1月 下旬
――ふっと意識が浮上した。
ぼんやりとした視界の中、うすらと映る天井を見つめる。いつもの、自室の天井。
今、何時だ。
いや、それよりも何日だっけ。
あれからどれほど、時間が経った?
思考を続けるのも億劫で、まなこを閉じる。
ベッドの上、寝返りを打って、壁際に体を寄せる。
――寒い。
かじかむ指先を握り締め、這い上がってくる胃液を飲み下す。全身を縮めて力をこめて、小さく小さくなるように。
――寒い。
布団を引っ張りあげることすら面倒だ。
ぴちりと閉め切ったカーテンのむこうから、ホケッホケッとへたくそな鳥の鳴き声が聞こえてくる。
鳥の声が聞こえるほど、暖かくなったのだろうか。
じゃあ、なんでこんなに寒いのだろう。
花がもう咲いているかもしれない。
じゃあ、なんでこんなに凍えるのだろう。
――寒い。
コンコンと、自室の扉がノックされた。多分、ワタルだ。
「カケル、」ほら、正解。ワタルの声。「ご飯の時間だって。昼食。冬休みも、もうすぐ終わるよ」
そっか、もう、そんな時期。ということは、今は一月の終わり頃……くらいか。
磁石になったような体を無理やりベッドから引き剥がして、起き上がる。
一気に錘が肩に乗せられたような感覚になった。
ワタルに呼ばれるがまま自室から出る。フローリングの冷たさが、足先から伝わってふるりと震える。
そのまま階段を下りてリビングに出れば、母さんとワタルが既に食べ始めていた。
すっとその中に紛れ、手を合わせて挨拶をする。米を口に含む。水っぽい粘土のようなそれを噛んで噛んで噛んで、やっとの思いで嚥下する。喉奥に張り付くようで、気色悪い。
ふと顔を上げる。窓から、暖かな陽光が差し込んでいた。ちらりと見え隠れする薄紅と真白の花弁は、梅だろうか。
ゆるゆると確かめるように外を見る。何度も何度も、納得がいくまで。
「……雪、もう溶けたんだ」
ちらと、前に座っていたワタルがこちらに目をむけ、すぐに食事に集中する。
「そうだね、もうほとんど残ってないよ」
ワタルはそのまま、何事もないように「この煮物しょっぱい」とふてくされ、それを受けた母は「あらあら」と笑った。
そっか、もう、雪、ないのか。
ぱちぱちとまばたき。
目を閉じるたび、まぶたの裏に散る紅い色。
瞬く間に気分が悪くなったが、もう雪が残っていないのだと思うと、心中から冷ややかだったなにかが抜け去ったような感覚がした。
それでも何故だか、喉が締め上げられているような気がして。
茶碗の中に残った米だけを食べきって、また手を合わせて挨拶をする。
物言いたげなワタルの目が刺さった。が、彼にしては珍しく、攻撃的な言葉も皮肉も出てくることはなかった。
食器を片付け、足の裏をフローリングにこすり付けるようによたよた歩いて、自室に戻る。
それだけのことで、どっと疲れた気がした。
崩れるようにベッドに倒れ、短く息を吐き出す。膝から下は床のうえに投げ出されている。
――寒い、な。
胸のあたりに上がってきている胃液を飲み下して、また、意識を溶かす努力をする。
自分がある感覚が、なによりも耐えがたかった。
◇ ◆ ◇
それから。
冬休みが明けるまで、同じような毎日を過ごした。
目が覚めて、ぼんやりして、母やワタルに呼ばれて、リビングにおり、決して多いといえない分量の食事をして、また自室に戻ってぼんやりし、日が暮れたら眠りに落ちる努力をする。
ルーチンワークの毎日に、吐き気がしたのも一日や二日どころの話じゃない。
まぶたに浮かぶ赤い色に胃液を吐き出したのなんか、数え切れないほどある。
それでも、冬休みが明ければ学校が始まるわけで。
一月最後の一週。月曜日の朝。
久しぶりに袖を通したワイシャツはひんやりしていて、いっそう寒くなる。
制服を着てネクタイを締めて、荷物を確認してリビングに下りる。朝食を用意していた母が、驚いたようにこちらを見た。心配そうに、けれど柔らかな笑みを浮かべて「おはよう」と言う母は、いつもどおりを意識しているみたいだった。
