3月中旬
――「私、死んでもいいわ」って答えられる気がする。
最後の一行を読み終えてから、なるべく丁寧に本を閉じる。控えめに音を立てて閉じたそれを胸元に抱え、それから、ゆっくり、呼吸をする。
自分の呼吸音が、いやにうるさく聞こえた。走ったあとみたいに苦しくて、つんと目の奥が熱くなって痛み出してくる。なにかがこぼれそうになるのを自覚して、あわててまぶたをおろした。
「いかがでしたか」
稔さんの静かな声が、講堂の中に響いた。
僕は意識してゆっくり深く呼吸をする。それから、振るえ重くなった唇を無理やり、持ち上げた。
「本当に、死ぬことないじゃないか、って、思いました」
情けないほど、声は震えていた。
日記帳を持つ手に力をこめて、胸に押し付ける。表紙の硬い紙が手のひらに食い込んだ。
胸元を通る息が熱い。目や鼻の奥がツンとする。乱れそうになる呼気をぐぐっと抑えて、奥歯を強く噛み締める。
稔さんが僕の肩に手を乗せて、寄り添うように隣に立った。
「彼女は明るくて優しくて元気で……誰かと過ごすのが、少し苦手な子でした」
耳を通り過ぎる声は、ひどく穏やかだ。
「友達を千人つくれるけれど、親友はひとりもつくれないような、そういう不器用な子だったんです。だからあの子が、カケルくんとお付き合いを始めたと聞いたとき、とても驚きました。それと同時に喜びました。ヒカリちゃんにも、安心できる人が、場所ができたんだって」
とっさに首を振る。
それがどういう意味を持つジェスチャーなのか、正直自分でもよく分からなかった。なにかを否定したかったのかもしれないし、なにかを振り払いたかったのかもしれない。
よく分からないままに小さく弱く、首を振る。何度も、何度も、首を振る。
「ねえ、カケルくん」耳を撫でる、優しい声。「あなたは今、なにを考えていますか」
いつだか問いかけられた言葉を、再度投げかけられる。
「今、ですか」
「ええ、今。なにを考えていますか」
まぶたから力を抜き、そっと抱えている日記に目を落とした。
僕の名を呼んで笑ってくれる彼女のことが思い浮かんだ。
うれしくて、胸が弾んで、きゅっとのどがつまるような幸せがあふれてくる。
すねたように頬を膨らませて、でもすぐにはにかむ彼女のことが思い浮かんだ。
あせるけれど、僕の言葉で表情を変えてくれるのがうれしくて仕方ない。だから時々からかって、そのたびに反応をしてくれて。
もっと話をしたかった。くだらない話でも愚痴でも文句でも、なんでもいい。たくさんたくさん、話したかった。
もっともっと知りたかった。あのときなにを考えていたのか、くらげが好きだったのか、よく散歩をしていたのか。細かいことでも、どうでもいいことでも、知りたかった。
僕のことだって、知ってほしかった。生意気で口だけ達者なワタルのこと、穏やかだけどとても強い母のこと、めったに家に帰ってこないけど頼りになる父のこと。ほかにも好きなものとか嫌いなもの、なんでもいいから知ってほしかった。
とたん、ぽたりとしずくが落ちてくる。僕の指先に落ちたそれは、ぱたぱたと音をたてながら落ち、際限がない。
視界がゆがみ、鼻がつまって、呼吸が苦しくなる。胸元に詰まった熱いものを呼吸に乗せて吐き出せば、いっそうぽたぽたしずくが落ちる。
「悔しい、です」
やっと出てきた言葉は、自分のものとは思えないくらいかすれていた。
「悔しい、すごく悔しい。やりたいこと、いっぱい、あった、し、行きたいとこも、いっぱい、あって。……話したい、のに、もう、できない、のが」
じぃんとしびれる頭の中心。抑えきれない嗚咽がもれだして、自分がなにを話しているのかも曖昧だ。
稔さんは「ええ」とか「はい」とか相槌をはさみ、僕のまとまりのない話を聞いてくれた。
涙がようやっと落ち着いたとき、すでに日が暮れ始めていた。正面にある色ガラスから差し込んでくる西日は力強く、講堂の床に青や赤、緑などの色を落としている。遠くのほうから聞こえる子どもの笑い声。今あの子たちは、外で遊んでいるのだろうか。
