夏休み
比較的静かなセミの合唱を聞きながら、家でのんびり数学のワークを相手にしていた。
七月の終わり頃。僕の学校はつい三日ほど前に夏休みに入った。おかげで朝、ゆっくりすることができるようになった。せかせかするのは、性に合わないので助かる。
ただいま朝の七時前。早い時間ということもあってか、まだ気温は高くない。
暑くないうちにと、僕は我が家で一番風通しがいいリビングで、課題と仲良くしていたわけだ。
かりかりとシャーペンが動く音だけが響く。
ちらりと時計に目をやる。――母が起きるまで、まだ時間がありそうだ。それまでになんとか、目標のページ数は終わらせておきたい。
大きく伸びをして見れば背中がぴきぴしと音を立てる。
さて、もうちょっと頑張ろうか。
そう思い、シャーペンを握り直したときだった。
乱暴に玄関が開く音が聞こえた。それから、脱いだ靴を投げ散らかすような軽い音。
……この時間に帰ってきて、これだけうるさいのは我が家に一人しかいない。
ため息ついて、シャーペンを置く。ちょうどそのタイミングでリビングの扉が開いた。
彼が帰ってきたようだ。自然と僕は、音のほうに視線をむけた。
僕と同じように色素が薄めの髪と肌。癖がある僕の髪とは違い、彼はストレートだ。はっきりとした意思が宿っている瞳には、強い光が灯っている。きりりとしたきつめの表情だが、あれで笑うとそれなりに柔らかく見えるのがずるい。
彼は無遠慮にリビングに入ると、ぐるりと室内を見回した。
「あれ、母さんは?」
「おかえり、ワタル。……まだ寝てるよ」
「ふぅん」
不満そうに唇を尖らした彼は、キッチンに長い足をむけた。おおかた、すぐに食べられるものを探しに行ったのだろう。
彼は大和泉環。僕の弟だ。今は確か、中学二年だったはず。
ちらりとキッチンに目をむける。冷蔵庫をあけて中を覗いている姿は、なんとなく間抜けに見えた。
そうやってぼんやりしているうちに、ワタルが戻ってきた。手にはガラス皿に入ったサラダと、薄く切られた食パンが何枚か。
机の上に広げていたワークを撤収させると、入れ替わるようにワタルがサラダと食パンを置いた。
「母さん起きるまで我慢しなよ」
「それまで待てませんー」
食パンの上にサラダを乗せ、ぱくっと二つ折りにして、ワタルは食べ始めた。
――……。
「ワタル、いただきますって言ってない」
「はあ? いいじゃんそんくらい」
「言ってない」
「……いただきます」
変な間が気になったが、なにも言わないことにする。
さて、僕はこれからどうしようか。
隣で食べ始めているワタルにちらりと目をやる。
彼が帰ってきたおかげで、ワークをやる気が失せた。今ここでワタルと一緒に食べてしまうのも、母に申し訳ない。
……ちょっかいかけて、遊ぶかな。
「ねえ、」
「ん、なに」
「今日はなにやってきたの?」
じとっとした目がむけられた。いぶかしむようにしばしこちらを見つめたあと、ワタルはため息をつく。
「いつもどおりの撮影だけど」
「具体的には?」
「カケルなんなの、暇なの?」
「暇だよ、なにしてきたの?」
またため息をつかれる。
ワタルはそのまま手に持っていた食パンを食べきると、二枚目に手を伸ばした。
「雑誌の表紙が二件、記事のインタビューが一件」
「ふうん」
「ちょっと。聞いたのあんたじゃん」
「いやでも、興味ないから」
隣から「なんなの」とか「これだから」とか文句が聞こえる気がするけど、気にしないことにする。
セミの声が、だんだんと大きくなってきた。耳がおかしくなりそうなほどに鳴き喚く夏の風物詩。
ワタルは、小さいときから出水タマキの名でモデルの仕事をしている。彼が小学生になる頃には、既にキッズモデルをしていたはずだ。
今ではすっかり売れっ子タレントのひとりになっていて、紙面はもちろん、テレビでもタマキの名を聞かない日はないほど。
そんなやつが僕の身内、というのは、いささか実感がわかないけれど。
「……なに、」
いつの間にか、ワタルのことを見つめていたらしい。戸惑い気味な、とげがある声がかけられる。
「ワタルは外面いいよね」
「いきなりなに、悪口?」
「いや、感想……かな?」
