいない穴をどう埋めて、未来をつくっていくのか。

 それは、答えの見えない、最も難しい問題だった。


 忍が長期出張に出て、1週間が過ぎた頃だった。

 咲子はめずらしく残業がなく、まだ多くの社員が行き交うエントランスホールに下りてきたが、ある人影にドキリとして立ち止まった。

 受付から遠く離れた柱の影で、江梨花がまわりを気にしながら立っているのを見つけたのである。

 美珂そっくりの顔だが、背はずっと高い。

 水色のツーピースを着た彼女は、美珂と同じようにお嬢様っぽい雰囲気を漂わせている。

 本来なら最も避けて通りたい相手なのだが、不安げな表情が美珂そっくりで、咲子はどうしても放っておけずに思わず声をかけていた。

「失礼ですが、松谷係長をお待ちですか。」

 江梨花はとても驚いた様子だったが、すぐに微笑み、頷いた。

「待ち合わせではないんです。ただ私の方で話があるだけなので、勝手にお待ちしてるんです。」

「係長は会議中で、まだ1時間ほどかかると思いますが。」

「1時間くらいでしたら、待ちます。」

「・・・ここで、ですか。」

「ええ。まずい・・ですか。」

 咲子は、江梨花の性格までが美珂に似ている様な気がして、複雑な表情で笑った。

「よろしければ、社内のそこのラウンジでお茶でもいかがですか。私は松谷係長の部下で、祐善咲子といいます。」

 江梨花は咲子のことを寸分も疑いもせず、「喜んで。」と言ってついてきた。

 社内の人間が外部の人と打ち合わせをしたり待ち合わせに使うラウンジは、エントランスホールとガラスの衝立で隔てられており、皆、気軽に利用している。エレベーターから降りてきた相手をすぐに見つけられるし、受付嬢も案内しやすい。しかもフリードリンクで、いつでもコーヒーと紅茶は飲めるようになっている。

「さすがは大企業ですね。うちとは規模が違います。」

 広い吹き抜けを見わたしながら、江梨花は感嘆の声をあげた。

 咲子はコーヒーをカップに注ぎ、江梨花もそれに続いた。美珂はコーヒーが飲めず、絶対紅茶派だったため、江梨花との違いを見つけて咲子は何だかホッとした。

「祐善さんは、松谷さんの・・亡くなった奥様のことをご存知ですか。」

「ええ。・・・私の親友でしたから。」

「私に、とてもよく似ているとか。」

「・・・そうですね。」

「だから放っておけなくて、こうして誘ってくださったんですか。」

「そうかもしれません。」

「親友に似ている女がうろついていると・・不快ではありませんか。」

「別に・・・。それよりも、美珂との思い出が蘇ります。」

 江梨花はコーヒーを一口飲み、つぶやくように言った。

「亡くなっても尚、心の中に残る存在なんですね。」

「絶対に忘れられません。・・・それは、」

「松谷さんも同じだと、おっしゃりたいのですか。」

 江梨花の真っ直ぐな瞳が、咲子をとらえた。

 咲子は、思わず息を呑んだ。

 江梨花は、勘付いているのかもしれない。

 江梨花が章に安易に近づかないよう、咲子が牽制しようとしていることに。

 だから、こんな挑戦的な物言いをするのだ。

 咲子は、上目遣いに江梨花を睨んだ。

「だとしたら、どうします?」

 咲子は気付いていないが、その強気な自信は揺ぎ無い美貌に裏打ちされたものだ。非のうちどころのない唇で、江梨花をけしかけた。

 江梨花はそんな咲子に、フッと嘲笑した。

「別に、どうもしませんわ。私は、私です。亡くなった方の身代わりなんて真っ平ですし、迷惑です。」

 その言い方には、咲子も苛立ちを隠せなかった。

「そうですわね。美珂の代わりなんて、誰にもつとまりませんもの。係長もそれはよくわかっているはずですし。」

「でも、将来のことはわかりませんから。」

「随分な自信ですわね。」

「だって亡くなった奥様に酷似しているということは、少なくとも私の容姿は松谷さんの好みだということでしょう?」

「それは、安直過ぎる気がしますけど。係長はそんなに単純ではありませんから。」

 江梨花は不快の色を露わにした。

 だが、咲子は一歩も引くつもりはない。

 二人の視線が鋭くぶつかりあった。

 しかしほどなく、江梨花が視線の先に、章を見つけてしまった。

 江梨花は咲子のことなどまったく構わずにガラスの衝立をすり抜けて、章のところに駆け寄った。

「お忙しい中、ごめんなさい。ただ、どうしてもお話したいことがあって。」

 章は、後ろを追いかけてきた咲子に視線を移した。咲子は慌てて弁明した。

「エントランスでお待ちだったので、お茶に誘ったんです。」

「・・・そうか。」

 章は落ち着いた眼差しで、江梨花を見た。

「話とは、何ですか。」

 江梨花がちらっと咲子を一瞥したため、咲子はすぐに頭を下げた。

「では、私はこれで失礼します。」

 咲子は章の返事を待たずに、逃げるように外へ出た。

 外の空気は、だいぶ冷たくなってきている。

 もし、章が本当に江梨花を選ぶようなことがあったら、どうしたらいいだろう。

 信じたい。

 章が、美珂以外の女性を愛するわけがない、と。

 忍が預かっているという美珂の手紙を見てみたいと思う。そこに、美珂が「私以外の女を絶対に一生愛さないで。」とでも書いてあれば、章は思い留まるに違いない。

(でも、そんなことは書いてないんだろうな。逆に再婚しろ、とか余計なこと書いてあるのかもしれない。美珂、お人よしだから・・。)

 だが、嫌だ。

 章が江梨花を選ぶなんて、嫌だ。

 絶対に、嫌だ。

 江梨花は、美珂と全然違う。

 美珂と同じ優しい顔で、咲子を挑発する意地の悪さを持っている。

(あんなの、違う。あんなの、美珂の代わりになんか絶対ならない!)

