1月
がたごとと揺れるバスに乗り、ボクは出てきそうになったあくびをかみ殺した。窓の外できらきら光る雪が、目に突き刺さってくるみたいだ。高層ビルの窓ガラスから光を反射しているらしくって、まぶしくてたまらない。
眠気と疲れで落ちてきそうになるまぶたを必死に持ち上げながら、これから行く教会に思いを馳せる。“織田輝さん”は、いるだろうか。
一月中旬。松の内が終わって少し経ったくらいの頃。おとといやっと、雪がやんだ。
歩道の脇に雪が寄せられて固まって、道路には白い轍ができあがっている。コンクリートの上には薄い氷のまくができていて、歩くたびつるつる滑ってパリパリ割れた。おかげで雪に慣れていない関東圏は、交通網が乱れに乱れているらしい。ここにくるまでに、路上をすべる人をたくさん見た。
のろのろと走るバスの中。ボクは学生カバンから教科書と課題を取り出した。ここに来る前に学校に顔を出したのだけど、そのときにたくさん課題を渡されたのだ。ふざけてるとしか思えない。
学ランの首付近のボタンを外して、呼吸をする。息苦しかったのがマシになった気がした。
制服は着崩すとかっこ悪いのが難点だと思う。
課題をひとつずつ解いているうちに、終点を知らせるアナウンスが鳴った。顔を上げて周囲を見れば、ボク以外の乗客はいない。窓の外はいつの間にかオフィス街から、住宅街へと変身していた。
緩やかに曲がる細い道にバスが入っていく。いそいそと荷物をまとめて、降りる準備。そのうちにバスは停車した。
バス停は、教会の前にあった。
抹茶に近い屋根と、その上に堂々と立っている十字架。壁は真っ白で、道の端で凍っている雪に負けないくらい。生垣は真っ白な氷の粒で化粧をしていて、まるで一枚の絵画のように美しい風景をつくりあげていた。
けれどすぐ、絵画をぶっ壊している要因を見つける。
バス停付近のガードレールがひしゃげている。むりやり千切りとったみたいに、ぐしゃっとなっていた。
なにかあったのかな……?
不思議に思いつつ、教会に足をむける。
きらきらした色ガラスがはまった木製の扉の前に立ち、深呼吸する。ドアノッカーに手をかけて、コン、コン、コンと叩いた。すぐに女性の声が中から返ってきて、扉が開かれた。
現れた女性は、真っ黒いワンピースのような服を着ていた。同じように黒い布で頭を覆って、髪を隠している。どうやら、ここの修道女さんみたいだ。
修道女さんはボクを見ると少し驚いたように目を見開いた。けれどそれは一瞬のことで、彼女はすぐに穏やかな笑顔を見せた。
「こんにちは、なにかありましたか?」
「こんにちは」ボクもできるだけやわらかく笑って見せる。「少しお尋ねしたいことがあるんですが、今お時間よろしいですか?」
修道女さんは快く引き受けてくれた。そして「寒かったでしょう、中に」と、招き入れてくれる。
彼女に連れられるがままに講堂にやってくる。中はほんのりじんわり暖かかった。
講堂内にたくさんある長いすのひとつに座るように促されたので、言われたとおりにする。そうすると視線は自然に、正面にある大きな十字架に引き寄せられた。
修道女さんはボクの横にすっと座る。それからこちらを見て、「それで?」と話を促してくる。目は、合わしてくれない。
「えっと、」少しだけ、言葉を考える。
「織田輝さんという女性を探しています。今高校一年生で、教会の孤児院にいるということしか知らないんですけれど……」
修道女さんの顔色が変わった。
一瞬で顔を真っ青にして唇をきゅっときつく引き結び、視線をふらふらさせてから足元に落とした。
……これは。
「こちらにいらっしゃるんですか?」
緊張から、声が震える。
じぃーっと修道女さんを見つめていれば、彼女は困ったように眉を下げた。
「ヒカリちゃんなら、うちの孤児院にいましたよ」
「本当ですか!」
やった、と喜びかけて、あれ? と引っかかりを覚えた。
「……今、いない、ん、ですか?」
落ちていた視線を上げた修道女さんは、正面の十字架を一心に見つめだした。祈るように両手を組んでそっと目を伏せる。
「ヒカリちゃんは、先日、亡くなりました」
「……は?」
なくなった?
