第3話 「悪魔の誘惑、薔薇の契約」
「だが、もし、もしこれが本当なら……」
「紙芝居は、嘘を申しません。ここに現れたものは、全て、真実にございます」
エドワードの唇がわななく。
何かが、がらがらと音を立てて、崩れていく。
「本当なら、俺を毒殺しようとしたのは、あの人達ということになる」
「ならば、それが真実なのでしょう」
真実。
「そん、な……」
語尾がかすれていく。
脳裏に二人の顔が浮かんだ。
ギルバート、ジェームズ、二人の兄王子達の、屈託のない表情が。
「兄上達が、どうして……!」
「さあ、私ごときには計り知れないご事情がおありだったのかも知れませんね。いずれにせよ、そんなことどうでも良いのではありませんか?」
「な……!」
「もう過ぎたことでしょう。過去はどうであったにしろ、今はこんなに愛されているではないですか」
紙芝居師は、視線を巡らす。
「広く暖かい部屋、絶えず与えられる食事、望めばなんでも与えられる生活。これを幸せと言わずに何を幸せと呼ぶのです。ご存じないかも知れませんが、市井の者たちの暮らしはこんなものではありませんよ? この国の民のほとんどは、風の吹き荒ぶ掘っ立て小屋の中で、固いパンと、皿の底までのぞける薄いスープをすすって生きているのです。それに比べれば、貴方は遙かに恵まれているでしょうに」
「俺が、幸せ?」
その言葉に、みぞおちの奥深くで、内臓が沸騰していく。
ゴポリと音を立て、血流に乗って、それはエドワードの全身を熱くしていく。
「俺が、幸せだと……!」
それは、紛れもなく怒りだった。
爆発寸前の感情に突き動かされ、エドワードは枕を投げつけた。紙芝居師は、それを飄々とかわす。
「ふざけるな! 俺は飼われているだけだ。愛玩動物と同じだ! 確かに、俺は恵まれているだろうさ。生涯、飢えに苦しむことも、寒さに凍えることも、道ばたでのたれ死ぬ恐怖とも無縁だろう。だが、それと同時に俺は人として生きることを許されない!」
紙芝居師の襟元を掴み、エドワードは強引に引き寄せる。
「貴様にわかるのか。真夜中に突如足下から襲う激痛が。常に毒物を恐れ、たった一滴の水ですら命がけで口に含まねばならない恐怖が。一人で立ち上がることもできず、侍従に付き添われながら排泄しなければならない屈辱が。――ああ、こいつは終わったなと、今まで俺を称えていた連中に、哀れみと侮蔑の混ざった笑顔を向けられる悔しさが、貴様にわかるというのか!」
奥歯をかみしめれば、歯がきしみ、不快な悲鳴をあげる。
「生まれつきなら、まだ諦めも付いた。これが俺の人生なのだと、受け入れることもできただろう。だが、俺は――俺は王になるべくして生まれた人間だった……!」
屈辱、憤怒、焦燥、暗い感情がエドを支配していく。
もう、止まらなかった。
「俺は……俺は悔しい! 憎い、憎くてたまらない! 俺の足を奪った犯人が、俺の未来を奪った犯人が、どうしても許せない!」
肺の空気を、心の澱を全て吐き出して、エドワードは吠える。
それは、否定し続けた己の本音、隠し続けてきた本性。
今の言葉が、エドワードの全てだった。
襟首を掴まれたまま、紙芝居師は、じっとエドワードを見つめる。
数瞬、探るような目つきをしたかと思うと、初めて見せる真面目な顔で問いかけてくる。
「そのお言葉に、偽りはございませんか」
エドワードは顔を真正面に上げると、即答した。
「ない」
「ならば、復讐すればよろしいのです」
「復、讐……」
甘美な響きだった。
渇いたエドワードの胸に、音もなく染み込んでいく。
蠱惑的に微笑む紙芝居師が、そっとエドワードの顔を包み込んだ。
「憎いのでしょう? 許せないのでしょう? ならば、復讐すればよろしいのですよ」
「俺が……?」
「ええ。貴方は足を奪われた。玉座を奪われた。人として生きる道を奪われた。ならば、何故貴方だけが失い続けなければならないのです。貴方も、犯人から何かを奪うべきだ。違いますか」
「奪う……」
「そう。復讐なさるのです。それは貴方の正当な権利」
正当な権利。
そんな言葉、偽りなのは分かり切っている。甘言なのだと、悪魔のささやきなのだと、頭ではわかっている。
それでも、抗えない。抗いたくない。
「できるのか……」
「できますとも。貴方ほどのお方に、どうしてできないことがありましょう」
「もう一度、俺は立ち上がれるのか……!」
紙芝居師は、微笑んだ。
一つずつ積み上げてきたトランプの塔が、完成した瞬間のように。
「もちろん。貴方にその覚悟があれば」
エドワードは、紙芝居師を見つめた。
だが、高揚した感情は、すぐさま冷えていく。