泣き疲れ、頭は重い。思考をまわそうとするたびに、ぎしぎしと音が鳴るようだ。視点の合わない目でぼんやりと十字架を眺めつつ、もう一度日記をぎゅっと握り締める。
隣にいたはずの稔さんは、いつの間にかいなくなっていた。
講堂には今、僕ひとり。聞こえてくる笑い声が、むなしさを呼んでくる。
扉が開く音が聞こえ、はっと意識が戻ってくる。そちらに目をむければ、奥にある扉から、少年が顔を覗かせこちらをじっと睨んでいた。
さっき、「ゆるさない」と口にした子だ。
一瞬にして、心臓がざーっと冷える。また頭が熱を持ちじぃんとしだす。
彼はまた僕をぎっと睨むと、迷いない足取りでこちらにやってきた。そして僕の前でぴたりと止まり、射抜くようにこちらを見てくる。
まっすぐで力強い瞳。――彼女を、彷彿とさせるものだった。
「お前が、カケル?」
「う、うん」
「そっか。俺、純也。よろしくな」
少年の目が移動し、僕の腕の中にある日記帳を見た。そして「読んだ?」と問うてくる。頷き返せば「そっか」とまた。
「ヒカリな、お前のことめっちゃ楽しそうに話すんだ。いつもより楽しそうに笑ってて、俺、それが好きだった」
「うん」
「誰かのことを悼むのと、ぐじぐじ沈んでんのと、別もんだからな」
まあ、もう分かってると思うけど。
僕の手と、頬と、目とを順番に見た彼は、なにか納得したらしい。にっと笑って見せてくれた。
「またぐじぐじしだしたら、ゆるさないから」
それだけ残して、少年……純也くんは奥の扉に消えていく。
彼と入れ替わるように、稔さんがやってきた。彼女はお盆の上に湯気を昇らせる白いカップを二つ乗せて、やわらかく笑う。
「ココアを入れてきました。いかがですか?」
「……いただきます」
カップを取りやすいようにと、そばにしゃがんでくれる。日記をひざに置いてから、お礼を言って受け取れば、手のひらにじんわりとぬくもりが伝わってきた。
稔さんも隣に腰掛け、足の上にお盆を乗せてカップを手に持つ。
カカオの甘い香りと、やわらに伝わるぬくもりと。
一口含んで嚥下する。喉の奥にすとんと落ちていく甘さが、全身にしみていくようだ。
「……おいしい」
「それはよかった」安心したような声音。「前回お出ししたときは、あまり気に入ってなかったようだったので、少し心配だったんです」
――ばれてる。
ごまかすようにもう一口飲んで、今度ははっきりと「おいしいです」と口にする。稔さんは、はにかんで「よかった」と返してくれた。
黒く揺れる水面を見つめる。そこには、しっかりとこちらを見つめ返す、僕の顔があった。目からあごにむかって、薄っすらと透明の線が引かれている。
一度泣いたせいなのだろうか、気持ちはとても落ち着いていた。
寒くもなければ空っぽでもない。
きちんと思考が続いていて、意識が霧散することもない。
悪くない気分だ。
カップ内に残っていたココアを一気に飲み干す。胸の内にぽかぽかとしたものがたまる。
「あの、」口内に残った甘みを飲み下す。「ワタルはここに、なにをしに……?」
「そうですね……」
稔さんはカップに口をつけてほっと一息ついてから、言葉を続けた。
色ガラスから差し込む日の光はすっかりなくなり、講堂内は少しずつ、暗くなっていく。そういえば、子どもたちの笑い声も聞こえなくなった。
「ヒカリちゃんの部屋を私たちの代わりに片付けてくれたり、子どもたちと遊んでくれたりしています。彼は彼で、ヒカリちゃんの話をほかの子たちから聞いていたみたいです」
「そう、ですか」
好きにやると言ってやっているのが、それ。
「ここにきてくれるようになってから、彼がモデルさんだって、初めて知ったんですよ、私」
くすくすと笑う稔さんは、それはそれは楽しそうで。
――うん、決めた。
顔を上げれば変わらずに、十字架が目の前にある。なんだか、無駄な力が抜けていくような気がした。
「あの、お願いがあるんですけど」
たどたどしく、けれどゆっくり着実に言葉を紡いでいく。
稔さんはやわらかく穏やかな笑みを浮かべて「もちろんです」と答えてくれた。




