7月
ジジジとセミがやかましく鳴いている。うるさいほどの鳴き声は、山の上にある学校によく響いていた。
七月半ば。じっとりとした暑さも、肌を伝っていく汗にもやっと慣れてきた頃。夏休みが程近くなって、生徒全体が色めきだつ時期。
自分の気持ちを自覚したからといって、特別なにかが変化したのかと問われれば、そんなことはまったくなくて。
相も変わらず織田さんは毎日楽しそうに笑って僕のところにやってくるし、僕はそれをなんでもない顔をして受け入れている。
いつもどおりだ。
笑えるほどに、いつもどおり。
無理やりになにか変わった点を上げるとするならば、僕が少し元気をなくしているかもしれない、という、本当に些細なくだらないことくらい。
教卓に立つ先生はラフなジャージと目に痛いほど真っ青なTシャツを着て、黒板に白いチョークでびっちりと数式を書いていく。何事かを説明しながらの記述らしいのだが、生憎と先生の声はセミにかき消され、僕の席まで届いていない。
だくだくと汗を流しながら講義をしている先生の話を、一体どれほどの生徒が聞いているのやら。
ご苦労なことだ。
僕は視線を黒板から窓の外に移す。空が遠く見えた。
「もうすぐ夏休み……か」
休みに入ってしまったら、今までのように織田さんに会えなくなっちゃうな。
小さくため息をついてから、僕は放り投げていたシャーペンを手にとって、雨に打たれたみたいにびっしょりな先生の話を聞いてやることにした。
そうして。
いくつかの授業が終わってお昼休みに入った。騒ぎ出す生徒の声とセミの声が混ざって、ものすごくやかましい。誰がなにを話しているのか判別がつかないほどの喧騒に包まれた教室を、僕は昼食を持ってそっと抜け出した。
あてもなく歩き、五階から四階に。左に曲がって青塔に入る。壁に描かれていたラインが、黄色から青に変わった。
一般教室が固まっている黄色塔と違い、青塔は職員室や実験室、被服実習室に家庭科室などの特別教室が固まっている塔だ。
他にも緑塔や赤塔があるのだけど、その説明は、また機会があるときにでもするとして。
生徒が必ずいる黄色塔と比べると、青塔は用がなければ移動に用いるくらいで、誰かがとどまっているということがほとんどない。
だからだろうか、黄色塔と打って変わって静かだった。
薄暗い廊下を抜ければ、広々としたロビーに出た。真正面には大きな窓。窓からは校門が見え、若葉が生い茂る桜の木が見えた。
「あれ、カケルくん?」
どきりと心臓が跳ねる。
声の方向に顔をむければ、ロビーの隅、後ろの壁に背を預け、床に直接しゃがみ込んでお弁当を広げている織田さんの姿があった。日光直撃の場所だ。
彼女はにこやかに手を振って「隣、来なよ」と、自分の隣をとんとんとしめした。
少し迷ったのち、僕は彼女の隣に座る。熱せられた廊下の熱が、そのまま昇ってくるようだ。
「こんなところまでどうしたの? なんか用事?」
「用事というか……。教室がちょっと、賑やかだったから」
「ああ、うるさかったんだ。ここは静かだもんねー」
笑いながら、織田さんはお弁当に箸をつけはじめた。小さい二段のお弁当は、もう半分ほどなくなっている。青地に白の水玉模様が涼しげだ。
「ここは静かだしいいよー。ま、座るところないから、ちょっと腰痛くなるけど」
適当な相槌をして、僕も自分のお弁当を開ける。
真っ黒な二段の弁当には白米とおかずが詰まっていた。ぎゅうぎゅうに詰められ潰れ気味のお米に箸をつけ、食べ始める。
「挨拶は?」
白米を含んだとき、不満そうに織田さんが声をかけてきた。
なんのことだと尋ねる代わりに、首をかしげる。
「いただきますの挨拶は?」
「あれ、言ってなかったっけ」
「言ってないよ、私聞いてないもん」
じとっとした目線が、こちらにむいている。
どうしよう、もう食べちゃったし今更やり直すのも変な気がする。かといってこのまま食べ進めるのも気まずい。
織田さんはしばらく僕を見ていたかと思うと、小さくため息をはいて「次は気をつけなきゃダメだよ」と、自分の食事に戻った。
お互い、無言で食べていく。
いつもよく喋る彼女が黙って食事をしているのは、なんだか不思議な感じがした。
遠くから聞こえる昼休みの喧騒。
いつの間にか流れ始めていたお昼の校内放送は、最近話題になっているアーティストの音楽を流しているようだ。
広々としたロビーを通る人は誰もいない。
僕と織田さんが壁際に並んで、座っているだけ。