そっと、自嘲のような息をついた。
「……ハ」
――何を言っているんだ、俺は。妙な話に乗せられている。
今更、そんなくだらない希望を持ったところで何になる。もう希望を失って絶望するのはこりごりだ。
「くだらない。復讐など馬鹿げている。第一、どうやって復讐するんだ。この両足の動けない身体で」
「もし、その足が動くとしたら?」
紙芝居師の言葉に、エドワードの片眉が跳ね上がった。
油の切れたブリキのおもちゃのように、ギギギと首を痙攣させながら、エドワードは顔を上げていく。
エドワードの目の前で、紙芝居師は指を三本立てた。
「三日、差し上げましょう。期限は三度目の月が、沈みきってしまうまで。それまで、貴方に自由を差し上げます」
「何を言って……」
「それまでに、貴方が復讐を遂げ、心の闇を見事花開かせれば良し。できなければ、残念ながら代償を頂きます」
「意味がわからない。貴様は、いったい――」
次の瞬間、エドワードは息を飲む。
紙芝居師の髪が、瞳が、みるみる銀色へと変化していく。
銀の髪、銀の瞳――それは、魔物の印。悪魔の証だった。
「貴様……悪魔か」
「ええ。私は悪魔。人の心の闇に引き寄せられた愚かな悪魔にございます」
信じられない。
悪魔などというものは、想像上の生き物のはずだ。だが、目の前で髪や瞳が変化する瞬間を見せられては、強く否定できない。
光の加減による見間違いや、何らかの手品の可能性も確かにある。
むしろ、本物の悪魔がいると考えるより、よほど現実的な考えだ。実際、王族を騙して操ろうと、この手の輩が潜り込んできた例は後を絶たない。過信は禁物だ。
だが、この男が本物の悪魔なら。本当に人ならざる力が使えるのなら。
「……っはは」
エドワードは、気付くと笑っていた。
それを――使ってみたい。使いこなしてみたい。
もし足が動くなら。もし犯人がわかるなら。この二年間、何度も同じことを考えては、埒があかない己に絶望し続けてきた。
ないものねだりをしていてもしょうがない。現状を受け入れるしかないと、繰り返し自分に言い聞かせていた。
だが、だが、だが……!
それが本心でないことは、誰よりも自分が知っているのだ。
立ちたい、歩きたい、犯人を探り出して、復讐したい。
――自分と同じだけの絶望を与えてやりたい!
一度は冷えかけた熱情が、再びかま首をもたげる。
エドワードのかすかな変化に気付いたのか、紙芝居師がエドワードの手を取り、その手首に口づける。
手の甲ではなく、手首への接吻だ。
その意味は――欲望。
「だからこそ、貴方のその闇をくすぶらせたまま消してしまうのは惜しい。私は見たいのですよ、貴方の奥底に眠る、その暗闇が開花する瞬間を……!」
芝居がかった大げさな動きに、陶酔しきった表情で訴える。
「私と契約なさいませ、エドワード様。貴方が真に望むものを、貴方の本当の欲望を叶えるために」
「俺の、本当の欲望か……」
「怖じ気づかれましたか? もちろん、まだ貴方には断ることも不可能ではありません。ですが、その足は一生動かないでしょうね」
言外に断れるものなら断ってみせろと言われて、エドワードは高揚した。
なんと邪悪で甘美な誘惑だろうか。
十人いれば九人は落ちるであろう細い橋を渡れと言っているようなものだ。もちろん、落ちたときの保証など何もない。
だが――。
「謀ったな。この悪魔め……」
エドワードは、笑った。
十人に九人が落ちるのなら、残りの一人になってやればいいだけだ。危険な力だからと恐れていては何もできない。何も変わらない。
簡単な話だ。
このまま、ベッドの上で死んだも同然の道を生きるか。それとも、死や失墜の危険と隣り合わせの中で、再び人として生きるための道を取るか。
答えなど、とうに決まっている。
「いいだろう! 貴様と契約しよう、紙芝居師」
エドワードの答えに、紙芝居師は立ち上がると、頭を下げた。
「それでこそ我が君。今から私は、貴方の忠実な僕にございます。――では、失礼して」
そう言うと、紙芝居師は、エドワードのうなじに手を伸ばす。
細く鋭い爪が首筋に食い込み、ちりっとした痛みが刺す。大した痛みではない。
エドワードは無表情に、それを甘受する。
やがて、紙芝居師の手が離れると、触れられていた場所が、かすかに熱を持っていた。
寝台の横に置かれている姿見をのぞくと、ちょうどそこに、まるで赤い薔薇のつぼみのようなあざがあった。
「契約印でございます。印は、私の血で作られておりますので、勝手に消えることはございません」
「悪魔の力というわけか」