 帰宅を急ぐサラリーマンの群れに逆らうように歩きながら、咲子は苛立ちを紛らすようにオフィス街を彷徨った。

 江梨花を見る章の目が穏やかだったことが、許せない。

 咲子に対するのと全然違う声で章に近づいた江梨花が、許せない。

 そんな二人に耐えられない自分が、許せない。

 感じてはならない嫉妬心を止めることができない自分が、許せない。

 今は、何もかもが・・・許せない。


 忍が香港から帰ってきた。

 帰国しても、まだ咲子の瞳が自分を見ていないことに、忍は傷ついた。だから、咲子が傷つくであろうことも、口にしてしまう決心は簡単についた。

 スーツのジャケットを脱ぐ間もなく、忍は咲子に言った。

「実はここに帰る前に、松谷に会ってきた。そこで二つ、決まったことを聞いてきた。」

「・・・ふたつ?」

「そうだ。まず一つ。来年の4月から、松谷は上海支社へ転勤する。」

「・・・転勤って・・病気のほうは・・?」

「ある大きなプロジェクトが立ち上がってて、20人くらい一度に送り込まれるんだ。松谷の親しい人間も行くし、医者からもOKが出たらしい。」

 章と遠く離れることになる・・・その事実が、咲子の喉下を締め付けた。

 苦しい息の中、咲子は訊いた。

「それで、もう一つは?」

「・・中川精密機器工業の社長令嬢と付き合うそうだ。」

「・・・嘘・・・。」

 咲子の衝撃を感じながら、忍は言った。

「嘘ならいいが、真実だ。俺も全然知らなかったが、すでに一度うちの営業部長を通して松谷家へ縁談を持ちかけたらしい。」

「でも、松谷さんが江梨花さんを愛してるとは思えないわ。」

「どうして咲子にそんなことがわかるんだ?」

「だって、江梨花さんは美珂に外見が似ているだけなのよ。中身は全然別人よ。付き合う要素なんてどこにもないようなひとよ?」

「それは松谷の見解ではなく、君の思い込みだろう?松谷も、一人で辛いんだよ。そこへ死んだ妻そっくりの女が現れたら、誰だって夢を見たくなると思うぜ。」

「夢・・?ならば、やがて現実が必ずやってくるわ。」

「そのときは、その時だ。」

「美珂の手紙、渡さないの?」

「今はまだ、渡さない。もう少し結果が出るのを待つ。松谷が立ち直るせっかくのチャンスを潰しかねないからな。」

 咲子は、下唇を噛み締めた。

「美珂は・・松谷さんのことしか考えてなかったわ。その彼女の手紙が、チャンスを潰すわけないじゃない?」

「俺だって、そう信じたいさ。だけど、死の淵の人間が書いた手紙だ。理性を失っていたって不思議じゃない。」

「その言い方はひどいわ。美珂が最後の最期まで口にしていた言葉を、あなただって覚えているでしょう?なのに信じてあげられないの?」

「・・・咲子に、そんなことを言われたくない。」

「何ですって?」

「君こそ、自分の状況をよく考えろ。亡き親友の夫に横恋慕しているのはどこのどいつだ?」

「・・・それは違うわ。」

「違わないね。松谷が江梨花さんと付き合うのが許せないのは、美珂さんのためなんかじゃない。君自身のためだろう!?」

「違う!・・・違うのよ。」

「どう違う!?」

 忍は咲子の両手首をつかんで、自分の方を向かせた。

「俺の目を見れるか?」

 咲子は忍から顔をそむけたまま、唇を噛んだ。

 忍の目を見たら、今度こそ見抜かれてしまう。

 だが、本当に章を愛してしまっているのか、咲子自身よくわからないのだ。この気持ちが、美珂を思う故なのか、章そのものが好きなのか、それとも、その両方なのか。

 だが、やましい気持ちには変わらない。

 忍は、手首をつかむ力を緩めることなく言った。

「弁解できないだろう?」

「・・・わからない・・わからないのよ。」

「わからない?簡単なことじゃないか。」

「簡単?」

「君は松谷の慰めになるなら、奴に抱かれることも厭わないだろうってことさ。」

「!」

 咲子はそこで初めて、忍を凝視した。

 忍の凍るような悲しい瞳で、咲子は更なる罪悪感にさいなまれた。

 だが、これだけは否定しなければならない。

 忍と夫婦であり続けたいと思う気持ちがあるのなら、絶対に否定しなければ。

 なのに。

 なのに、唇が開かない。

 章に抱かれるなんて、絶対にありえないし、望まない。章の肩の後ろに、必ず見てしまうであろう美珂の影を感じながら、抱かれるなんてできるわけがない。

 それなのに、否定できない。

 忍の言うとおり、章が自分を抱くことで慰めを見出せるというなら、抱かれていい。

 違う。

 咲子自身が、章を癒すために抱きたいとさえ思うのだ。

 忍の手が、咲子から離れた。

 深い息を吐きながら、忍は額を覆った。

「1ヶ月離れれば冷静になって、また今までどおりになると思っていた。でもそれは、とんだ誤算だったよ。」

 咲子は半開きの唇で、苦しみに喘いだ。

 声にならない。

 罪悪感から、涙も許されない。

 忍を愛している。それは、変わらない。

 だが、それとは別の次元で章を愛している。そう言っても、誰にも理解されないだろう。

 勝手な言い分だ。

 勝手すぎる。

 結婚という、「一生を共にする」という約束を忍と交わしていながら、それを破るなんて。

 背を向けた忍の肩先が、震えている。

 咲子は思わず、忍の背に抱きついた。

 心から、忍を愛おしいと思う。

 咲子は、このまま忍に抱かれたいと思った。

 そうすれば、章への想いなど断ち切れると思った。

 今、忍に目茶目茶にされたいと切望した。

 だが、忍は咲子を冷たく突き放した。

「・・・残酷だよ、咲子は。」

 忍の声が、静寂の中で低く響いた。

「他の男を見ている目だ。・・・そんな女を抱く気にはなれない。例え、自分の妻であっても。」

 忍はそのままリビングを離れた。

 咲子は一人、ソファに崩れこんだ。

 忍が拒絶するのは、当たり前だ。

 忍との絆が切れる音を、咲子は確かに聞いていた。


 章は新プロジェクトのメンバーとして、営業2課から出向した。

 別フロアの部屋に移動してしまったため、咲子が章に毎日会うことはできなくなった。

 そのための切なさは、章に対する確かな恋心を示していた。

 忍と離婚せねばならない・・その覚悟をし始めていた。

 そんな折、咲子は営業部長からランチに誘われた。

 どういう風の吹き回しだろう、と不思議に思っていたが、言われるまま最上階の役員専用レストランにお供した。

 いつものランチの6〜7倍はするような値段のランチセットをご馳走してもらう。周囲は社内報でしか見たことがないようなお偉いさんばかりで、緊張せずにいられない。咲子はミス丸の内に選ばれたこともあり、有名人ではある。だが、もう年も重ねたし、注目の的からは完全に一線を退いていた。

 他愛もない四方山話をしながら一通り食べ終わり、食後のコーヒーを飲んでいるときに部長は本題に入った。

「緑川君は、松谷君夫婦の仲人だったよね。」

 話は、そう切り出された。

「・・そうです。」

「実は今、松谷君に縁談が持ち上がっているのを知っているだろうか。」

 咲子はカップを置き、頷いた。

「中川精密機器工業の社長令嬢とのことでしょうか。」

「そうだ。今回の仲介役は、私なんだよ。」

「先日祐善から聞きました。二人の出会いの場にいらっしゃったのは、部長でしたものね。」

「そう。君はあの時、不安を口にしていたが・・・実際のところは、どうなんだろう?」

「実際のところ、と申しますと?」

「江梨花さんが似ているから、という理由だけで付き合う気持ちになったんだろうか。」

「・・・それは・・。」

「一度はね、きっぱり断ったんだよ。だが、最近になって突然付き合うと言い出してね。とりあえず昨日の夜、君のご主人を酒につき合わせて話を聞いたんだが、何も聞いていないかい?」

「・・・ええ、まあ。」

「そうか。だいぶ遅くになってしまったからね。すまなかった。」

「とんでもございません。お気になさらないでください。」

 家に帰っても、顔をあわせることを互いに避けている。忍は毎晩外で食事をしたり、酒を飲んで深夜に帰宅する。朝は、食事の用意だけすませた咲子が忍より1時間以上早く家を出てしまう。同じ屋根の下に暮らしていても、1週間以上顔をあわせないことが可能だと初めて知った。

 咲子はテーブルの上で、両手の指を軽く絡ませた。

「私も主人も、松谷係長の幸せだけが望みです。美珂が亡くなって、9ヶ月。・・・妻の死に気が狂ってしまうほどの人が、そう簡単に他のひとを愛せるとは、私には思えません。」

「そう・・か。だが、君のご主人はこう言った。『それで寂しさが紛れるのならいいのではないか』と。」

「それは男の意見ですわ。女は・・・違います。」

「では、松谷君に一生独りで通せと言うのかい?」

「そんなことは思っていません。いつかは、と思っています。でも、江梨花さんのことは、まやかしだとしか思えないんです。それは、我慢できません。」

「それは、松谷君の奥さんのために?それとも、松谷君自身のために?」

「二人のためにです。部長だって係長の行動に合点がいかないから、私達夫婦に話を聞こうと思われたのでしょう?」

「そうだ。しかし君に言えるかね?松谷君に対して、『その女は美珂さんじゃない、目を覚ませ』と。」

 咲子は口を噤み、やがて静かに首を振った。

「それは・・余計なお世話になってしまうでしょうから。」

「うん・・そうなんだろうね。それに、松谷君はまだ完治したわけではないんだ。」

「新しいプロジェクトに抜擢されて、4月から上海だと聞きました。それは医者のOKも出た、と。」

「完治したからOKというわけではないんだよ。今も週に2回はカウンセリングを受けているし、薬も飲んでいる。江梨花という女性のことも医者に話して、付き合いを進められた・・らしい。」

