第1話 「死に損ないと、二人の兄王子」
エドワードはふと思う。
自分が自分であるために必要なものというのは、確かに存在するのだと。
それは人によって、金や地位、教養や誇り、いろいろあるのだろう。
――そしてエドワード自身の場合、それは五体満足な体だった。
「悪夢だ……」
この世で最も天井を見つめているのは、病人に違いない。
金を基調とした天井の唐草模様を数えるのも、もうとうに飽きてしまっていた。
何故ここを建築したとき、神話や異国の物語をモチーフに描かなかったのだろう。そうであれば、多少の暇はつぶれたというのに。
シルクのベッドに後頭部をうずめながら、エドワードは筋肉が衰え、すっかり痩せ細った腕を天に向けて伸ばす。
とても十六の男子の腕とは思えなかった。骨が浮き上がり、青い血管が不健康そうに皮膚の下をはい回っている。
まるで蛇のようだ。
気まぐれに持ち上げた手は、たった数瞬で筋肉を痙攣させた。
ベッドからまともに起き上がることもできないこの身では、己の腕一つ、まともに支えきれなくなってしまっている。
腕を降ろし、額の上に置いた。全身の緊張を解いて、静かに息を吐く。
――このまま少しずつ身体が動かなくなっていって、やがては、身じろぎすらできなくなるのだろうか。
脳の中を、どろりとはい回る悪寒に、エドワードは眉をひそめた。
もう疲れたと、悲鳴をあげる自身の体にむち打って、無理矢理上体を起こす。
横の姿見を覗く。
黒く細い髪、病的に白い肌、やせこけた頬に、細い二の腕。
漆黒の瞳だけが、野生の肉食獣のようにぎらついていた。
まだ、俺は終わっていないと主張するように。
だが、それもいつまで保つか。
エドワードは、奮起と諦念を交互に繰り返しながら、この二年間を生きてきた。いつしか諦念の方が、日に日に増していくのを感じながら。
「――ねえ、エド。今日は珍しい果物が手に入ったみたいだよ。料理長が腕によりをかけて、美味しい菓子を作ってくれるって」
エドワードの横には、もう一人男がいた。
ベッド脇に持ってきた椅子に腰かけ、彼は優しく声をかける。
二番目の兄ジェームズだった。
そばかすの多い赤ら顔と、自然に緩く巻かれた亜麻色の髪で、どこかふわふわした印象を与える。優しいと感じるか、いらだたしいと感じるか判断が分かれるところだが、残念なことに今のエドワードは後者だった。
「ああ、そうですか」
そっけなく答えれば、兄が作り物の笑顔をこわばらせ、視線を左右に揺らめかせる。
「……えっと、その、果物は甘くて体にいいらしいよ。エドには早く元気になってもらわないとね」
「そうですね」
視線すら合わせず、エドワードは答える。その態度に兄が困惑しているのは知っていたが、あえて無表情を作り続けた。
そうでもしなければ、このやり場のない怒りを兄に向けてしまうだろうから。
「……すみません、兄上。今日はちょっと疲れたみたいです。一人にさせてもらえませんか」
「あ、ああ。そうだね。気が付かなくてすまない。ゆっくり休んで、体を回復させるといい」
「はい」
目線を合わせずに応じる。
兄がベッドの横から立ち上がると、外へと向かっていく気配がした。
やがて、扉の閉められた音を聞き終えると、ようやくエドワードは深く息をついた。
「まったく。悪い人ではないのだろうが……」
いっそ悪い人であれば、互いに救われたのに、とも思うが。
エドワードはこの国の王子だった。
それも王と正妃の間に生まれた正当な王位後継者、三番目の王子だ。
かつては、次期国王として最有力候補に挙げられていたこともある。
豊かな才能、恵まれた血筋、人の上に立つ素質、エドワードはそのすべてに恵まれていた。
――三年前、何者かの手によって、毒殺されかけるまでは。
服毒したエドワードは、三日三晩死の淵をさまよった。ようやく命はつなぎとめたものの、下半身が麻痺し、医者には生涯歩くことはままならないと言われた。
そこからエドワードの人生は一変した。
有力貴族の姫との婚約は当然のごとく破棄となり、エドワードを王位に擁立しようとしていた連中は、ことごとく他の兄王子達の元へと走った。
何十人もいた直属の家臣も、あれよあれよと消えていき、今では片手の指で数えられる程しか残っていない。
エドワードは試しに足を上げようと力を入れてみるが、微動だにしなかった。まるで腰から下だけ、他人の足を無理矢理くっつけられたかのようだ。
足が動かない。
それだけで、エドワードはエドワードでなくなってしまった。
幸か不幸か、王宮に生まれたおかげで、命に困ることはない。毎日食事は出るし、望めば大概のものは与えられる。
むしろ、誰もがエドワードに与えたがっているようだった。
先ほどのジェームズのように、誰かしらがやってきては、食べたいものはないか、見たいものはないか、したいことはないか、欲しいものはないか、矢継ぎ早に尋ねてくる。
ベッドから出られない身では望むことなどさしてないのだが、たまにこちらから言ってやると、彼らは喜んで用意してくれるのだ。
きっとそれが、彼らの贖罪の形なのだろう。
別にそれが悪いわけではない。むしろ、働けない自分にそこまで尽くしてくれることに感謝しても良いくらいだ。
けれど、時々、どうしようもなく疎ましい。
どうせなら、放っておいてくれ。
道ばたで無様に息絶えさせてくれと、たまらなく叫びたくなる。
「愚かだな、俺は……」
足が動かなくなって以来、エドワードは叫ぶどころが、感情をろくに表に出さなくなった。
しても無駄だからだ。
腹の中でくすぶり続けるこの感情を、外にまき散らしたところで、空しいだけ。迷惑をかけるだけだ。
「何故、生きなければならないんだ……」
静かに目を閉じる。
何度こうして、諦めてきただろう。
腹の奥底に、希望を、生気を、感情をぐっと押し込んで、なんでもないふりをするしか、もはやエドワードに残された道はなかった。
これを永遠に繰り返すのが、自分の生きる術だと思うとぞっとする。
終われるのなら早く終わってしまえと願ってしまいたくなる。
――コンコン。
その時、ノックの音がした。
ぎょっとして、意識を覚醒させると、エドワードは起き上がる。
呼吸を整え、衣服を正してから、扉の外へと答えた。
「どうぞ」
「――入るぞ」
そう言って現れたのは、長兄のギルバートだった。
黒い髪をオールバックにし、ブルーグレイの瞳は冷たく鋭い。
氷の美丈夫などというあだ名もあるらしく、切れ者のような印象を与えるが、単に表情を表に出すのが苦手なだけだろう。
堅物、という言葉がよく似合う。
「気分はどうだ」
「まあまあです」
「そうか」
兄はそれ以上答えない。無愛想にも思えるが、今はその不干渉ぶりが好ましい。
「……ところでお前は紙芝居なるものを聞いたことがあるか」
「紙芝居?」
エドワードは首を傾げた。
芝居というからには、劇のようなものなのだろうが、紙芝居など聞いたこともない。
「なんでも、はるか東国のものらしい。今、下にその紙芝居なる見せ物を行う旅芸人が来ているのだが、興味があるか」
「はあ」
あいまいにうなずきながら、エドワードは首をひねる。
「――まあ、いいですよ。特にすることもないですし、呼んでください」
「いいのか」
「興味はないですが、暇はつぶれそうですから。追い返した所で、誰にも益はありません」
「そうか。なら、呼んでこよう」
「お願いします」