「その印がある限り、微々たるものではありますが、貴方も私の力を行使できるのです。今回の場合は、自由に動く足ということですね」
フ、とエドワードは鼻を鳴らす。
「今回の場合は、か。今まで何人そうやってだまし殺してきたことやら」
「心外ですね。私は同種の中では、比較的優しさと誠実さと親切さにおいて勝っていると自負しているのですが」
「よく言う。失敗したときの代償とやらも、まだ聞かせてもらってないぞ」
「おや、なんだかんだ言って、ちゃんと話を聞いていられたのですね」
「愚者は大事な所を聞かないから、損をするんだ。俺は愚か者ではない」
「フフ、傲慢でいらっしゃる。ですが、それでこそ我が主たるお方」
悪魔は微笑んだ。
「先ほども申しましたが、期限は三日。それまでに復讐を果たし、その心の闇が表へ現れたとき、契約印の薔薇は完全に開き、花咲かせます。私は、その開いた花を殿下の身体から引き抜けば、契約は終了です」
「花ね。抜いてどうするんだ?」
「……花の花弁から、色を抜いて、紙芝居を作るのですよ。人間の感情の色で作る絵芝居は、何にも代え難い極上の艶やかさを持つのです。これがまた向こうの世界でも、大変ご好評をいただいておりまして――と、失礼。脱線しましたね」
紙芝居師は、咳き込んで話を中断する。
向こうの世界、ということは悪魔の世界だろうか。
紙芝居師は話を濁していたが、要するに、人の不幸を見せ物にしているということだろう。
悪趣味極まりないが、些細なことだ。
わざわざ目くじらを立てるほどのことではないと聞き流す。
「それで、三日以内に復讐を果たせなかった場合ですが……」
紙芝居師は、エドワードの胸の真ん中を、トンと指で触れる。
「貴方の魂を頂きます。契約印がある限り、貴方の居場所はわかりますので、決して逃しはしませんよ」
エドワードは、苦笑した。
もったいぶった言い方をするから、どんな代償が来るかと思えば。
「随分ありふれた話だな。魂と引き替えに望みを叶えてやるというわけか」
「おや。恐ろしくないので? 人間風に言えば、死ぬということですよ」
「予想はしていた。動かないはずのものを動かすというのだ。それなりの代償は覚悟しなければならないだろう。それに」
口端を上げて、笑う。
「失敗しなければいい。三日もあれば十分だ」
紙芝居師が、渇いた拍手を送る。
「さすがでございます。我が主は、悪魔すら恐れぬ不遜なお方だ」
「白々しい賛辞はやめろ。そういったものは嫌いだと言ったはずだ」
「本心ですよ。ここだけの話ですが、貴方ほどの闇を抱えた人間など、そうはいないのです。千年に一人の逸材といってもいい。ああ、貴方の薔薇は、どんなに美しいのでしょう……」
ふん、と鼻で笑って、エドワードは一蹴する。
どこまで本気かわからないものを相手にしても仕方ない。契約は済んだし、条件も確認した。もういいだろう。
エドワードはシーツをはぎ取り、腰元に力を入れる。
「……っ」
ふくらはぎの筋肉が引き延ばされ、膝がかすかに上がる。
驚きに、エドワードは息を飲んだ。今まで、ぴくりとだって動かなかったのに。
ベッドの縁に腰掛け、ゆっくり地面へと降ろしていく。慎重に床に触れたのを確認すると、エドワードはつばを飲み込んだ。
そして少しずつ、体重を足にかけていく。
徐々に、徐々に、やがて、完全に立ち上がる。
やや、ふらつきながら、それでもしっかりと踏みしめる。
「立てた……」
試しに右足を前に出す。
次いで左足。
思うままに足は動く。歩けている。
「歩ける……歩いている」
ふ、ふふふ、と気味の悪い笑いがこみ上げてくる。
何度この日を夢見ただろう。
紙芝居師さえいなければ、喝采を上げていたところだ。
子供のように、人前でみっともなくはしゃぐのはためらいがあるが、早く動かしたい。
膝を小さく曲げ、その場で跳ねてみたり、室内を駆け回ってみたり、枕か何かを蹴り上げてみたり、色々と試したい。
「はは、ははははは!」
エドワードは哄笑する。
自由だ。
俺は自由だ。この狭苦しい世界から、やっと解放されたのだ。やっと人間に戻れたのだ。
「感謝するぞ、紙芝居師! 他人にこんなにも感謝したのは、生まれて初めてだ」
「そのようなお言葉、もったいなく存じます」
楽しくて仕方ない。どこまでが本心かわからないような謙遜の言葉も、今は気にならなかった。
「いいだろう。この褒美は、必ず契約を果たすことで与えよう」
紙芝居師に断言する。悪魔は恭しくうなずいた。
だが、エドワードは気づかなかった。
その高揚が、油断を招いていたことに。
声は突如、部屋の入口の方から聞こえてきた。
「……エド? お前、足が……?」