 咲子は驚いた。

「それは・・無責任すぎますわ。カウンセラーって、何でも前向きに考えさせればいいと思っているのかしら!?係長が江梨花さんの中に美珂の面影だけをひたすらに追いかけていて、ある時現実に気がついたら、そのダメージがどれほど大きいか。」

「だが、そのうち江梨花さん自身を見るようになるかもしれない。」

「では、美珂は?結局捨てられてしまってもいいとおっしゃるんですか。」

「おかしな人だ。君は、松谷君の幸せを望んでいると言った。江梨花さんを選んで幸せになるのなら、喜んであげるべきではないのかね?」

「私はただ・・美珂が可愛そうでならないんです。」

「祐善君の話によれば、美珂さんも松谷君の再婚を願っていたというが?」

「それが・・!それが、男の人の考えだというんです。自分が死んだ後、愛する男が別のひとを愛することを望む女がどこにいるというんです?美珂は理性でそう言っていただけです、本心は嫌に決まっています!」

「ならば、松谷君に一生独りで涙をためて生きていけというのかね?」

「そうです、・・・そうです!」

 咲子は思わず本音が出たことに自分でも戸惑い、息を呑んだ。

 部長は何も言わなかった。

 咲子は、営業部長に自分の秘めた想いが勘付かれてしまったのではないかと不安になった。

 咲子はうつむき、「感情的になってすみませんでした。」と謝った。

 部長は穏やかに微笑み、言った。

「いや。君の言い分も最もだと思うよ。なるほど、男と女の意見の違いはあるだろう。だからこそ私は、夫婦それぞれの意見を聞きたかったのだし。・・・緑川君がどれだけ美珂さんと松谷君のことを考えているか、よくわかった。話を聞けて、良かったよ。」

 優しい言葉に、咲子は少しだけ救われた気がした。

「少し様子を見よう。いずれにせよ、答えを出すのは松谷君だ。私は信じているよ。松谷君が理性を持って、彼の人生にとって最も良い結論を出すと。」

「・・・はい。」

 ランチのお礼を丁重に述べ、咲子は一足先に食堂を出た。

 が、その刹那、咲子のパンプスが止まった。

 すぐ近くのエレベーターから、章が降りてきたのだ。

 プロジェクトの仲間だろうか。いかにも「デキる」感じの男性社員達数人に囲まれている。仕事の話をしながら、章は咲子に少しも気づかずに近づいてくる。

 思いがけず章の姿を久々に目にすることができたことに、咲子は息が詰まりそうだった。

 章をまともに見れずに俯いたものの、全身が章を意識して強張っている。

 食堂の入り口で、章は初めて咲子を見た。

 咲子もまた、顔を上げて章を見た。

 二人は一瞬視線を合わせ、また、すぐに離れた。

 咲子は、まるで中学生のような甘くて苦い疼きに、思わず胸を押さえた。

 だって、ただ一瞬偶然に会えたという事実が、こんなにも咲子の胸をときめかせる。

 罪悪感に苛まれているのに、本心はそれを簡単に裏切る。

 章に独りでいて欲しいという思いは、美珂のためなんかではない。他でもなく、咲子自身のためなのだ。

(私は、ずるい。)

 そう思った。

 美珂の名を語って、嘘の正義を振りかざすなんて。

 なのに尚湧き上がる、この高揚感。

 章に会えただけでこんなに幸せになるなら、これ以上のことがおこったらどうなってしまうのだろう?

(いいえ、・・・いいえ!考えてはいけない、いけないことよ!)

 美珂の死に顔を思い出す。

 美珂の死に様を思い出す。

 それが、咲子を止める唯一の方法だった。

(ああ、それでも、もう・・・!)

 


 忍から咲子に内線電話がかかってきたのは、11月下旬のことだった。

『仕事中すまない。もし会議中ならまずいと思って携帯にかけるのはやめたんだ。』

「大丈夫。・・どうしたの?」

『実は病院から電話がかかってきて。』

「病院?」

『ああ。・・・松谷が倒れたそうだ。』

「な・・・!」

『江梨花さんとのランチの最中だったらしい。章の両親がすぐには行けないいうから、俺が今から行ってみようと思う。咲子はどうする?』

「行くわ。エントランスで待ってればいい?」

『ああ、俺もすぐ行く。』

 咲子は、「江梨花と一緒にいた時に倒れた」ということにひっかかっていた。

 病院に着くと、主治医がちょうど廊下に出てきたところだった。

「松谷は・・?」

「典型的なストレスですね。相当色々ためこんでいたようです。体力も落ちていますし、また入院が必要です。」

「そんな・・。」

 忍は、章の両親が間もなく来る時間のため、ロビーで待機すると言って立ち去った。

 一人残された咲子は、そっと病室に入った。

 個室の窓際のベッドの横にいたのは、江梨花の姿だった。

 それは、美珂に似た女などではなく、間違いなく江梨花という他人の女そのものだった。

 咲子が来たことに気づいた江梨花は軽く会釈をした。蛍光灯の下でよく見ると、目が赤く潤んでいる。かすれた声で、涙ながらに江梨花は訴えた。

「いつもどおり、普通に食事をしていただけなんです。それなのに、突然顔を歪めて頭を抱えたかと思うと、倒れてしまって・・・。私、どうしたらいいのか・・!」

 章の恋人であるというようなその口調と態度は、はっきりと咲子の神経を逆撫でした。

 咲子は自分の中の悪魔の目覚めを、はっきりと感じていた。

 同情を求めるかのような江梨花を、咲子は冷たくあしらった。

「・・・帰ってください。」

「え・・?」

 咲子は、もう止められないほどに感情をむき出しにしないではいられなかった。

「わからないんですか?全ては、あなたが現れたから・・!死んだ妻とそっくりの女が目の前にいたら、嫌でも夢を見てしまいます!そしていつかは現実に気づかざるを得なくて、そのギャップに苦しむんですよ?松谷さんは耐えていたんです。夢と現実の狭間で戦わなくてはならなかったんです!誰のせいだと思ってるんですか!?」

 江梨花は唇を震わせ、うつむいた。

 この前の強気な姿勢は、今の江梨花からは微塵も感じられない。

 泣かせたかもしれない。

 だが、咲子の中の激しい嫉妬はどうにもおさまらなくなっていた。

「さあ、早く。もう二度と私達の前に姿を見せないで!!」

 江梨花は肩を震わせ、うつむいたまま小さく言った。

「すみません・・・もう、ご迷惑かけません・・!」

 江梨花は病室から走り去った。

 それを追うように病室から出た咲子を出迎えたのは、忍の姿だった。

 咲子が何も言えずにいると、忍は歩み寄ってきた。

「大きな声だった。全部廊下まで聞こえてたぞ。」

「・・・。」

「彼女、大泣きしていたし・・な。」

「わかってるわ。」

「どういうつもりなんだ?彼女には何の罪もないのに。」

 咲子は忍を睨み付けた。

「大ありだわ。亡くなった人間にそっくりな女が現れたら不快だろうって、自分で言ってたのよ!?それでも、わざと近づいたわ!」

「でも彼女が美珂さんに似ているのは、彼女のせいじゃないだろう。」

「そんなこと、わかってる。私が言いたいのは、何もかも承知して近づいた態度が許せないってことなのよ!」

「じゃあ彼女は、たまたま松谷の死んだ妻に似ているからっていう理由で、松谷に近づいちゃいけないっていうのか?」

「そうよ!すべては松谷さんのために・・・!!」

 そこまで言って、咲子はハッと冷静になった。

 忍の瞳に灰色の影が落ちたのを見たからだ。

(私は、何を言って・・・。)