こちらも「おはよう」と短く答えて、すでに出来上がりつつある朝食をテーブルに運ぶ。
食卓につき、さて食べようとしたとき。ばたばたと慌しい足音が降りてきた。それからすぐに、ワタルが飛び込んでくる。
「あれ、カケルおはよう。なに、ヒッキー卒業?」
ああ、だか、うん、だかと返事をする。「へえそう」と興味のなさそうな声が返ってきた。
ワタルは目の前に腰を下ろし、両手を合わせて「いただきます」と。時計を気にしながら食べ始めた彼の様子からするに、遅刻しそうなのかもしれない。
寒いな。
ぼんやりと、やんわりと。
曖昧で味がしない諸々の食事を噛み砕いて飲み下す。
ごちそうさまと声を出し、食器を片付ける。かばんを持って玄関にむかう。
「え、待ってよ!」
背後から慌しい音が聞こえる。階段を上ったり下りたり、荷物をまとめたりしているのだろう。
それらすべて無視をして、革靴にかかとを押し込み、外に出た。
ぶわりと冷たい風が体を叩いてくる。
首筋から投げ込まれた冷気に、背筋が震えた。
……そういえば、マフラーと手袋、忘れたな。最寄り駅にむかいながら、ふと思う。
けれど寒いのは多分、そのせいじゃない。
道中ちらちらと見える紅白梅からなんとなく目を外し、ひたすら無心に歩いていく。
「待ってって言ったじゃんか、バカケル!」
背後から投げかけられた声に、自然と足が止まる。
すぐに、ワタルがやってきて隣に並んだ。首にはタータンチェックのマフラーが巻かれている。なんだっけ、バーバリーとか言う色のやつだ。
軽く息が乱れている彼はおそらく、走ってきたのだろう。じとっと湿った目をこちらにむけたのち、
「人の話も聞けないとかほんっとバカでしょ」と恨めしそうに呟かれた。
結局なんの用なのだと聞けば、ワタルは「そうだった」と学生かばんに手を突っ込んでなにかを探し始めた。
しばし待っていれば目当てのものを見つけたのか、はいとなにかを差し出してくる。
深い蒼の長細い箱に、薄い青のリボンがかかったそれ。
見覚えがあるそれに、どきりと心の蔵が跳ねた。
「百瀬さん……えーと、あそこの修道女さんから」
一度言葉を区切り、ワタルの目が真っ直ぐこちらを射抜いてきた。
「それから伝言。形見にでもどうぞ、あなたが持っていたほうがいいでしょうから。……だってさ」
頭の中の歯車が、ぎちぎちと音を立てて回り始めた。
なんでワタルが今これを、いつから持ってた、というかあそこのシスターと知り合いだったのか、なんで君が持ってるの。
聞きたいことがぐるぐるとめぐって、混乱して、ようやく出てきたのは小さな吐息だけだった。
「あ、あともう一個。落ち着いたら教会にどうぞ、お見せしたいものがあるんです。……ボクはなにを見せたいのかとか聞いてないから。やめてよそのすがるみたいな目、気色悪い」
早く受け取れとせかすように、青い箱を揺らした。
それでも動かないのを見てじれたのか、ワタルが僕の胸に押し付けるように渡してくる。
「本当はご飯のあとに渡すつもりだったのにさ。話を聞かないどっかのバカのせいで予定が狂ったよまったくもう」
いつもの調子で憎まれ口を叩く彼に、何故かほっとする。
役目を終えたとでも言いたげのワタルは、さっさと歩き出した。
「ま、待って!」
久しぶりにあげた声は、かすれて喉に引っかかるようで、違和感があった。
前を歩いていた彼はうざったそうに振り返り、「なに?」と。
「なんでこれ、ワタルが、持ってるの」
「はあ? なに、そんなこと?」
くだらない、と顔全部でワタルが言う。それからわざとらしくため息をついた。彼の口元から白い空気の塊が飛び出し、空に昇る。
「カケルがその気ならもうそれでいいよ、こっちはこっちで勝手にやるから。バカケル、バーカ」
いつだか聞いたような台詞を吐き出した彼はにやりと笑い、今度こそ僕を置いて先に行ってしまった。
一人道に残された僕は、手の中に納まっている長細い蒼の箱を見る。
中身を確認する勇気は、まだない。
けれど、もう寒いと感じなくなっていた。