「なお悪いよ、なんなの」
ワタルは食事を終えていたらしい。テーブルの上にあったサラダと食パンはすっかりなくなっていた。
手のひらについたパンくずを皿のうえに落とす。それから小さな声で「ごちそうさま」と呟いたのち、彼は食器を片付けに行った。
……からかう相手が、いなくなった。
キッチンのほうから水が流れる音が聞こえる。おおかたワタルが、食器を洗い始めたのだろう。
「台布巾取って」
「自分で取りにきなよ」
文句とともに、青の台布巾がキッチンから飛んできた。受け取りお礼を言えば、「次は自分で取りにきて」と怒られた。
適当な返事をして、パンくずや野菜の欠片などつまめるものはゴミ箱に捨て、テーブルを拭く。
時計を確認。七時半を少し過ぎたところだ。おそらく母がそろそろ起きてくるだろう。ならワークを広げるわけにもいかない。
水の流れる音が聞こえなくなった。キッチンのほうに目をやれば、ワタルが食器を布巾で拭いているところだった。
「ねえ」
「今度はなに、さっきからうるさいんだけど」
「このあとは?」気にせずに言葉を続ける。「今日はもう休み?」
「このあとは学校」
「学校? なんで」
「早退と遅刻が多いから」
「ああ、補習ってことか」
夏休み返上のワタルも大変だろうけど、彼が通う中学の教員も大変だろう。義務教育だから途中で放り投げることもできないわけだし。
水気を切った食器を棚にしまってから、ワタルはリビングを出て行った。おそらく二階の自室にでも戻ったのだろう。
そしてそれと入れ替わるようにして、母がやってくる。まだほんのりと眠そうだ。小さくあくびをして、僕の姿を確認すると「すぐにご飯つくるからね」とキッチンに立つ。
しばらくして、テーブルに朝食が並べられる。カリカリに焼かれたベーコンとスクランブルエッグ、お味噌汁とお漬物の簡単なもの――が、三人分。
「ワタル、さっき食べてたけど」
「でも、朝ごはんいらないとは聞いてないから」
あ、これワタルご飯食べさせられるやつだ。
食卓につき、手を合わせ挨拶をする。それから食事に手を付ける。
しばらくすればばたばたと階段から降りてくる足音が聞こえた。かと思えばリビングの扉が開き、ひょこっとワタルの顔が覗いた。さっきの私服とは打って変わって、ワタルは黒の詰襟制服を着ている。
母はワタルを見ると「おはよ、ご飯できているよ」と声をかける。
「いい、いらない。学校行ってくるから」
「ワタル、ご飯できてる」
「いらないってば。母さん起きる前に食べたから」
今日のお味噌汁おいしい。口に含み、ゆっくり味わってから、嚥下する。
「ワタル、食べていきなさい」
「い、いらない……」
「ワタル」
折れたのはワタルのほうだった。諦めたようにため息をつき、食卓につく。
結局ワタルは朝食を全部平らげた。残そうとすれば母がやんわり笑顔で「ワタル」と名を呼ぶのだ。残せるはずがない。
食べ終わった直後、ワタルは「遅刻する」だの「いらないって言ったのに」などと文句を言いながら、使った食器をきっちり洗って棚に片付けてから家を出て行った。
母は「元気だねえ」と笑う。
僕も使い終わった食器を流しに片付けて、苦笑いを返す。
元気というか、落ち着きがないだけな気がする。
リビングに通る風はすっかり生ぬるくなっていた。太陽は高く、部屋も暑くなり始めている。
からかう相手もいなくなったし、そろそろ自室に戻ってワークの続きやろうかな。
◇ ◆ ◇
今日はバザーだった。
最悪だった。とっても、気分、悪い。
受付だから、愛想よくしなきゃって思った。そこは良く出来たと思う。これでも、外面いいと思ってるから。
それでもやっぱり、嫌なものは嫌だ。
教会の孤児たち(あたしは絶対孤児なんかじゃない!)と一緒にいるのは楽しいし、遊んだり勉強を教えたり、慕われたり頼られるのはすごくうれしいし、素直に喜べる。
でも、それとこれとは話が別だと思う!
毎年恒例のバザー、今回ので十回目だよ?
いい加減に、迎えに来たっていいじゃないか、バカ。
ずっと待ってるのに。おとなしく、待ってるってのに。
明日の打ち上げで暴れてやるー!
おやすみっ。
次の更新は2月13日です。