「・・・君はただの嫉妬の塊だな。冷静な判断もできないほどに。」

 そして、苦しい笑いを浮かべながら忍は目を伏せた。

「そんなに・・好きなんだな。」

 咲子は何も言えずに、忍の言葉をかみ締めていた。

 どうして忍は、章が倒れたことを咲子に連絡したのか。章に近づいて欲しくないと思うなら連絡などしなければよかったではないか。それとも、忍にはもっと別の思惑があったのだろうか。

 咲子は大きく息を吸い、言った。

「私はただ、力になりたいだけなの。」

「俺たちは結局、松谷に何をしてやれるというんだ?」

「松谷さんが自分の生きる道をみつめていけるまで、支えてあげること・・だと思うわ。」

「俺は今までも散々力になりたいと思ってきた。だけど何一つとして解決できるようなことはできなかった。・・松谷に必要なのは、美珂さんだけだ。今回のことで、それがはっきりした。江梨花さんでも駄目だったし、時間にも・・頼りきれない。」

「・・・ならば、渡して。美珂の手紙を、松谷さんに。」

 忍の腕をつかみたいのを堪えて、咲子は言った。

「美珂はすべて考えていると思う。松谷さんを救えるのは、その手紙しかないわ。今は、もう『その時』だと思う。」

「なおさら、美珂さんを忘れられなくなる可能性もあるぞ。」

「松谷さんが立ち直って生きていかれるなら、それで構わないじゃないの?」

「・・・君は、松谷が好きなんだろう?」

「美珂も好きなの。松谷さんが美珂を忘れられないのが当然よ。私は松谷さんに好かれようなんて思わない。そんなことは全く望んでいない。美珂と松谷さん、二人とも大事なの。・・・それだけなのよ。」

「・・・・わかった。手紙を渡すよ。もう、限界だ。」

 二人は病室に入り、苦しい表情で眠る章を、想いを込めた眼差しで見つめた。

「本当にこの人の心は、美珂で一杯なのね。そうよね・・お互い初めて会ったときからずっと意識しあってた。それからの二人は、いつも一緒だったわ。」

 それは独り言のようであり、また、咲子自身に言い聞かせる言葉でもあった。

「なのに・・もういないのね。本当に美珂は、この世のどこにもいないのね。」

「そうだ。彼女なしで生きていかなくてはならないんだ。俺も、君も、松谷も。」

「優しい季節だったわ・・・。二人がいたのは、あんなにも優しい時間だったわ・・・。」

「ああ、そうだな。」

 忍は咲子の肩を軽くたたいて言った。

「もうじき松谷の両親が入院の手続きを終えてこちらへいらっしゃる。俺はお二人と話があるから残るけど、咲子はどうする?」

「先に帰るわ。・・・食事の用意をして、待っててもいい?」

「いや、遅くなるから先に寝てていい。夕食は外でとっていく。」

「・・・わかったわ。」

 結局忍は、何も許していないのだ。

 それは、そうだろう。

 どんなに穏やかに会話をしたって、咲子が口先で否定したって、咲子の裏切りは確かなのだから。

 亡き親友の夫で、そして夫の親友を愛してしまうなんて、どうかしている。

(幸せになってほしいだけなのに。美珂を亡くしたあの人に立ち直って欲しいだけよ。私の愛は、それ以上でもそれ以下でもないはず・・・なのに。)



 章は、無期限の入院生活に入った。

 現在は、章の母親がつきっきりで看病している。

 この2週間で章はプロジェクトから外され、上海への転勤もなくなった。江梨花との縁談の話もなくなった。こちらのほうは、咲子にも原因があるのだろうが・・。

 話しかけても反応せず、ただベッドで横たわるだけの状態。食事ができないため、点滴で栄養を摂っている。美珂が死んで初めて入院したときよりも、病状は深刻だった。

 咲子は見舞いに行きたい気持ちを、懸命に抑えていた。これ以上、忍の気持ちを荒立てたくなかった。自分自身の勝手な想いなのだから、しかも片想いでも不倫なのだから、こんな気持ちは一日も早く払拭せねばならない。

 そんな咲子の気持ちを知ってか知らずか、忍の方は毎日面会時間ぎりぎりに病院に駆け込み、章を見舞った。

 章の青白く生気を失った顔を見て、忍は思った。

 もし咲子の存在によって、章が生きる力を取り戻せるのならば、自分が身を引くべきなのでは・・と。

 咲子が同情混じりだろうと何だろうと、章を愛しているのは確かだ。

 咲子自身、それを認められない気持ちがあるから、「わからない」とか「違う」とか言うのだろうが、本心はとっくに章の方を向いているのだろう。

 忍は、もし咲子を失っても、章のようにはならない。

 しっかりと前を見据えて、咲子のことを少しずつ思い出に変えて、生きていくに違いない。

 ならば・・・。

 そこまで考えて、忍は拳をぐっと握り締めた。

 それで、いいのか?

 それが、いいことなのか?

(・・・わからない。そうさ、正解のない問題なんだ。だから、誰にも判断ができない。俺だってどうしたらいいか・・わからない。)

 章の眠るベッドの脇で額を抱えて、忍はうなだれた。

 今こそ、章の助言が欲しい。

 章に、どうしたらいいか教えてもらいたい。

 今こそ、支えて欲しい。

 崩れそうだ。

 足元からすべてが、崩れてしまいそうだ。

 章が泣かないから、自分も耐えるのだと言った咲子。

 あの時すでに、咲子の見る先は変わっていたのだ。

 忍は、胸元から美珂の手紙を取り出した。

 宛名である章の名が、震える筆跡で書いてある。

 美珂が亡くなって、間もなく1年になろうとしている。

 年明けの2月10日が美珂の命日だ。

 この1年は、章にとって何だったのだろう。

 苦しんで、もがいて、そして・・・。

 答えが、欲しい。

 その最後の手段が、この手紙なのではないだろうか。

 忍は、意を決した。

 散々待った。

 成り行きを、見守ってきた。

 でも、少しも事態は好転しなかった。

 今こそ、頼る時だ。

 今こそ「その時」だ。


 忍は次の日、章が起きている時間帯に病院を訪れた。

 ベッドで上半身を起こした状態で、虚ろな目で窓の外をながめている章の前に立った。

 そして、大切にしてきた白い封筒を、章の目の前に差し出した。

「・・・なんだと思う?」

 章の唇が僅かに開いた。

 忍は、言った。

「美珂さんからの、手紙だ。」

 ずっと付き添っていた母親が、章の表情の変化に気づいて思わず息を呑んだ。

 今まで何も映すことのなかった瞳に、色を見せたからだ。

 忍は、もう一度言った。

「松谷が今も忘れられないでいる、美珂さんの手紙だよ。」

 章の凍りついたような手が、ぎこちなく、だが、確かに手紙にむかって伸びていった。

 手が届く寸前に、忍は手紙をサッと後ろに隠した。

「読みたいか?」

 章はやつれた頬で、はっきりと忍へ視線を向けた。

「どうだ?彼女は言った、松谷が苦しんでどうしようもなくなったら渡してほしい、と。本当は読んで欲しくないのかもしれない。内容はもちろん、誰にもわからない。読んだら、負けかもしれない。読んで、なお苦しくなるかもしれない。それでも、読みたいか?」