「ごちそうさまでした」
手を合わせて、彼女が言う。ちらと見れば、お弁当箱は綺麗に空っぽになっていた。米粒ひとつ、野菜の欠片ひとつ残っていない。
と、顔を上げた織田さんと、目があった。
彼女は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐににっこり笑った。
「いっちばーん!」
ピースサインをつくって、見せてくる。子どもっぽい仕草だった。
お弁当箱をたたんだ彼女は、窓のほうを見ながらぼんやりし始める。
「織田さんは、」
「ん?」
視線がこちらにむいた。
「織田さんはよくここで食べてるの?」
「んー、そうだねえ。六月入ってからは、ここで食べること多くなったかな」
「へえ、意外だ」
「意外?」
あらかた食べ終わったので片付けようとして、米粒が残っていることに気づきやめた。
残ってるものをかき集めて、箸で少しずつ摘んでいく。
「友達とおしゃべりしながら食べる人だと思ってたから」
「あー、なるほど」
視線を少し下にずらして、窓のほうに視線を戻す。今度は黄色塔のほうを見てから、彼女ははにかんで僕を見た。
「みんなで食べるのは好きだよ。賑やかなのも大好き。でもなんていうか、いつもそれじゃあ大変でしょ?」
これ、みんなには内緒ね。
口元に指を立てて、織田さんは笑った。
僕はただ小さく頷いて、了承の意を伝える。
内緒、という言葉に、自然と胸が踊る。
僕と織田さんだけしか知らないことなんだ。なんだか、ほんの少しだけ彼女に近づけたような気がした。ほんの少しだけ、彼女の内側に入れた気がして、うれしくなる。
最後の一口を飲み込んで、箸をしまう。
「ごちそうさまでした」
「あ、今度はちゃんと言った」
「さっきあれだけ気にしてたから」
離れたところから聞こえる生徒のざわめきが、大きくなった気がした。
「ねえ、」
「ん、なあに?」
織田さんの目がこちらにむいた。
弁当を片付けるふりをして、言葉を続ける。
「また、ここにきていいかな」
セミの鳴き声が一層うるさくなった。
汗が、肌の上を滑り落ちていく。
無性に喉が乾くような感覚、走ったあとのように心臓が弾んで仕方ない。
一瞬きょとんと不思議そうに目を丸くした彼女は、けれどすぐに笑顔になった。
「もっちろん! カケルくんなら、うるさく騒ぐこともないだろうし、大歓迎だよ」
――よかった。
ほっと小さく息をはく。それから、自分が緊張していたのを自覚した。
格好悪いな。
織田さんは手荷物を手早くまとめると、立ち上がって伸びをした。
自然と彼女の足に目がいく。健康的に焼けた織田さんの足はすらりとしていて、でもどこか柔らかそうで。少し視線を上げたら、スカートの中身が見えそうだ。
そこまで見て慌てて目をそらす。
なにをしてるんだろう、僕は。
弁当箱を包んでいたバンダナをきつくきつく結び直す。
「じゃ、カケルくん。また明日ね」
笑顔を浮かべ、手を振って。織田さんは黄色塔のほうに消えていった。
「明日……か」
明日、またここにくれば、織田さんに会える。
ついさっき彼女と別れたばかりなのに、もう次のことを考えてる。
授業中は憂鬱で仕方なかったのに、織田さんと約束した途端、これだ。
我ながら単純、呆れてしまう。
でも――。
「こういうのも、悪くないな」
片付けが終わった僕は、自分の教室に戻るため黄色塔にむかった。
彼女の背中はもう見えないところに行ってしまったらしい。騒がしい人の声が戻ってくる。
お昼の校内放送が、ちょうど終わった。
◇ ◆ ◇
お昼ごはんのとき、逃げ場所で架くんと会った。校内で会うことって滅多になくて、すごいテンション上がった! なんだか特別がむこうからやってきた……みたいな?
明日も一緒に食べるって約束したの。クラスメイトに、にやけてるってからかわれたけど、もー知らん。なんでもかんでも、そうやって恋愛方向に持っていこうとするのよくない。
友達に会えたら、うれしくなるもの……だよね?
写真立てに入ってたの、全部破った。びりびりにした。いらいらする。
迎えにくるって言ったのに。ずっと待ってるのに。いつまでここに預けられるの?
稔さんや純哉、奈緒ちゃんたちが嫌いなわけじゃないけど、それでも、限界はあるよ。
本当に、むかつく。
これ以上考え続けてもいらいらするだけだー! もう寝よう、寝るのがいい! そうだ寝るのが一番だ!
おやすみなさーいっ。
次の更新日は2月9日です。