無くなったって、なにが。
違う、亡くなったって言った。
……“織田輝さん”はもう、死んでるってこと?
理解した瞬間、今まで見てきたものが、パズルのように組みあがり始める。
部屋に引きこもった兄。
兄の白いマフラーに増えていた赤黒い汚れ。
ひしゃげていた、バス停前のガードレール。
兄の面影を持つボクを見て驚いた修道女さんは、かたくなにこちらを見ようとしない。
――ああ、そうか。
全身から、力が抜けていく感覚がした。
――ああ、そうか。
修道女さんのほほを、涙が滑り落ちていく。
直接会ったことはない。カケルから話を聞いて、一方的に知っているだけだった。
それでも、誰かが世界から抜け落ちたのを自覚するのは、こんなに、こんなに、熱を奪われていくのか。
カケルが寒いって口にした意味を、やっと知った。
「あなたは、カケルくんとは……」
「弟です。カケルの弟で、大和泉環といいます」
「ワタルくん、ですか。失礼ですが、どこかでお会いしたことありますか」
ちらりと、うかがうように修道女さんがボクを見てくる。
多分修道女さんは、雑誌や広告やらでボクのことを見たんだろう。
ゆっくりとまばたきをして、口角を少しだけ持ち上げる。
「兄さんに似てるって、よく言われます」
修道女さんは納得したように数度うなずいて、同じように小さく笑い返してくれた。
もう彼女の目に、涙は浮かんでいなかった。
◇ ◆ ◇
バスに揺られながら、外を見る。空はうっすら赤らんでいて、日が暮れ始めていた。
帰り道。ボクは百瀬さん――修道女さんの名前だ。あのあと自己紹介した。――から、織田さんの事故の様子を聞いた。聞いただけだというのに、どっと疲れてしまった。重たいなにかを、むりやり背中に乗せられたみたい。
学生カバンを抱えなおして、学ランのボタンを留めなおす。その最中、このあいだ撮影したポスターが目に入った。
電話をしながら運転する男性を注意している絵に、交通安全にご協力くださいという文字が添えられている。
皮肉にしか見えなかった。
窓の外に目をむける。
夕日を反射して赤く光る雪たちは、まだしばらく溶けそうにない。いつまで、そこに残っているのだろうと不安になった。
家についてボクは、母さんにすべてを話した。教会の百瀬さんから聞いた話を、なるべくそのまま伝える。
母さんは全部聞き終わってから、数度まばたきをして「そう」とだけ。
「カケルは、部屋から出てきたの?」
リビングにあるコタツに入り、両手でみかんを転がしながら尋ねる。母さんは湯のみからお茶を飲んでから、「一応ね」と答えた。
「ごはんは食べてくれるようになったけれど、それでもやっぱり元気はないように見える」
「そっか」
母さんが湯飲みを持って、コタツから出て行った。冷たい空気が中に入り込んできて、背筋がぞくっとして、ちょっとだけ小さくなる。
転がしていた手を止め、考える。
カケルに対して、なにができるだろう。ボクはなにか、手伝えるのかな。
ことりと、目の前に湯飲みが置かれた。母さんがお茶を入れてきてくれたらしい。お礼を言って、口をつける。内側が、ほこほことあっためられる。
「ワタル、」コタツに、母さんの足増えた。「待っているって、とっても大事なことだと思うの」
「……?」
顔をあげ、そちらを見る。母さんはいつもどおり穏やかな顔をしていた。
「カケルが自分の口から話してくれないと、意味ないよね」
「でもそれ、なんか、冷たい」
「私たちが外から騒ぎ立てても仕方ないと思わない?」
「そう、だけど」
みかんの皮をむいて、実を取り出す。ぐずぐずに柔らかくなったそれは、あまりおいしそうに見えなかった。
湯のみのふちをなぞって、母さんが笑った。
なんで笑う余裕があるのか、分からなかった。
「直接手を出すのは、楽だよね。自分がなにかをしているっていう実感があるから」
ずずっと、お茶を飲む。
「でも、じっと待って見守るのも、充分な手助けになるんじゃないかな」
待って、見守る。
ボクも一口。喉元まで、あったかいので満たされる。
白い筋がついたままの実を口の中に放り込む。
筋は苦手なはずなのに、苦くて嫌いなはずなのに、すごく甘くて優しい味がした。