 章は、力強い瞳で忍を見つめた。

「・・・読みたい。」

 章の母親は驚きで胸がしめつけられそうだった。入院して以来初めて聞く、章の声だった。

 忍は、唇をひきしめる。

 章は続けた。

「読みたい。あいつの最後の・・本音を聞きたい。苦しんでいる俺をどう思い、どう考えているか知りたい。負けでいい。・・・もうとっくに、俺は負けている。」

 青白い章の顔に、忍は限界を感じた。

「わかった。ただし一つ、条件がある。」

「・・・何でも言ってくれ。」

「2月10日の美珂さんの命日までに元気になって、仕事に復帰して、一周忌の法要に出ることだ。」

「・・・。」

「精神も身体も完璧に治すんだ。立派に立ち直った姿を美珂さんに見せてやれ。それができないなら、この手紙を読む資格はない。」

 無茶を言っているかもしれない。

 立ち直れないほど弱っているから、手紙を渡そうと思ったのに「手紙を読みたければ元気になれ」とは。

 元気になったら、手紙なんて必要がなくなるかもしれない。

 元気になったのに、手紙を読んだことで再び落ち込んでしまうかもしれない。

だが、これは忍の賭けだった。

 もともと章は理性ある、打たれ強い男だ。ただ深すぎる愛ゆえに、長い間悲しみにおぼれているだけなのだ。

 章は、しっかりと頷いた。

「わかりました。・・・やります。」

 章の母親と忍は思わず顔を見合わせて、喜びの表情を浮かべた。

「奇跡だわ・・いえ、美珂さんの手紙の魔法だわ・・!」

 母親は、涙を流して喜んだ。もうこのまま立ち直れないんじゃないかと思っていたからだ。

 章の変化を、美珂が隣で見つめている気がした。

 とりあえず、章の意識は一歩踏み出したのだ。

 美珂の手紙は、まさに薬だった。

 誰にもつくれない、奇跡の薬だった。



 年が明け、章は仕事に復帰した。

 もう、営業部長づきの秘書などではない。係長の椅子は既に別の者に譲っていたし、しばらく職場から離れていたため、主任という立場に降格した。だが、本来の業務に戻ったのは確かだった。咲子は章の直属の部下ではなくなったが、同じ課の中で仕事ができるようになったことだけで、満足していた。

 顔色はずいぶん良くなったものの、かなり痩せたことはスーツの浮きを見ればわかる。

 章は、紺色のスーツが一番よく似合う。着る人によっては、高校の制服の延長や安っぽく見えてしまうが、章は違う。

 凛々しい横顔で働く章を見て、咲子は胸が熱くなるのと同時に、苦しくもなった。

 所詮、章の心を支配できるのは美珂だけだとわかったからである。

 美珂の手紙を読みたい、ただそれだけの願いが章に命を吹き込んだのだから、その力は絶大だ。

 章はまだ週に3日は通院することになっているが、ようやく医師から「もう栄養剤は注射しなくてもいいね。」と言われた。

「・・・生きたい、と思うと食べられるようになりましたから。」

「それが大切だよ。本当に良かった。」

「先のことはわかりませんが、まだ知らなかった美珂の言葉が未来に待っている、と思うと、どうしても生きたいと思うんです。」

「亡くなった奥さんの手紙・・だったね。だが、それを読み終えたら、その先は本当に何もないということをわかっているね?」

「わかっています。・・・怖い気もします。でも、もう、負けたくないんです。」

 章は病院から出る間際、かばんから白いマフラーを取り出した。それを丁寧に首に巻き、章は冬の都会に出た。

 1年半前だった。結婚したのは。

 その2ヵ月後、病気が発覚した。あの時医者は「あと2年」と言ったのに、手術に踏み切ったら手の施しようがないことがわかり、結局4ヶ月しかもたなかった。

 あんなに近くにいながら、何も気づいてやれなかった自分が恨めしかった。

 美珂が生まれて初めて編んだというマフラー。入院し始めの頃、あまりにも退屈だといって編み始めたものだった。

 なんだかんだ言いながら、美珂が章に残したものは少ない。あとは章がプレゼントしたイヤリングと、形見分けでもらった金のオルゴール、そんなものだ。

(いいんだ。「もの」の多さが慰めの度合いに比例するものではない。あいつが俺に残したものは、形のないものばかりだったというだけなのだから。)

 そんなことを考えながら、章は自分自身をだいぶ客観的かつ冷静に見れるようになったのを実感した。だが、こうして美珂の死に対し、少しずつ痛みを忘れていくことに疑問があった。愛する妻を失っておきながら、平気で仕事をしたり食事をすることは、許されるものなのか。カウンセラーは、「それが生きていくということなのだから、亡くなった人がそれを『裏切り』とか絶対に思いませんよ。」と繰り返した。

 断末魔との戦いに苦しみながら死んでいった美珂。

 若くして夢も希望もすべて絶たれ、この世に未練なく死んだとは思えない。

 それを思うと、やはり俯いて生きていかねばならないと考えてしまうのだ。

 それが章の「生」への躊躇いの原因であり、どうしても解けない「呪縛」であった。


 次の日、咲子は章と共に資料を探すことになり、二人で暖房も入らない倉庫に行った。

 悴む手を自分の息で温めながら、必要な書類をファイルごと取り出していく。

 そんな中、章は不意に言った。

「最近、祐善とはどうなってるんだ?」

 咲子はドキリとして、唇を閉じた。

何も答えることなどできない。忍との関係は、まだ何の結論にも到達していない。

「毎晩、祐善が飲み歩いてるという噂を聞いたんだが・・何かあったのか?」

 章に背を向けたまま、咲子は苦笑した。

「別に・・・何でもありません。」

「一緒に出社もしてないだろう?」

「ですから、何でもないんです。」

 何でもないと言いながら、言葉とは裏腹に口調が強くなっている。章が不審に思っても当然だった。

「何もなくないだろう?祐善も緑川のことを全然話さなくなったし、二人ともどうなってるんだ?」

 咲子は、章の顔をまともに見ることができない。

「松谷さんに・・心配してもらうようなことではありません。」

「心配するさ。二人とも俺にとって、大事な友達なんだから。」

 ― 友達なんだから ―

 その言葉が咲子の胸をついた。

 堪えてきたものが氷の針でつつかれ、割れたようだった。

 咲子は振り向き、叫んだ。

「何でもないんです!私たちは、何も変われない!だって美珂がいないのに、すべてはあの瞬間から進むことなんてできないわ!」

「・・・緑川・・。」

「うまくいってたのに!何もかもあのままが良かったのに!一人でも欠けたらおかしくなるに決まってる!」

 章は眉をひそめた。

 美珂を失って苦しみ続けていたのは、自分だけではなかったのだ。

 咲子の苦しみを、今、初めて見た。

「でも、離れるわけではないだろう?」

「・・・。」

 咲子は、(これ以上口を開いたら言ってはいけないことを言ってしまう)と思った。

 しかし、章の詰問は終わらない。

「離れるつもりなのか!?」

「・・・!!」

 心の中の叫びを、唇が音にしないように抑えつけるので精一杯だった。

 唇をかみ締め、何も言うまいとしている咲子を見て、章は溜息をついた。

「・・・わかった。もう、聞かない。」

 章の吐息が、咲子の胸を震わせる。

「二人には、俺たちの分まで幸せになってほしいと・・思っていた。」

 咲子は、昔からわかっていたのだ。自分という人間に、章という人間の愛が決して重なることはないと。

「・・・松谷さん。」

 咲子は震える唇を無理に開いた。

「教えてください。今、少しでも生きる希望を持って、幸せですか?」

「・・・この1年の記憶が、実はほとんどないんだ。いつも現実と夢の間を漂っていた気がする。ただ、ようやく生きていこうという希望とともに、独りで生きていかなければならないという自覚が芽生えた気がするんだ。だが、苦しみながら死んでいった美珂をよそに、自分一人生きていくのが申し訳ない気も・・するんだ。美珂がいない世界で幸せになるなんて、許されない・・・と思うんだ。」

 咲子は、章の気が狂う理由がやっとわかった気がした。

 気が狂うくらい苦しまないと、美珂に申し訳が立たないと思っているその気持ちが、章をいつまでたっても縛り付けているのだ。

 咲子は、必死に首を振った。

「それは違います。松谷さんが沈んでいるのを、美珂が見たいと思いますか?美珂が望んだのは、あなたの幸せだけです。あなたが不幸せだったら、死んでも死にきれないと思いますよ?」

「理屈では、そうだろう。だが、志半ばで死んでしまった美珂が可哀想でならない。もっと幸せになれたはずなのに、すべて絶たれてしまったことを思うと、俺一人幸せになるのは罪だ。」

 咲子は、章にずっと美珂を忘れないでいて欲しいと思っていた。だが、こんなことは望んでいない。いや、忘れないということは、「こんなこと」が一生ついて回る結果になるのか。だとすれば、咲子の望みはなんと残酷なものだろう。

「でも、」

 章は、乱雑に積み重なったファイルを整頓しながら言った。

「俺が本当にどうすべきかは、美珂の手紙に書いてあると信じている。俺も色々考え、迷いもあるし、不安もある。その答えが、手紙に書いてあると思うんだ。」

 咲子は、頷いた。

「私も、そう思います。松谷さんのことを一番理解し考えているのは、今までもこれからも美珂だけです。」

「・・・美珂の言葉が、聞きたいんだ。今の俺が正気で立っていられるのは、ただそれだけのためなんだ。そのために生きているといっても、過言ではない。」

 咲子は一度深呼吸し、尋ねた。

「・・・あの社長令嬢のことは・・?」

「もう、会う必要もない。・・・彼女には、悪いことをしたと思っている。」

「美珂の手紙に再婚しろと書いてあったら、再婚しますか。」

 核心をつく質問だった。

咲子は、まっすぐに章を見つめた。

 すると章は、「やめてくれ」というように笑った。

「わかるか?緑川。俺は美珂を愛したこの身体で他の女を愛することを想像しただけで鳥肌が立つんだよ。俺にとっての女は、美珂だけだ。それ以上の何者でもない。」

「・・・それでも・・。」

 いつかは、そんな日が来るのではないか。そう言いたかったが、やめた。

 章の言葉に、咲子の心が少しだけ凪いでいた。

 (この恋は・・。)

 章はたくさん重なったファイルを3分の1、咲子に持たせた。

「さあ、行こうか。」

 章の顔に、久しぶりの微笑が浮かんだ。

 ファイルの3分の2を両腕一杯に抱えた章は、咲子の先に立って歩き出した。

 その背を見て、咲子は瞼を閉じた。

(決して叶わない想い。届かない心・・何もないように、どうせかわされる。でもそれが、私の望みでもある・・・。)

 万が一、章が咲子の思いに応えるようなことがあったら、どうせ咲子は更なる自責の念にかられるだけではない。多分、美珂を裏切った章を蔑むのだろう。

 それが、身勝手な恋の限界だった。


 2月になった。

 その夜、章は自分から忍をバーに誘った。

 章自身はアルコールを禁止されているため、ソフトドリンクで忍につきあった。

「手紙・・いつくれるんだ?」

「見せても大丈夫、という確信を持てたらな。」

「それは・・。」

「とにかく、命日を待ってくれ。待っていて欲しい。」

 忍は、この手紙によって章の心が再び壊れてしまうことを懼れていた。自分から「賭けだ」とか思っておきながら、今更怖くなってきている。

 章が今正気なのは、美珂の未知の言葉を知ることができるという希望を持っているからだ。その支えがなくなったとき、章はどうなってしまうのか・・。

― もし、あの人が苦しむようなら渡して欲しいんです ―

(彼女の言葉を信じるほかないのか。松谷のことを誰よりも考えていると・・。)

― 忘れて欲しくない、というのもあるんです ―

(その後はどうする?手紙を見せたあと、どうすればいい?)

― 幸せになってほしい、あの人に ―

(重い役目だ。重すぎる・・・。)

 その重圧に、忍はぎりぎりのところで耐えていた。

 そのストレスは、どこかで破裂するのを待ち構えているようだった。

 次の日の退社時刻すぐに、忍が営業2課に来た。

 忍が咲子を呼び出すのを見て、章は、久々に二人一緒のところを見たと思った。

 忍も咲子も同じ屋根の下に暮らしているとは思えないほど、長く顔をあわせていなかった。正月休みでさえ咲子は実家に戻ってしまったため、一緒には過ごしていなかった。

 忍は、廊下向かいの研修室に咲子を連れ込んだ。

「確認したいことがある。」

「何?」

「松谷は・・手紙にたとえ何が書いてあったとしても、それ以上に、手紙を読んでしまった後でも、正気でいられると思うか。」

 咲子は忍の表情を見て、相当悩み苦しんでいるのだと悟った。

「大丈夫とは言い切れないけど、覚悟はできていると思う。」

「・・・そうだろうか。今後100人の女と結婚するよりたった4ヶ月でも美珂さんと結婚したほうが良かったと思っているような男に、残酷な結果を生み出さないだろうか。」

「手紙の中身がわからないのだもの。判断しようもないじゃない。」

「よくそんな無責任なことが言えるな!?これっきりなんだぞ、アフターケア一切なしの、最後の切り札なんだぞ?これで駄目だったら、俺はどうすればいい?どう責任をとればいいというんだ!?」

 咲子の心は、再び荒れた。

「でも、あなたは散々言っていたわ、他の女と幸せになれるのならそれでいい、だなんて!そっちのほうがよほど無責任だったわ!結局、駄目になってしまったじゃないの!?」

「それは相手が悪かったんだよ。だから俺は覚悟しているんだ、今は、もう!咲子が松谷の支えになるなら、俺が身をひかねばならないと!」

 忍の告白に、咲子は引き裂かれる思いがした。

 忍がそこまで考えていただなんて。

「それで、平気なの?・・・そんなことになって私は私の恋が成就したって、私自身を許さないし、美珂を裏切った松谷さんだって許さないわ。あなたは、松谷さんと私が美珂を忘れて一緒になっても平気だというの?」

 忍と咲子のことが心配でたまらなかった章は、廊下に出てきたところで研修室から声が聞こえてきたため、思わず立ち止まった。何を言っているかはわからなかったが、それがまぎれもなく咲子の声であるのは認識できたからだ。

 章は人目を気にしながらも、思わず研修室の扉に耳をおしつけた。

 忍は叫んだ。

「平気なわけないだろう!?俺だって好きだったんだ、あの二人の恋愛が!ずっと恋愛よりも仕事をとってきた男と女が互いを見出して生きていく姿に惚れていた!忘れてほしくない、あの恋愛を、壊して欲しくない!勝手を言えば、俺は松谷にずっと独りでいて、美珂さんだけを思っていて欲しいさ!だけどそんなの、俺の勝手じゃないか。俺の独りよがりな欲望だよ!松谷の人生だ、ずっと重荷を背負うのは俺じゃない、涙を溜めて生きていくのは、松谷本人なんだよ!」

 自分の話をしていることに驚いた章は、息を凝らした。

 咲子は、何も言えないでいる。

「俺の勝手な願いのために、松谷に悲しみをずっと忘れずに生きてくれなんて言えるか?言語道断じゃないか。」

「忍さん・・。」

「松谷が他の女と歩いているのを見て、辛かったよ。だけど、所詮苦しんでる俺は他人だ。美珂さんを忘れられないで苦しんでいるときにホッとしている俺は、醜い。」

 忍が咲子と同じ気持ちでいながら、咲子以上に自分を戒めていることを初めて知った。

「私、あなたの思いを何も知らないで・・。」

「俺は美珂さん自身に惚れているわけじゃないからな。その分、咲子より冷静だったというだけさ。もし、逆の立場だったらどうなっていたかわからない。松谷が死んで、生き残った美珂さんを見ていたら、俺もどうなっていたかわからない。君が、松谷を愛してしまったように。」

 章は一瞬、自分の耳を疑った。

 今、忍は何と言った?

 だが、退社時刻を過ぎて廊下に出てくる人が多くなってきたため、章はその場を離れざるを得なくなった。

 章は自分のデスクに戻ると、じっと宙を睨みながらさっきのことを回想した。

― 君が、松谷を愛してしまったように ―

 忍は確かに、そう言った。

― つまり、緑川が・・・? ―

 聞き間違えたとは思えない。

 やはり、確かなことだ。

― 一人でも欠けたらおかしくなるに決まってる! ―

 咲子の言葉は、それを示していたのだろうか。もし本当に自分のことで咲子と忍が離婚でもしたら、どうしたらいいというのだろう。

(いつから・・・?一体いつから、そんな・・・。)

 章が美珂を溺愛しているのを一番知っているのは咲子だったはずではないか。

 あの美しい横顔の曇りは、自分のせいだったのか。

(だからって、俺に何ができる?何が・・・。)

 章は両手で頭を抱えた。

(美珂、早く教えてくれ。どうやったら明日を生きられるのか。この悲しみを、いつまで抱いたら終わるのか。)

― 悲しまないで・・。きっと皆が言うわ、新しい幸福を見つけろ、と ―

(新しい幸福なんていらない。明日さえ、いらない。今生きているのは、お前の残した手紙を見たいからだ。それだけだ。)

 まったく知らなかった。

 忍と咲子の仲がおかしくなった原因が、自分にあったなんて。

 自分だけが苦しんでいるのではない。

 咲子も、忍も、こんなに苦しんでいる。だが、そんな中、二人は懸命に生きている。苦しみと戦っている。悲しみを乗り越えようとしている。

(俺が・・しっかりしなければ・・。)

 前を見て歩いていくことに、後ろめたさがあった。

 美珂がいないこの世界で楽しんだり幸せを感じることは、罪だと思っていた。

 未来を夢見ることは、許されないと思っていた。

 いつまでも美珂を忘れずに俯いて生きていくべきだと思っていた。

 何かを願ったりしてはいけないと思っていた。

 だが。

 章は、一人で生きているわけではない。

 美珂がいなくなったとしても、忍や咲子、家族、会社の仲間、上司・・・多くの人たちの支えによって存在できているのだ。生かされている以上、その支えてくれる人たちのことも考えねばならない。そのために前を見て、しっかりと歩いていくことは罪ではないだろう。美珂を裏切ることにはならないだろう。

 そう悟った章は、次の日、忍を誰もいない屋上に呼び出した。

 寒いながらも透き通った空の下、章は忍と向き合った。

「本当に長いこと心配をかけて、すまなかった。」

「・・・松谷。」

「やっと、自分の気持ちに整理がついた。俺は美珂を忘れたいと思っても無理だし、忘れたとしても他の女には絶対心が動かないと思う。そしてそんなことに慰めを見出そうとも思わない。」

「それを美珂さんが望んでも、か。」

「美珂の望みだろうと、誰かの命令だろうと、人の心なんてどうにもならないだろう?」

「松谷を・・・深く愛する女性が現れても、相手にしないと?」

「俺が愛せなければどうしようもないだろう?それは、理屈じゃないんだ。」

「・・・・誰であっても・・・?」

「誰であってもだ。」

 忍は、章の瞳に確かな生きる色を見た。

「気持ちは、決まっているんだな。」

「ああ。」

 忍は章の心を聞いて、もう何も言うまいと思った。

 章は、大丈夫だ。

 もう、本当に、大丈夫だ。

「寒いから、オフィスに戻ろう。・・・週末は雪の予報だ。」

 忍は章の肩を抱いて、建物の中へと誘った。

 忍は目の前を凝視し、言った。

「渡すよ。」

「・・・え?」

「命日の日に、松谷の大切な人からの手紙を渡すよ。」


 灰色の厚い雲の下、松谷美珂の一周忌の法要が行われた。

 親戚縁者が一年ぶりに会し、それはつつがなく行われた。

 美珂の両親は、章がしっかりと地に足をつけて立っていることに心から安堵し、喜んでいた。章の両親も、この2ヶ月の章の回復振りに目を見張っていた。

 美珂の墓の前から皆が去っていこうとしたとき、忍は章を呼び止めた。

 忍は黒いコートの内側から、手紙を取り出した。

「約束どおりに。・・・松谷が悲しんでいたら渡して欲しいと、美珂さんから言われて持っていたものだ。」

 章は震える手で、その白い封筒を受け取った。

「・・・ありがとう。」

「俺たちは先に行ってる。一人でゆっくりと、美珂さんと話すといい。」

 忍は章に背を向け、少し先で待っている咲子のところまで歩いてきた。

「・・・手紙、渡したのね。」

「ああ。大丈夫だ。手紙に何が書いてあっても、松谷は松谷だよ。」

「信じるわ、あなたを。松谷さんを。そして、美珂を。」

 と、その時だった。

「・・・あ、」

「雪・・・。」

 二人は思わず空を見上げた。

 灰色の雲の間から、白い花びらのような雪が、次から次へと舞い降りてくる。

 咲子は、睫毛の上で溶ける雪を感じた後、美珂の墓の前で一人佇む章を振り返った。

 俯いたまま手紙を読んでいる章を見つめて、咲子はハッとした。

 章が、泣いている。

 章は手紙を読み、美珂の死後、初めて泣いたのだ。

 美珂の手紙の最後には、こう書いてあった。

― あなたが私を忘れない限り、私は一片ひとひらの雪になって、あなたに降り注ぐ ―

 この雪は美珂だ ― そう思うと、身体中の血液が熱く流れ出すのを感じた。

 3枚にわたり綴られた手紙を章は胸に抱きしめ、熱い涙を頬に流し続けた。

 この一片が美珂の魂だと思うと、もう寂しくはなかった。

(美珂は雪になったんだ。死んで、俺が愛して止まない、この美しい一片になったんだ。)

 頭の中を、思い出が交差する。

 色々なことがあった。

 たくさんのことがあった。

 いつも、美珂の優しさに包まれていた。

 美珂との日々が輝いて、雪の中に溶けてゆく。

 手のひらを差し出せば、その上に舞い降りる一片の雪。

 それを握り締めて、章はゆっくりと目を閉じた。

 美珂は、今も自分の近くにいる・・・そう思う。

 決して自分を置き去りにせず、いつもこんなに近くにいてくれる。

― だから、私の分まで幸せに生きて欲しい。あなたがいてくれただけで私は幸せだった。でも、もう私は何もしてあげられない。だから私はあなたが好きな一片の雪になって、あなたの下に舞い降りる ―

 章はコートの襟に、涙で凍った頬を埋めた。

(死んでしまったんだ ― どうあがいても死んでしまって、この雪になってしまったんだ。)

― もう、何もしてあげられないけれど ―

(美珂・・・どうして・・・!どうして死んでしまった・・?)

― 私は一片の雪になって、あなただけを、ずっと見ています ―

 章は肩を震わせ、思い切り泣いた。

 美珂を愛している。

 今も変わらずに、愛している。

 手紙を胸に抱き、章は泣きたいだけ泣いた。

 それを見ていた咲子の瞳に、初めての涙が浮かんだ。

 隣にいた忍は、それを見て思い出した。

 咲子が、「章が泣かない間は自分も泣かない、涙を堪えるのだ」と言っていたことを。

 咲子は章の涙を見て、やっと、自分も泣けると思ったのだろう。

 この1年耐え続けた思いが、今、一気にあふれ出したに違いない。

 忍は、咲子の肩を押した。

 驚いた咲子が忍を見つめると、「章のところへ行け」と促すように、忍は章の方へ顔を向けた。

「忍さん・・・。」

 咲子はもう一度その真意を確かめるように、忍を見つめた。

 忍がしっかりと頷いてみせたため、咲子は躊躇いを捨てた。

 雪で濡れた砂利を静かに踏みしめ、咲子は章の近くに立った。

 章は咲子の気配を感じながらも、振り向きはしなかった。

 咲子は、かまわずに言った。

「・・・一つだけ、お願いがあります。」

 章が、コートの襟から赤くなった瞳を覗かせた。

「一緒に、泣かせてください。」

「・・・・。」

「松谷さんが泣かない限りは私も泣くまいと思って、美珂が死んでから一度も泣かずに耐えてきました。この1年、ずっとです。」

 章は、何も言わない。

「もちろん、こんなのは私の勝手です。松谷さんには、何の関係もないことです。でも・・・。」

 咲子は溢れそうになる涙を堪えながら、懇願した。

「お願いです。・・・もう、泣いてもいいとおっしゃってください。」

 こみあげる思いに、握り締めた指が震えている。

「許しが欲しいんです。・・・もう泣いてもいいという、松谷さんの許しが欲しいんです。」

 咲子は、そう言って初めて気付いた。自分がずっと欲していたもの・・・それが、何だったのか。

 長い沈黙の間に、目の前が雪で白く滲んでいく。

 咲子は心からの思いを振り絞った。

「どうか・・!」

 

 次の瞬間


 咲子は、章の腕の中にいた。


 章の肩に涙で濡れた頬を埋めながら、咲子は震える手で章の背を掴んだ。

 声を押し殺して泣いている章の細かな息遣いを感じ、咲子は更に嗚咽を強めた。

 章の背は広く、触れた指先から痺れるような愛おしさを感じていた。

 章は、自分の気持ちを知っているのだろう。

 それでいて一寸のやましさもない自信から、こうして美珂の墓の前で自分を抱きとめてくれているのだろう。

 咲子が流しているのは、一年分の思い。

 章と美珂に対して抱いた、そして忍に抱いた、色々な思い・・・

 二人はしばらくの間、強く抱きしめあったまま涙をわかちあった。

 わかっている。

 また明日から、強く、生きていかねばならない。

 この足で、自分の道を、歩いていかねばならない。

 美珂の化身が舞う中、咲子は、自分の気持ちが昇華していくのを実感していた。


 雪は、激しくなることなく・・・

       優しく、温かく、二人の上に降り続けた。



 どれほどの時間が経ったのか。

 章は咲子から身体を放すと、すぐに背を向けた。

「・・・ありがとう。おかげで、明日も、その次の日も、生きていこうと思えるようになった。」

 咲子は頬の涙をぬぐいながら、微笑んだ。

「お礼を言うのは私の方です。それにしても、さすがは美珂です。松谷さんのことを誰よりわかっていて、誰よりあなたを救うことができる。」

「今まで、本当に散々迷惑をかけてすまなかった。」

「・・・そんな。」

「祐善にも、何と言っていいかわからないくらいに、申し訳なく思っている。」

 咲子は懸命に首を振った。

「いいえ・・!迷惑だなんて思っていません。私も忍さんも、そんなふうに考えません!」

 章はゆっくりと振り向き、咲子の瞳をとらえると、悲しい笑みを浮かべた。

「俺はもう、大丈夫だ。本当に、一人で大丈夫だ。苦しみも悲しみも寂しさも、すべて背負って生きていける。だから ― 」

 咲子はなんともいえない感情で胸がしめつけられそうだった。

 それを、章の一言が突き破った。

「だからもう、祐善の元へ戻れ。」

「・・・!」

「・・・心配してくれて、ありがとう。」

 章はそう言って、再び咲子に背を向けると、歩き出した。

 章の言葉が何を意味しているのか。

 それを確信しながら、咲子は章を呼び止めた。

「待ってください!」

 咲子は、声だけで章の背にすがりついた。

「どうか・・友人という繋がりだけは、どうか、これからも絶たないで下さい・・・!」

 章は小さく頷き、そして、去っていった。

 ― 祐善の元へ戻れ ―

 なんという、残酷なほど的を得た答えだろう。

 咲子の想いを拒絶した、これ以上の台詞はない。

 咲子は一気に力が抜け、その場に膝をついた。

 冷たい墓石に触れ、咲子は痛いほどにわかった。

 松谷章という男と人生を共にできるのは、美珂だけなのだと。

 そして、自分が愛していたのは、章という男そのものではなく、美珂を一途に愛する男の姿だったのだということを。

 やがて咲子は肩を震わせ、再びすすり泣いた。

 咲子もまた、一つの心の区切りをつけようとしていた。

 美珂の死後から始まった長い夢は、今、朝の目覚めを迎えようとしていた。



 冬の朝は、いつも慌しい。

 寒くて、どうしても布団の中で一分でも長くまどろんでいたいと思うからだ。

 それが1分ではすまず、すぐに10分、20分と経ってしまう。

 朝食より化粧最優先の咲子を横目に、忍は手馴れた様子だが、切迫した顔でネクタイを結んでいる。

「俺は朝一で会議だから、もう出るぞ。」

「朝ごはんは?」

「時間がないから、いい。何とでもなる。」

「ごめんね。ほんっとうにごめん。」

「いいから、咲子も急げよ。」

 

 美珂の一周忌の日の夜、咲子は忍と一晩中話し合った。

 咲子は心から謝罪し、もう一度やりなおしたいと願った。忍は元々咲子への愛情は残ったままだったし、咲子の真剣な懇願を受け入れた。忍としても、咲子の心の揺れは理解できたし、咲子がそのまま章を選ぼうと、忍の下へ戻ろうと、すべてを受け入れるつもりでいた。

 しばらくは、わだかまりが残るかもしれない。

 だが、それくらいは乗り越えねばならない。

 それが、「一生を共にする」という約束を交わしたということなのだから。

 

 その晩、久しぶりに3人で食事をした。

 有楽町のレストランを出ると、忍は言った。

「章、これからどうする?」

「俺は、霞ヶ関を少し歩いて帰るよ。」

 咲子は、優しい眼差しで章を見つめた。

「美珂の好きだったオフィス街の散策コースですわね。」

「・・・ああ。」

「松谷は本当に、美珂さんを今も好きなんだな。悲しいくらい・・・大切なんだな。」

 章は笑って頷き、そして踵を返すと、日比谷方面への人ごみに紛れていった。

 それを見届けながら、咲子は言った。

「・・・あの手紙に、美珂は『一片の雪になって見守ってる』と書いたんですって?」

「ああ。章も美珂さんも、雪が好きだからな。」

「でも・・・やっぱり美珂は松谷さんに忘れて欲しくなかったのよね。一生、よほどのことがない限り、松谷さんは雪が降るたびに美珂を思い出すわ。」

「都会の雪は、冬の、ほんの数日だけだ。1年のうち、それくらいは思い出して欲しいってことじゃないのか。」

「1年のうちの・・・。」

「ほんの、数日だけ・・・。」

 二人は、何となく同時に空を見上げていた。

 華やかなネオン街から除く小さな夜から、不意に、白いものが舞い降りた。

「・・・雪・・・!」

 思わず差し出した二人の手のひらの上で、薄い花びらのような雪は、フワッと溶けた。二人はもう一度空を見上げたが、もう、何も降りてくることはなかった。

 今のは幻想だったのだろうか。

 そんなことはない。

 だって、確かな雪の感触を二人同時に味わった。

 咲子は、静かに言った。

「美珂は、ちゃんと私達のことも見てくれているのね。」

 忍はゆっくりと宇宙そらの果てを見上げ、目を細めた。

「ああ、・・・そうだな。」

 二人は横に並んで、ゆっくりと歩き出した。

 細い街路樹の固いつぼみが、間もなく訪れる春をつげていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] どうなるかどうなるか、ありがちな悲恋話で終わるのかって思いながら読んでいましたが、泣きました。感動的な作品をありがとうございました。
[一言] コメントの言葉に迷うほど、作品世界に入り込んでしまいました。5万文字近く読了時間100分の短編とあると、トップページを見た途端、まず躊躇してしまうのです。でも本当に読んで良かったと思いました…
2009/01/04 20:50 藤村香穂里
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